Masuk霞野市の空には黒い雲が幾重にも立ち込め、やがて前触れもなく激しい雨が降り出した。 清野紗月(せいの さつき)はバスの座席に座り、窓ガラスを伝って流れ落ちていく雨粒をぼんやりと眺めていた。 先ほど医師から告げられた言葉が、いつまでも頭から離れなかった。 脳腫瘍の末期。余命は、長くてもあと3か月―― 紗月はいつもの番号を呼び出し、電話をかけた。 しばらくすると、受話口からよく通る低い声が聞こえてきた。耳に心地よい響きとは裏腹に、その口調はひどく冷ややかだった。「何か用か?」 紗月は診断書を握りしめ、無理やり口元に笑みを浮かべた。「ううん。ただ、今日は帰ってきて、少し一緒にいてくれないかなって思って」 「何度も言っただろ。用もないのに電話してくるな」 電話越しに、清野征士郎(せいの せいしろう)の苛立った声が聞こえてくる。 その背後からは、女の甘ったるい声に混じって微かな吐息まで聞こえ、紗月の胸は不意に締めつけられた。 スマホを握る指先が白くなるほど力を込めながら、彼女は呆然としたまま答えた。「ごめん。邪魔しちゃったね」 その直後、電話は一方的に切られ、耳元には無機質な切断音だけが残った。 それでも紗月は、なかなかスマホを耳から離すことができなかった。 窓ガラスに映る自分の顔には、いつの間にか幾筋もの涙が流れていた。 征士郎が自分を愛していないことなど、紗月はとうに分かっていた。 彼の周りから女の影が絶えたことなど、一度もない。それもすべて、嫌というほど分かっていた。 ただ、真実を突きつける勇気がなかっただけだ。 自分が臆病なのは認めている。 すべてを暴いてしまえば、自分に残されたわずか3か月の結婚生活さえ、守れなくなってしまうのが怖かった。
Lihat lebih banyak法律事務所の前。紗月はスーツケースを引いて立っていた。帰国してから宿を取ることさえ後回しにし、人に道を尋ねながら、まっすぐここまでやって来たのだ。朔弥の前に立つと、さすがに緊張した。それでも紗月は少しだけ息を整え、昔と同じ呼び方で彼を呼ぶ。「近藤先生。昔、私を一生愛して守るって言ってくれたこと……まだ有効ですか?」朔弥は、髪を短くした紗月を見つめた。2年前よりどこか明るくなったように見える。それでも、その目に浮かぶいたずらっぽい光は昔と何も変わっていなかった。喉仏がわずかに上下する。やがて彼は、赤くなりかけた目元を隠すように背を向けた。「覚えていません。録音はありますか?録音がないなら、証拠にはなりません」冷たく言い残し、そのまま事務所の中へ歩いていった。紗月は腹を立てることもなく、重いスーツケースを引きながら、そのあとを追う。「それなら、法律扶助を申請します」新しく雇われた事務員は紗月のことを知らなかった。法律扶助を申請したいと聞き、すぐに彼女を案内して申請書を渡す。「こんにちは。どのようなことでお困りですか?」そう尋ねられた紗月は、視線の端で朔弥の背中を追いながら、ゆっくりと答えた。「婚約者に捨てられたんです。結婚する、一生面倒を見るって言ってくれたのに、最後は一人でいなくなってしまいました。そのあと、私の連絡先まで全部ブロックして、どこにいるのかも分からなくなったんです。だから法律扶助をお願いしようと思って」朔弥は彼女たちに背を向けたまま、硬い表情で一言も発しなかった。事務員は困ったような顔をする。「申し訳ありませんが、この件を法的に争うのは難しいと思います。お客様と婚約者の方との間には、まだ婚姻関係がありませんし……それに今のお話では、その方の居場所も分からないんですよね?」「でも今日、やっと会えたんです。それなのに、昔言ったことなんて覚えてないって。証拠を出せとも言われました。そんな証拠、どこで探せばいいんでしょう?」紗月はそう言いながら、なおも朔弥を見つめていた。そして、彼の右手の薬指に、あのときの指輪が今もはめられていることに気づく。胸の奥が震え、瞳にうっすらと涙が浮かんだ。事務員は、あまりにも気の毒な話に思わず眉を寄せた。「それは……ずいぶん無責任な話ですね」けれど紗
霞野市では、雨の日がいつまでも続いていた。紗月は旅立つ前日、両親の墓参りに行った。これからは自分のために生きる。行きたい場所へ行き、見たいものを見て――そして、あの人を探しに行くのだ。最初の目的地は、朔弥が以前話していた海辺の街だった。紗月はそこへ向かう船のチケットを取った。旅立ちの日、降り続いていた雨はようやく上がり、水平線の彼方から朝日がゆっくりと昇ってきた。紗月はその朝日を見つめた。久しぶりに、その目にも明るい光が宿っていた。――空が、晴れた。……2年後、ブリステリア。とある特別支援教育を行うインターナショナルスクール。ステージの上では、聴覚に障害があり、発話にも困難のある少女が、その両手で美しい旋律を奏でていた。客席にいる紗月は緊張した面持ちで少女を見守りながら、励ますような眼差しを送っている。少女がベートーヴェンの『月光ソナタ』を見事に弾き終えると、会場いっぱいに大きな拍手が響き渡った。少女は優雅に一礼し、晴れやかな笑みを浮かべた。紗月も心から嬉しそうに拍手を送った。かつては彼女自身も、あのステージに立っていた。今では手の後遺症のため、長時間演奏することは難しかったが、生徒にピアノを教えていた。それでも、紗月は十分に幸せだった。同じ学校で働く男性教師の桐生湊(きりゅう みなと)が、大きな花束を抱えて紗月のもとへやってきた。「雨宮先生、教え子の優勝、おめでとうございます。本当にすごかったですね」「ありがとうございます。でも、その花はあの子に贈ってあげてください。きっと喜びますから」紗月がそう答えると、湊は少し緊張したように笑った。「じゃあ、先生には別のものを」「え?」「ずっと言おうと思ってたんです。雨宮先生、よかったら僕と付き合ってくれませんか?」途端に、周囲から歓声が上がった。紗月は少し驚きながら、真剣な表情の湊を見つめた。けれど、彼は自分が探している人ではない。「ごめんなさい。私には婚約者がいるんです」湊は驚いた。紗月がここへ来て半年以上になるが、彼女のそばに男性がいるところなど一度も見たことがなかったからだ。「その人って、誰なんですか?こっちの人ですか?それとも、雨宮先生と同じ国の人?」思わず尋ねると、紗月は答えた。「同じ国の人です」
広い道路の真ん中を、琴葉が髪を振り乱して走っていた。取り乱した様子で笑いながら、自分は紗月だと何度も叫んでいる。ようやく数人のボディガードが彼女を取り押さえた。彼らは少し離れたところに征士郎がいることに気づくと、慌てて頭を下げた。「征士郎様、申し訳ありません。目を離した隙に、食事を運んできた者の隙をついて突き飛ばし、そのまま逃げ出してしまいました」暗く冷え切った地下室で、たった一人、ピアノだけを相手に数か月も閉じ込められていた。外との接触を断たれ、いつ終わるとも分からない孤独な生活を強いられたことで、琴葉は心身ともにひどく追い詰められていた。彼女はぼんやりと征士郎の姿を見つけると、突然その手にしがみついた。「征士郎、やっと来てくれたのね。私よ、紗月よ!」琴葉の目から、涙が止めどなく溢れ出す。「私を助けに来てくれたんでしょう?全部、琴葉が悪いの。あの女が私になりすましたのよ」そう言っていた琴葉は、ふと地面に落ちていた石を目にすると、悲鳴を上げて飛び退いた。「ネズミ!ネズミがいる……!」征士郎は、自分の手にしがみつく彼女の指をゆっくりと引き剥がした。「連れ戻せ」ボディガードたちが琴葉を連れていこうとした。しかし数歩進んだところで、征士郎が再び口を開いた。「……待て。白河家に連絡しろ。彼女を地下室に戻す必要はない。もう終わりだ」彼はもう疲れていた。琴葉への復讐も、過去への執着も――もうすべて終わりにしようと思った。家へ戻ると、紗月が眠っていたベッドに横になる。そこにはまだ、かすかに彼女の気配が残っているような気がした。胸の奥が締めつけられ、征士郎は彼女が残していったものに、一つ一つ指先で触れていった。そのとき、一冊の分厚い日記帳が目に入った。彼はそれを手に取り、震える指で開いた。中から、色褪せた一枚の写真が床へ落ちる。拾い上げてみると、そこに写っていたのは10年前の自分だった。写真の裏には、整った可愛らしい字でこう書かれている。【征士郎♡サツキ】征士郎はその写真を大切そうにしまうと、紗月の日記を読み始めた。そこに綴られた一行一行を目で追ううちに、堪えていた涙が頬を伝っていく。そして、ようやく思い知った。自分にはもう、「ごめん」と言う資格さえないのだと。……白河家。
朔弥の言葉を聞いた征士郎は、低い声で礼を告げると、急いで紗月のもとへ向かった。その頃、紗月は裁判所の入口で、訴えの取下げに必要な手続きをしている朔弥を待っていた。彼女は何度も、薬指にはめた指輪を指先でなぞっていた。そのとき突然、人影が目の前に現れ、彼女を強く抱き締めた。紗月の瞳が揺れる。振り上げかけた手は、ゆっくりと下ろされた。「清野さん、何をしていますか?離して」「最後に一度だけ、俺と一緒に来てくれないか」そう言うと、征士郎はすぐに腕の力を緩め、彼女から離れた。紗月は驚いたように征士郎を見つめた。「どこへ?」「月影邸へ。最後に一度だけ、来てくれないか」征士郎は静かに答えた。紗月はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。「……これで最後ですよ」そう告げると、紗月は自分の足で車へ向かい、静かに乗り込んだ。武陽が裁判所の中から駆け出してきたときには、すでに車は遠ざかっていた。自分だけ置き去りにされた彼は、何とも情けない顔でその後ろ姿を見送る。その背後から、朔弥がゆっくりと歩いてきた。征士郎の車が遠ざかっていくのを見届けると、朔弥は銀縁の眼鏡を外し、ポケットにしまった。――そろそろ、俺もここを離れるときだ。……征士郎のスポーツカーが月影邸前に停まった。紗月は何度も朔弥に電話をかけたが、しばらくして一通のメッセージが届いた。【今は君自身の気持ちと向き合ってほしい。落ち着いたら、また話そう】「家に着いたぞ」運転席の征士郎は、喜びを隠しきれない様子だった。紗月はスマホを置き、目の前の見慣れた場所を眺める。家――かつては自分も、ここをそう思っていた。けれど今改めて見ると、ひどく見知らぬ場所のように感じられた。征士郎はすでに反対側へ回り込み、助手席のドアを開けていた。「おかえり、紗月」静かな声で告げられたその言葉に、紗月は一瞬、現実感を失った。ずっと待っていた言葉だった。4年間、ただその一言を聞きたかった。紗月の唇がわずかに開く。「……征士郎」その呼び方を耳にした瞬間、征士郎は喉を詰まらせるように息をのみ、彼女を強く抱き締めた。紗月はその肩に顔を預ける。涙が、知らず知らずのうちに頬を伝っていった。「私たち……離婚しよう」静かな声だった。
Ulasan-ulasan