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さよなら、十年越しの初恋

さよなら、十年越しの初恋

Oleh:  むつきTamat
Bahasa: Japanese
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霞野市の空には黒い雲が幾重にも立ち込め、やがて前触れもなく激しい雨が降り出した。 清野紗月(せいの さつき)はバスの座席に座り、窓ガラスを伝って流れ落ちていく雨粒をぼんやりと眺めていた。 先ほど医師から告げられた言葉が、いつまでも頭から離れなかった。 脳腫瘍の末期。余命は、長くてもあと3か月―― 紗月はいつもの番号を呼び出し、電話をかけた。 しばらくすると、受話口からよく通る低い声が聞こえてきた。耳に心地よい響きとは裏腹に、その口調はひどく冷ややかだった。「何か用か?」 紗月は診断書を握りしめ、無理やり口元に笑みを浮かべた。「ううん。ただ、今日は帰ってきて、少し一緒にいてくれないかなって思って」 「何度も言っただろ。用もないのに電話してくるな」 電話越しに、清野征士郎(せいの せいしろう)の苛立った声が聞こえてくる。 その背後からは、女の甘ったるい声に混じって微かな吐息まで聞こえ、紗月の胸は不意に締めつけられた。 スマホを握る指先が白くなるほど力を込めながら、彼女は呆然としたまま答えた。「ごめん。邪魔しちゃったね」 その直後、電話は一方的に切られ、耳元には無機質な切断音だけが残った。 それでも紗月は、なかなかスマホを耳から離すことができなかった。 窓ガラスに映る自分の顔には、いつの間にか幾筋もの涙が流れていた。 征士郎が自分を愛していないことなど、紗月はとうに分かっていた。 彼の周りから女の影が絶えたことなど、一度もない。それもすべて、嫌というほど分かっていた。 ただ、真実を突きつける勇気がなかっただけだ。 自分が臆病なのは認めている。 すべてを暴いてしまえば、自分に残されたわずか3か月の結婚生活さえ、守れなくなってしまうのが怖かった。

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Bab 1

第1話

月影邸。

紗月は6時になる前から食卓いっぱいに料理を用意し、それからはごく普通の夫婦のように、静かに夫の帰りを待っていた。

征士郎は潔癖症で、他人が家に出入りすることを嫌っていたため、使用人を雇っていなかった。そのため、家のことは大小を問わず、すべて紗月が自分でこなしていた。

屋敷に置かれたヨーロッパ風の置き時計が時を刻むなか、時間だけが静かに過ぎていった。

やがてテーブルに並べた料理はすっかり冷めきり、それにつれて紗月の心まで冷えていった。

彼女はソファに横たわり、半分眠りかけたような状態で、うとうとしていた。

ここ数日、体にはまるで力が入らず、ひどく眠気を感じるようになっていた。それなのに眠りは浅く、眠るたびに、さまざまな奇妙な夢を見るようになっていた。

突然、体にずしりと重みがかかった。

胸元を押さえつけられた紗月は、驚いて勢いよく目を覚ました。一瞬、目の前が真っ暗になったものの、ほどなくして視界は元に戻った。

すぐ目の前には、男の冷ややかで端正な顔があった。その整った顔立ちの一つひとつを、はっきりと目でなぞれるほどの近さだった。

その顔を見つめながら、紗月はふと気づいた。かつて優しく穏やかだったあの青年は、いつの間にか落ち着きをまとった大人の男へと変わっていたのだ。

鼻の奥がつんとし、紗月は青ざめた唇をわずかに開いた。「あなた……」

男の瞳には何の感情も浮かんでいなかった。征士郎は大きな手で彼女の頬を乱暴につかむと、そのまま熱く荒々しい口づけを押しつけた。

「んっ……」彼の口から漂う強烈な酒の匂いに、紗月は激しい吐き気を覚えた。

目尻に涙を滲ませながらも、彼を押しのける勇気はなかった。

胸の奥には、無数の針で刺されているような痛みが広がり、彼女は掠れた声を絞り出した。「やめて……」

他の女に触れたあとで、自分に触れられるのが嫌だった。

「やめて、だと?」

征士郎は容赦なく大きな手を紗月の服の中へ滑り込ませた。

全身から濃い酒の匂いを漂わせながら、冷たく言い放つ。「昔、恥も知らずに俺のベッドに潜り込んできたときは、どうして『やめて』と言わなかった?」

その言葉を聞いた途端、紗月は抵抗するのをやめた。

澄んでいた瞳から光が消え、まるで淀んだ水のように何の感情も映さなくなった。

征士郎は、自分の下で死んだ魚のように微動だにしなくなった女を見ると、一気に興が冷めた。彼女を乱暴に突き放し、そのまま浴室へ向かった。

紗月は冷たい床へ投げ出された。浴室から響いてくるシャワーの音を聞きながら、目尻から涙がゆっくりと伝い落ちていった。

征士郎を好きになったのは、まだ恋というものを知り始めたばかりの頃だった。数えてみれば、あれからもう10年になる。当時まだ幼かった少女も、今ではすっかり大人になった。

けれど今の彼は、もうあの頃の優しく穏やかな「征士郎さん」ではなかった。

4年前、本来なら征士郎と結婚するはずだったのは、紗月の従妹である白河琴葉(しらかわ ことは)だった。

ところが紗月は何者かに嵌められ、征士郎のベッドに送り込まれてしまった。

琴葉は腹を立てて彼のもとを去り、再び戻ってきたときには、すでに別の男と結婚していた。

紗月は覚えていた。前に征士郎が自分に乱暴を働いたのは、琴葉が結婚したと知ったときだった。では、今回はいったい何があったのだろう。

やがて浴室から聞こえていたシャワーの音がぴたりと止んだ。

紗月は服を整えてソファに座り、いつものように彼のために白湯を用意した。

バスローブをまとった征士郎が浴室から出てきた。その暗い瞳はテーブルに置かれた白湯へ向けられ、やがて紗月の顔へと移った。

そして、低く重い声で告げた。「彼女が離婚した」

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あーきよいち
あーきよいち
時間を忘れて読みました。 年齢差、沙月さんの年齢を知ったときは衝撃そのもの。 そんなに若かったの!?と。 優しかった沙月さんだからこそここまでですんだんだろうな、と。
2026-09-27 08:17:43
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松坂 美枝
松坂 美枝
めちゃくちゃハラハラしながら読んだ〜 途中から武陽くんがギャグキャラとして笑わせてくれてありがたかった。 作者さんもどっちとくっつかせるべきか悩んだのかなと思った これで元鞘になったらあまりにも報われないもんなあ 珍しく誰も死ななかった
2026-09-26 12:49:19
4
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しょう
しょう
長かった~ クズ男がもう洒落になんないくらいクズで、ヒロインの尊厳破壊に性的虐待が酷く読んでて辛かった… 26歳で8歳年下の少女と一夜の過ちを犯して、よくまあ18歳の子だけに責任をすべて負わせたもんだよ。年齢差知った段階で吐きそうになった。マジにクズ男、生きてるだけで害悪じゃん? 弁護士先生が報われなかったら、読んだ時間返して~って叫ぶとこだったわ。
2026-09-26 13:51:37
5
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45 Bab
第1話
月影邸。紗月は6時になる前から食卓いっぱいに料理を用意し、それからはごく普通の夫婦のように、静かに夫の帰りを待っていた。征士郎は潔癖症で、他人が家に出入りすることを嫌っていたため、使用人を雇っていなかった。そのため、家のことは大小を問わず、すべて紗月が自分でこなしていた。屋敷に置かれたヨーロッパ風の置き時計が時を刻むなか、時間だけが静かに過ぎていった。やがてテーブルに並べた料理はすっかり冷めきり、それにつれて紗月の心まで冷えていった。彼女はソファに横たわり、半分眠りかけたような状態で、うとうとしていた。ここ数日、体にはまるで力が入らず、ひどく眠気を感じるようになっていた。それなのに眠りは浅く、眠るたびに、さまざまな奇妙な夢を見るようになっていた。突然、体にずしりと重みがかかった。胸元を押さえつけられた紗月は、驚いて勢いよく目を覚ました。一瞬、目の前が真っ暗になったものの、ほどなくして視界は元に戻った。すぐ目の前には、男の冷ややかで端正な顔があった。その整った顔立ちの一つひとつを、はっきりと目でなぞれるほどの近さだった。その顔を見つめながら、紗月はふと気づいた。かつて優しく穏やかだったあの青年は、いつの間にか落ち着きをまとった大人の男へと変わっていたのだ。鼻の奥がつんとし、紗月は青ざめた唇をわずかに開いた。「あなた……」男の瞳には何の感情も浮かんでいなかった。征士郎は大きな手で彼女の頬を乱暴につかむと、そのまま熱く荒々しい口づけを押しつけた。「んっ……」彼の口から漂う強烈な酒の匂いに、紗月は激しい吐き気を覚えた。目尻に涙を滲ませながらも、彼を押しのける勇気はなかった。胸の奥には、無数の針で刺されているような痛みが広がり、彼女は掠れた声を絞り出した。「やめて……」他の女に触れたあとで、自分に触れられるのが嫌だった。「やめて、だと?」征士郎は容赦なく大きな手を紗月の服の中へ滑り込ませた。全身から濃い酒の匂いを漂わせながら、冷たく言い放つ。「昔、恥も知らずに俺のベッドに潜り込んできたときは、どうして『やめて』と言わなかった?」その言葉を聞いた途端、紗月は抵抗するのをやめた。澄んでいた瞳から光が消え、まるで淀んだ水のように何の感情も映さなくなった。征士郎は、自分の下で死んだ魚のように微動だ
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第2話
紗月は胸を突かれたような衝撃を受け、膝の上に置いていた手をゆっくりと握りしめた。琴葉が離婚した――?「どうすればいいか、分かっているだろう」征士郎は服を着替えて身なりを整えると、彼女の前までやって来て、冷淡な声で言った。紗月はゆっくりと顔を上げ、彼をじっと見つめた。その瞳に浮かぶ悲しみは、どうしても隠しきれない。「私と……離婚したいの?」悲痛に満ちたその眼差しが、まるで針のように征士郎の胸へ何度も突き刺さった。胸の奥に重苦しさを覚えながらも、彼の冷ややかな顔に浮かんだのは苛立ちだった。「俺は琴葉に償わなければならない」紗月の澄んだ瞳から、すべての光が消えた。強く握りしめた手のひらには爪が食い込み、ゆっくりと血が滲んでいった。「じゃあ……私は?」私には、何も償うことはないの?「離婚するなら、十分な財産分与はする。それ以上のことは望まないほうがいい」征士郎は冷たく言い捨て、背を向けて立ち去ろうとした。しかし紗月は、とっさに彼の袖をつかんだ。「離婚してもいい。その代わり、一つだけお願いを聞いてほしいの。3か月だけ、私のために芝居をして。私を愛している夫を演じてほしいの。普通の夫婦みたいに手をつないで、抱きしめて……私を愛して」最後の「愛して」という言葉はあまりにも小さく、ほとんど聞き取れないほどだった。それでも征士郎の耳には、一言も漏らさず届いていた。途端に胸の奥から激しい嫌悪感が込み上げてきた。「お前は本当に救いようがないな!結婚するときにも言ったはずだ。俺は一生、お前を愛することなんてない」――「俺は一生、お前を愛することなんてない」征士郎が去ったあと、紗月の胃が激しくせり上がった。体の苦痛と、胸を引き裂かれるような痛みが一気に押し寄せ、彼女は広いリビングで、その場に泣き崩れた。赤や緑の錠剤をいくつもまとめて飲み込んだ。頭はひどくぼんやりとし、涙で目の前の景色さえ滲んで見えなくなっていった。……紗月は雨の日が嫌いだった。それなのに霞野という街では、ひとたび雨が降り始めると半月近く降り続くことも珍しくない。オフィスには近藤朔弥(こんどう さくや)がキーボードを叩く音だけが響いていた。やがてその手が止まり、彼は真剣な表情で尋ねた。「本当に雨宮グループを清野征士郎に任せる
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第3話
その夜、紗月は広いベッドに横たわっていた。頭の奥では、鈍い痛みがずっと続いていた。やがて長身の男が部屋へ入ってくると、布団をめくり、彼女の体を乱暴に押さえつけた。「近藤のやつと病院で何をしていた?」征士郎の声には、詰問するような響きがあった。大きな手が乱暴に体を這い回り、紗月はかすかに身を震わせると、不快そうにその手をどけた。征士郎は眉をひそめ、次の瞬間には体勢を変えて彼女の手首を押さえつけ、冷ややかに見下ろした。「ずいぶん偉くなったな。俺を拒むつもりか?」紗月は目の前がぼやけていくのを感じた。手首に走る痛みに耐えながら、低い声で訴えた。「あなた……私、具合が悪いの」しばらくして、ようやく視界がはっきりしてきた。紗月の胸に恐怖が込み上げた。――もうすぐ、目まで見えなくなってしまうのだろうか。しかし征士郎は、焦点の定まらない彼女の眼差しを見ても、それを誘っているのだとしか思わなかった。目に嘲りを浮かべ、冷たく言う。「どこが具合悪いんだ? 近藤じゃ満足できなかったのか?」「違う……んっ……」紗月が説明する暇もなく、征士郎は彼女に容赦ない仕打ちを加えた。すべてが終わったあと、紗月は口の中いっぱいに鉄のような味が広がるのを感じた。ベッドにうつ伏せになり、口元から滲んだ鮮血を枕に隠した。征士郎は彼女から離れて立ち上がった。きちんと身につけていた服は、ほとんど乱れてすらいなかった。ベッドの上で力なく横たわる女を冷たく見下ろすと、ひどく興ざめした様子で言い放った。「覚えておけ。どこの馬の骨とも分からない男と付き合うな」紗月は力なくベッドに横たわったまま、今日、征士郎が琴葉を心配していた姿を思い出し、胸の奥に鋭い痛みを覚えた。自分は人生で一番輝いていた時期のすべてを彼に捧げ、これまで一度たりとも、他の男性と一線を越えたことなどない。それなのに征士郎は女遊びを繰り返し、そばには数え切れないほどの女がいた。それでも最後に不倫を疑われるのは、自分なのだ。……翌朝。普段は誰も訪れることのない広いリビングに、初めて客がやって来た。「お姉ちゃん。征士郎さんと離婚してくれるなら、あのときのことはもう責めないでいてあげる」ソファに座る琴葉は、今も変わらず美しいままだった。一方の紗月は顔色が青白く、かつての華
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第4話
紗月が声のしたほうへ目を向けると、廊下にはこめかみに白髪の混じった老人が立っており、その慈愛に満ちた眼差しを彼女へ向けていた。紗月は鼻の奥がつんと痛み、青ざめた唇をわずかに開いた。「おじいさま……」「辛い思いをさせたな」清野宗一郎(せいの そういちろう)は心から労わるような口調で言った。紗月は喉が塞がったような感覚に襲われ、何も言えなかった。かつて雨宮家のお嬢様として何不自由なく暮らしていた頃の彼女は、涙を流すことさえほとんどなく、「辛い」とか「悔しい」といった思いとは無縁だった。それなのに今は、自ら愛する人を選んだ末に、あらゆる苦しみを味わい、数え切れないほど傷ついてきた。そしていつしか、傷つくことさえ当たり前になってしまっていた。その後、宗一郎は征士郎をひとしきり叱りつけた。離婚した女に惑わされ、自分を一途に愛し、何の見返りも求めずについてきた妻を責めるなど言語道断だ、と。さらに宗一郎は、今回の事故について徹底的に調べさせた。その結果、事故は最初から最後まで琴葉が仕組んだ自作自演だったことが判明した。彼女はわざと雨宮グループの社用車を利用して事故を起こし、すべての罪を紗月になすりつけようとしていたのだ。真相を知っても、征士郎は何も言わなかった。紗月は征士郎という男をよく知っている。琴葉が事故を仕組んだことを事前に知らなかったとしても、真相を知った今でさえ、彼は何も言わず琴葉を庇うことを選んだ。琴葉の言ったことは正しかった。征士郎は、本当に愛している女には決して辛い思いをさせない。紗月の胸に、言いようのない苦さが広がった。……それから1週間、征士郎は一度も家へ帰ってこなかった。紗月は病院で抗がん剤治療を受けていた。朔弥はずっとそばに付き添い、彼女の美しい髪が切り落とされ、床へ落ちていくのを見つめながら、その瞳に悲しげな色を浮かべていた。「私……すごく不細工になった?」枕にもたれた紗月が尋ねると、朔弥は優しく答えた。「君は誰よりもきれいだよ」その優しい言葉に、紗月の瞳に一瞬だけ光が宿ったものの、すぐに消えてしまった。「朔弥さん、ウィッグを買ってきてもらってもいい?できれば、前の私の髪と同じようなものがいいな」今の変わり果てた姿を、征士郎には見られたくなかった。「分かった」
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第5話
鮮やかな赤が目に飛び込んだ瞬間、征士郎は強い衝撃を受けた。彼は紗月を抱き上げ、瞳に一瞬、動揺の色を浮かべた。「どうした?」その一瞬の変化を見た紗月は、心の奥深くに凍りついていた氷がわずかに溶けていったのを感じた。無理に笑みを浮かべた。「これ、わざと用意しておいた血糊なの……あなたも私のこと、心配してくれるんでしょう?」紗月が何事もなかったように口元を拭うのを見て、騙されたと知った征士郎の胸に一気に怒りがこみ上げた。「俺の気を引くためなら、本当に手段を選ばないんだな!」こんな計算高い女を、たった今、本気で心配してしまった自分が馬鹿らしい。そう思うと、征士郎は上着を手に取って羽織り、容赦なくその場を立ち去った。紗月は遠ざかっていく彼の背中を見つめながら、洗面台に手をつき、どうにか立っていた。自分でも信じられなかった。あんな見え透いた嘘を、彼はあっさり信じたのだ。その背中が次第に遠ざかるにつれ、紗月の瞳からも光が消えていった。涙なのか血なのか分からないものが視界を曇らせ、目の前に薄い靄がかかった。今にも崩れ落ちそうな体を必死に支えながら、彼女は最後に残った生への執念だけを頼りに朔弥に電話をかけた。「……朔弥さん、助けて」……朔弥が駆けつけ、紗月を連れて病院へ向かう車の中。彼女は完全に視力を失っていた。助手席に座る彼女の両目は虚ろで、何も捉えてはいなかった。隣にいる朔弥が彼女の手を握った。「世界でも指折りの脳外科医にはもう連絡を取った。今すぐ俺と海外へ行こう。必ず治してもらえる」紗月は疲れ切ったようにシートに体を預け、弱々しい声で言った。「あと2か月だけ……待ってくれない?」その美しい瞳には、深い悲しみが滲んでいた。「どうしても最後までやり遂げたいことがあるの。2か月経ったら、朔弥さんと一緒に海外へ行くから」痩せ細った彼女を見つめ、朔弥は怒りを滲ませた。「分かってるのか?2か月も経ったら病状がさらに進行して、手術すらできなくなるかもしれないんだぞ!」紗月は頷き、申し訳なさそうに言った。「これで最後だから。最後に一度だけ、わがままを許して。もう二度と……こんなことはしないから」朔弥は呆然とした。やがて目を赤くして窓の外へ顔を向け、それ以上、何も言えなくなった。数日後、紗月の視力は戻った。た
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第6話
紗月は口元に苦い笑みを浮かべた。「私は署名しないわ。前に出した条件を受け入れてくれない限り……一度でいいから、私を愛して」「紗月、お前さえいなければ、琴葉があんな目に遭うこともなかったんだ!」征士郎の言葉は刃のように鋭く、すでに傷だらけだった紗月の心をさらに深く抉った。彼女は胸に込み上げる悔しさを必死に堪え、征士郎の冷ややかな顔を見つめると、一言一言噛みしめるように問い詰めた。「琴葉に結婚を強いたのは私なの?離婚させたのも私?夫から暴力を受けるよう仕向けたのも私?それとも、私の夫を誘惑するように仕向けたのも私だっていうの!?」紗月がまだ言い終わらないうちに、乾いた音が響いた。征士郎が平手で紗月の頬を容赦なく打ったのだ。手加減など一切なかった。紗月はそのまま床へ倒れ込み、耳の奥で激しい耳鳴りがしていた。まるで世界からすべての音が消えてしまったかのようだった。赤く潤んだ瞳で、信じられない思いのまま彼を見上げた。――この10年間、征士郎が私に手を上げたことなど、一度もなかった。それなのに、初めて私に手を上げた理由が、琴葉だった。征士郎の視線が、紗月の頬にくっきりと残った赤い痕に留まる。その右手が、わずかに震えた。しかし彼は紗月の視線から逃れるように目を逸らし、低い声で告げた。「嫌だと言おうが、拒もうが、この離婚協議書には必ず署名してもらう」そう言い残すと、征士郎は振り返ることなく立ち去った。紗月はふらつきながら床から立ち上がり、溢れそうになる涙を必死にこらえた。そして、誰に聞かせるでもなく呟いた。「琴葉があなたのもとを去ったのは、本当に裏切られたからだと思ってるの?あの子が欲しかったのは権力と地位よ。一度だって心からあなたを愛したことなんてない……どうして、それが分からないの……?」……数日後。テレビでは、征士郎に関するニュースが大々的に報じられていた。「清野グループ社長、愛する女性を守るために動く――このほど、清野グループ社長の清野征士郎氏が、榊原グループの御曹司・榊原雅臣氏の元妻である白河琴葉さんがDV被害を受けていたことを知り、独自に集めた証拠を関係機関に提供していたことが明らかになりました。その後、警察による捜査が進められ、榊原雅臣氏は逮捕されたということです。清野社長と白
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第7話
紗月はずっと、月影邸だけは自分に残された最後の安らぎの場所だと思っていた。けれど、二度目の抗がん剤治療を終えて病院から戻り、リビングにいる琴葉の姿を目にした瞬間、結婚生活に残されていた最後の居場所さえ失われたのだと悟った。「この家具は全部、新しいものに替えて」琴葉が引っ越し業者に指示を出していた。「何も動かさないで」玄関に立った紗月が、冷たい声で制した。琴葉は振り返ると、勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべた。「お姉ちゃん、これからここは私と征士郎さんの家になるの。どう模様替えしようと私の自由よ。お姉ちゃんに口を出す権利はないわ」こんなにも早く、自分のものだと主張し始めた琴葉を見て、紗月は皮肉を込めて言い返した。「今のあなたはまだ征士郎と結婚していないでしょう?征士郎の妻は私よ。愛人のあなたに、私の家で好き勝手に振る舞う資格があるの?」その言葉を聞いた引っ越し業者たちは、何とも言えない表情で琴葉へ視線を向けた。琴葉の顔がさっと青ざめる。「どうせ時間の問題よ」「そこまで断言しないほうがいいんじゃない?あとで恥をかくことになるかもしれないわよ」紗月が嘲るように言うと、琴葉の口元に突然、ぞっとするような笑みが浮かんだ。「そう?だったら、賭けてみましょうか」紗月には、その言葉の意味が分からなかった。次の瞬間、琴葉はテーブルの上に置かれていたフルーツナイフを手に取り、紗月の手をつかむと、ナイフをその手に握らせ、自分の手首を勢いよく切りつけた。紗月は信じられないものを見るように彼女を見つめた。「……あなた、正気なの!?」琴葉はナイフから手を離すと、傷ついた手首を持ち上げ、笑みを浮かべながら紗月を見た。「征士郎さんはもうすぐ帰ってくるわ。どっちを先に心配するか、見てみましょうよ」案の定、ほどなくして背後から足音が聞こえてきた。ガタン、と音を立てて琴葉がナイフを床へ落とした。それと同時に自らも床へ崩れ落ち、大粒の涙を次々とこぼした。「お姉ちゃん……痛い、すごく痛い……」紗月は呆然とその場に立ち尽くしたまま、冷ややかに琴葉の芝居を眺めていた。その瞳には、微かな軽蔑さえ浮かんでいる。自分は雨宮家のお嬢様として育った人間だ。たとえ濡れ衣を着せられようとも、こんな卑劣な真似をするような人間ではなかった。「琴葉!大丈夫
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第8話
紗月は征士郎を深く見つめた。長い沈黙の末、ようやく苦しげに口を開いた。「ただ願っているわ。あなたがこの先の人生で、望むものをすべて手に入れられますように。そして……いつまでも後悔することがありませんように」そう言って離婚協議書に署名すると、彼女は振り返ることなくその場を去った。これですべてが終わった。自分が4年間、大切に守り続けてきた結婚生活も、ずっと心の奥深くにしまい込んできた征士郎への想いも――……紗月は朔弥を巻き込みたくなかった。そのため数日後、グランド・セレスホテルへ行き、征士郎が用意した男を相手に、不倫現場を偽装することを承諾した。結婚していた事実をいつまでも世間に隠し通せるとは限らない。万が一、紗月と征士郎が夫婦だったことをマスコミに報じられれば、琴葉は不倫相手ということになり、世間から激しい非難を浴びることになる。もちろん、紗月が征士郎の要求を受け入れたのは、琴葉のためではない。どうせ自分はもうすぐ死ぬのだ。今さら世間からどう思われようと、何の意味もない。ただ最後に、幸せにはならなかったこの結婚に、自分の手で終止符を打ちたかった。それが良い結末であろうと、悪い結末であろうと。しかし、運命はあまりにも残酷だった。約束の日、紗月の病状が急激に悪化し、突然その場に倒れて意識を失った。意識が消えかけるなか、彼女は手探りでスマホに触れ、連絡先の一番上に表示された名前をタップした。電話がつながると、征士郎の冷たい声が聞こえてくる。「どこにいるんだ?くだらない真似はするなよ。俺が言ったことは必ず実行する人間だと、お前も分かっているだろう」紗月は、もう行けないのだと伝えたかった。けれど、どれほど声を出そうとしても、喉からは何の音も出なかった。震える指先で画面に表示された名前に触れる。――【何よりも手放したくない幸せ】。視界はすでにぼやけ、何も見えなくなりつつあった。……3日後。紗月は一命を取り留めた。目を覚ました彼女のそばには、朔弥のほかに、長い間会っていなかったもう一人の人物がいた。――月岡栞奈(つきおか かんな)。紗月の二卵性双生児の姉だった。雨宮家と月岡家は代々親しい間柄で、月岡家の夫婦には子供がいなかった。ちょうどその頃、紗月の両親に双子の娘が生まれたため、
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第9話
宴会場は、一瞬にして水を打ったように静まり返った。琴葉が倒れ込んだ拍子に、近くのテーブルまで倒れ、グラスや食器が次々と床へ落ちて砕け散った。突然の出来事に驚いた人々は一斉にこちらへ視線を向けた。――あれは清野社長の幼なじみではなかったか?なぜ月岡家の娘に殴られて床に倒れているんだ?「あなたに紗月を『お姉ちゃん』と呼ぶ資格なんてない!よく覚えておきなさい。今日限りで、雨宮家と白河家は一切の縁を切るわ」栞奈は、はっきりと「雨宮家」と口にした。彼女自身もまた、紛れもなく雨宮家の血を引く人間なのだから。そのとき、少し離れたところから征士郎が人混みをかき分けて現れ、倒れていた琴葉を抱き起こした。琴葉はその胸にすがりつき、泣きながら訴える。「征士郎さん……あの人が私を叩いたの」征士郎の鋭い視線が栞奈へ向けられるのを見て、紗月は心配になり、栞奈の手をそっと引いた。すると栞奈はその手を逆に強く握り返し、その場にいる全員を見渡した。「この私が、ここではっきり宣言しておくわ。今後、月岡家と清野家は敵対する関係になる。清野家と手を組む者は、すべて月岡家の敵と見なす」栞奈はすでに月岡家の全事業を引き継いでいた。これほど強気な言葉を口にする以上、征士郎と真っ向から渡り合う覚悟も実力も備えている。誰もが、まさかこのような展開になるとは予想していなかった。清野家も月岡家も、どちらも容易に敵に回せる相手ではない。会場にいる者たちは口を閉ざし、誰一人として軽々しく動こうとはしなかった。やがて栞奈は征士郎へ視線を向け、意味ありげに言い放った。「清野社長、せいぜいその女を大切に守ってあげることね。できることなら、一瞬たりとも目を離さないほうがいいわよ――」征士郎は琴葉を抱いたまま、栞奈の背後に立つ紗月へ目を向けた。二人の視線が重なる。しかし、どちらも何も言わなかった。琴葉は征士郎の視線に気づくと、瞳に一瞬、動揺の色を浮かべ、急いで彼の手をつかんだ。「征士郎さん……」征士郎は我に返り、淡々と彼女へ視線を戻した。「余計な揉め事を起こすな」琴葉は呆然とした。少し離れた場所にいた紗月も、その言葉には疑問を覚えた。――征士郎は琴葉を庇わなかった。この上流社会において、征士郎ほどの男が口にする一言は重い。今の一言だけで、今後
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第10話
バルコニーに、冷たい風が吹き抜けた。骨ばかりが目立つほど痩せ細った紗月の手が、ほんのわずかに動いた。本当に、ただ一度だけ。このとき初めて、紗月は征士郎という男を心の底から残酷な人だと思った。体を傷つけるよりも、心を抉るほうがよほど残酷だ。彼はいったい、どれほど自分のことをどうでもいいと思っているのだろう。自分が彼を心から愛していると知っていながら、こうして平然と目の前に現れ、別の女と結婚すると告げられるほどに――「来週の月曜日、琴葉のために盛大な結婚式を挙げる。お前があのとき犯した罪を、これで償うつもりだ」征士郎は紗月の前まで歩み寄ると、結婚式の招待状を無造作に彼女の膝元へ投げた。紗月は膝の上に落ちた招待状を見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。征士郎を見つめる瞳が、かすかに震える。「罪……?私が人生で犯した一番大きな罪は……あなたを愛したことよ」これまでの人生、誰に対しても恥じるようなことはしてこなかった。ただ一人、自分自身にだけは、あまりにも酷いことをしてしまった。征士郎はさらに眉間の皺を深くし、瞳に嫌悪の色を滲ませた。「本当に、自分に都合のいい理由を見つけるのだけは上手いな」そう言ったあと、彼の視線は紗月のひどく痩せ細った体に向けられ、ほんの一瞬、そこに留まった。しかしすぐに、以前、彼女が自分の気を引くために血糊まで用意したことを思い出す。征士郎は容赦なく嘲笑した。「そんな惨めな姿を見せれば、俺が同情するとでも思ったのか?そんなに痩せこけて、まるで幽霊みたいな姿になって……誰がお前なんか好きになるんだ?」その言葉を聞き、紗月の喉がひどく苦しくなった。それでも無理に笑みを浮かべる。「誰かに好かれたいなんて思ってないわ」「だったら、なぜ俺に『自分を愛する夫を演じてほしい』なんて頼んだ?普通の夫婦みたいに手をつないで、抱きしめて、愛してほしいって言っただろう?」征士郎は、彼女の心の最も痛いところを抉らなければ気が済まないかのようだった。紗月はその無情な顔を見つめ、青白い唇をわずかに開いた。――だって、あなたが好きだから。そう言いたかった。けれど、喉元まで出かかった言葉を無理やり飲み込むと、ただ淡々と答えた。「ただ何となく言っただけよ。別に理由なんてないわ」ほんの数言交わしただけで
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