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第11話

荘厳な教会は、水を打ったように静まり返っていた。――「遺言」晴れやかだった征士郎の表情が、一瞬にして強張った。参列者たちの前で、朔弥は遺言書を取り出した。「これより私、近藤朔弥が、依頼人に代わり、彼女の遺言をこの場で読み上げます」そこでしばらく言葉を止めると、掠れた声で読み上げ始めた。「私は重い病を患い、残された時間もわずかとなりました……私は近藤朔弥に立ち会ってもらい、次のとおり遺言を残します。私名義のすべての不動産、預貯金、有価証券その他一切の財産を、夫である清野征士郎に相続させます……」まだ読み終わらないうちに、征士郎が壇上から駆け下りた。朔弥の胸ぐらを乱暴につかみ、低い声で問い詰める。「紗月はどこだ?」「君には永遠に見つけられない場所だ」次の瞬間、征士郎の拳が朔弥の顔に叩き込まれた。避ける暇もなかった朔弥は床へ倒れ込み、口元から血が滲んだ。会場が一気にざわめいた。征士郎は床に倒れた男を見下ろした。その瞳には荒々しい怒気が満ちていたが、口元には嘲るような笑みが浮かんでいる。「病人のふりをしても通用しないから、今度は死んだふりか?紗月に伝えろ。そんな芝居は俺には通用しないとな。今すぐここへ来させろ。さもなければ、俺が見つけ出したときには、生きていることを後悔させてやる――!」朔弥は口元の血を拭い、冷え切った目で征士郎を睨みつけた。そして次の瞬間、奥歯を強く噛みしめながら拳を振り上げる。「この人でなしが!」その拳は征士郎の体を掠めただけだった。征士郎の顔は険しくなり、教会の中は完全な混乱に陥った。誰も、紗月が亡くなったなど想像すらしていなかったのだ。やがて警備員たちが朔弥を連れていくと、琴葉が慌てて征士郎のそばへ駆け寄った。「征士郎さん、大丈夫?」征士郎は琴葉の美しい顔へ目を向けた。その瞬間、脳裏に浮かんだのは紗月の顔だった。数日前に見た彼女の顔は、あまりにも青白く、血の気などまるでなかった。紗月が死んだなど、信じられるはずがない。紗月が死ぬわけがない。あいつは今日、この結婚式に来るはずだった。そして自分に謝るはずだったのだ。あのとき卑劣な手を使って自分のベッドに入り込んだことも、自分に結婚を迫ったことも、すべて間違っていたと認めるはずだった。き
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第12話

月影邸。征士郎の車が、ゆっくりと玄関前に停まった。彼が車窓の外へ目を向けると、屋敷には薄暗い橙色の灯りがともっていた。その瞬間、なぜか胸が強く締めつけられた。征士郎は慌てて車を降りると、屋敷へ向かって駆け出した。――紗月……!勢いよくドアを押し開けると、中から柔らかな灯りが漏れてきた。すると、家の中にいた女が甘えるような様子で彼のもとへ駆け寄ってくる。その姿を見た瞬間、征士郎の瞳から光が消えた。「征士郎さん、今日ここへ戻ってきたから、家の中を全部模様替えさせたの。どう?気に入った?」征士郎は琴葉を見つめ、無表情のまま尋ねた。「近藤は紗月が死んだと言っている。お前は信じるか?」琴葉は一瞬呆気に取られたものの、すぐに征士郎の上着を脱がせようと手を伸ばし、さして気にも留めない様子で答えた。「亡くなった人はもう戻ってこないもの。お姉ちゃんが亡くなったことは、私だってとても悲しいわ」そう言いながら、その手を征士郎の胸元へ滑らせ、わずかに息を弾ませる。「征士郎さん、私……欲しいの。結婚したらくれるって約束してくれたもの……」征士郎の顔が次第に険しくなった。彼女の様子からは、紗月の死を悲しんでいるようには到底見えなかった。征士郎は琴葉を乱暴に引き離した。「だが、俺たちは結婚していない。それどころか、実際には俺と紗月はまだ離婚していない」確かに紗月は離婚協議書に署名した。だが、署名しただけで正式に離婚が成立したわけではない。自分の結婚生活を台無しにしたあの女を、こんな簡単に手放すつもりなどなかった。琴葉の表情がたちまち凍りついた。「……何を言ってるの?」征士郎は冷淡な目で彼女を見た。「お前が榊原雅臣と離婚したのは、あいつの弟と関係を持ったからじゃないのか?」琴葉の顔色がめまぐるしく変化し、慌てて首を横に振った。「違うわ、征士郎さん。信じて。きっと雅臣が刑務所の中から私を陥れようとして、そんな嘘を……」征士郎にとって、琴葉が雅臣の弟と関係を持っていたかどうかなど、もはやどうでもよかった。すっかり様変わりしてしまった屋敷を見渡しながら、彼は淡々と言う。「安心しろ。信じている」琴葉はほっと息をついた。しかし、その安堵も束の間だった。「お前のことは俺が自分で調べる。4年前に起きたこと
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第13話

征士郎は昔から、一度口にしたことは必ず実行する男だった。翌朝早く、そのニュースは全国で大々的に報じられた。かつて雨宮グループの本社だった建物はすでに閉鎖され、解体業者が巨大なビルを取り囲んでいた。あとは征士郎の命令を待つだけだった。征士郎は何度も紗月の携帯に電話をかけ続けた。しかし、いくら呼び出しても誰も出なかった。――いい度胸だ。よほどこの芝居が気に入ったらしいな。「壊せ――」その一言を合図に、かつての雨宮グループ本社ビルの解体が始まった。巨大な建物が轟音とともに崩れ落ちていく。紗月が征士郎に託したものは、こうして彼自身の手によって跡形もなく破壊された。世間には大きな衝撃が広がった。やがて一部のメディアが征士郎と紗月の結婚歴を突き止め、一斉に報道し始めると、世間ではさまざまな憶測が飛び交った。いったいどれほど深い恨みがあれば、亡き妻が残した大切な財産を自ら壊すことができるのか。世間の人々には分からなかった。そして征士郎自身にも、分からなかった。霞野市で最も高いビルの屋上に立ち、崩れ果てた雨宮グループの跡地を見下ろしていると、なぜか胸の奥に鋭い痛みが走った。――紗月。これでもまだ、戻ってきて俺に謝るつもりはないのか?なら、次はお前の姉の番だ。「社長、調査が終わりました」アシスタントの古沢武陽(ふるさわ むよう)が慌ただしく駆けつけ、息を整える間もなく報告を始めた。「白河さんが榊原雅臣氏と離婚した理由ですが、やはり彼の弟と不倫関係にあったためです。榊原雅臣氏に関係を知られ、離婚を言い渡されました。離婚後、榊原雅臣氏の弟は白河さんとの結婚を拒んだため、それで彼女は……」武陽は、その先を口にすることができなかった。征士郎の長身がかすかに揺れた。その瞳の奥には、凄まじい怒りが燃え上がっていた。雅臣の弟が結婚してくれなかった。だから琴葉は戻ってきて、俺を頼ったということか?征士郎は胸の内で渦巻く怒りを必死に抑え込み、低い声で尋ねた。「4年前のことは?」「白河さんのご両親によると、当時の清野家では白河家とは釣り合わないと考えていたそうです。それに、ちょうどその頃、榊原雅臣氏が白河さんを口説いていました。白河さんは自分から社長との婚約を解消したいとは言い出せず、しか
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第14話

一台の黒いワゴン車が、月影邸の前に停まっていた。二人のボディガードが琴葉を車へ連れていこうとすると、彼女は必死に征士郎の服にしがみついた。顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。「征士郎さん、私が悪かったわ。お姉ちゃんを陥れるようなこと、するんじゃなかった……お願い、今回だけは許して!」しかし、征士郎は少しも心を動かされなかった。琴葉はなおも必死に訴え続ける。「雅臣に渡されたら、私、殺されるわ!お願いだから、あの人には渡さないで。私たちだって一度は付き合っていたでしょう?」「紗月が無事であることを祈るんだな。もしあいつに何かあったら、お前を殺したいと思うのは榊原雅臣だけじゃない。俺もだ!」征士郎は凄まじい形相で言い放った。その恐ろしい声と表情に、琴葉の胸が大きく跳ねた。「そ、そんな……そんなはずないわ。忘れたの?昔、私が征士郎さんを助けたあと、約束してくれたでしょう?絶対に私を傷つけない、私を愛して、一生守ってくれるって……」琴葉は最後の力を振り絞るように、征士郎の服をつかんだ。「私の手を見て。今でもこんなに傷痕が残ってる。征士郎さんを助けなければ、私がピアニストになる夢だって絶たれなかったのよ」征士郎は彼女の手に残る傷痕へ視線を落とし、その目に一瞬、動揺が走った。10年前、清野家と敵対していた企業が、ある共同事業を巡って征士郎を拉致したことがあった。負傷しながらも何とか逃げ出した彼を助けたのが、琴葉だった。当時、征士郎は意識を失ったままで、琴葉は毎日のように彼のために心を込めてピアノを弾き、その音色で彼を安心させていた。しかし征士郎が目を覚ましたあと、彼女が再びピアノを弾くことはなかった。手を傷めてしまったからだ。拉致犯たちは報復のため、琴葉の手の腱を切った。すぐに治療を受けたことで機能自体は回復したものの、それ以来、彼女がピアノを弾くことはなくなった。ピアノに触れるだけで、当時の恐怖が蘇ってしまうのだという。「私が征士郎さんに毎晩ぐっすり眠ってもらいたくて、毎日ピアノを弾いてあげていたことまで忘れたの?」征士郎の表情がわずかに変わったのを見て、琴葉はさらに畳みかけた。二人のボディガードも征士郎の様子を窺い、琴葉を無理やり引き離すことができずにいた。やがて征士郎が手を振ると、二人は下がった。
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第15話

征士郎は電話を切ると、すぐに武陽にかけ直した。「近藤朔弥を徹底的に見張れ。妻の居場所が分かったら、すぐに俺へ知らせろ」やはり朔弥は嘘をついている。死亡だの、遺言だの、診療記録だの――そんなものは全部でたらめに決まっている。――紗月、見つけたら今度こそ、二人でちゃんとやり直そう。今度こそ絶対に、お前に辛い思いはさせない。……1週間後。征士郎のもとに、ついに武陽から連絡が入った。彼はすぐさま、送られてきた住所へ向かった。外は激しい雨が降りしきり、道中にはほとんど人影がなかった。征士郎はわざわざ身なりまで整えてきた。相変わらず端正で人目を引く姿だった。紗月が自分を見れば、朔弥のような優男についていったことを必ず後悔する。そう信じていた。紗月を見つけたら、まず朔弥を思い切り殴って、この苛立ちをぶつけてやろう。しかも、紗月の目の前でだ。そうすれば、二度とほかの男に目を向けようなどとは思わないはずだ。これから先、あいつに近づく男が現れるたびに、叩きのめしてやればいい。ようやく目的地へ着くと、征士郎は車を降りた。これほどまでに、一刻も早く誰かに会いたいと思ったのは初めてだった。辺りを見渡すと、雨に濡れた木々が山一面に広がっていた。美しい場所だった。――朔弥のやつ、場所を選ぶセンスだけはあるらしい。征士郎は深く息を吸い込み、山道を登っていった。途中ですれ違う人々は、線香や蝋燭、菊の花を手にしており、その顔には一様に悲しげな表情が浮かんでいる。なぜか胸騒ぎがした。征士郎は無意識に足を速める。やがて平らに開けた場所までたどり着いた瞬間、目の前の光景を見て瞳を大きく見開いた。そこには、いくつもの墓石が立ち並んでいた。少し離れたところでは、朔弥が一つの墓石の前に立っている。腕には白い薔薇の大きな花束を抱え、その花を一輪ずつ、墓前へ静かに供えていた。征士郎は足早に朔弥のもとへ向かった。そして墓石の前に置かれた写真が目に入った瞬間――頭の中で張り詰めていた何かが、完全に切れた。手にしていた傘が地面へ落ちる。降りしきる雨が、征士郎の全身を容赦なく濡らしていった。それでも何も感じていないかのように、彼は写真の女を見つめ続けた。写真の中の彼女は、とても美しく微笑んでいた
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第16話

宗一郎は人を手配して墓地を元どおりに修復させると、全員を連れてその場を離れた。朔弥も去っていった。征士郎だけが紗月の墓前に残り、片膝をついたまま、写真の中の彼女を何度も何度も指先でなぞっていた。「紗月……」堪えきれず、今にも崩れそうな声で彼女の名を呼んだ。これまで何度もその名を口にしてきたはずなのに、こんなにも胸が締めつけられる思いで「紗月」と呼んだのは、初めてだった。まさか、心から彼女の名を呼びたいと思ったときには、もう二度と返事をしてもらえないなんて――喉が詰まり、声が震えた。彼女に伝えたいことは、いくらでもあった。すべて真実を知ったと伝えたかった。濡れ衣を着せたまま、ずっと誤解し続けていたことを謝りたかった。自分が間違っていたのだと、本当に分かったのだと伝えたかった。けれど今となっては、その言葉を聞いてくれる人はもういない。自分の大切な紗月を、この手で永遠に失ってしまったのだ。もしかすると、人は本当に大切な人を失って初めて、自分の心の奥に誰がいたのかを知るのかもしれない。征士郎はずっと、紗月を愛していないと思っていた。けれど彼女の訃報を聞き、何もかも投げ出して必死にその行方を捜し続けたとき、ようやく分かった。とっくの昔に自分の心の奥深くへ入り込んでいたのは、紗月だった。ただ、自分がそれに気づいていなかっただけなのだ。紗月はずっと自分のそばにいる。決して離れていかない。そう思い込んでいた。けれど、いざ彼女が去ってしまえば、それは永遠の別れだった。「どうして病気だって言ってくれなかったんだ……?」写真を見つめる征士郎の目は真っ赤になり、頬を涙が伝っていった。少し前、紗月が口から大量の血を吐いたときのことが蘇る。結婚式の招待状を届けたあの日、骨が浮き出るほど痩せ細っていた彼女の姿も思い出した。どうして信じてやれなかった?どうして、あれほど重い病気にかかっていることに気づけなかった?どうして病院へ連れていかなかった?なぜ、たった一言でも体調を尋ねてやらなかった?「紗月……俺を騙してるんだろ?だったら、お前の勝ちだ。だから戻ってきてくれないか?お前を愛する夫になる。手をつないで、抱きしめて、ちゃんと愛するから……3か月だけじゃない。一生だ。ずっ
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第17話

山凪市。栞奈の結婚式はグランド・セレスホテルで盛大に執り行われ、上流社会の名だたる人々が大勢出席していた。その中には、征士郎の姿もあった。もっとも、会場で彼に気づく者はほとんどいなかった。かつて誰よりも身なりに気を遣っていた清野社長が、半年ぶりに姿を現した今、無精髭を伸ばし、身なりにもまるで構わなくなっているとは、誰も想像していなかったからだ。控室では、まだ20代前半の若い女性が栞奈の腕に抱きついていた。「お姉ちゃん、あとでブーケを投げるとき、ちゃんと私のところに投げてね」「分かったわ。投げるんじゃなくて、そのままあなたに渡してあげる」栞奈は紗月を愛おしそうに見つめた。そう。考えてみれば、紗月はまだ若い。今だって、まだ22歳なのだ。本来なら、これから素晴らしい人生を歩み、幸せな結婚をするはずだった。ただ、それが叶わなかっただけで――「ありがとう、お姉ちゃん。やっぱりお姉ちゃんが一番。じゃあ私、結婚式の曲を弾いてくるね。お姉ちゃんが入場してくるの、楽しみに待ってる」紗月はそう言った。「ええ」栞奈は頷いた。征士郎がこの会場に来ていることなど、栞奈はまったく知らなかった。もし知っていたなら、決して紗月を人前に出したりはしなかっただろう。その頃、征士郎は会場の片隅に座り、一人で酒を飲んでいた。雨宮グループの本社ビルは、すでに再建工事が大詰めを迎えている。今日、その土地と再建中の建物を栞奈に譲るつもりだった。そうすれば、この世にもう思い残すことはない。紗月のもとへ行ける。たとえ紗月に殴られても、罵られても、恨まれていても構わない。今度こそ、二度と彼女のそばを離れないつもりだった。そのとき、遠くからピアノで奏でられる『陽だまりの向こうへ』の旋律が聞こえてきた。やがて、聞き覚えのある歌声が静かに重なる。「雨上がりの空に、君と見た光が揺れている……」その瞬間、死んだように光を失っていた征士郎の瞳が、かすかに揺れた。彼は立ち上がり、周囲から向けられる奇異な視線など気にも留めず、音のする方へ歩いていった。そして、見つけた。遠くのピアノの前に、純白のドレスをまとった女性が座っている。白く細い指が鍵盤の上を軽やかに行き交い、美しい旋律を紡いでいた。赤い唇からは澄ん
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第18話

壇上に立つ征士郎の顔からは、すっかり血の気が失われていた。紗月の瞳に浮かぶ恐怖と戸惑いを目にした瞬間、彼は完全に動揺した。征士郎は彼女をじっと見つめ、掠れた声で言った。「紗月……俺を見てくれ。俺の名前を呼んでくれ」二人の視線が重なった。しかし、紗月が彼を見る目は、まるで見ず知らずの他人を見るようだった。その瞬間、征士郎は心を引き裂かれるような、耐え難い痛みに襲われた。紗月もまた、彼の悲痛に満ちた眼差しを見ていると、胸が締めつけられるように息苦しくなった。彼女は征士郎を勢いよく押し退けると、逃げるようにその場を去っていった。征士郎は遠ざかっていく彼女の背中を見つめ、追いかけようとした。しかし、その背後から栞奈の声が飛んできた。「紗月は手術を受けたの。その後遺症で、過去の記憶の一部を失っている。あなたのことも覚えていないわ。海外でずっと紗月の面倒を見ていたのは朔弥よ。少しでも自分の立場が分かっているなら、もうあの子には近づかないで」栞奈は打ちのめされたような征士郎の顔を見て、胸がすく思いだった。かつて琴葉と一緒になって紗月を苦しめていたときには、まさか自分にこんな日が来るとは夢にも思っていなかっただろう。紗月は手術台の上で、あと少しで命を落とすところだった。今の征士郎がどれほど苦しんでいようと、紗月が味わってきた苦しみには到底及ばない。たとえ彼がこの先一生をかけて償ったとしても、償いきれるものではなかった。……征士郎は放心したまま車に乗り、自分が宿泊しているホテルへ戻った。栞奈の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。紗月は記憶を失った。ほかの人のことは覚えているのに、ただ一人、自分のことだけを忘れてしまった。征士郎はゆっくりと目を閉じ、シートの背もたれに体を預けた。肩がかすかに震えていた。紗月に罵られることなら耐えられる。殴られても、責められても構わない。ただ、自分のことを忘れられることだけは耐えられなかった。――紗月、どうしてそんなに残酷なんだ。一番辛いのは、お前に恨まれることじゃない。あれほど俺を愛してくれていたお前が、突然俺のことを何も覚えていなくなったことなんだ。償う機会さえ、俺には与えてくれないのか。運転手はバックミラー越しに、後部座席で悲
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第19話

薄暗い橙色の灯りが紗月の顔を照らしていた。彼女は目を固く閉じたまま、長いまつげをかすかに震わせていた。この半年間、朔弥はいついかなるときも自分のそばにいてくれた。自分以上に自分の体を気遣っていると言っても過言ではないほどだった。だから、彼のプロポーズを断る理由など、ほとんどないはずだった。それなのに、心のどこかには確かに何かが引っかかっている。ただ、それが何なのか、紗月自身にも分からなかった。長く続いた口づけがようやく終わると、朔弥は名残惜しそうに紗月から離れ、不安そうに彼女を見下ろした。「怖がらせた?」紗月は大きく息をしながら首を横に振ると、彼のためにタオルを取りに行った。――お姉ちゃんの言うとおりだ。結婚する相手が、必ずしも愛する人である必要はない。朔弥さんはとてもいい人だ。優しくて思いやりがあり、自分には一番ふさわしい相手なのだから。……ホテル・ルミエール。征士郎は霞野市からわざわざ服を届けさせ、そのうえ一流のヘアスタイリストまで呼び寄せていた。武陽は、半年ぶりに自分の身なりを整え始めた社長を見て、不思議で仕方がなかった。つい先日まで今にも死にそうな顔をしていたというのに、まさか新しい恋でも始まったのだろうか?征士郎は伸びていた髪を短く整え、乱雑に生えていた無精髭もきれいに剃り落とした。体には、仕立てのいいベルディア製のオーダースーツがぴたりと馴染んでいた。まるでモデルのような体型だった。武陽は内心、羨ましくて仕方がなかった。自分は半年もジムに通っているのに、どうして社長のような体型になれないのだろう。しかも社長は、この半年間あれだけ酒浸りだったというのに、腹も出ていない。まったく、世の普通の男たちの立場がないではないか。「どうだ?」征士郎に尋ねられ、武陽は親指を立てた。「文句なしに格好いいです!」今の征士郎を一枚撮ってネットに載せれば、これまで彼を「救いようのない最低男」と罵っていた女たちも、きっと呼び方を変えるだろう。ひょっとすると、新しい異名まで生まれるかもしれない。――超高級・全方位型女たらし、とでも。しかし、続く征士郎の一言で、武陽は自分が完全に勘違いしていたことを悟った。「近藤のやつと比べたらどうだ?」武陽の胸がドキリと跳ねた
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第20話

紗月は朔弥と手をつないだままホテルを出ると、すぐに征士郎の悲しみに満ちた視線とぶつかった。昨日とはまるで別人のような装いで、今の彼はおとぎ話から抜け出してきた王子のようだった。それでも紗月は、一目で彼が昨日のあの男だと分かった。もしかすると、心の奥深くに刻まれた人の記憶は、たとえ記憶を失っても完全に消えることなどないのかもしれない。征士郎の視線は、二人がつないでいる手から紗月の顔へと移り、そのまま大股で彼女のもとへ歩いてきた。朔弥はさりげなく紗月を自分の背後へ庇う。「清野社長、何のつもりですか?」そう言いながら、征士郎の背後にずらりと並ぶ豪華な品々を一瞥し、嘲るように続けた。「これだけ用意して、いったい誰にプロポーズするつもりです?」征士郎は胸の奥から込み上げる怒りを必死に抑えながらも、その目はずっと紗月から離れなかった。「俺が何をしようとしているのか、お前には分かっているはずだ」今すぐにでも紗月を自分の腕の中へ引き寄せたかった。けれど、昨日のように彼女を怖がらせてしまうことが恐ろしくて、手を伸ばすことができない。「さあ、何のことでしょう。清野社長、そこをどいてください。これから婚約者と出かけるので」朔弥は「婚約者」という言葉をことさら強調した。――婚約者?征士郎の瞳に燃え上がった怒りは、もはや隠しようもなかった。その眼差しに紗月はびくりとし、思わず朔弥の手を強く握った。「行こう」なぜなのかは分からないが、この清野社長という男は、自分が朔弥と一緒にいることをひどく嫌がっているように感じる。昨日、いきなり平手打ちしたのは悪かったのかもしれない。けれど、誰かにプロポーズするつもりなら、どうして昨日は突然自分を抱きしめたりしたのだろう。そんなことをして、好きな人に申し訳ないとは思わないのだろうか。朔弥は紗月の言葉を聞くと、その手を引いて立ち去ろうとした。征士郎のそばを通り過ぎるとき、紗月は少し勇気を出して声をかける。「おじさん、プロポーズがうまくいくといいですね。でも、好きな人がいるなら、その人だけを一途に大切にしなきゃ駄目ですよ」そのまま朔弥に手を引かれて立ち去ったため、紗月は征士郎の表情が完全に凍りついたことには気づかなかった。――おじさん。好きな人には一途に。武陽は征士郎の隣に立
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