Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

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20.約束

 アデラインが提示した条件は毎晩の夕食を共にすること、そして週に2日の授業だった。「もちろん、外せない約束などもおありでしょうから強制ではありませんわ。でも、その時はちゃんと事前に連絡をくださいませね」 仕事を理由に断ろうとした矢先に、アデラインがやんわりと先制したため、ヒューはその条件を受け入れざるを得なかった。 屋敷で食事をとり、夜は紳士の集まりに出向く。それはそんなに大変な作業ではない。面倒になれば理由を付けて断ればいいのだ。 そう考えることにしたが、3日も夕食を共にすると、この魅力的な時間を断るのは非常に惜しいことにヒューは気付いていた。 トマスの報告では、アデラインはヒドルストン伯爵夫人にいたく気に入られており、サロンに頻繁に出入りしているとのことだったが、それはヒューの想像よりも有益な出来事だったのだ。 アデラインは流行りの物語や、話題の舞台や詩などヒューの興味のなかった様々な分野の話を聞かせてくれた。 それらのおかげで紳士の集まりでも、話題を取りこぼすことが無くなったのは、とても大きな成果だった。 だが、一番の成果は貴婦人たちの動向を把握できることだった。「オルランド伯爵の船が沈んだことで、絹や生糸が高騰していると皆様不安に思われていらしてましたわ」 オルランド商会はこの国の絹の2割を占めていた。 もちろんベッカー商会でも絹の取り扱いはあるが、流通量が少なくなった分、アデラインの言うとおり絹の価格は例年に比べて高騰している。「社交のシーズンはもう終わりでしょう。屋敷に引きこもるのに絹のドレスは不要なのでは」「まあ。旦那様ったら。冬が終われば春がきますのよ?皆様今のうちに次の社交シーズンに向けた衣装を作るのに大忙しですわ」「なるほど。それは死活問題だ」 ヒューはコーヒーを飲みながら口元を緩めた。 この高騰は、前々から絹の在庫を十分に確保していたベッカー商会にとっては痛手でもなんでもなく、渡りに船でしかなかったからだ。「春の社交が始まるまでに絹のドレスが用意できなかったらどうするというんだ?」 ヒューが揶揄うように言うと、アデラインは少し
last updateDernière mise à jour : 2026-10-03
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21.農夫の休息

 ギャラリーは小さいながらも、いくつもの絵画や美術品が所狭しと、しかし窮屈さを感じさせない配置で飾られていた。 ヒューはその居心地の良さに感心したが、それ以上にその中に自然に溶け込んでいる自分の妻に目を奪われた。 濃い緑のデイドレスにテンの毛皮の羽織を優雅に着こなしている姿は、他の来場者の毒々しい華やかさとは違い、上品で洗練されているように見えた。 これが教養の差なのか—— ヒューは以前自分が贈ったドレスを思い返して、いかに愚かな贈り物をしたのだろうと自嘲気味に笑った。「旦那様、ここで一枚絵を買うとしたらどれになさいます?」「俺に絵を選べ、と?」 アデラインは授業のつもりなのだろう。教師然とした表情でヒューの困惑した表情を見上げている。「審美眼を持つことは貴族にとっても重要なことですわ」「なるほど、俺の審美眼を養ってくれるというわけか」 ヒューは冗談めかして返したが、どこかでこの会話を楽しんでいる自分に驚きを感じていた。 少し前まではこんな生産性のない会話など時間の無駄だと思っていたのに——だが、その驚きは決して不快なものではなかった。「審美眼はよいものを見ることで養われるのですわ」「では何度もこうやってあなたと出かける必要があるわけだ」 ヒューが何気なく言った言葉だったが、アデラインはすぐに顔を赤くすると、「あちらから見てまいりましょう」とヒューの視線から逃げるように、体ごと向きを変えて絵の方に歩いて行った。「奥様、離れられては困りますよ」 その後ろ姿を追いかけると、ヒューは意地悪な声色でアデラインの手を取って自分の肘に絡ませた。 ヒューの一挙一動に戸惑いを隠さないアデラインを見ているのはとても楽しかった。 ギャラリーの中は決して平和ではなかった。 もちろん、言葉通りではなく、来場した客たちの多くが見知った貴族や新興ブルジョワだったため、絵を見るより挨拶を交わす方が多かったからだ。 だが、一通り挨拶を済ませてしまえば、あとは自由だと思ったのは間違いだった。 誰
last updateDernière mise à jour : 2026-10-04
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22.紅茶

 市場を抜けると、大きなホテルにたどり着いた。「ちょうどいい。ここのサロンで休憩しよう」 ヒューの提案にアデラインは戸惑いを見せたが、ヒューすぐに後ろをついていたトビーに目配せをした。 トビーは心得た様子でホテルに入ると、サロンの入り口に立つ使用人に懐から取り出した名刺をみせた。 純金で作られた名刺を、恭しい仕草で胸元から出したハンカチで受け取ると、使用人は颯爽とした足取りで店の中に入っていった。 数分もしないうちに戻ると、トビーに名刺を丁寧に返して「お席をご用意します」と答えた。 トビーは名刺を仕舞うと、主人たちの元に戻り、ホテルの中に案内した。 アデラインはヒューのエスコートでロビーに立つと、ホテル内の贅を尽くした内装や、ベッカー邸の廊下に敷かれた絨毯よりも柔らかい絨毯に足が込むことに驚いて、ヒューの腕にしがみつくように恐る恐る歩いた。 サロンの入り口では使用人が待ち構えており、2人に用意した席に案内してくれた。 おそらく一番いい席であろう、日当たりがよく、他の客からも程よく離れたその席は、腰を包み込むような柔らかな椅子で、アデラインはわかりやすく感動していた。 座るなり胸元からシガーケースを取り出したヒューに、使用人はそっと「後ほどシガールームにご案内いたします」と口添えした。「なるほど」 ヒューは納得した様子でシガーケースを胸元にしまい込んだ。 随分と上品なことだと、小さく溜息をつくが、アデラインはそんなヒューのことは目に入っていないようで、どこか落ち着かない様子で周囲をそっと見回している。 テーブルの上にはメニューがあったが、ヒューはその上に手を乗せたまま、使用人に目配せをした。 使用人は丁寧な態度で2人に近寄ると、ヒューの手の下に置かれたメニューを一瞥してから丁寧に尋ねた。「近頃はコーヒーではなく紅茶を嗜まれる方も多くいらっしゃいます。いかがなさいますか」 使用人の言葉に、アデラインは慌てて「では、わたくしは紅茶をいただくわ」とぎこちなく答えた。「私はコーヒーでいい。それと、私の従者にも同じものを」 ヒューが言うと、使用人は
last updateDernière mise à jour : 2026-10-05
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23.小さなお茶会

 ヒューから紅茶を贈られたのは嬉しかったが、アデラインには紅茶の淹れ方が分からなかった。「奥様。よろしければわたくしがお手本を差し上げても?」 紅茶を前に首を傾げていたアデラインに助け舟を出したのはキャサリンだった。「男爵家では時折お茶を嗜んでおりましたので」 キャサリンはそう言うと、手慣れた仕草で紅茶を淹れて見せてくれた。「デニス男爵家はとても優雅なご趣味をお持ちだったのね」 アデラインが嬉しそうに言うと、キャサリンは寂しそうに微笑んだ。「夫が東インド会社に伝手がありまして、よく融通してもらっていたのですわ」「まあ」 時折新聞で見る名前に、アデラインは驚きと尊敬の眼差しでキャサリンを見た。「夫はインドの独占貿易が開かれてから、インドからモスリンを買い付けようと何度もインドに使者を送っておりましたの」「そうだったのね」 アデラインはキャサリンの淹れた紅茶を飲みながら、2年前に亡くなった男爵のことを考えた。 デニス男爵家とは直接の関りはなかったが、男爵家の商会が立ち上がっていないことを考えると、おそらくその商談は失敗に終わったのだろう。 今となっては、インドから買い付けるよりも安価なモスリンがイギリスから買えるのだ。 アデラインはヒューが平民でありながら、ベッカー商会をここまで大きくしたことに、改めて賞賛と尊敬の気持ちを抱いた。  冬が本格的になってくると、サロンに招待される日が少なくなっていた。 アデラインはキャサリンやナタリー、時々ポーラやトマスを客に迎えて、暖かい温室で小さなお茶会を開催していた。「今日のお茶はどうかしら?」「あたしは昨日の方が美味しかったですねぇ」 アデラインが差し出した茶を飲みながら、ナタリーは仏頂面を崩さずに答えた。「今日のはちょっと苦みが強いように思いますよ」「あら、わたくしはこちらの方が深みがあって好きですわ」 キャサリンが言うと、ナタリーは仏頂面を少しだけ顰めた。「キャサリンさまは奥様に甘いですからね。その甘さで苦さも和らぐんでしょう
last updateDernière mise à jour : 2026-10-06
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24.アルマン侯爵領のベッカー商会

 数年ぶりに見るアルマン侯爵家は、かつての荘厳な雰囲気を失い、美しかった庭は伸び放題の蔦や草木に覆われて、かろうじて屋敷に通じる道だけは整備されているような状況だった。 事前に手紙を送り、面会を取り付けていたとはいえ、平民の来客に家令ですら歓迎していないことがわかるようだった。 それもそのはずだ。 手紙には、侯爵領にあるベッカー商会の撤退について相談したいと書いていたからだ。 貧しかったレンガ職人だった父は、国のあちこちで工場が建てられていると聞いて、朝も夜もレンガを焼き続けた。 なぜそんなことをするんだと子供心に不思議だったし、借金をしてまでレンガを焼く父に、母は泣きながらやめてくれと頼み込んだ。 レンガの材料もだが、木炭の値段がじわじわと上がってきて、借金が返せないと泣いていたが、そんな母を父は殴りつけてレンガを焼き続けた。 倉庫が、庭がレンガでいっぱいになり、やがて家の中にまでレンガが積み上げられた頃、身なりのいい男がやってきてレンガを全て売ってくれと言ってきた。 タダ同然の材料からできたレンガは、これまでの3倍の値段で売れた。 父は更にレンガを焼き続けた。 気が付くと、町はずれの小さなレンガ小屋は、巨大なレンガ工場になっていた。 それがベッカー商会の始まりだった。 「手紙は受け取った。お前——いや、君のいう条件とは何だね」 アルマン侯爵は自分の向かいに座った若い男を、淡い琥珀色の瞳で見つめた。 その瞳の色には覚えがある。 ヒューは不意に10年以上前の思い出が蘇るのを、理性で抑え込んだ。今はくだらない思い出など不要なのだ。「まず、前提としてお伝えいたします。侯爵閣下、私は鉄道の投資権が欲しいのです」「ベッカー商会ほどの大商会であれば、容易なことだろう。君も知っている通り、私は侯爵と言っても今や何の影響力も持たない。君の望みに力を貸すことはできん」 アルマン侯爵の言うことはもっともだった。 地位のみでどうにかできる時代はとうに過ぎた。 領地の工業化を嫌い、農業を推奨し
last updateDernière mise à jour : 2026-10-07
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25.ふたりのお茶会

 翌日、アデラインに招かれたヒューは、茶色の毛織物の上下にえんじ色のクラバットという出で立ちで温室に現れた。「まあ……旦那様ったら、わざわざ着替えてくださったのですか?」 アデラインは思いがけないヒューの姿に、少しだけはにかんだように微笑んだ。「奥方からの初めての招待だ。適当な格好では失礼にあたるだろう?」 ヒューはそう言うと、トビーのエスコートで椅子に座った。「キャサリンからやっとお免状をいただきましたの。旦那様から戴いたお茶を旦那様に振舞うなんて、ちょっとおかしな話ですが」「俺に振舞うために毎日練習してたのか?」 ヒューが言うと、アデラインは顔を真っ赤にしてわかりやすく狼狽えた。 キャサリンやナタリー達には練習をしていることは口止めをしていたはずだ。 なぜヒューがそのことを知っているのかと困惑しているのだろう。 その様子がおかしくて、ヒューはにやりと笑うと、親指で自分の執務室の窓を指差した。「見られていたなんて——」 両手で顔を覆ってキャサリンの胸に埋めると、キャサリンは優しくアデラインの背中を撫でた。「黙っていた方がよかったかな?」 キャサリンとトビーの責めるような視線に、ヒューは気まずくなって肩をすくめたが、アデラインはまだキャサリンの胸から離れない。 ヒューが困っていると、キャサリンはアデラインの背中を優しく撫でながら、ティーセットとヒューを交互に見て、何か言いたげに眉を顰めた。 なるほど、とヒューは頷いて軽く咳払いをした。「あー……君から茶を振舞われるのを楽しみに来たんだが、日を改めたほうがいいかな?」 ヒューが椅子から立ち上がろうとすると、アデラインは慌てて振り返った。「いけません。旦那様の大切な時間を割いていただいたのですから——その、ちょっと恥ずかしかっただけですわ」 アデラインがわざとらしく咳払いをすると、ヒューは唇を緩めて、椅子に腰を下ろしなおした。 アデラインの瞳によく似た琥珀色の紅茶は、どこかほの甘く、紅茶の味など分からないヒューですら美味しいと思えた。「こちらはエブラム夫人が旦那様のためにと焼いてくださったビスケットですのよ。ナッツが入ったものお好きなのだと聞きましたの。ご一緒に召し上がってくださいな」 アデラインが嬉しそうに皿に盛ったビスケットを差し出すと、ヒューは勧められるままに手に取っ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-10
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26.サロン

 ヒドルストン伯爵夫人のサロンが2週間ぶりに開催されると、アデラインも当然招待を受けた。 音楽家の奏でるピアノが優しく鳴り響くサロンは、いつもよりも人が少ない気がしていた。「アデライン、あなたに大事なお話があるの」 ダストン子爵夫人と談笑しながら刺繍を楽しんでいたアデラインに、ヒドルストン伯爵夫人が声をかけた。 中座するのは失礼にあたらないかとダストン子爵夫人を見たが、事前に話は通っていたのか、にこやかにアデラインを送り出してくれたので、ヒドルストン伯爵夫人とサロンの奥にあるソファに並んで座った。「わたくし、このサロンを閉じようと思っているの」 ヒドルストン伯爵夫人の発言は、納得できるものだった。少し前から彼女の顔色が悪いことにアデラインは気付いていた。「お体がお辛いのですね。大丈夫ですわ——空気のいいところでゆっくり静養なされば、きっとすぐに回復されます」 アデラインが夫人の手を握ると、夫人は思った以上に痩せて骨ばったその手でぎゅっと握り返してきた。「ありがとう。あなたは本当にお母さまによく似て優しいわ。それだけじゃない、賢くて気品に溢れている」 夫人は緑色の瞳で、アデラインの困惑する目を見つめた。「わたくしね、あなたのお母さまが本当に好きだったの。美しくて、気品があって、社交界にでたばかりのわたくしのことをとてもかわいがってくださっていたのよ」 夫人の言葉には、懐かしさだけではない温かさが込められていて、アデラインはその中に亡くなった母が最期に見せていた姿を重ねていた。 立派な貴婦人としてアデラインを育てないといけないと、いつも気負っているように見えた母だったが、最期が近付くにつれ、アデラインや妹たちを優しい目で見つめることが増えていた。 そして、時折アデラインの手を握っては、こう言ったのだ。『アデライン。あなたはわたくしの誇りよ。あなたの母親になれて、わたくしはとても幸せだったわ』 なぜ、過ぎたことのように言うのか、その時のアデラインにはわかっていなかった。 だが、今ならわかる。「夫人——いいえ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-11
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27.ダンテ・ギャラリー

 夕食の席でアデラインは何と言ってサロンのことを打ち出せばよいのか迷っていた。  ベッカー邸は、十分な広間も客間もあるため、サロンとして開放するには問題はない。  使用人たちもポーラのおかげで、貴族相手にも恥ずかしくない仕上がりになっていた。  だが、アデラインには気がかりなことがあった。  自分が嫁いで来てから、この屋敷には一度も客人を招待していないのだ。  元々客人の少ない屋敷だが、結婚したら親しい友人や付き合いのある人物を招いて、ちょっとした食事会を開くのが一般的なのだが、トマスもリチャードも一度もそのことに言及しなかった。  もしかしたら、ヒューは客を招くのが嫌いなのかもしれない。  アデラインはそう考えると、この屋敷でサロンを開催するのは良くないのではないかと思えたのだ。 「どうかしたか?」  アデラインの普段と違う様子を、ヒューは敏感に察して口を開いた。 「え——いえ、その……」  何でもない、と言いかけたその時、ヒドルストン伯爵夫人の言葉が脳裏に蘇ってきた。  ——あなたが支えることができれば、あなたの旦那様はきっと社交界でも立場を得ることになるわ  そうだ。だからこそ、自分はサロンを引き継ぐことを決めたのだ。  アデラインは小さく息を吸い込むと、細いお腹に力を入れて、ヒューを見つめた。 「あの……ヒドルストン伯爵夫人がサロンを続けることが難しいとおっしゃられて、わたくしが……その……」 「ああ」  アデラインが覚悟を決めて話したというのに、ヒューは一言で理解したように頷いた。  そして、食堂の隅に控えていたリチャードを手で呼ぶと、何かを耳打ちした。リチャードは心得た様子で頷くと、食堂を後にした。 「あの……旦那様?」  アデラインはわけがわからず、食事の手を止めたまま唖然とヒューを見つめた。 「少し待ってくれるか?リチャードが戻るまで——ああ、もう戻ってきた」  リチャードは優雅な姿勢を崩すことなく、しかしいつもよりも早足でヒューに歩み寄ると、ヒューに耳打ちした。 「わかった。ありがとう」  ヒューはそう言う
last updateDernière mise à jour : 2026-10-12
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28.ヒューの贈り物

「ねえ、トビー。あなたはこの建物を旦那様が買い取ったと知っていたの?」  工事の進捗を確認しに来たアデラインは、トビーにこっそりと話しかけた。 「旦那様には口止めされておりますので」  トビーは礼儀正しく言うと、アデラインはムッとした表情でトビーを睨みつけた。 「旦那様から直接伺うのがよろしいかと」 「つまり知っていたのね」  アデラインが肩をすくめて見せると、トビーもまた肩をすくめた。  工事は順調に進んでいた。  元々直前までギャラリーとして使われていた建物だったので、特段手を入れる必要もないと思われたが、いわくつきの建物を居抜きで使うのも、あまり気分が良くない。  アデラインは2階の大広間の壁の色を落ち着いた青い漆喰で埋めることにした。  流行りの合成塗料を使ったものではなく、大理石とラピスラズリと練り込んだ伝統的な青は、鮮やかな光沢を放ち、まるで部屋全体が海の底にいるような神秘的な美しさを醸し出す。  ラピスラズリの漆喰は、金と同等の価値を持つと言われるほど高価で、夫の資金でこんなにも豪華な装飾を施すのは非常に気が引けたが、アデラインが気に入ったと気付いたヒューが強引に決めてしまったのだ。 「ヒドルストン伯爵夫人のサロンを引き継ぐからには安っぽい装飾でゲストを招くわけにはいかないだろう?」  ヒューの言い分にも納得せざるを得ない部分は確かにあった。そして、その選択は決して間違えてはいなかった。  職人によって取り付けられたマントルピースは、ゴシック大聖堂の装飾を模した樫の木と白の大理石で重厚感と荘厳な美しさを演出し、ラピスラズリの青い壁によく映えた。 「素晴らしい誂えだ。こんなに素晴らしい装飾は、王室でもそうそう見ないのでは?」  聞き慣れた声がして振り向くと、ヒューの姿がすぐ後ろにあった。 「旦那様……なぜここに?」 「今日は君がここを訪れると聞いたので、俺も見に来たんだ。君が心血を注いだサロンがどんな風に出来上がるのか興味があるだろう?」  ヒューの言葉はどこか揶揄うようだったが、アデラインはそれがくすぐったかった。  確かに、このひと月というもの幾度
last updateDernière mise à jour : 2026-10-13
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29.セシル

 セシルがベッカー邸にやってきたのは、それから4日後のことだった。「冬が深くなる前に首都に行って、デビューまでに首都の雰囲気を確かめたい」 そういう手紙が届いた翌日にセシルがやってきたことに、アデラインは喜びを素直に感じることができなかった。 馬車を待つ間、ちゃんと言い聞かせなければと意気込んでいたが、馬車が車寄せに停まると、そんな考えは一気に吹っ飛んでしまった。「お姉さま!すごく綺麗よ。見違えましたわ」 馬車から降りるなり、飛びつくように抱き着いてきた妹は、相変わらず可愛らしくて懐かしい体温と香りが、アデラインの表情を女主人から姉のものに変えていた。「わたくしも会えて嬉しいわ。なんだか少し見ない間に随分と大人っぽくなったようにも見えるわ」 セシルの柔らかい体を抱き締めながら、数か月ぶりに見る妹を懐かしい眼差しで見つめると、2人の瞳が見る間に潤んでいった。「あなたに会えて嬉しいわ。でも、それとこれとは話は別です」 アデラインは客間にセシルを座らせると、厳しい顔で睨んだ。「相変わらずね、お姉さまは。可愛い妹に会えて嬉しいわ、とかないの?」 セシルはナタリーが差し出したホットチョコレートを飲みながら、悪びれない態度で言い返した。「もちろんあなたに会えて嬉しいわ。それに、可愛い妹でなければ突然やってきた客人を屋敷に招き入れることもありません。さっさと馬車に詰め込んで追い返しているわ」 アデラインの語気を強めた言葉に、セシルは肩をすくめてホットチョコレートの甘さを味わった。 侯爵邸で飲むホットチョコレートに比べて、濃厚で甘味が強い。長旅の疲れが溶けていく気がする。 セシルはホットチョコレートを一気に飲み干すと、笑顔で言った。「だって、お姉さまからの手紙があまりにも楽しそうだったんですもの。わたくし、あとひと月なんて我慢できなかったのよ」「だからと言ってクリスマスの前に来る人がありますか。お父さまやコレットはどうするの」「あら、お父さまは承知してくださいましたわ。コレットももう14歳よ?アカデミーの勉強もあるし、ひとりの方が羽を伸
last updateDernière mise à jour : 2026-10-14
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