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第21話

月岡家の邸宅。朔弥は紗月を部屋まで送り届ける途中、その穏やかな横顔を見つめながら、そっと彼女を腕の中へ引き寄せた。熱い吐息が紗月の頬をかすめた。「紗月、今回は少し急すぎるって分かってる。でも安心して。準備は俺がきちんと進める。絶対に君に辛い思いはさせないから」そう言うと、朔弥は彼女の前で片膝をついた。手にした上品なジュエリーケースを開くと、中には美しいダイヤモンドリングが収められている。「俺と結婚してくれないか?一生、君を守らせてほしい」紗月は、自分の前に片膝をつく穏やかで紳士的な男を見つめ、その目にわずかな迷いが浮かんだ。その二人からそう遠くない場所では、恐ろしいほど鋭い視線が、じっと二人に注がれていた。その視線の主は、今にも怒りを爆発させそうになっている。「……うん」紗月はわずかに唇を開き、朔弥に左手を差し出した。朔弥は自らダイヤモンドリングを紗月の指にはめると、その手の甲にそっと口づけた。けれど、なぜなのか。紗月の胸には、ふと寂しさが広がっていった。自分はもうすぐ結婚する。美しい街、ラヴェンヌで。それなのに――どうして少しも嬉しくないのだろう。……朔弥は紗月を部屋の前まで送り届けると、そのまま立ち去った。紗月が部屋へ入った直後、黒い人影が突然彼女を抱きすくめ、そのままドアに強く押しつけた。紗月の瞳に動揺が走る。声を上げようとした瞬間、男は素早く彼女の口を手で塞ぎ、顔を覗き込んだ。「俺だ、紗月」征士郎の声は震えていた。腕の中にいる愛する人を見つめながら、心臓は激しく高鳴っていた。薄暗い室内では、紗月には目の前の男が誰なのかまったく分からなかった。手術によって腫瘍は取り除かれ、病状も安定していたものの、視力障害は後遺症として残っていた。そのため、暗い場所や遠くにあるものは、今もはっきりと見ることができなかった。「んっ……」紗月は必死に身をよじって抵抗し、口を塞いでいる男の手に思い切り噛みついた。それでも男はびくともせず、抵抗することなく、好きなだけ噛ませていた。やがて紗月の口の中に血の味が広がる。男の胸元に体を預け、そこから伝わってくる力強く規則正しい鼓動を聞いた瞬間、なぜか体が固まった。「紗月……」征士郎は何度も何度も彼女の名を呼びながら、空いているも
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第22話

パトカーのサイレンが月岡家の屋敷の周囲に響き渡った。征士郎も、まさか自分が警察署へ連行される日が来るとは夢にも思っていなかった。しかも、自分が愛する女に通報されるなど、なおさら想像していなかった。その頃、メディアでは早くも新たなニュースが飛び交っていた。【清野グループ社長、またも奇行。深夜に月岡家の邸宅へ侵入し、女性に迫るも失敗。そのまま警察に連行】記事の下には、たちまち大量のコメントが寄せられた。【清野征士郎って、イケメン社長に対する私のイメージを完全に塗り替えたわ。やってることはめちゃくちゃなのに、なんか憎めない】やはり顔が良ければ、何をしても好意的に見てもらえるらしい。【わあ!征士郎さんが私のところに来たら、絶対に通報しない!】その後は、【征士郎さん、私のところにも来て!】というコメントで画面が埋め尽くされた。征士郎を迎えに警察署へ向かった武陽は、マスクにサングラスという完全防備だった。――うちの社長、本当にどこまでやれば気が済むんだ。このまま清野グループを辞めたとしても、もう自分をアシスタントとして雇ってくれる会社などないのではないかと、本気で心配になってくる。この半年、征士郎について回ったせいで、恥という恥をほとんどかき尽くした。今では自分もすっかり面の皮が厚くなり、多少のことでは動じなくなった。それでも、征士郎がこの先さらに何をしでかすのかだけは、まるで想像がつかなかった。警察署で征士郎を迎え、その帰り道、武陽が車を走らせていると、後部座席では征士郎が陰鬱な表情を浮かべ、ある地名を呟いた。「ラヴェンヌ……」その言葉を聞いた武陽はすぐに察し、慌ててフロレシア行きの航空券を手配した。……翌日。紗月は朝早くから朔弥とともに飛行機に乗り、結婚式の準備をするためフロレシアへ向かった。窓の外には白い雲が幾重にも連なり、朝焼けの名残が遠い空を淡く染めていた。紗月はその景色に見入っていた。朔弥がそっと彼女の手を握る。「昨日の夜、怖かっただろう?」紗月は我に返って彼を見ると、淡く微笑んだ。「怖くはなかったよ。あの人、私を傷つけようとしていたわけじゃないと思うから」朔弥の優しい眼差しが、一瞬だけ冷たくなった。それでも表情は変えず、紗月をそっと引き寄せ、その額に口づける。「約束してくれ
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第23話

翌日。紗月はウェディングドレスに身を包み、朔弥が迎えに来るのを待っていた。二人とも両親はすでに他界しているため、今回の結婚式はごくシンプルなものだった。本来なら栞奈がどうしても式に出席すると言っていたのだが、紗月は姉が妊娠したばかりだと知っていたため、長旅をさせたくないと断っていた。結婚式はホテルで行われ、招待客も予定どおり次々と会場へ集まっていた。やがて司会者の声が響く。「それでは、新婦にご入場いただきましょう!」豪華なウェディングドレスをまとった紗月が、招待客たちの前に姿を現した。体の脇に下ろした手をわずかに握りしめている。少し緊張していた。――朔弥が、これから自分の夫になる。「続きまして、新郎のご入場です!」司会者の声が再び響き、紗月は胸を高鳴らせながら少し離れた場所へ目を向けた。しかし、いつまで経っても何の動きもない。司会者は眉をひそめた。どうして新郎がまだ現れないのだろう?本来なら新郎が先に入場する予定だった。ところが今日は式が始まる直前になっても新郎の姿が見つからず、スタッフから新郎はまもなく到着すると聞かされていたため、仕方なく新婦を先に入場させたのだ。「もしかすると新郎は緊張して、なかなか出てこられないのかもしれませんね」司会者が冗談めかして言うと、会場から笑い声が上がった。けれど、紗月の胸には不安ばかりが募っていく。彼女は手を強く握りしめ、深く息を吸いながら待ち続けた。1分、2分、3分……それでも朔弥は現れない。招待客たちの表情も次第に変わり始めた。紗月は頬が熱くなるのを感じ、その表情からも、次第に明るさが失われていった。どうして朔弥は来ないのだろう。もしかして、結婚を後悔した?それとも、何かあったのだろうか?司会者も焦りを隠せなくなり、スタッフに声を上げる。「早く新郎に連絡してください!」紗月は壇上に立ち尽くしたまま、周囲から向けられる訝しげな視線に耐えていた。できることなら、このまま穴にでも入りたい気分だった。今日は自分の結婚式なのに、新郎が来ない。会場に何とも言えない気まずい空気が漂った、そのとき――会場の大扉が開いた。そこには、背の高い男が堂々と立っていた。「来たぞ」紗月はその声に反応して顔を向けた。男
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第24話

結婚式はひとまず中止となった。ホテルの庭園で、紗月は征士郎と向き合っていた。「清野さん、今日のことを説明してもらえますか?」紗月は征士郎に無理やりはめられたダイヤモンドリングを外し、彼の前へ差し出した。しかし征士郎は受け取ろうとせず、ただ深い眼差しで紗月を見つめていた。征士郎はずっと、自分の妻はか弱く、放っておけないような女だと思っていた。今日も、彼女が大勢の招待客を前にして怖気づき、誰かに傷つけられるのではないかと心配していたのだ。だが今になってみれば、自分の妻は決して簡単に誰かに傷つけられるような女ではなかった。それなのに、そんな彼女を4年間も傷つけ続けてきたのは、ほかでもない自分だった。「清野さん!」紗月は眉をひそめ、先ほどより強い口調でもう一度呼びかけた。本当に困った人だと思った。どうしてこの人はいつも、こんなふうにじっと自分ばかり見つめてくるのだろう。征士郎はようやく我に返った。「一度贈ったものを、俺は返してもらうつもりはない」その言葉を聞いた紗月は、手にしていた指輪をそのまま放り投げた。きれいな弧を描いた指輪は、少し離れた屋外プールの中へ落ちていった。物陰から様子を窺っていた武陽は目を見開く。――数千万円もする指輪を……そのまま投げた?征士郎も、彼女が受け取るくらいなら捨てることを選ぶとは思っておらず、言葉を失った。「清野さんが何を企んでいるのか、私には分かりません。でも、これだけは言っておきます。私には婚約者がいます」紗月はそう言って、薬指にはめ直したダイヤモンドリングを彼に見せた。「私の婚約者は清野さんほどお金持ちではありません。でも、私にとって一番大切な人です。誰にも代わることはできません」その言葉は鋭い刃となり、征士郎の胸を深く抉った。彼は紗月を見つめながら、4年前のことを思い出していた。あの頃、彼女は自分のために両親とまで対立した。――「清野家はうちほど裕福じゃないけど、征士郎は私にとって、この世で一番大切な人なの。お金なんかじゃ代えられない」あのときの彼女も、そう言っていた。征士郎は喉が詰まるような感覚を覚えた。どうしてあの頃、自分は彼女の優しさに気づけなかったのだろう。彼は改めて紗月を見つめた。「分かった」それだけ言うと、征士郎は
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第25話

朔弥の問いかけを聞いた紗月の瞳が、わずかに揺れた。今日、自分は征士郎に、朔弥は自分にとって一番大切な人だと言った。あれは嘘ではない。朔弥は兄のようでもあり、父親のようでもあった。今の自分にとって、この世界で変わらず自分を大切にしてくれる、数少ない存在だった。「私は……んっ……」紗月が口を開きかけた途端、朔弥の唇がその言葉を塞いだ。朔弥は今日、征士郎から言われたことを思い返しながら、冷えた指で紗月の服に手をかけ、そのまま彼女を抱き上げた。視界が大きく揺れたかと思うと、紗月はベッドの上に下ろされ、すぐに朔弥の大きな体が覆いかぶさってきた。唇から首筋へと、細かな口づけが落とされ、紗月の体は思わず震えた。いつかはこういうことも受け入れなければならないと、彼女も分かっていた。けれど、なぜか胸がひどく苦しい。朔弥とのこれ以上の触れ合いを拒みたいと思うのに、どう口にすればいいのか分からなかった。朔弥の手が彼女の襟元に触れたとき、ふいに手の甲へ冷たいものが落ちた。顔を上げると、自分の下で横たわる紗月の頬を涙が伝っている。その瞬間、朔弥の胸に鋭い痛みが走った。彼は大きな手で掛け布団を引き寄せて紗月の体を覆うと、そのまま立ち上がり、部屋を出ていった。……翌朝。紗月は朝食を用意していた。白いカジュアルウェアを身につけた朔弥が、長い脚で階段を下りてくる。昨日のことがあるせいか、二人の間にはどこか気まずい空気が漂っていた。紗月は彼の前に食器を並べた。「サンドイッチを作って、目玉焼きも焼いたよ。朝ごはんを食べてから仕事に行ったら?」朔弥は彼女を一度見つめ、いつもの穏やかな声で答えた。「ああ、そうするよ」この半年、紗月は朔弥とともにフロレシアのラヴェンヌで暮らしていた。朔弥はここで自分の法律事務所を開いている。もともと優秀な男だけあって、わずか半年で事務所を軌道に乗せ、順調に業績を伸ばしていた。これまで何年も雨宮家の顧問弁護士を務めていたのは、彼の実力からすれば本当にもったいないことだったのだろう。「体の傷は大丈夫?病院に行くなら、私も一緒に行こうか?」紗月が尋ねると、朔弥は首を横に振った。「大丈夫。大した傷じゃない。すぐに治るよ」その態度は、やはり以前と変わらず優しく穏やかだった。紗月は一瞬
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第26話

インターナショナルスクールの前。征士郎は車のドアを開けると、まっすぐ紗月のもとへ歩いていった。彼の姿を見た紗月は思わず眉をひそめ、そのまま踵を返して校内へ入っていった。――この人、本当にどこまでついてくるつもりなの。征士郎も臆することなく後を追ったが、入口で警備員に呼び止められた。「失礼ですが、どちら様でしょうか?」征士郎は淡々と相手を見た。「生徒の保護者だ」警備員は高級そうな服に身を包み、立ち居振る舞いにも品のある征士郎を見ると、事前に用意された来校許可証を確認し、そのまま中へ通した。……音楽の授業では、紗月が生徒たちにピアノを教えていた。征士郎は教室の外に立ち、静かにその姿を見つめている。夫婦だった4年間、彼女がピアノを弾けることさえ知らなかった。しかも、改めて間近でその演奏を聴き、征士郎は自分が紗月について何も知らなかったことを思い知らされた。紗月が最後の音を弾き終え、顔を上げた瞬間、再び征士郎と目が合った。その瞳に、はっきりと苛立ちが浮かんだ。「みんな、しばらく自分で練習していてね。あとで一人ずつ確認するよ」生徒たちにそう告げると、紗月は教室を出て征士郎の前まで歩いていった。「清野さん、どうしてずっと私についてくるんですか?」まさかこの男が山凪市からフロレシアまで自分を追いかけ、今度は学校にまでついてくるとは思いもしなかった。征士郎は彼女の機嫌が悪いことに気づいても怒ることなく、悠然とした様子で見つめ返した。「お前が好きだからだ」紗月は思わず腹を立てた。自分には婚約者がいるとはっきり伝えたというのに、ここまで厚かましい男だとは思わなかった。「お前に婚約者がいたって、俺がお前を好きになるのを止めることはできない」征士郎は平然と続けた。紗月はたまらずスマホを取り出す。「清野さんの気持ちを止めることはできなくても、警備員を呼んで外へ出てもらうことはできます」そう言い終えた瞬間、征士郎の大きな手が彼女の手首をつかみ、それを制した。そして、そのときだった。征士郎の視線が、紗月の手に残る無数の古い傷痕に止まった。長い年月を経た傷痕が、細かな線となっていくつも残っている。征士郎の胸が激しく締めつけられた。「その手……どうしたんだ?」紗月は手を引こうとしたが、
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第27話

病院。紗月はゆっくりと目を覚まし、しばらく呆然と天井を見つめていた。朔弥はずっと傍らで彼女を見守っていたが、いつまで経っても何も言わない紗月を心配そうに見つめた。「どう?まだ頭は痛む?」その声を聞いて我に返った紗月は、顔を横へ向けて朔弥を見る。「朔弥さん、どうして教えてくれなかったの?清野さんが……私と結婚していたって」いつも穏やかな朔弥の表情が、一瞬だけ強張った。それでもすぐに気持ちを落ち着かせると、紗月の手を握り、怒りを滲ませた目で彼女を見つめる。「あいつには、君の夫を名乗る資格なんてないからだ」そう言うと、朔弥は紗月を深く見つめ、喉をわずかに上下させた。「俺にとっても、君のお姉さんにとっても、君はいつまでも大切な女の子だ。清野征士郎の妻なんかじゃない」紗月はこれまで、朔弥が誰かの悪口を言うところなど一度も聞いたことがなかった。どれほど理不尽な依頼を持ち込まれても、彼は笑顔を崩さず、礼儀正しく断っていた。紗月が知る人の中で、朔弥ほど紳士的で礼儀正しい人はいないと思っていた。彼女は深く息を吸うと、笑みを浮かべた。「分かった。これからはもっとあの人と距離を置くね。絶対に近づかせないって約束する」朔弥は小さく頷いた。「じゃあ、もう家に帰ってもいい?私、病院に泊まりたくない」紗月は朔弥の手を揺らしながら、甘えるように頼んだ。朔弥は愛おしそうに彼女の髪を撫でる。「ああ、帰ろう」紗月は慌ててウィッグを押さえた。まだ自分の髪は十分に伸びていない。こんなところでウィッグをずらされるわけにはいかなかった。……朔弥は、征士郎のような男が優しく振る舞えるのは、せいぜい一時のことだと思っていた。自分と紗月が一緒にいるところを見せ続ければ、そのうち諦めて自分から去っていくだろう、と。ところが、日々は過ぎていき、1か月が経っても、征士郎は立ち去るどころか、こちらに支社まで設立してしまった。しかも、その支社は紗月の通勤途中にあった。毎朝、紗月のもとには大きな花束とプレゼントが届いた。それだけではない。紗月が担当しているクラスの生徒たちにまで、一流シェフが作った昼食が毎日届けられるようになり、1か月もしないうちに、子供たちは揃って少しふっくらしてしまった。そんなある日。紗月はいつものように、征士
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第28話

インターナショナルスクールの校門前。授業を終えた紗月は、いつもいるはずの姿が見当たらないことに気づき、少し不思議に思った。いつもなら授業が終わる時間になると、征士郎は必ず校門の外で待っている。自分が嫌がろうがお構いなしに後ろからついてきて、そのまま家まで送り届けるのが日課のようになっていた。彼女は視線を戻し、心の中で思った。――やっぱり、そう長くは続かなかったのね。ところが、まだ数歩も歩かないうちに、背後から聞き慣れた声が飛んできた。「雨宮先生、乗っていかないか?」紗月が振り返ると、征士郎はいつものスーツではなく、白いシャツにカジュアルなパンツというラフな姿だった。短く整えた髪も相まって、普段よりずっと若々しく見える。しかも彼が乗っているのは、自転車だった。その後ろでは、小学生たちが面白がってはやし立てていた。――この前までスポーツカーだったのに、今度は自転車?紗月はわずかに目を細めた。なぜだろう。目の前の光景がひどく懐かしく感じられる。まるで、ずっと昔にもどこかで同じ光景を見たことがあるような――紗月がぼんやりしているうちに、征士郎は自転車で彼女の前までやって来た。「お嬢ちゃん、家まで送ってやろうか?」その言葉を聞いた瞬間、紗月の手から教材が滑り落ちた。なぜか瞳に涙が滲んでくる。――「お嬢ちゃん、家まで送ってやろうか?」どうしてこの言葉を聞いただけで、こんなにも泣きたくなるのだろう。どうして、胸がこんなに苦しいのだろう。紗月は片手で頭を押さえ、肩を小さく震わせた。「紗月、どうした?」征士郎はすぐに自転車から飛び降り、紗月の体を支えた。その瞬間、彼女の脳裏に、太陽のように明るい一人の青年の姿が一瞬だけ蘇った。紗月は少しずつ気持ちを落ち着かせると、顔を上げて征士郎を見た。目の前にあるのは、すっかり大人びた男の顔だ。我に返った紗月は、咄嗟に彼を突き放した。「清野さん、私はもう子供じゃありません。それに、清野さんもこんな子供じみたことはやめてください。何をしても、私は清野さんを好きにはなりませんから」そう言うと、地面に落ちた教材を拾い上げ、足早にその場を立ち去った。征士郎はそんな彼女の後ろを、慎重に距離を取りながらついていく。――今の紗月……何か思い出し
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第29話

病院。紗月はすぐに処置室へ運ばれ、征士郎は廊下の長椅子に腰を下ろして、処置が終わるのを待っていた。俯いたまま、彼の肩はかすかに震えていた。そこへ駆けつけた朔弥は目を真っ赤にし、征士郎の胸ぐらを掴むなり、思いきり拳を振り抜いた。「この野郎!」征士郎は避けようともせず、その拳をまともに受けた。まるで痛みなど感じていないかのように、ただ処置室の扉を見つめ続けている。その両目は真っ赤に充血していた。やがて、ようやく処置室から医師が出てきた。「患者さんのご家族は?」「俺です」「俺です」二人の声が同時に響いた。医師は二人の男を怪訝そうに見比べ、眉をひそめた。――最近はずいぶん複雑な家族関係もあるものだ。征士郎が真っ先に医師の前へ進み出た。「彼女はどうなんだ?」「患者さんは以前、脳腫瘍の手術を受けていますから、今回のような症状が現れることもあります。とにかく強い刺激を与えないよう注意してください。薬による治療を続けながら経過を見れば、ひとまず心配はないでしょう」そう説明すると、医師はそのまま立ち去った。征士郎はようやく胸を撫で下ろした。すぐに処置室へ入ろうとしたが、朔弥に腕を掴まれる。「清野社長、今の話を聞いていなかったんですか?刺激を与えるなと言われたでしょう。紗月をまた危険な目に遭わせるつもりですか?」朔弥の眼差しは冷え切っていた。征士郎の瞳から光が消えていく。征士郎は閉ざされた処置室の扉をしばらく見つめた末、結局それ以上近づこうとはしなかった。――もしかしたら、本当に手放すべきなのかもしれない。朔弥は征士郎の寂しげな背中を見つめ、唇を固く結ぶと、病室へ移された紗月のもとへ向かった。病室のベッドに横たわる紗月の顔には、血の気がまるでなかった。朔弥はベッド脇に腰を下ろし、そっと彼女の手を握った。「紗月……今度こそ、別の場所へ連れていく。清野征士郎が二度と君を見つけられないところへ……」……1か月後。霞野市のとある地下室。琴葉の周囲は暗闇に包まれていた。そこら中をネズミが這い回り、そのうちの一匹が手の上まで這い上がってくると、彼女は恐怖のあまり悲鳴を上げた。そのとき、誰かが照明のスイッチを入れた。辺りが一気に明るくなり、徐々に視界がはっきりしていく。琴葉は少
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第30話

地下室の扉が再び開き、征士郎はそのまま出ていった。扉が閉ざされると、最後に残っていたわずかな光さえ消え失せた。琴葉は背後に置かれた黒いピアノを見つめた。目には涙が溢れ、今さらながら激しい後悔が押し寄せる。ぼんやりと、10年前の出来事が脳裏に蘇った。あの頃、征士郎を助けた紗月は、毎日のように彼のもとを訪れ、ピアノを弾いて聞かせていた。当時、征士郎が霞野市で最年少クラスの若手経営者として将来を嘱望されていると知った琴葉は、紗月を追い払い、自分が彼のそばに居座ったのだ。そのとき、紗月は言った。「あなた、ピアノなんて弾けないでしょう?いつか征士郎に知られるのが怖くないの?」その言葉を聞いた琴葉はある考えを思いつき、紗月の手を掴むと刃物で深く傷つけ、その腱まで切った。床に倒れ込んだ紗月を見下ろしながら、琴葉は笑った。「ほら、これでもう私がピアノを弾けなくても不自然じゃないでしょ?」その後、琴葉は自分の手にも傷をつけた。紗月の母親は琴葉にとって母方の叔母にあたる。当時、琴葉の父親は「子供同士の事故だった」として処理してほしいと雨宮家に懇願し、親族間の問題として警察沙汰にはしなかった。こうして琴葉は紗月に成り代わり、征士郎に命の恩人だと思わせた。そして彼が目を覚ますと、自分の手の傷は、逃げた征士郎を助けたことへの報復として拉致犯につけられたものだと嘘をついた。その後、紗月は長い治療とリハビリを経て手の機能を取り戻したものの、事件を境に長い間ピアノから離れていた。これはあくまで白河家と雨宮家の間で処理された出来事だったため、征士郎が真相を知ることはなかった。その後、琴葉は命の恩人という立場を利用して征士郎に近づき、やがて自ら想いを告げ、二人は自然な流れで交際するようになった。……月影邸。征士郎は大きな掃き出し窓の前に立ち、バルコニーに置かれた鉢植えを眺めていた。紗月が植えたオリヅルランはすっかり枯れ果て、彼の目には深い寂寥が浮かんでいた。古い記憶ほど、時が経つにつれて鮮明になる。このところ、征士郎は何度も昔のことを思い返していた。10年前、目を覚ました彼は、少しずつ琴葉と紗月の二人と親しくなっていった。二人の少女は対照的だった。一人は明るく活発で、もう一人は水面のように物静かだった。紗月は後
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