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第31話

雫は征士郎がいつまで経っても自分に目を向けようとしないのを見て、彼のそばまで歩み寄り、白く細い手を差し出した。「征士郎さん、はじめまして」征士郎は冷ややかに彼女を見た。「俺がどんな男か知ってるか?」「え?」雫が戸惑ったその瞬間、征士郎は突然一歩距離を詰め、彼女を見据えながら一言ずつ告げた。「俺には妻がいる。別の女のために、自分の妻を死ぬところまで追い詰めた。そして結局、その女も捨てた。それから、世間には知られていないが――俺は人を痛めつけるのが好きなんだ」雫は信じられないという顔で彼を見つめ、瞳を揺らした。男の眼差しは刃のように鋭く、彼女の目にはたちまち涙が浮かぶ。征士郎についての悪評は、自分も以前からネットで目にしていた。ただ兄からは、あれはすべて事実無根で、征士郎の妻は病気で亡くなっただけだと聞かされていたのだ。「馬鹿者、何をでたらめなことを言っている!雫、怖がらなくていい。こいつはお前を脅かしているだけだ」宗一郎が慌てて取り繕った。ところが征士郎はさらに雫へ近づき、意地の悪い笑みを浮かべると、長い指でシャツのボタンを外し始めた。「試してみるか、榊原さん?」雫はそのあまりにも不埒な振る舞いを目にし、以前報道されていた「夜中に女性に迫って警察に連行された」という一件を思い出した。恐怖に駆られ、そのまま病室から逃げ出していく。こんな男とは絶対に結婚したくない。この人は狂っている。とんでもない男だ。征士郎は逃げていく彼女を見送りながら、外したシャツのボタンを留め直し、ぽつりと呟いた。「おじいちゃん、ほらな。こんな俺を本気で好きになってくれたのは、紗月くらいなんだ」宗一郎は信じられない思いで征士郎を見つめた。これは本当に自分の孫なのか。紗月が生きていると征士郎から聞いたとき、きっと以前の征士郎に戻ってくれると思っていた。だが今の姿を見る限り、立ち直るどころか、人間そのものがすっかり変わってしまっている。かつての征士郎は落ち着きがあり、感情を表に出さない男だった。周囲にいくら女が寄ってきても、誰か一人のために取り乱したことなど一度もなかった。だが、今は違う。世間からどれほど悪しざまに罵られようと気にも留めず、まともに生きようとさえしなくなってしまった。「征士郎、少しは清野家
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第32話

紗月は征士郎が全体重を預けるようにのしかかってくるのを感じ、力いっぱい押し返した。だが征士郎は離れるどころか、彼女を抱き上げ、そのままソファへ押し倒した。次の瞬間、彼の唇が乱暴に紗月の唇を塞いだ。鼻をつくほどの酒臭さに、紗月は思わず顔を背けようとする。それでも征士郎は離れようとしなかった。恐怖と怒りで目に涙を浮かべた紗月は、手を振り上げ、征士郎の頬を思いきり叩いた。パシン、と鋭い音が響いた。頬に走った痛みに、征士郎の酔いがいくらか醒める。だが、目の前にいる紗月が現実なのか確かめる間もなく、今度は冷たい水を頭から浴びせられた。「この最低男!」紗月は乱れた服を急いで整えながら、征士郎から距離を取った。その瞬間、征士郎の酔いは完全に吹き飛んだ。顔から水を滴らせながら、少し離れたところに立つ紗月を見つめる。夢じゃない。幻でもない。本当に彼女だ。本当に、紗月が目の前にいる。征士郎の目がたちまち赤く染まった。彼は立ち上がり、紗月へ歩み寄る。紗月は一歩、また一歩と後ずさりし、とうとう壁際まで追い詰められた。「清野さん、いったい何がしたいのですか?どうして私をここへ連れてきたのですか?」征士郎と最後に会ったあの日、紗月は途中で意識を失い、その後、目を覚ますと朔弥と一緒に引っ越した。征士郎が原因なのだろうと分かっていたため、朔弥に理由を尋ねることもしなかった。それからしばらくは穏やかな日々が続いていた。ところが一昨日、宗一郎の手の者が突然家へ押し入り、紗月をここまで無理やり連れてきたのだ。屋敷の中には、至るところに自分の写真が飾られていた。そして夜になり、酔った征士郎が帰ってきたことで、ようやくここが彼の家なのだと知った。征士郎は警戒心を露わにする彼女を見つめ、その言葉を聞いて胸を痛めた。やはり彼女はまだ自分を思い出していない。自分から帰ってきたわけでもなかった。「紗月……」口を開いた途端、紗月に遮られた。「雨宮さんと呼んでください」紗月は見知らぬ相手からそんな親しげな呼び方をされるのが嫌だった。ましてや、征士郎にそう呼ばれるのはもっと嫌だった。まだ口の中に酒の味が残っている気がして、紗月は力を込めて唇を拭った。昔の自分は、いったいどうしてこんな酒浸りの
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第33話

屋敷の中。紗月が階下まで下りてくるのを待ってから、征士郎は玄関のドアを開けようとした。ところが、ドアはびくともしない。力を込めて引いてみても、びくともしない。何度暗証番号を入力しても、すべてエラーになる。玄関の暗証番号が変更されている。それどころか、顔認証の登録情報まで変更されていた。征士郎の顔が見る見る険しくなった。「どうやら、俺たちをここから出す気はないらしい」彼は振り返り、紗月に言った。考えるまでもなく、祖父の仕業だろう。いい歳をして、やることがあまりにも子供じみている。紗月はそれを聞いて、わずかに唇を開いた。「見れば分かります」自分の家の暗証番号すら分からず困っている征士郎の姿くらい、彼女にもちゃんと見えている。征士郎はスマホを取り出し、武陽に電話をかけた。すると、武陽がわざとらしい声で応じた。「あー……すみません、こっち、電波が悪くて……」そのまま通話は切れた。征士郎はスマホを強く握りしめた。あの武陽め。ずいぶんいい度胸をするようになったものだ。征士郎は紗月を見る。「腹、減ってないか?」紗月は首を横に振ると、彼に向かって手を差し出した。「どうした?」征士郎にはその意味が分からなかった。「スマホを貸してもらえませんか?朔弥に電話したいんです。こんなに長い間、突然いなくなっているんだから、きっと心配していると思うので」征士郎の目がすっと冷えた。今からスマホを壊しても、まだ間に合うだろうか。「本当に、お前をここへ連れてきたのは俺じゃない」彼は話をそらすことにした。紗月はまっすぐ彼を見つめる。「つまり、スマホは貸してくれないんですか?」征士郎は仕方なくスマホを差し出した。それから鼻の頭を軽く掻きながら、どこか気まずそうに言う。「暗証番号は……お前の誕生日だ」紗月は「ええ」とだけ答え、少し離れたところへ行って朔弥に電話をかけた。征士郎もそちらへ向かおうとしたが、ふと、花瓶の陰に不自然な小型カメラが仕掛けられていることに気づいた。彼の瞳が鋭く細められる。征士郎はそこへ歩み寄ると、本を一冊手に取り、小型カメラの前に立てかけてレンズを塞いだ。一方、清野家本邸では――「古沢君、どうして何も見えなくなったんだ?」宗一郎は老眼鏡をかけたまま尋ねた。武陽が近づい
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第34話

キッチンに立つ征士郎の動きが、わずかに止まった。紗月が近づき、代わろうとしたが、彼はそれを制した。「あと30分だけくれ」朝食くらい、自分にだって作れるはずだ。紗月も「そこまで言うなら」と、それ以上止めなかった。大企業の社長だった人が自ら作った料理を食べる機会など、そうそうあるものではない。30分後。征士郎がようやく運んできたのは、具も何もない、ただ茹でただけの麺と、見るも無残な目玉焼きだった。「見た目はいまいちだけど、味は……たぶん大丈夫だ」征士郎はどこか落ち着かない様子で言った。生まれてこのかた、料理はおろか包丁すらまともに握ったことがなかった。結婚後、家には使用人を置いていなかったものの、紗月が料理をしていたため、征士郎も、家に帰って紗月の料理を食べるのは嫌いではなかった。当時の征士郎は、食事が用意されていることを当たり前のように受け止めていた。料理にどれほど手間がかかるかなど、考えたことさえなかった。けれど、いざ自分でやってみて初めて分かった。紗月は4年間、こんなことを毎日のように繰り返していたのだ。「じゃあ、いただきます」紗月もちょうどお腹が空いていた。麺を一口食べてみる。塩気はほとんどなかったが、一応は火が通っている。食べられないほどではない。彼女が嫌がらずに食べているのを見て、征士郎は牛乳を一杯注いで差し出した。紗月はその牛乳を見ると、軽く手を振った。「私、牛乳は飲めないんです。乳糖不耐症なので」その言葉に、征士郎の胸がかすかに疼いた。4年も一緒に暮らしていたのに、そんなことさえ知らなかった。彼は黙って牛乳を自分のほうへ引き寄せた。「……覚えておく」そう言うと、白いシャツの袖を再びまくり、コップを洗い始めた。紗月は忙しく動き回る彼を黙って見つめていた。明らかに、こんなことをした経験などない。それなのに、どうしてわざわざ無理をしてまでやろうとするのだろう。「朝ごはん、ありがとうございました。洗い物は私がします」紗月はそう言って彼のそばへ行き、代わろうとした。人に何かしてもらったままなのは落ち着かない。すると、征士郎が彼女の手を掴んだ。紗月は反射的にさっと手を引く。――この人、どうしてすぐ人に触ろうとするんだろう。警戒する彼女の姿に征士郎の胸は痛んだが、そ
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第35話

リビングで、紗月はにべもなく断られ、仕方なくソファへ戻った。ついさっきまでは、征士郎もネットで書かれているほどひどい人ではないのかもしれないと思っていた。だが、どうやら違ったらしい。もしかすると、何もかも彼の自作自演で、自分をこの邸宅に閉じ込めるために仕組んだことなのかもしれない。いったい何を考えているのだろう。「清野さん、もう一度言っておきますけど、私には婚約者がいます。それに、私と清野さんの関係はもう終わっています」「……分かった」征士郎は淡々と答えた。紗月は、何を言ってもまるで響いていないのだと、深いため息をついた。深く息をつき、ソファに座ったまま落ち着かずにいると、下腹部がじわじわと痛み始めた。けれど、生理が来たなどと彼に言うのも気まずい。それにしても妙だった。以前は生理が来ても、こんなふうに痛むことなどなかったのに。征士郎は彼女の異変に気づき、すぐに近づいてきた。「どうした?どこか具合が悪いのか?」「……お腹が。その……生理が来たみたいで」紗月は恥ずかしそうに答えた。すると征士郎は、彼女の顔色を確かめるように覗き込んだ。「歩けるか?」「大丈夫です」と答えたものの、紗月が立ち上がろうとした途端、下腹部に痛みが走り、思わず顔をしかめた。征士郎はとっさにその体を支えたが、紗月は痛みのせいでうまく立っていられない。そこで彼は、そのまま彼女を抱き上げた。紗月はぎょっとして身をこわばらせた。「ちょっと……どこへ連れていくんですか?」「お前の部屋だ」その反応を見て、征士郎は紗月が警戒していることに気づき、少し困ったように笑った。「必要なものを取りに行くだけだ」それを聞いて、紗月はようやく体の力を抜いた。幸い、洗面所の収納には、必要な日用品が一通り補充されていた。征士郎がそれを持ってきて差し出すと、紗月は顔を真っ赤にした。征士郎は今になって初めて、彼女がこんなにも恥ずかしがり屋だったことを知った。できることなら、もう少しだけこの腕の中に抱いていたい。そう思っても、今は許されないと分かっていた。その後、紗月はベッドに横になり、征士郎は彼女のために乳糖不使用のミルクでホットココアを作りに行った。ぼんやりと辺りを見回していると、ベッドサイドの引き出しに、小さな鍵のついた日記帳が入って
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第36話

部屋の空気は、凍りついたように冷え切っていた。紗月は冷ややかな目で征士郎を見る。「清野さんは、ホットココアを一杯作ったくらいで、今まで私にしてきたことを償えるとでも思っているんですか?」征士郎の瞳が大きく揺れた。「お前……思い出したのか?」紗月だって、本当は思い出したかった。けれど、どうしても思い出せない。無理に記憶を辿ろうとすると、激しい頭痛に襲われるのだ。一晩中眠れないこともあれば、ようやく眠りにつけても、脈絡のない夢が現れる。紗月は日記帳を閉じ、自分のそばに置いた。そこに綴られている、かつての自分がひたすら耐え、自分ばかりを責め続けていた言葉を、征士郎には見られたくなかった。せめて、最後に残ったわずかな尊厳だけは守りたかった。「何も思い出していません。周りの人から聞けば、それくらいのことは分かります」征士郎の瞳がかすかに揺れた。「ほかの人から聞く必要はない。俺が自分で話す。10年前、俺は助けてくれたのがお前だと知らず、ずっと琴葉だと思い込んでいた。琴葉がお前の手を傷つけ、そのせいでお前が長い間ピアノから離れていたことも、何ひとつ知らなかった。4年前も、俺はお前を誤解した。お前がわざと俺のベッドに潜り込んだと思い込み、その後も、お前が俺に結婚を無理強いしたんだと決めつけた。結婚していた4年間も、俺はお前を大切にしなかった。ほかの女と親しげに振る舞い、お前を何度も傷つけた。お前が病気になったときだって、俺は……」征士郎の喉が詰まり、それ以上は言葉にならなかった。紗月は枕に背を預けたまま、次第に表情を沈ませる。「もう言わなくていいです。私が何も覚えていないのなら、清野さんも蒸し返さないでください」本当に、過去を思い出すのが怖かった。昔のことは、もう昔のこととして終わらせたい。これからは、自分のために生きたかった。もうこれ以上、自分の人生を無駄にしたくなかった。征士郎がさらに何か言おうとしたそのとき、階下から扉の開く音が聞こえた。「紗月……」朔弥の声だった。その声を聞いた紗月は、下腹部の痛みを堪えながらベッドから起き上がった。征士郎には目もくれず、そのまま階段を下りていく。リビングには、朔弥とともに数人の警察官が立っていた。武陽には、もう事態を止める術がなかった。
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第37話

近藤家。朔弥はバルコニーに立ち、指に挟んだ煙草が燃え尽きかけていることにも気づかず物思いに沈んでいた。指先に焼けるような痛みが走り、ようやく我に返って灰皿に押しつけて火を消す。「清野征士郎側には、今のところ何の動きもありません。ご指示どおり、離婚手続きに必要な資料は一通り整理してあります。あとは雨宮さんご本人の意思を確認するだけです」事務員がそう報告した。朔弥の目に一瞬、迷いが浮かぶ。紗月に離婚のための法的手続きを取らせる――彼女は、それを受け入れてくれるだろうか。「清野征士郎はもう清野グループの社長ではありません。以前ほど会社を自由に動かせる立場ではありませんから、こちらも必要以上に構えることはないかと」事務員が続ける。「分かった。下がってくれ」事務員が立ち去ると、朔弥はまた新しい煙草に火をつけた。紗月を傷つけるようなことはしたくない。だが、これまでのことを考えれば、征士郎に完全に諦めさせないかぎり、彼はいつまでも紗月との関係を断ち切ろうとしないだろう。……部屋では、紗月が重苦しい気持ちを抱えたまま過ごしていた。朔弥は礼儀正しくドアをノックし、彼女の返事を待ってから中へ入る。「紗月、少し話したいことがある」「何?」朔弥が一通の書類を差し出した。そこには大きく、【離婚手続きに関するご説明】と記されていた。朔弥は彼女の隣に腰を下ろす。「清野はあのとき、君に離婚協議書へ署名させただけで、正式な離婚手続きまではしていなかった。今も話し合いで離婚に応じる様子がない以上、次は家庭裁判所に離婚調停を申し立てることになる」紗月はすぐに意味を理解した。「私に、離婚調停を申し立てろってこと?」朔弥は一瞬言葉を止めた。「俺は君の意思を尊重する」紗月は書類に目を通した。そこには、征士郎から受けた暴力や、婚姻中にほかの女性と親密な関係を続けていたことをはじめ、これまでの経緯が詳細にまとめられている。表情こそ平静だったが、胸の奥からは冷たいものが次々と込み上げてきた。「俺も一緒に手続きを進める。彼には、自分がしてきたことの責任を取ってもらおう」これまでの経緯や被害が認められれば、慰謝料を求めることも検討できる。紗月はなかなか答えなかった。胸の内は複雑に乱れ、頭にも鈍い痛みが
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第38話

数日後、家庭裁判所は離婚調停の申立てを受理した。法律事務所では、事務員が朔弥のそばへやって来た。「近藤先生、雨宮さんに関する資料をもとに、清野征士郎が以前ほかの女性たちと親密な関係を続けていたことなどを記事にまとめ、事務所のアカウントから公開しました。今、かなり大きな騒ぎになっています。世論の圧力が強まれば、清野征士郎もこれ以上無視できなくなると思ったんです。話し合いに応じるきっかけになるかと……」事務員が言い終えるより先に、朔弥の鋭い視線が向けられた。事務員はびくりと身をすくませ、口を閉ざす。「誰がネットに公開しろと言った?」朔弥の目が冷たく細められた。今回の離婚手続きについて、彼は紗月のプライバシーができるかぎり守られるよう、細心の注意を払っていた。それなのに、依頼者の事情を勝手にネットに公開してしまえば、どれほど多くの人間がこの件に注目することになるのか。ただでさえ紗月は体調が万全ではない。世間から一斉に注目を浴びれば、大きな負担になることは明らかだった。「世論に頼らなくても、正規の手続きで進められる」朔弥は指先でデスクを軽く叩きながら、低い声で続けた。「これは勝ち負けだけの問題じゃない。紗月のこれからの人生に関わることだ。ネットに出したものは、今すぐ全部削除しろ」そう言って、朔弥はネクタイを緩めた。「でも、もう遅いです。僕が投稿した記事は、すでにトップニュースになっています」その言葉を聞いた瞬間、朔弥は勢いよく立ち上がり、拳をデスクに叩きつけた。書類が床一面に散らばる。事務員は震え上がった。いつも穏やかな朔弥が、ここまで激怒する姿を見るのは初めてだった。朔弥自身も、自分が感情を抑えきれなかったことに気づいた。ネクタイを締め直し、ゆっくりと平静を取り戻す。「今日から業務から外れてもらう。アカウントへのアクセス権も停止する。処分については追って連絡する」「近藤先生、本当に悪気はなかったんです!もう一度だけチャンスをください!」いつも温厚で話の分かる朔弥が、突然ここまで厳しい態度を取るとは事務員も思っていなかった。清野征士郎ほどの有名人が関わる案件だ。うまく世論を味方につければ、事務所の名前も一気に広まり、自分も評価される――そんな浅はかな考えがあった。まさか、それ
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第39話

邸宅の外に、一台の黒塗りの高級車が停まった。ドアが開き、宗一郎が杖をついて車から降りてくる。彼は玄関まで歩いて呼び鈴を鳴らした。使用人が出てくると、静かに告げる。「紗月に会いに来た」自分に客が来たと聞いて紗月が外へ出ると、そこには髪が以前にも増して白くなり、すっかり老け込んだ宗一郎が立っていた。このところ体調が少しずつ安定するにつれ、紗月の脳裏には、失われていた記憶の断片がふとした瞬間に浮かぶようになっていた。背後から足音が聞こえ、宗一郎は振り返ると、慈しむような目で紗月を見た。「紗月、じいちゃんが会いに来たぞ」紗月は彼から少し距離を置いたところで立ち止まった。宗一郎は彼女の前まで歩み寄り、気遣うように尋ねる。「体の具合はもう良くなったか?この前のことはじいちゃんが悪かった。お前の許可もなく人を使って、無理やり月影邸へ連れていってしまった。じいちゃんはただ、お前たちにやり直してほしかっただけなんだ。だが、だからといって、あんなやり方をしていい理由にはならん。本当にすまなかった」老人の言葉を聞きながら、紗月は喉の奥に苦いものが込み上げるのを感じた。宗一郎が自分を多少なりとも気にかけてくれていることは分かっている。けれど同時に、彼が征士郎の祖父であることも分かっていた。結局のところ、彼がすることはすべて清野家のためなのだ。世の中には、そんな身勝手で残酷なことがいくらでもある。大人になれば、それを受け入れることを覚えるしかない。「私と征士郎は、もうやり直せません。ネットの記事がどうであろうと、私たちはもうやり直せません」紗月の声は淡々としていて、どこか冷たかった。宗一郎は、それが彼女の口から出た言葉だとは信じられない思いだった。以前の紗月は、何をするにも征士郎を第一に考えていた。どんなことが起きても、必ず征士郎の側に立っていた。宗一郎は、ネット上の記事も紗月の意思で公開されたものだと思い込んでいた。だからこそ、理解できなかった。あれほど征士郎を大切にしていた紗月が、どうして二人の過去を世間に公表することを選んだのか。「紗月、征士郎は本当に自分の過ちを分かっている。本気で後悔している人間に、もう一度くらい機会を与えてやってもいいじゃないか。お前は本当に、あいつの名誉を傷つけて、世間中から後ろ
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第40話

部屋の中には陽光が差し込み、紗月の青白い頬を照らしていた。彼女は黙って朔弥の返事を待っていた。彼がただ一言「分かった」と言ってくれさえすれば、どこへだってついていくつもりだった。彼の妻になって、過去のすべてを忘れ、もう一度誰かを愛することから始めてみよう――そう思っていた。朔弥は複雑な感情を滲ませた目で、じっと彼女を見つめる。「紗月、この裁判が終わったら、君が行きたいところならどこへでも一緒に行くよ」紗月の瞳に一瞬、落胆の色が浮かんだ。「……分かった」掠れた声でそう答えると、朔弥は彼女をそっと抱き寄せ、両手で彼女の手を包み込んだ。しかし、その瞳は静かに翳っていた。――紗月、俺を恨まないでくれ。俺はただ、君とあいつの間に、もう何のつながりも残したくないだけなんだ。……その後、離婚調停は不成立となり、紗月側は正式に離婚訴訟を提起した。やがて、最初の審理の日を迎えた。今回の離婚訴訟は、紗月のプライバシーに可能な限り配慮しながら進められていたが、世間ではその行方に大きな注目が集まっていた。法廷では、紗月の代理人である朔弥が、征士郎に対する本人尋問を行っていた。「被告は、原告が脳腫瘍を患っていた時期にも、原告の従妹である白河琴葉と親密な関係を続けていた。間違いありませんね?」征士郎は平静な顔で答えた。「間違いない」「また、被告が原告に暴力を振るったあと、原告の右耳には重い聴力障害が残った。これも事実ですね?」「そうだ」「そのほかにも、原告の意思を顧みない行為を繰り返し、心身に大きな負担を与えたことを認めますか?」征士郎の表情がわずかに変わる。「……認める」一方、紗月は息を詰まらせ、信じられない思いで自分に背を向けて立つ朔弥を見つめていた。いつもと変わらず隙のないスーツ姿で、穏やかで理知的に見えるその背中。紗月は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。――こんなことまで調べていたんだ……込み上げる感情を必死に抑えながら、彼女は手を強く握りしめる。その力は次第に強くなり、爪が食い込んだ掌から、ゆっくりと血が滲み始めていた。朔弥はさらに質問を続ける。「被告は事実を捏造し、かつて雨宮グループの株主総会の場で、依頼人に対し、弁護士である私――近藤朔弥と不貞関係にあると認めるよう強要した。これも事実ですね?
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