All Chapters of 五年愛した彼を捨て、私は私を取り戻す: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

私は恋人の光一と付き合って5年になる。その5年間、私は彼に5回、結婚を申し込んだ。けれど、そのたびに「まだその時じゃない」と断られた。だから今回、光一が「私にはある」ゲームをしようと言い出した時、誰もが同じことを考えた。光一は、私がもう一度プロポーズできるように、この場を用意してくれたのだ、と。私もそう信じていた。自信満々に5本の指を立て、最初から切り札を出した。「光一に付き添ってもらって、ウェディングドレスを試着したことがある」言い終えるなり、みんなが笑った。「さすが、5年も付き合ってる本命の彼女は違うな。いきなり必殺技かよ」「美月にそれを言われたら、誰も勝てないって。もう諦めて指を下ろそうぜ」「光一、今度こそプロポーズから逃げられないぞ」からかう声と笑いが飛び交い、全員が示し合わせたように指を1本ずつ折った。頬が熱くなった。次の言葉を口にしようとした時、光一の幼なじみである玲奈が眉を上げた。「待って!」玲奈は5本の指を立てたまま手を振った。甘い笑顔には、隠す気もない優越感がにじんでいた。「それなら、私も光一に付き添ってもらったことがあるよ」顔に浮かんでいた笑みが、一瞬でこわばった。個室に響いていたはやし立てる声も、しだいに小さくなった。玲奈だけは空気の変化に気づかないふりをして、むき出しの悪意を目に宿しながら私を見つめた。「美月さん、次は私の番ね」唇に笑みを浮かべ、わざとゆっくりと言葉を並べていった。「光一と、冬の初雪を見たことがある。光一から、手編みのマフラーをもらったことがある。光一の手首のタトゥーは、私の名前のイニシャルなの。光一の車の助手席は、いつだって私の身長に合わせてある」そこでわざと間を置くと、玲奈はさらに甘く笑った。「それから、いちばん大事なこと。このゲームだって、私が喜ぶからって光一が付き合ってくれたの」玲奈は小首をかしげた。「美月さんには、どれかある?」一言一言が、逃げ場もないほど容赦なく突きつけられた。自分の顔から、少しずつ笑みが消えていくのが分かった。付き合って5年、光一は私と初雪を見たことがない。手編みのマフラーをくれたことも、私の名前を手首に刻んだこともなかった。助手席の高さも、私に合わせてくれたこと
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第2話

その瞬間、5年間抱き続けてきた想いが、一気に冷めた。私が最後の指を折ると、個室は不気味なほど静まり返った。全員の視線が私に集まっていた。私がどう反応するのか、うかがっているのだ。私はただ笑い、自分からグラスを手に取ると、酒を一気に飲み干した。「私の負けね」見かねた一人が、場を取りなそうとした。「玲奈、もうやめなよ。今日の主役は光一と美月でしょう?今のはなしにして、もう一回やろう」「そうだよ。仕切り直そう」玲奈はその女性に眉を上げてみせ、無邪気な口調で言い返した。「どうしてなしになるの?」玲奈は光一の腕にしがみつき、甘えるように尋ねた。「ねえ光一、勝ったのは私だよね?」光一は困ったように玲奈の鼻をつまんだ。「分かった、お前の勝ちでいい。このゲームだって、もともとお前が喜ぶから付き合ったんだ。何をしてほしい?」玲奈は挑むような目を私に向けた。「じゃあ今夜は家に帰らないで、私と日の出を見に行って」グラスを握る手が止まった。今夜は、私と光一が付き合い始めて5年目の記念日だった。どれほど忙しくても、毎年この日だけは二人で過ごすと、彼は約束していた。この5年間で、私も大切にされているのだと思わせてくれた、数少ない約束の一つだった。光一は眉を寄せ、少し困った顔をした。「別の日じゃだめか?今日は美月と過ごす約束なんだ」「だめ!」玲奈は不満そうに光一の手を取り、さらに甘えた。「勝ったのは私なのに、約束を破る気?」光一は眉間にしわを寄せ、ためらいがちに私を見た。「美月……」「行ってあげて」立ち上がった私の心は、自分でも意外なほど静かだった。「負けたんだから、仕方ないでしょう」そう言って、彼を振り返ることなく個室を出た。背後からは、すぐに騒がしい声が聞こえてきた。玲奈が光一に甘えているらしい。私が負けを認められず、わけの分からないことで拗ねている、と言う玲奈。それを「やめろ」と制する光一。けれど、彼が口にしたのはそれだけだった。追いかけても来なければ、私のために一言弁明してくれることもなかった。私はふと笑った。光一も、私が負けを認められないだけだと思っているのだ。けれど彼は知らない。私がもう要らないのは、このゲームだけではなかった。
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第3話

【ああ、さっき出ていった】【美月はどうするんだ?今日が終われば、二人は交際6年目だろ。来週、光一が美月を家族に紹介するって聞いたぞ】胸がきゅっと締め付けられた。数日前、確かに光一からそう言われていた。次の連休が明けたら実家へ連れていき、婚約の話をするつもりだ、と。だから私は、今夜のゲームが光一のくれた機会なのだと、あれほど信じ切っていた。けれど現実は、すべて私の思い込みだったと突きつけてきた。自嘲するように口元をゆがめた時、玲奈がSNSを更新した。【真夜中から山まで付き合ってくれた誰かさんに感謝。「私にはある」ゲームの勝ち星が、また一つ増えた】私に見せつけるための投稿だと、すぐに分かった。光一と正式に付き合い始めてからの5年間、同じようなことは数え切れないほどあった。ただ一つ違うのは、以前の私なら、そのたびにひどく傷ついていたことだ。今夜は「いいね」を押す気にもならなかった。光一。玲奈と日の出を見て帰ってきたら、別れよう。……翌朝、目を覚ましたのは10時だった。起きた時には、光一はもう帰っていた。テーブルには温かい朝食が置かれ、彼はソファに座って、SNSに載せる写真を真剣に選んでいた。私が部屋から出ても、顔を上げようとしなかった。「テーブルに朝飯がある」ちらりと見ると、玲奈の好物である魚介の雑炊だった。私は魚介アレルギーだ。自嘲気味に笑い、そのまま洗面所へ向かった。私が雑炊に手をつけないのを見て、ようやく光一が顔を上げた。眉間にしわを寄せると、次の瞬間には後ろから私を抱きしめてきた。「まだ拗ねてるのか?」光一はいつもこうだった。私が本当に諦めようとするたび、彼はほんの一瞬だけ、愛されているのかもしれないと思わせた。そして私は、彼が歩み寄るそぶりを見せるたび、何も考えずその手を取ってきた。けれど今回は、もう疲れていた。彼の腕を振りほどき、顔を洗った。一言も口を利かなかった。光一の顔が険しくなった。「美月、いい加減にしろよ。昨日はお前だって、負けたら約束に従うって言っただろ。玲奈が勝ったから日の出を見に行った。それでも、帰りに朝飯を買ってきたじゃないか。ほかに何が不満なんだ?」洗顔タオルを持つ手が止まった。「昨日は、私たちの記念日だ
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第4話

「いいよ」光一は目を見開き、驚いたように私を見た。私は彼に目を向けず、玲奈にうなずいた。「それでいい」光一の表情が険しくなった。一方の玲奈は、飛び上がりそうなほど喜んだ。「約束だからね!」私は5本の指を立て、玲奈を見た。「今度は私から始める。光一と、地下の部屋で暮らしたことがある」5年前、起業したばかりの光一は、仲間に裏切られて資金をすべて失った。負けず嫌いな彼は実家に頼ろうとせず、古い建物の地下にある部屋で暮らすしかなかった。夏は雨水が流れ込み、蚊や虫だらけになった。冬は氷点下まで冷え込み、布団まで氷のように冷たかった。そんな部屋で、私は彼と2年間暮らした。玲奈は悔しそうに指を1本折った。私は続けた。「母の形見のブレスレットを売って、光一の会社に資金を出したことがある」同じ頃、光一の会社は運転資金が尽き、倒産寸前まで追い込まれていた。何度も酒に逃げる彼を見た。自分は本当に何をやってもだめなのかと、私に尋ねたこともあった。そんな姿を見ていられなかった。私は母が残してくれたブレスレットをひそかに売り、1600万円を用意した。光一はグラスを手にしたまま、ふと動きを止めた。何かを思い出したのか、その目にふっと柔らかな色が浮かんだ。玲奈は唇をかみ、不本意そうに2本目の指を折った。「もう終わり?次は私の番でしょ」苛立ちをむき出しにして私をにらんだ。私は笑った。「まだよ。3つ目。私は、光一の子を妊娠したことがある」「えっ?」その場にいた全員が息をのんだ。「そんな話、初めて聞いた」「光一、お前は知ってたのか?」光一が手にしていたグラスが小さく震え、数滴の酒がテーブルにこぼれた。それをきっかけに、彼もあの日の記憶へ引き戻されたのだろう。付き合って3年目のことだった。あの日、腹痛を訴えた玲奈が、1本の電話で彼を呼び出した。けれどその日は、妊婦健診で異常を告げられた私にとっても、何より彼にそばにいてほしい日だった。私たちは激しく言い争い、光一はわがままを言うなと私を責めた。私は雨の中へ飛び出し、階段から転げ落ちた。次に意識が戻った時、私は病院のベッドに横たわっていた。医師から、妊娠していたこと、そして流産したことを告げら
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第5話

「別れる?」個室を、息をのむような沈黙が包んだ。数秒後、誰かが重苦しい空気を和らげようと笑った。「美月、冗談はやめろよ」「そうだよ。腹が立っても、そんなことを口にしちゃだめだ」「光一、何をぼうっとしてるんだ。早くなだめろよ」玲奈はあきれたように目をむいた。「美月さん、もういい加減にしたら?たかがゲームに負けたくらいで別れるなんて、自分が面倒な女だと思わないの?」私は玲奈を見て、思わず笑った。以前なら、そんな言葉を聞けば傷つき、腹を立て、自分はそんな女ではないと光一に分かってもらおうとしただろう。今はもう、説明する気にもなれなかった。光一が立ち上がった。椅子が床をこすり、耳障りな音を立てた。彼は一歩ずつ、私の前まで歩いてきた。目は真っ赤だった。「美月、今の言葉を取り消せ」何かに耐えるような、押し殺した声だった。「聞かなかったことにしてやる」私は顔を上げた。5年間、愛した人だった。地下の部屋で暮らし、借金を抱えた時期をともに耐え、何も持たなかった彼が今の場所までたどり着くのを支えてきた。二人に足りないのは、婚姻届1枚だけだと思っていた。けれど違った。足りなかったのは、彼の心だった。「光一、冗談じゃない。別れよう」彼の顔から、さっと血の気が引いた。「どうしてだ?」本当に分からないらしかった。そのことが、ひどく滑稽に思えた。人を傷つけている本人は、自分が何をしたのか分かっていないことが多い。彼にとっては、どれも「大したことではない」からだ。私は手を上げ、ゲームの時と同じように指を1本ずつ数えた。「1つ目。私が魚介アレルギーだと知っているのに、今朝、玲奈の好物の魚介雑炊を買ってきた」光一の唇が動いたが、言葉を挟ませなかった。「2つ目。昨日は交際5周年の記念日で、私と過ごすと約束していた。それなのに、玲奈が日の出を見たいと言っただけで、私をあの個室に置いていった。3つ目。私が39度の熱を出して雑炊を食べたいと言った時は、デリバリーで済ませた。でも玲奈が家に来た時には、自分で料理をした。4つ目。助手席はいつも玲奈の身長に合わせたまま。私は5年間、乗るたびに自分で直してきた。5つ目。タトゥーは偶然だと言っていたのに、玲奈が自分のイニシャルだ
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第6話

玲奈が突然、甲高い声を上げた。「美月さん、いい加減にしなさいよ!光一のためなら、お母さんの形見まで売れるほど愛してたんでしょう?5回もプロポーズして、恥ずかしいとも思わなかったくせに。本当に別れられるの?」悪意に満ちた笑みを浮かべた。「今だって、光一を脅してるだけ。少し優しくされれば、どうせまた戻ってくるんでしょう?」私は玲奈を見た。「その通りね」玲奈は目を丸くした。私は静かに続けた。「以前の私なら、確かにそうしていた。だからこそ、そんな自分がかわいそうになったの」バッグを持ち、出口へ向かった。光一が勢いよく私の手首をつかんだ。「美月、行くな」熱い手のひらだった。けれど私には、もう知らない人の手のように感じられた。「放して」それでも放さなかった。「美月、ちゃんと話そう」「話すことなんてない」視線を落とし、手首をつかむ彼の手を見た。「光一、最後くらい、みっともない真似はしないで」彼の目が揺れた。その瞬間、私が本当に戻らないのだと、ようやく気づいたようだった。彼の手から力が抜けかけた時、玲奈が飛びつき、その腕を強く抱きしめた。「光一、行かせればいい!わざとやってるのよ。今追いかけたら、ますます図に乗るだけ!」光一は玲奈を見なかった。視線はずっと、私だけを追っていた。私はもう立ち止まらなかった。個室を出る時、背後から私の名を呼ぶ声がした。ため息をつく者もいれば、小声で玲奈を責める者もいた。最後に、光一のかすれた声が届いた。「美月」私は振り返らなかった。この時、私はようやく勝った。ゲームにではない。自分を取り戻したのだ。……マンションへ戻った頃には、もう日付が変わろうとしていた。部屋には、光一がいつも使っていたウッディ系の香水の香りがまだ残っていた。以前はたまらなく好きだった香りなのに、今は窓を開けて追い出したいとしか思えなかった。スーツケースを開き、自分のものを一つずつ詰めていった。5年分の暮らしも、片づけてみれば思っていたほど多くなかった。クローゼットの3分の1を占める服。引き出し半分ほどの化粧品。数冊の本と、何枚かの写真。それから、ベッド脇の棚の奥にしまっていた検査結果の用紙。流産した時、誰にも
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第7話

搭乗前、光一から最初の電話がかかってきた。出なかった。2回目、3回目、4回目。私は電源を切った。飛行機が雲の上へ抜けると、窓から日の光が差し込んだ。遠ざかっていく街を見下ろし、急に体が軽くなったような気がした。誰か一人のもとを去ったくらいで、人は死なない。ちゃんと息ができる。朝だって来る。一方、光一はあの個室で泥酔するまで飲み続けたらしい。後になって真帆から聞いた話だった。……美月が出ていったあと、彼はその場に座り込み、グラスを何度も空にした。友人たちも心配して声をかけた。「光一、もう飲むな。明日、美月に会いに行ってちゃんと謝れ。今度こそ、本当に傷ついてるぞ」そばにいた玲奈が鼻で笑った。「本当に傷ついた?いつも同じじゃない。見てれば分かるよ。3日もしないうちに、きっと自分から戻ってくるから」ついに一人が我慢できなくなった。「玲奈、少し黙れないのか?」光一の大学時代の友人、黒田圭吾(くろだ けいご)だった。普段は口数の少ない男だが、その夜は遠慮なく言い切った。「まさか、自分の魂胆が誰にも分かってないとでも思ってるのか?初雪だの、マフラーだの、タトゥーだの、助手席だの。全部、美月に聞かせるために言ったんだろ」玲奈の顔色が変わった。「何を勝手なこと言ってるの?」圭吾は鼻で笑った。「勝手なこと?二人の交際5周年に、わざわざ光一を連れ出して日の出を見に行く必要があったのか?お前に足りないのは日の出じゃない。良識だ」こらえ切れず、吹き出す者がいた。玲奈は悔しさに目を真っ赤にした。「どうして私が責められなきゃいけないの?光一が私に優しくしたかったんでしょう!」その言葉は刃となって、光一の胸に突き刺さった。光一は突然、グラスを床にたたきつけた。「全員、黙れ!」砕けたガラスが辺りに散った。誰も口を利かなくなった。光一は額を押さえ、苦しそうに息をしていた。さまざまな記憶がよみがえったのだろう。地下の部屋に雨水が流れ込んだ夜、美月はたった1枚の乾いた布団を彼に掛け、自分は壁際で小さくなって眠った。会社の口座が空になった時、美月は通帳を差し出して言った。「光一なら、きっと成功できる」流産した日、病室のベッドに横たわる美月は、ひどく青ざめ
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第8話

「どういう意味?なかったことにするつもり?美月さんはもう出ていったんだから、私たち、やっと堂々と付き合えるのよ」乾いた音が響いた。玲奈は頬を押さえ、信じられないという顔で彼を見た。「私をぶったの?」光一の目には嫌悪しかなかった。「玲奈、お前には反吐が出る」玲奈は甲高い声で叫んだ。「反吐が出る?光一、私に何の気持ちもなかったって言える?本当に美月さんだけを愛していたなら、どうして何度も私を選んだの?日の出を見たいと言えば、一緒に来てくれた。私が美月さんを挑発しても、本気で止めたことなんてない。タトゥーが私のイニシャルだと言っても、否定しなかった。あなたは、ずっと楽しんでたんでしょう!」部屋は一瞬で静まり返った。光一は、言葉を失うほどの衝撃を受けていた。けれど、彼をそこまで追い詰めたのは玲奈ではない。ようやく直視した、自分自身の醜さだった。反論できなかったのだ。実際、光一は楽しんでいた。二人の女が自分をめぐって嫉妬することを。美月が彼の一挙一動に心を乱されることを。玲奈が憧れと依存を込めて自分を見ることを。自分には節度があると思い込み、美月の苦しみは「考えすぎ」だと片づけていた。美月が本当に去って初めて、取るに足らないと思っていた一つ一つが、とうに美月を遠くへ追いやっていたと気づいた。光一は目を閉じた。再び開いた時、その目には冷たさだけが残っていた。「ああ、俺は最低だった。でも、俺が結婚するのは美月だけだ」玲奈は全身をこわばらせた。「結婚?」震えながら笑った。「美月さんはもう、あなたなんて要らないのよ!」光一の顔から、さっと血の気が引いた。それでも一言ずつ、はっきりと言い返した。「なら、美月が戻ってくれるまで何度でも頭を下げる。それでも、お前を選ぶことだけは絶対にない」そう言い残し、背を向けた。玲奈は取り乱してベッドからはい出した。「光一、待って!行かないで!戻ってきて!」ドアが激しく閉まり、その声は部屋の中に閉じ込められた。マンションへ戻ると、部屋は恐ろしいほど空っぽだった。美月のスリッパも、カップもない。クローゼットのうち、美月が使っていた場所は空になっていた。ベッド脇の棚に残されていたのは、鍵と1枚のメモだけだった。【
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第9話

南の海辺の町に着いた初日、私は14時間眠り続けた。目を覚ますと、窓の外いっぱいに青い海が広がっていた。潮気を含んだ風が、部屋の中へ流れ込んできた。宿泊していたゲストハウスは、静かな路地の突き当たりにあった。オーナーは雨宮湊(あまみや みなと)という、28歳の男性だった。笑うと、かすかな八重歯がのぞいた。チェックインの手続きをしながら、スーツケースを一つしか持っていない私を見て尋ねた。「一人旅?」うなずくと、それ以上は聞かず、手描きの地図を差し出した。「この辺りは観光客が少ないんだ。海を見るなら夕方がいちばんきれいだよ。あっさりしたものが食べたければ、左へ行って3軒目の鶏料理の店がおすすめ」私は少し驚いた。「どうして、あっさりしたものが食べたいって分かったの?」湊は笑った。「さっきフロントにあった魚介料理のパンフレットを見て、少し顔をしかめてたから」私も笑った。こんなふうに、私の好みにさりげなく気づいてくれる人は、久しぶりだった。それからの半月、私はのんびり過ごした。朝は目が覚めるまで眠った。昼は通りに出て、温かい鶏鍋を食べた。午後は浜辺で日なたぼっこをし、夜は波の音を聞きながら眠った。光一とのトーク画面を開くことはなかった。ただ、真帆が時々、彼の近況を知らせてくれた。【あなたのこと、必死で捜してる】【玲奈が会社に押しかけて、光一に捨てられたって騒いだらしいよ。警備員に追い出されたって】【もう周りにはすっかり知れ渡ってる。さすがに恥ずかしくて顔を出せないんじゃない?】【光一、最近ひどい状態みたい。会議中も上の空だって】読み終えると、私はスタンプを一つ返した。心配したわけでも、胸がすく思いがしたわけでもない。ただ、遠い出来事に感じた。まるで、誰か別の人の話を聞いているようだった。滞在中、湊は近くの見どころをよく教えてくれた。けれど、決して距離を詰めすぎなかった。ある雨の日、傘を持っていなかった私は、カフェの前から動けずにいた。すると湊が、傘を差して迎えに来てくれた。傘は大きくなかった。彼は傘を大きく私のほうへ傾け、自分の肩を濡らしていた。「服、濡れてるよ」そう言うと、湊は自分の肩を見て笑った。「大丈夫。水瀬さんが濡れなければ
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第10話

私は続けた。「私はもう引っ越したし、あなたの連絡先も消した。あなたのものは持ち出していない。置いてきた私のものも、もう要らない。1600万円のことは、弁護士を通して話す」光一の顔が青ざめた。「美月、そこまでしなきゃいけないのか?」「そうよ」まっすぐ彼の目を見た。「あの1600万円は、あなたへのプレゼントじゃない。母が私に残してくれたものだった。それを、あなたのために手放した。だから今、私のものを取り戻すの」光一は唇まで白くなった。「返す。10倍にして返す。だから戻ってきてくれ」私は首を振った。「光一、まだ分からないのね。お金のためにあなたから離れたんじゃない。返してもらうのは、自分に言い聞かせるためよ。私が差し出してきたものには、一つ一つちゃんと価値があった。あなたの『悪かった』の一言で、全部をなかったことにはさせない」光一はスーツケースから手を放した。次の瞬間、人が行き交う空港の真ん中で膝をついた。周囲の視線が一斉に集まり、スマホを向ける者までいた。光一は私を見上げ、大粒の涙をこぼした。「美月、頼む。俺は変わる。お前と結婚する。明日にでも婚姻届を出そう。会社の株も渡す。持っているものは全部やる。だから俺を捨てないでくれ」私は彼を見下ろした。かつては、この日を夢にまで見ていた。光一が私の前にひざまずき、結婚してほしいと頼んでくれる日を。けれど実際にその時が来ても、心は少しも動かなかった。遅すぎた愛に、もう価値はない。スーツケースを引き寄せた。「光一。私が5回、あなたにプロポーズしたこと、覚えてる?」彼は動きを止めた。「1回目は、仕事がまだ安定していないと言った。2回目は、家族の準備ができていないと言った。3回目は、子どもを亡くしたばかりで結婚の話をする時ではないと言った。4回目は、私が焦りすぎだと言った。5回目は、まだその時じゃないと言った」私は静かに告げた。「今度は私にとって、その時じゃなくなったの」「違う」光一が手を伸ばしたが、私は一歩下がった。「これから先も、永遠に来ない」それだけ言い、スーツケースを引いて立ち去った。光一はその場にひざまずいたまま、取り乱して私の名を叫んでいた。私は振り返らなかった。それから、光一との間に残された
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