LOGIN湊と二人で日の出を見た。水平線が少しずつ明るくなり、金色の光が水面いっぱいに広がっていった。ずっと昔のことのように、玲奈が日の出を口実に、私から光一を奪っていった夜を思い出した。あの頃は、あの夜に負けたことが、5年間のすべてを失うことだと思っていた。けれど、違った。玲奈が奪ったのは、愛する価値のない男だった。そして私は、新しい自分を手に入れた。隣に立つ湊が、温かいコーヒーを差し出した。「寒い?」私は首を振った。湊は必要以上に近づかず、上着だけを差し出した。「それでも、羽織っておいて」上着を受け取ると、海風が髪をさらった。湊は私を見つめ、また耳を赤くした。「水瀬美月」彼が初めて、私をフルネームで呼んだ。「これから、僕にもチャンスをくれない?」真剣で、どこか緊張した顔を見て、私は笑った。「いいよ。でも、好きになれるかは約束できない」湊も笑った。「それでいい。想いを伝えるのは僕の自由だし、応えるかどうかは美月の自由だから」その瞬間、ようやく分かった。本当に好きなら、相手を追い詰めたりはしない。相手を疲れ果てるまで消耗させたり、向けられた愛情を駆け引きの道具にしたりもしない。相手がそこに立ち続けることも、背を向けて去ることも尊重する。その後、私は湊と付き合い始めた。ゆっくりと、穏やかに関係を育てていった。湊は私が魚介アレルギーであることを覚えていた。助手席が低すぎるのは苦手だということも、冬は手が冷えやすいことも、結婚を急かされたくないことも、何一つ忘れなかった。湊がプロポーズしてくれたのは、私が10回目の展覧会を終えた日だった。華やかな演出はなかった。誰もいなくなった会場で、彼は私の手を取り、こう言った。「結婚で美月を縛りたいわけじゃない。ただ、これからの人生を僕と並んで歩いてくれるか、それだけを聞きたいんだ」湊を見つめると、目の奥が熱くなった。その時、光一のことは少しも浮かばなかった。思い出したのは、私自身のことだけだった。個室で最後の指を折った水瀬美月。スーツケースを引き、マンションを出た水瀬美月。海辺で、もう一度息をすることを覚えた水瀬美月。私はうなずいた。「うん。喜んで」結婚式はささやかなものだった。
返してもらったお金と、それまでの貯金を元手に、展覧会の企画を手がける小さなスタジオを立ち上げた。女性をテーマにした展覧会やブランドイベントを専門に手がけた。最初の展覧会には、「私がいる」と名づけた。「私にはある」ではない。私には、私自身がいる。オープニングの日、真帆がひまわりの花束を持ってきた。「水瀬社長、おめでとう」私は笑って受け取った。会場には、ごく普通に暮らす女たちの物語が数多く展示されていた。離婚後、もう一度学び始めた人。裏切られたあと、自分の会社を興した人。子どもを失ったあと、深いうつ状態を乗り越えた人。10年続いた恋を終わらせ、一人でオーロラを見に行った人。どの物語も、男を後悔させるためのものではなかった。女は何度でも人生を始め直せると伝えるためのものだった。展覧会は思いがけない反響を呼んだ。多くのインフルエンサーが会場を訪れ、SNSには感想が次々と投稿された。【「私がいる」を見て、やっと別れる決心がついた。5年という時間が、すべて続ける価値のあるものとは限らない。見切りをつけるべき時を教えてくれる5年だってある】その投稿を見た時、目の奥が少し熱くなった。今度は、光一のせいではなかった。自分の痛みを、ようやく力に変えられたからだった。光一も会場に現れた。オープンから3日目、白いバラの花束を抱えて入口に立っていた。警備員に止めさせることはしなかった。光一は私の前まで来ると、会場中央の壁に目を向けた。そこには、一つの言葉が大きく掲げられていた。【失望は、一つ残らず心に刻まれる。そして別れは、自分を救うための一歩になる】彼の目に涙がにじんだ。「美月、ここにあるものは、全部俺が原因なのか?」私は穏やかに答えた。「あなたは、その一部にすぎない。何よりも、自分のために作ったの」光一は力なく笑った。「今になってやっと分かった。お前はずっと、あんなに俺を支えてくれてたんだな。最近、会社がうまくいってない。お前がいた頃は、いくつもの企画を細かく見てもらってたし、取引先も俺よりお前を信頼していた。いなくなって初めて、俺がどれだけお前に頼り切っていたのか気づいた」私は黙っていた。光一は話し続けた。「玲奈は何度か会社に押しかけてきた。もう弁
私は続けた。「私はもう引っ越したし、あなたの連絡先も消した。あなたのものは持ち出していない。置いてきた私のものも、もう要らない。1600万円のことは、弁護士を通して話す」光一の顔が青ざめた。「美月、そこまでしなきゃいけないのか?」「そうよ」まっすぐ彼の目を見た。「あの1600万円は、あなたへのプレゼントじゃない。母が私に残してくれたものだった。それを、あなたのために手放した。だから今、私のものを取り戻すの」光一は唇まで白くなった。「返す。10倍にして返す。だから戻ってきてくれ」私は首を振った。「光一、まだ分からないのね。お金のためにあなたから離れたんじゃない。返してもらうのは、自分に言い聞かせるためよ。私が差し出してきたものには、一つ一つちゃんと価値があった。あなたの『悪かった』の一言で、全部をなかったことにはさせない」光一はスーツケースから手を放した。次の瞬間、人が行き交う空港の真ん中で膝をついた。周囲の視線が一斉に集まり、スマホを向ける者までいた。光一は私を見上げ、大粒の涙をこぼした。「美月、頼む。俺は変わる。お前と結婚する。明日にでも婚姻届を出そう。会社の株も渡す。持っているものは全部やる。だから俺を捨てないでくれ」私は彼を見下ろした。かつては、この日を夢にまで見ていた。光一が私の前にひざまずき、結婚してほしいと頼んでくれる日を。けれど実際にその時が来ても、心は少しも動かなかった。遅すぎた愛に、もう価値はない。スーツケースを引き寄せた。「光一。私が5回、あなたにプロポーズしたこと、覚えてる?」彼は動きを止めた。「1回目は、仕事がまだ安定していないと言った。2回目は、家族の準備ができていないと言った。3回目は、子どもを亡くしたばかりで結婚の話をする時ではないと言った。4回目は、私が焦りすぎだと言った。5回目は、まだその時じゃないと言った」私は静かに告げた。「今度は私にとって、その時じゃなくなったの」「違う」光一が手を伸ばしたが、私は一歩下がった。「これから先も、永遠に来ない」それだけ言い、スーツケースを引いて立ち去った。光一はその場にひざまずいたまま、取り乱して私の名を叫んでいた。私は振り返らなかった。それから、光一との間に残された
南の海辺の町に着いた初日、私は14時間眠り続けた。目を覚ますと、窓の外いっぱいに青い海が広がっていた。潮気を含んだ風が、部屋の中へ流れ込んできた。宿泊していたゲストハウスは、静かな路地の突き当たりにあった。オーナーは雨宮湊(あまみや みなと)という、28歳の男性だった。笑うと、かすかな八重歯がのぞいた。チェックインの手続きをしながら、スーツケースを一つしか持っていない私を見て尋ねた。「一人旅?」うなずくと、それ以上は聞かず、手描きの地図を差し出した。「この辺りは観光客が少ないんだ。海を見るなら夕方がいちばんきれいだよ。あっさりしたものが食べたければ、左へ行って3軒目の鶏料理の店がおすすめ」私は少し驚いた。「どうして、あっさりしたものが食べたいって分かったの?」湊は笑った。「さっきフロントにあった魚介料理のパンフレットを見て、少し顔をしかめてたから」私も笑った。こんなふうに、私の好みにさりげなく気づいてくれる人は、久しぶりだった。それからの半月、私はのんびり過ごした。朝は目が覚めるまで眠った。昼は通りに出て、温かい鶏鍋を食べた。午後は浜辺で日なたぼっこをし、夜は波の音を聞きながら眠った。光一とのトーク画面を開くことはなかった。ただ、真帆が時々、彼の近況を知らせてくれた。【あなたのこと、必死で捜してる】【玲奈が会社に押しかけて、光一に捨てられたって騒いだらしいよ。警備員に追い出されたって】【もう周りにはすっかり知れ渡ってる。さすがに恥ずかしくて顔を出せないんじゃない?】【光一、最近ひどい状態みたい。会議中も上の空だって】読み終えると、私はスタンプを一つ返した。心配したわけでも、胸がすく思いがしたわけでもない。ただ、遠い出来事に感じた。まるで、誰か別の人の話を聞いているようだった。滞在中、湊は近くの見どころをよく教えてくれた。けれど、決して距離を詰めすぎなかった。ある雨の日、傘を持っていなかった私は、カフェの前から動けずにいた。すると湊が、傘を差して迎えに来てくれた。傘は大きくなかった。彼は傘を大きく私のほうへ傾け、自分の肩を濡らしていた。「服、濡れてるよ」そう言うと、湊は自分の肩を見て笑った。「大丈夫。水瀬さんが濡れなければ
「どういう意味?なかったことにするつもり?美月さんはもう出ていったんだから、私たち、やっと堂々と付き合えるのよ」乾いた音が響いた。玲奈は頬を押さえ、信じられないという顔で彼を見た。「私をぶったの?」光一の目には嫌悪しかなかった。「玲奈、お前には反吐が出る」玲奈は甲高い声で叫んだ。「反吐が出る?光一、私に何の気持ちもなかったって言える?本当に美月さんだけを愛していたなら、どうして何度も私を選んだの?日の出を見たいと言えば、一緒に来てくれた。私が美月さんを挑発しても、本気で止めたことなんてない。タトゥーが私のイニシャルだと言っても、否定しなかった。あなたは、ずっと楽しんでたんでしょう!」部屋は一瞬で静まり返った。光一は、言葉を失うほどの衝撃を受けていた。けれど、彼をそこまで追い詰めたのは玲奈ではない。ようやく直視した、自分自身の醜さだった。反論できなかったのだ。実際、光一は楽しんでいた。二人の女が自分をめぐって嫉妬することを。美月が彼の一挙一動に心を乱されることを。玲奈が憧れと依存を込めて自分を見ることを。自分には節度があると思い込み、美月の苦しみは「考えすぎ」だと片づけていた。美月が本当に去って初めて、取るに足らないと思っていた一つ一つが、とうに美月を遠くへ追いやっていたと気づいた。光一は目を閉じた。再び開いた時、その目には冷たさだけが残っていた。「ああ、俺は最低だった。でも、俺が結婚するのは美月だけだ」玲奈は全身をこわばらせた。「結婚?」震えながら笑った。「美月さんはもう、あなたなんて要らないのよ!」光一の顔から、さっと血の気が引いた。それでも一言ずつ、はっきりと言い返した。「なら、美月が戻ってくれるまで何度でも頭を下げる。それでも、お前を選ぶことだけは絶対にない」そう言い残し、背を向けた。玲奈は取り乱してベッドからはい出した。「光一、待って!行かないで!戻ってきて!」ドアが激しく閉まり、その声は部屋の中に閉じ込められた。マンションへ戻ると、部屋は恐ろしいほど空っぽだった。美月のスリッパも、カップもない。クローゼットのうち、美月が使っていた場所は空になっていた。ベッド脇の棚に残されていたのは、鍵と1枚のメモだけだった。【
搭乗前、光一から最初の電話がかかってきた。出なかった。2回目、3回目、4回目。私は電源を切った。飛行機が雲の上へ抜けると、窓から日の光が差し込んだ。遠ざかっていく街を見下ろし、急に体が軽くなったような気がした。誰か一人のもとを去ったくらいで、人は死なない。ちゃんと息ができる。朝だって来る。一方、光一はあの個室で泥酔するまで飲み続けたらしい。後になって真帆から聞いた話だった。……美月が出ていったあと、彼はその場に座り込み、グラスを何度も空にした。友人たちも心配して声をかけた。「光一、もう飲むな。明日、美月に会いに行ってちゃんと謝れ。今度こそ、本当に傷ついてるぞ」そばにいた玲奈が鼻で笑った。「本当に傷ついた?いつも同じじゃない。見てれば分かるよ。3日もしないうちに、きっと自分から戻ってくるから」ついに一人が我慢できなくなった。「玲奈、少し黙れないのか?」光一の大学時代の友人、黒田圭吾(くろだ けいご)だった。普段は口数の少ない男だが、その夜は遠慮なく言い切った。「まさか、自分の魂胆が誰にも分かってないとでも思ってるのか?初雪だの、マフラーだの、タトゥーだの、助手席だの。全部、美月に聞かせるために言ったんだろ」玲奈の顔色が変わった。「何を勝手なこと言ってるの?」圭吾は鼻で笑った。「勝手なこと?二人の交際5周年に、わざわざ光一を連れ出して日の出を見に行く必要があったのか?お前に足りないのは日の出じゃない。良識だ」こらえ切れず、吹き出す者がいた。玲奈は悔しさに目を真っ赤にした。「どうして私が責められなきゃいけないの?光一が私に優しくしたかったんでしょう!」その言葉は刃となって、光一の胸に突き刺さった。光一は突然、グラスを床にたたきつけた。「全員、黙れ!」砕けたガラスが辺りに散った。誰も口を利かなくなった。光一は額を押さえ、苦しそうに息をしていた。さまざまな記憶がよみがえったのだろう。地下の部屋に雨水が流れ込んだ夜、美月はたった1枚の乾いた布団を彼に掛け、自分は壁際で小さくなって眠った。会社の口座が空になった時、美月は通帳を差し出して言った。「光一なら、きっと成功できる」流産した日、病室のベッドに横たわる美月は、ひどく青ざめ