LOGIN友人たちとの飲み会で、恋人の神谷光一(かみや こういち)が「私にはある」ゲームをしようと言い出した。 ゲームの参加者は、「自分だけが経験したこと」を一つずつ挙げていく。 ほかの参加者は5本の指を立て、その経験がなければ指を1本折る。 すべての指を折った人から脱落し、最後まで残った人が勝ちとなる。 勝った者は、光一に願いを一つだけかなえてもらえる。 私・水瀬美月(みなせ みづき)が5年間、光一に結婚を申し込んでは断られ続けてきたことを、そこにいる全員が知っていた。 だから今度こそ、光一が私にプロポーズの機会をくれたのだと、みんな思っていた。 皆が暗黙のうちに私を勝たせようとするなか、彼の幼なじみである小宮山玲奈(こみやま れな)だけが、言葉の端々で私を追い詰めてきた。 「光一と、冬の初雪を見たことがある。 光一から、手編みのマフラーをもらったことがある。 光一の手首のタトゥーは、私の名前のイニシャルなの。 光一の車の助手席は、いつだって私の身長に合わせてある」 4つ言い終えた時、私に残っていた指はあと1本だった。 それでも玲奈はやめなかった。小首をかしげ、私に笑いかけた。 「このゲームだって、私が喜ぶからって光一が付き合ってくれたの」 胸の中が、すっと空っぽになった。 反射的に光一を見ると、彼は玲奈を甘やかすように笑っていた。この5年間、何度もそうしてきたように、今回も彼女を選んだのだ。 私は最後の指を、ゆっくりと折った。 「私の負けね」 その瞬間、ふと思った。 この恋にはもう、惜しむものなど何も残っていないのかもしれない。
View More湊と二人で日の出を見た。水平線が少しずつ明るくなり、金色の光が水面いっぱいに広がっていった。ずっと昔のことのように、玲奈が日の出を口実に、私から光一を奪っていった夜を思い出した。あの頃は、あの夜に負けたことが、5年間のすべてを失うことだと思っていた。けれど、違った。玲奈が奪ったのは、愛する価値のない男だった。そして私は、新しい自分を手に入れた。隣に立つ湊が、温かいコーヒーを差し出した。「寒い?」私は首を振った。湊は必要以上に近づかず、上着だけを差し出した。「それでも、羽織っておいて」上着を受け取ると、海風が髪をさらった。湊は私を見つめ、また耳を赤くした。「水瀬美月」彼が初めて、私をフルネームで呼んだ。「これから、僕にもチャンスをくれない?」真剣で、どこか緊張した顔を見て、私は笑った。「いいよ。でも、好きになれるかは約束できない」湊も笑った。「それでいい。想いを伝えるのは僕の自由だし、応えるかどうかは美月の自由だから」その瞬間、ようやく分かった。本当に好きなら、相手を追い詰めたりはしない。相手を疲れ果てるまで消耗させたり、向けられた愛情を駆け引きの道具にしたりもしない。相手がそこに立ち続けることも、背を向けて去ることも尊重する。その後、私は湊と付き合い始めた。ゆっくりと、穏やかに関係を育てていった。湊は私が魚介アレルギーであることを覚えていた。助手席が低すぎるのは苦手だということも、冬は手が冷えやすいことも、結婚を急かされたくないことも、何一つ忘れなかった。湊がプロポーズしてくれたのは、私が10回目の展覧会を終えた日だった。華やかな演出はなかった。誰もいなくなった会場で、彼は私の手を取り、こう言った。「結婚で美月を縛りたいわけじゃない。ただ、これからの人生を僕と並んで歩いてくれるか、それだけを聞きたいんだ」湊を見つめると、目の奥が熱くなった。その時、光一のことは少しも浮かばなかった。思い出したのは、私自身のことだけだった。個室で最後の指を折った水瀬美月。スーツケースを引き、マンションを出た水瀬美月。海辺で、もう一度息をすることを覚えた水瀬美月。私はうなずいた。「うん。喜んで」結婚式はささやかなものだった。
返してもらったお金と、それまでの貯金を元手に、展覧会の企画を手がける小さなスタジオを立ち上げた。女性をテーマにした展覧会やブランドイベントを専門に手がけた。最初の展覧会には、「私がいる」と名づけた。「私にはある」ではない。私には、私自身がいる。オープニングの日、真帆がひまわりの花束を持ってきた。「水瀬社長、おめでとう」私は笑って受け取った。会場には、ごく普通に暮らす女たちの物語が数多く展示されていた。離婚後、もう一度学び始めた人。裏切られたあと、自分の会社を興した人。子どもを失ったあと、深いうつ状態を乗り越えた人。10年続いた恋を終わらせ、一人でオーロラを見に行った人。どの物語も、男を後悔させるためのものではなかった。女は何度でも人生を始め直せると伝えるためのものだった。展覧会は思いがけない反響を呼んだ。多くのインフルエンサーが会場を訪れ、SNSには感想が次々と投稿された。【「私がいる」を見て、やっと別れる決心がついた。5年という時間が、すべて続ける価値のあるものとは限らない。見切りをつけるべき時を教えてくれる5年だってある】その投稿を見た時、目の奥が少し熱くなった。今度は、光一のせいではなかった。自分の痛みを、ようやく力に変えられたからだった。光一も会場に現れた。オープンから3日目、白いバラの花束を抱えて入口に立っていた。警備員に止めさせることはしなかった。光一は私の前まで来ると、会場中央の壁に目を向けた。そこには、一つの言葉が大きく掲げられていた。【失望は、一つ残らず心に刻まれる。そして別れは、自分を救うための一歩になる】彼の目に涙がにじんだ。「美月、ここにあるものは、全部俺が原因なのか?」私は穏やかに答えた。「あなたは、その一部にすぎない。何よりも、自分のために作ったの」光一は力なく笑った。「今になってやっと分かった。お前はずっと、あんなに俺を支えてくれてたんだな。最近、会社がうまくいってない。お前がいた頃は、いくつもの企画を細かく見てもらってたし、取引先も俺よりお前を信頼していた。いなくなって初めて、俺がどれだけお前に頼り切っていたのか気づいた」私は黙っていた。光一は話し続けた。「玲奈は何度か会社に押しかけてきた。もう弁
私は続けた。「私はもう引っ越したし、あなたの連絡先も消した。あなたのものは持ち出していない。置いてきた私のものも、もう要らない。1600万円のことは、弁護士を通して話す」光一の顔が青ざめた。「美月、そこまでしなきゃいけないのか?」「そうよ」まっすぐ彼の目を見た。「あの1600万円は、あなたへのプレゼントじゃない。母が私に残してくれたものだった。それを、あなたのために手放した。だから今、私のものを取り戻すの」光一は唇まで白くなった。「返す。10倍にして返す。だから戻ってきてくれ」私は首を振った。「光一、まだ分からないのね。お金のためにあなたから離れたんじゃない。返してもらうのは、自分に言い聞かせるためよ。私が差し出してきたものには、一つ一つちゃんと価値があった。あなたの『悪かった』の一言で、全部をなかったことにはさせない」光一はスーツケースから手を放した。次の瞬間、人が行き交う空港の真ん中で膝をついた。周囲の視線が一斉に集まり、スマホを向ける者までいた。光一は私を見上げ、大粒の涙をこぼした。「美月、頼む。俺は変わる。お前と結婚する。明日にでも婚姻届を出そう。会社の株も渡す。持っているものは全部やる。だから俺を捨てないでくれ」私は彼を見下ろした。かつては、この日を夢にまで見ていた。光一が私の前にひざまずき、結婚してほしいと頼んでくれる日を。けれど実際にその時が来ても、心は少しも動かなかった。遅すぎた愛に、もう価値はない。スーツケースを引き寄せた。「光一。私が5回、あなたにプロポーズしたこと、覚えてる?」彼は動きを止めた。「1回目は、仕事がまだ安定していないと言った。2回目は、家族の準備ができていないと言った。3回目は、子どもを亡くしたばかりで結婚の話をする時ではないと言った。4回目は、私が焦りすぎだと言った。5回目は、まだその時じゃないと言った」私は静かに告げた。「今度は私にとって、その時じゃなくなったの」「違う」光一が手を伸ばしたが、私は一歩下がった。「これから先も、永遠に来ない」それだけ言い、スーツケースを引いて立ち去った。光一はその場にひざまずいたまま、取り乱して私の名を叫んでいた。私は振り返らなかった。それから、光一との間に残された
南の海辺の町に着いた初日、私は14時間眠り続けた。目を覚ますと、窓の外いっぱいに青い海が広がっていた。潮気を含んだ風が、部屋の中へ流れ込んできた。宿泊していたゲストハウスは、静かな路地の突き当たりにあった。オーナーは雨宮湊(あまみや みなと)という、28歳の男性だった。笑うと、かすかな八重歯がのぞいた。チェックインの手続きをしながら、スーツケースを一つしか持っていない私を見て尋ねた。「一人旅?」うなずくと、それ以上は聞かず、手描きの地図を差し出した。「この辺りは観光客が少ないんだ。海を見るなら夕方がいちばんきれいだよ。あっさりしたものが食べたければ、左へ行って3軒目の鶏料理の店がおすすめ」私は少し驚いた。「どうして、あっさりしたものが食べたいって分かったの?」湊は笑った。「さっきフロントにあった魚介料理のパンフレットを見て、少し顔をしかめてたから」私も笑った。こんなふうに、私の好みにさりげなく気づいてくれる人は、久しぶりだった。それからの半月、私はのんびり過ごした。朝は目が覚めるまで眠った。昼は通りに出て、温かい鶏鍋を食べた。午後は浜辺で日なたぼっこをし、夜は波の音を聞きながら眠った。光一とのトーク画面を開くことはなかった。ただ、真帆が時々、彼の近況を知らせてくれた。【あなたのこと、必死で捜してる】【玲奈が会社に押しかけて、光一に捨てられたって騒いだらしいよ。警備員に追い出されたって】【もう周りにはすっかり知れ渡ってる。さすがに恥ずかしくて顔を出せないんじゃない?】【光一、最近ひどい状態みたい。会議中も上の空だって】読み終えると、私はスタンプを一つ返した。心配したわけでも、胸がすく思いがしたわけでもない。ただ、遠い出来事に感じた。まるで、誰か別の人の話を聞いているようだった。滞在中、湊は近くの見どころをよく教えてくれた。けれど、決して距離を詰めすぎなかった。ある雨の日、傘を持っていなかった私は、カフェの前から動けずにいた。すると湊が、傘を差して迎えに来てくれた。傘は大きくなかった。彼は傘を大きく私のほうへ傾け、自分の肩を濡らしていた。「服、濡れてるよ」そう言うと、湊は自分の肩を見て笑った。「大丈夫。水瀬さんが濡れなければ
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