「今週の土曜日、黒瀬専務と夕食を取りなさい」祖母が箸を置いた音は小さかった。でも、その効力は取締役会の決議より強い。私は味噌汁に浮かぶわかめを、箸の先でぐるぐる巻いた。誕生日でもないのに、好物の鯛の塩焼きまで並んでいる。嫌な予感はしていた。我が家のごちそうは、お祝いより重大発表前の口封じに使われることのほうが多い。「嫌です」「理由は」「好きじゃないから」「結婚してから好きになればいい」「気持ちって、あとから貼れる付箋なの?」向かいに座る兄が、グラスで口元を隠した。母がテーブルの下で私の足首を小突く。警告だ。もう一度ふざけたら、次はすねに来る。上条雅子会長は、孫娘の恋愛も系列会社の人事と同じように処理する。まず通告。反発すれば異動。「土曜日の食事に出ないなら、『午後4時』の担当を外します」箸の先から、わかめが落ちた。『午後4時』は、私が4年かけて育てたホテルのスイーツブランドだ。名前もメニューも、包装用リボンの幅まで、私が決めていないものなんてない。うちの食卓はいつだってこう。料理は温かいうちに出るのに、私の意見は冷めきってからようやく受け付けられる。私は箸を置き、祖母を正面から見た。「公私混同はやめてください」「後継者の結婚は公的な問題です」「継がないって言いましたよね」「その主張、カードの支払いのたびに変わるようだけれど」兄がとうとううつむき、肩を震わせた。私はそのすねを蹴った。黒瀬怜司は、条件だけ見れば文句のつけようがない男だった。黒瀬グループの後継者。アメリカの名門大学卒。雑誌の表紙を飾れる顔。欠点は、人間まで買収候補企業のように査定すること。前回の食事で、彼は私にこう聞いた。『結婚後も、お仕事は趣味として続けるおつもりですか?』あの場でフォークを手の甲に突き立てなかった。それだけで私は、十分立派な社会人だと思う。「お見合いはしません」「では、付き合っている男性を連れてきなさい」「……男性?」「いないの?」いない。先月紹介された男は、私の看板ケーキを3口食べたあと、炭水化物の危険性を講義し始めた。その前の男は、母親が決めた嫁の起床時刻が午前5時半だと言った。私は6時に別れた。私の人生にいる男なんて、20年来の幼なじみ、一ノ瀬律くらいだ。昨夜も午前2時に電話してきて、自宅玄関の暗証番号を聞いてきた
Last Updated : 2026-09-17 Read more