جميع فصول : الفصل -الفصل 10

13 فصول

第1話

ある荷物をきっかけに、私は諒を疑い始めた。それは、彼が買ったばかりのメンズ香水だった。出会ってから7年。一度だって、彼が香水をつけているところを見たことはない。私はその香水を手にしたまま、しばらく立ち尽くしていた。「最近暑くて汗をかくだろ。ゼミで学生と会うとき、少し気になってな」諒はそう言って、何でもないことのように、私の手から香水を受け取った。「そうだ、澪。夕飯はもう作ってあるから、先に食べていてくれ。今夜は研究で遅くなるし、帰れないかもしれない」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。夜遅くまで学校に残ると言うのは、これでもう5回目だった。嫌な予感を振り払えないまま、私は寝室へ戻り、諒のラインを開いた。彼のアカウントはパソコンにログインしたままだ。きっと、ログアウトし忘れたのだろう。トーク一覧を下へスクロールしていく。なぜか、その名前にだけ目が留まった。法学部4年生の天野ひなた(あまの ひなた)。背筋がひやりとした。震える指で、そのトークを開く。残されていたやり取りは、たった2件だけだった。一件目は、彼女からのメッセージ。【牧野先生、今夜も7時に校門に来てくださいね。新しく焼き肉のお店ができたんですけど、先生と一緒に食べに行ってみたくて】返信は、たった一言のようにそっけなかった。【7時に着くよ。試しに食べてみようか】それ以前の履歴は、ひとつ残らず消されていた。諒は毎日、欠かさずトーク履歴を消していたのかもしれない。ひなたのインスタを開く。昨夜投稿された写真が目に入った。街灯の下に伸びた2つの影。背の高い影と、低い影。男と女。その男の影を、私は見間違えるはずがなかった。添えられた言葉は、こうだった。【今日、彼に告白した。彼は受け入れてもくれないし、ちゃんと断ってもくれなかった。私がまだ若いから、私のことを縛りたくないんだって。でも、先生は私の勇気を甘く見ている。牧野先生、もう一度告白します。拒否は禁止!絶対にOKしてくださいね!】その投稿は、どう見ても諒に向けたものだった。昨日、彼は同窓会に行くと言っていたのに。さらにスクロールすると、彼女自身の写真が目に入った。目元が私によく似た、綺麗な女の子だった。閉じようとした、そのとき。
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第2話

電話を切った後も、胸の奥にはぽっかりと穴が空いたような虚しさが残っていた。心なんてもう空っぽになったはずなのに、その奥だけがずきずきと痛み続けていた。私はひなたのタイムラインを、何度も遡って見返した。そこでようやく気づいた。彼女と諒の曖昧な関係は、もうけっこう長く続いていたのだ。彼女は諒のゼミ生だった。毎日のようにメッセージを交わし、キャンパスを並んで歩き、大学帰りには近くの店へ立ち寄っていた。諒は彼女にだけ妙に甘かった。課題を個別で見てやり、レポートを何度も添削し、採点も明らかに甘かった。学内奨学金の推薦にまで口を利いていたらしかった。投稿の端々から、ひなたのときめきが滲んでいた。熱に浮かされたような、恋する者だけが纏う空気だった。私がいなければ、2人はもっと自然に恋に落ちていたのかもしれない。私は彼女の写真を何度も見返した。明るく笑う姿は、まるで陽だまりのようで、塞ぎ込みがちな私とは正反対だった。諒が彼女に惹かれた理由も、分からないでもない。じめじめとした場所に長くいれば、誰だって明るいほうへ惹かれてしまう。パソコンを閉じても、眠気は少しも来なかった。その夜、諒は結局、朝まで帰ってこなかった。翌日の午後になって、ようやく諒は帰ってきた。「なあ、何持っていると思う?」玄関を開けるなり、諒は目を輝かせて私を見た。「……なに?」私はできるだけ素っ気なく返した。すると諒は背中に隠していた手を差し出した。そこにあったのは、花火大会のチケットが2枚。「花火師・早川駿(はやかわ しゅん)の渾身の一作だよ。ずっと見たいって言ってただろ。昨日、発売の時間に張り付いて、やっと取れたんだ。しかも特等席」私は花火が好きだ。ずっと前から、今回の大作を楽しみにしていた。諒はもうそんなこと、とっくに忘れていると思っていた。なのに、その2枚のチケットを受け取っても、心は少しも弾まない。こういうとき、男って優しくなる。後ろめたいことがあると、埋め合わせをするみたいに、いつもよりずっと優しくなる。自分の罪悪感を、少しでも軽くしたいから。「どうした?行きたくないのか?」私は無理やり口元を上げた。「……行くわ」その日の夜、諒は親友の江原晃一(えばら こういち)と、その妻の葵(あおい)まで誘っていた。やっ
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第3話

聞き間違えるはずもない声だ。長い時間を経て、ようやく彼の本音を聞いた気がした。私の手は、勝手に震えていた。4年前。諒と結婚式を翌日に控えた夜、私は拉致された。清水グループの令嬢と知るや否や、犯人は身代金の要求額を吊り上げた。身代金は最終的に10億円にまで跳ね上がり、父が奔走した末、私が解放されたのは翌日のことだった。週刊誌は、そのたった一昼夜の出来事を面白おかしく取り上げ、好き勝手に書き立てた。複数の男に暴行されたかもしれない。もう汚れた女だ、と。私は何度も説明した。金目当ての拉致で、暴行はなかったのだと。それでも噂は止まらなかった。野火のように広がって、街中を覆い尽くした。あの頃、私は世間の悪意の真ん中にいた。ある日、買い物に出た先のショッピングモールで、大勢の記者に囲まれた。カメラとマイクが、一斉に私へ向けられた。「清水さん、犯人のもとで何があったのか、詳しく聞かせてください」「相手は複数だったんですか?」「今も事件の影響は残っていますか?」私は為す術もなく、立ち尽くすことしかできなかった。そこへ諒が駆けつけた。彼は私を背に庇い、マイクを奪い取るようにして言い放った。「澪が何を経験しようと、僕にとって彼女は少しも汚れてなんかいない。僕は澪を一生愛し抜く、一生守り抜く。彼女を貶める者は、誰であろうと許さない」親族も友人も、傷物の女を娶ることはないと彼を止めた。それでも彼は反対を押し切り、盛大な結婚式を挙げてくれた。だから私は、信じていた。彼は本当に、気にしていないのだと。「あの時も言っただろ。格好つけるなって。いや、お前が悪いわけじゃないよ。そういうのは、どんな男でも引くって」諒の重いため息が聞こえる。「僕も正直、知りたいんだ。あの夜、何人いたのか。でも澪は、その話になるとひどく嫌がる。少しでも触れようとすると、『何もされてない』ってムキになって否定するんだ」泣き崩れると思っていた。けれど、涙は出なかった。むしろ、怖いほど静かだった。私は足音を忍ばせ、その場を離れた。歩きながら、気づいてしまった。諒はもう3ヶ月、私に触れていない。結婚したばかりの頃、彼は私を安心させるように、執拗なほど身体を求めてきた。まるで、何も気にしていないと示すかのように。一晩に何度も。それが少しずつ減っ
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第4話

諒と晃一が戻ってきたとき、私と葵はすでに花火がよく見える場所を確保して、待っていた。諒は人混みを縫うようにして戻ってくると、当然のように私の隣へ腰を下ろした。上着を脱いで私の肩にかけ、相変わらず優しい声で笑う。「冷えてきたのに、そんな薄着じゃだめだろ。風邪でも引いたらどうするんだ」私は微笑んだ。「花火、もうすぐ始まるよ。花火に願い事をすると叶うんだって」諒は指先でそっと私の鼻先に触れた。「君は本当にそういうのを信じるんだな。で、何を願うんだ?」私は首を振る。「言ったら叶わなくなるから」花火大会が始まる15分前、晃一が突然諒を呼んだ。葵が喉が渇いたと言うので、2人でドリンクを買ってくると言った。売店はすぐ近くにある。時間にもまだ余裕があった。諒は足早についていった。彼が離れたあと、私は隣に置かれたままのスマホに気づいた。次の瞬間、画面が光る。表示されたのは、ひなたからのメッセージだ。【牧野先生、研究室が停電したんです。怖いです】私はスマホを手に取り、メッセージを一目見て通知を消した。画面を落とし、そのまま静かに伏せる。お願い、今夜だけは――諒を、私のところに返してくれないか。そんなことを、私はひなたに願っていた。自分でも呆れるほど、みっともなく。諒はすぐに戻ってきた。私が好きなフルーツティーを買ってきてくれた。「よかった。間に合ったな。あと5分だ」隣には、伏せられたままのスマホ。画面が見えなくても、その存在ばかりが頭から離れない。いつ着信音が鳴ってもおかしくない。そう思うだけで落ち着かなくなる自分が、ひどく滑稽で、ひどく哀れだ。今だけは、どうか邪魔しないでほしい。夫がまた彼女のために、私を置いていきませんように――私はそんなことを願っていた。馬鹿げているとわかっている。自分でも信じられない。いつから私は、こんなふうに誰かに縋る女になってしまったのだろう。時間は刻一刻と過ぎていく。花火が始まる前のざわめきに、周囲の期待が少しずつ膨らんでいくのが分かる。諒は笑いながら、フルーツティーを私の手に渡した。ひやりとした感触が、指先に染み込んだ。彼はごく自然に私の肩を抱き寄せ、空を見上げた。「もうすぐ始まるよ。澪、願い事は決まった?」その声は、あまりにも優しかった。さっき喫
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第5話

私の身体は、自分でも気づかないうちに、かすかに強張っていた。呼吸が止まる。諒はほとんど反射的にスマホを手に取った。それから、少し気まずそうに私を見る。「ちょっと出るね。学校の緊急連絡かもしれない」そう言いながら、さりげなく身体の向きを変える。私から画面が見えないように。次の瞬間、彼の表情が変わった。やわらかかった目元が強張る。眉が寄る。隠しきれない焦りと心配が、その顔にははっきり浮かんでいた。そんな顔を、私はもうずっと見ていなかった。少なくとも、今のそれは私のためじゃない。彼は勢いよく立ち上がった。「澪、悪い!叔母さんから連絡があって、いとこが事故に遭ったらしいんだ。今、病院に運ばれたみたいで、すぐに行かないと――」……ほら。なんて完璧な言い訳なんだろう。緊急事態で、筋が通っていて、ここで疑う私のほうがわがままみたいに思えてしまう。彼が背を向けかけた、その瞬間だった。気づけば私は手を伸ばし、彼の手首をぎゅっと掴んでいた。指先が冷たい。小さく震えているのが、自分でも分かる。「諒」情けないくらい、弱々しく。「あと少しだけでいいの。花火、もうすぐ始まるよ……終わってからじゃ、だめ?2分だけでいいから」私は顔を上げ、彼を見た。声に滲んだ必死さを。今にもこぼれそうな絶望を。ほんの少しでも、気づいてほしい。けれど。彼には、何ひとつ届かなかった。彼の心が向いている先は、もう私じゃない。彼は落ち着かない様子でスマホに目をやり、それから私を見た。「澪、わがまま言わないで。人命にかかわるんだ。いい子だから、ここで見てて。終わったら晃一たちが送ってくれるから。落ち着いたら、すぐ帰る。ね?」次の瞬間。彼は、ぐいっと私の手を振り払った。私の指先が、空を掻く。何ひとつ、引き止められないまま。彼は迷いなく背を向けた。そして、そのまま早足で雑踏の中へ消えていく。一度も、振り返らずに。彼の背中が人混みに呑まれた。まさにその瞬間――ヒューッ――ドンッ!最初の大きな花火が、夜空へ打ち上がった。鮮やかだ。残酷なくらい、綺麗だ。色とりどりの光が、一瞬で空いっぱいに咲き広がる。その光は、迷いなく去っていく彼の背中まで照らした。けれど、どれほど眩しく照らしても、彼の足を止めることはできなかった。耳
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第6話

翌朝、私が家を出ようとした、まさにそのときだった。ひとりの女子学生が、私の行く手を塞いだ。ひなただ。ひなたは無邪気そうな笑みを浮かべた。「清水さん、お時間いただけますか。少し、お話ししたいことがあるんです」私は静かにうなずいた。ひなたに連れられて向かったのは、彼女の通う大学だった。今日は諒が隣の大学で講義らしく、ここなら人目を気にする必要はないのだと、彼女は言う。私は薄く笑った。「見つかって困るのは、私じゃなくてあなたでしょう。どうして正妻の私まで、人目を忍ぶようなことを言われなきゃならないのかしら」ひなたは腕を組み、少し顎を上げた。「清水さん、『愛されていないほうが負け』って言葉、知りません?愛されていない女が負けるんですよ」勝ち誇ったような、軽い笑みだった。私は目を伏せ、そっと微笑んだ。「私は、誰が勝ったとか負けたとか、考えたこともなかったわ。人生の勝ち負けを、たったひとりの男に委ねるなんて、おかしいと思わない?」ひなたの目が一瞬泳いだ。すぐには言い返せなかったのか、ふんと鼻を鳴らす。「きれいごとばかり。平気なわけないくせに」彼女は私をキャンパスのあちこちへ連れ回し、そのたびに諒とのことをこれ見よがしに語った。まるで戦利品でも見せびらかすように。「ほら、あの太った猫。あれに餌をあげたの、彼と一緒だったんですよ」「ここで一緒に夜景を見たんです。あのとき彼、私の目が星みたいに輝いてるって言ってくれて……」「ここで誕生日を祝ってもらったんですよ。私がいちばん好きなイチゴのケーキも、買ってきてくれました」並木の陰で、彼女はわざと照れたように笑った。「ここ、私のファーストキスの場所なんです。あのときの彼……すごく強引で」私は黙って聞いていた。心だけが、静かに沈んでいく。日の光も届かない、冷たい水底へ。波紋ひとつ立てずに。最後に彼女が私を連れて行ったのは、自分の研究室だった。試薬の匂いがかすかに漂う室内に、彼女の甘ったるい香水が混ざっている。息が詰まりそうだ。彼女は振り返り、唇の端に隠しもしない傲慢な笑みを浮かべる。「――あ、そうだ。昨夜、ここ、停電なんてしてなかったんですよ。あれ、全部嘘」
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第7話

ひなたはじっと私の顔を覗き込んだ。その目は、そこに傷が走る瞬間を待っているようだ。「彼が昨日、あなたと一緒にいたことも知っています。でも、試してみたかったんです。私とあなた、どちらを選ぶのかって」私はその視線を真正面から受け止め、静かに言った。「そう。じゃあ、あなたの勝ちね。彼は私を置いて、あなたのところへ行ったんだから」私があまりに平然としていたせいだろう。ひなたはあからさまに不満げな顔をした。瞳の奥に苛立ちがよぎったものの、それもすぐに強気な笑みで塗り替えられた。彼女は数歩先へ進み、部屋の隅に置かれた、どこか使用感の残る布張りのソファを指さした。声には隠しきれない挑発が滲んでいる。「それに、私たち、寝たんですよ。昨夜、ちょうどこのソファの上で。私、彼が初めてだったんです」一言ごとに、こちらの芯を抉ろうとする悪意が滲んでいる。私は少しだけ間を置いて、淡々と返した。「あら、そう。てっきり、もっと前からそういう関係だったのかと思っていたわ。まさか、まだだったのね」それから彼女を上から下までゆっくり眺め、さらりと言った。「どうやら、あなたが思っているほどの魅力はないみたいね」ここまで好き放題言わせておく義理はない。そろそろ、こちらも返す番だった。案の定、ひなたは顔を歪めて噛みついてきた。「何を勝ち誇っているんですか!彼はもう、あなたのことなんか愛していませんよ!何様のつもりなんですか!」こういう手合いは、これまでにも何度か見てきた。正妻を挑発し、自分から身を引かせようとする。そういう女は、どこも似たようなものだ。けれどひなたは、まだ甘い。感情に任せて声を荒らげた時点で、もう負けているのだと気づいてすらいない。私はポケットの中のスマホの録音を止め、静かに言った。「そんな子どもじみた駆け引きに付き合う暇はないわ。妻の座が欲しいなら、諒本人の口から私に言わせることね。彼が本当にあなたを愛しているなら、自分から離婚を切り出すはずだから」その瞬間、ひなたの表情からわずかに余裕が消えた。どさりとソファに座り込むと、ほとんど悲鳴のような声で叫んだ。「牧野先生は、もちろん私を愛しています!きっとあなたと離婚してくれます!」私は振り返りもせず、研究室をあとにした。キャンパスを出る頃には、空はす
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第8話

私は箸を動かし、顔も上げないまま「うん」とだけ答えた。彼の喉仏が小さく上下する。探るように、彼は低く訊いた。「彼女は……君に何の用だったんだ?」私はゆっくりと口の中のものを飲み込み、箸を置いた。それから静かな目で、彼を見つめる。「あなたたちの思い出を聞かせてもらったの」自分でも驚くほど、声は静かだ。「一緒に餌をやった猫のこと。一緒に見た夜景のこと。一緒に食べたいちごのケーキのこと」少しだけ間を置く。みるみる血の気を失っていく彼の顔をひと目見て、私は続けた。「それから、彼女のファーストキスのことも……初めての夜のことも」諒は唇をきつく引き結んだまま、何も言わなかった。ただ、顎のあたりだけが、目に見えてこわばっていく。重たい沈黙が落ちた。息が詰まりそうなほどの静けさだ。やがて彼は、歯の奥から言葉を押し出すように、低い声で言った。「……もう彼女とは終わりにする。これでいいだろ」謝罪はない。説明もない。縋るような言葉ひとつ、口にしなかった。まるで厄介事を片づけるような口ぶりだった。そこに滲んでいたのは、裏切りを知られた羞恥よりも、傷つけられた自尊心の苛立ちのほうだった。その反応は、ある意味で予想どおりだ。諒は昔から、何よりも自分の矜持を大切にする人だった。私がまだ拉致される前、私は誰もが一目置く名家の娘で、諒はごく普通の家庭に育った大学教授だった。家族はその結婚に反対し、中には「分不相応だ」「身の程知らずだ」と露骨に彼を嘲る者もいた。諒はそんな周囲の反対を振り払うように、来る日も来る日も部屋にこもって昇任の準備に没頭していた。見返さずにはいられなかったのだと思う。けれど、彼がそれを証明するより先に、追い詰められたのは私のほうだった。評判を傷つけられたあのとき、諒は後先も考えず、押しかけた報道陣を相手に真っ向から渡り合い、私を守ってくれた。やがて家族も、その必死さと誠実さに心を動かされ、ようやく彼との結婚を認めた。諒はきっと、当初私の家族に認められなかったことを、今でも心のどこかで引きずっているのだ。だから今、こうして自分の裏切りを私に知られたとき、彼の胸に湧いたのは、罪悪感よりもむしろ、自尊心を傷つけられたことへの怒りだったのだろう。彼にしてみれば、かつて私のためにずいぶん苦しい思いをし
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第9話

「……もう終わりにすると言っているだろう!それでも、まだ何が不満なんだ!?」ついに諒が声を荒げた。張り詰めていたものが、鋭い音を立てて弾けたようだった。「澪、僕が君にしてきたことじゃ足りないのか?いったいこれ以上、どうしろっていうんだ。意地になるのはやめてくれ」彼はがたりと立ち上がった。椅子の脚が床を引っ掻き、耳障りな音を響かせる。「私は駄々をこねているわけじゃない」私はゆっくりと顔を上げ、彼を見た。不思議なくらい、声は静かだった。「私は冷静よ」「冷静だと?」ひどく可笑しなものでも見るように、彼は肩で荒く息をした。「僕は与えられるものは全部、君に与えてきた!一度だって粗末に扱ったことがあるか?僕の何が、そんなに不満なんだ!?」彼の言う通りだった。彼はずっと、私にできる限りのことをしてくれていた。付き合い始めた頃から、私のわがままを受け止め、不自由のない暮らしを与えてくれた。誕生日や記念日にはいつもサプライズや特別な時間を用意してくれたし、私が落ち込んでいるときには、あの手この手で笑わせようとしてくれた。そんな彼の優しさが、ひとつひとつ胸の奥によみがえった。ひなたさえいなければ、彼はほとんど完璧だったのかもしれない。私は小さく首を振った。胸の奥がじわじわと痛んで、今にも張り裂けてしまいそうだ。「あなたはよくやってる。ほんとうによく。でも、私には受け入れられ……」「僕は君の過去を受け入れた!」彼は私の言葉を遮り、ほとんど怒鳴るように言った。「あんな過去でも、僕は受け入れてきた!それなのに君は、僕のたった一度の過ちすら許せないのか!?誓ってもいい、相手は天野だけだ。一度きりだ!」彼が「あんな過去」と口にした瞬間、それが何を指しているのかは、言葉にするまでもなかった。ふいに、あの日、喫煙スペースで聞いた言葉が蘇った。彼には、私はどこか汚れて見えていたのだ。その途端、身体全体が軋むように痛み始めた。呼吸すら、うまくできない。私は彼を見つめたまま、かすれそうな声で言った。「じゃあ……ずっと気にしていたのね」彼は力が抜けたように、乱暴に顔をこすった。投げやりな口調の奥に、苛立ちと疲れが滲んでいる。「澪、ああいうことを気にしない男なんていない。それでも僕は君と結婚した。ずっと愛してきた。
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第10話

私がドアノブに手をかけたとき、背後で彼の気配がぴたりと止まった。振り返らないまま、絞り出すような声が背中に落ちる。「……そこまでして、僕を天野に押しやりたいのか。だったら今夜、彼女のところへ行ってやる。後悔するなよ」言い終えるや、彼はドアを荒々しく開け、そのまま叩きつけるように閉めた。重い音が部屋に響き、耳の奥がじんと痺れる。私はリビングに戻ると、スマホを取り出した。あの録音を含め、整理しておいた証拠を弁護士に送る。【高梨先生、証拠をお送りしました。離婚協議書の作成を、できるだけ早くお願いいたします】それから2日、諒は一度も帰ってこなかった。私は、彼に荷物をまとめて出ていってほしかった。この家は結婚前に父から譲り受けた、私の家だ。離婚するなら、ここを出るのは彼のほうだと思う。何度メッセージを送っても、既読はつかない。仕方なく、私は直接大学へ向かった。彼の研究室の前に立つと、中から激しい言い争いの声が聞こえてくる。ひなたの甲高く尖った声。その合間に、諒の低く抑えた声が混じる。少し迷った末、私はドアをノックした。次の瞬間、ドアが乱暴に開かれる。立っていたのは諒だ。私に気づいた彼の顔に、ほんの一瞬だけ驚きがよぎった。けれど彼が口を開くより早く、その背後からひなたが飛び出してきた。怒りに顔を歪めたひなたは、いきなり私の頬を思いきりひっぱたいた。乾いた音が響いた。「あんた!よくもそんな顔でここへ来たね!?」彼女は叫んだ。泣き腫らした目を血走らせ、鬼気迫る形相だ。諒はすぐにひなたの腕をつかんだ。「天野、やめろ!」けれど彼女は、まるで聞いていなかった。もがきながら、泣き叫んでいる。「離してください!この女が何か吹き込んだんでしょう!?でなきゃ、どうして急に私を突き放すんですか!?どうして私を避けるんですか!?」ひりつく頬を押さえながら、私は二人を見た。様子を見れば、あの夜、諒がひなたのもとへ行き、別れを告げたのだと分かった。そのあとも避けられていたのだろう。あんなふうに取り乱すのも無理はない。「私は何も吹き込んでいない」私はひなたをまっすぐ見て、静かに言った。「もう彼には離婚を申し出ている。あなたたち二人のことは、私には関係ない」「離婚?」ひなたは目を見開い
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