All Chapters of 没落貴族アデライン・アルマン侯爵令嬢の結婚: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

1.求婚

「今、なんと言ったのかね」 50歳を迎えたアルマン侯爵は、目の前に座る27歳になったばかりの青年実業家を睨みつけた。 ガラス越しとはいえ、夏の強い日差しに照らされたこの男は、侯爵である自分を前にしても憎らしいほど堂々としている。「侯爵。私は鉄道事業への投資権が欲しいのです」「それは先程も聞いた。その後だ。ヒュー・ベッカー」 アルマン侯爵は苛立たしげに、パイプに煙草の葉を詰めている。 その手元が怒りで震えているのを、ヒューは顔色も変えずに見つめていた。「平民に鉄道事業への投資が解放されるのはずっと後のことです。以前の港の開発でも私は誰よりも多くの資金を投じましたが、その資金に見合う分配は受けられていません。それは侯爵もよくご存知のことでしょう」 ヒューは事もなげに言ったが、アルマン侯爵はヒューを見ようともせずにパイプに火をつけるとゆっくりと吸い込んだ。「それで、私の娘と結婚して侯爵家に入り込みたい、そう言いたいのだな」 大きく煙を吐き出すと、アルマン侯爵はようやくヒューの顔を見つめた。 薄い琥珀のような瞳は、怒りと諦めの色が浮かんでいるのがよくわかる。 ヒューはわざとらしく微笑んで頷いた。 この交渉は初めからヒューの勝利で終わることはわかっていたのだ。「わたくしが結婚——ですか」 食事を終えた食堂で、アルマン侯爵の話に、アデラインは驚いて手元のグラスを落としそうになった。「昼間いらしたあの男性ですの?」「セシルお姉さま、お父様とアデラインお姉さまがお話されているのよ。行儀が悪いわ」 セシルが身を乗り出すように尋ねたのを、末娘のコレットが眉間に皺を寄せて睨む。その様子を、アルマン侯爵はいつもの愛しさを滲ませた視線ではなく、深い絶望を浮かべた瞳で見つめた。「お前も知っているだろう。最近飛躍的に事業を拡大しているベッカー商会のヒュー・ベッカーだ」「ベッカー商会……平民ですわ」 アデラインは新聞で何度も見た名前を思い浮かべた。金貸しから成り上がり、現在では商会だけではなく銀行の設立など幅広く事業を展開する大富豪だ。 だが、大富豪とはいえ平民であることに変わりはない。アデラインは青ざめた顔で侯爵を見つめた。「お姉さまが平民になるのですか?」 セシルが好奇心旺盛な瞳で侯爵に尋ねたが、侯爵は首を横に振った。「ヒュー・ベッカーは侯爵
last updateLast Updated : 2026-09-18
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2.結婚式

 婚約が決まったとは言っても、それは書類だけのことだった。 婚約承諾書にサインをした後にヒュー・ベッカーから贈られてきたのは、色とりどりの宝石や上質な木綿や絹の布地に、サテンでできた靴や柔らかい羊毛の部屋履きなどで、2か月後の結婚式までに本人が現れることは終ぞなかった。 屋敷に豪華な贈り物が届くたびに妹たちは大喜びしたが、アデラインにはどんどんと積み上げられる贈り物が自分の代金なのだと思えて虚しいだけだった。 結局、アデラインがヒュー・ベッカー——いや、今はテイラー子爵家の養子となったヒューガード・テイラーと初めて会ったのは、結婚式が執り行われる教会だった。 ヒューガードから贈られた、流行の白い絹のウェディングドレスを着たアデラインは、アルマン侯爵に手を取られ床に敷かれた柔らかい絨毯の上をゆっくりと歩いていた。 亜麻色の髪を結い上げ、銀や真珠の髪飾りで飾り立てた頭に細やかな模様が全体に散りばめられたレースのヴェールで覆ったアデラインは、どこから見ても美しい花嫁だ。 絹地に金糸の刺繍を施されたドレスの重みを感じながら、父の腕の温かさに縋るように、一歩一歩夫となる男の元へ足を進めていく。 アルマン侯爵の足が止まると、アデラインは事前に教えられた通りに父の腕から手を離して、夫となるヒューガードの手を取り、彼の足の動きに合わせて俯いたまま再び歩き出した。 祭壇に到着してようやく顔を上げると、初めて夫の顔を見た。 セシルが言っていた通り、物語に出てくる美男子とは違うが、精悍で男らしい整った顔は、花嫁を迎えた喜びや緊張などは全く見受けられず、新聞で見る冷酷でやり手の事業家という評価にぴったりだと思えた。 誓いの言葉の後に口付けをすることは、アデラインにもよくわかっていた。 だが、この日初めて会う男と何を誓い、なんの口付けをするのかと思うと、アデラインはヴェールを捲り上げられた後も羞恥と悔しさで顔を上げられなかった。 その姿に、招待客のうち数人はアデラインの心情を察していたようだが、多くは初々しい花嫁の恥じらいと捉えて、アデラインの奥ゆかしさを讃える声が漏れ聞こえていた。 いつまでも顔を上げないアデラインの頬に、絹の手袋の感触がしたかと思うと、力強くはないものの強引に顔を上げさせられた。 長い睫毛に父親によく似た薄い琥珀色の瞳と、少し丸い形のいい鼻、
last updateLast Updated : 2026-09-18
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3.夫婦として

ヒューガードはアデラインの到着より実に30分以上も遅れて侯爵邸にやってきた。 アデラインはすでに到着したゲストから、1人で祝福の挨拶を受けていたが、その姿に疑問を投げかける人間は誰もいなかった。 夫の不在を尋ねる無礼は、貴族たちは礼儀としてもちろん行わない。それ以前にヒューガードを貴族として認めていない彼らにとって、初めから祝福を伝える相手はアデライン1人なのだ。 貴族の祝福が終わり、客間に案内されたヒューガードの仕事仲間と思われる貴族よりも身なりのいい平民らしき者たちは、彼の性格を熟知しているのだろう。1人で笑顔で立っているアデラインを見て、驚いた様子ではあったもののすぐに納得した表情になって、畏まった挨拶をするだけだった。 アデラインは、自分が豪華な衣装を着た案山子のようだと情けなくなり、貼り付けた笑顔が剥がれ落ちそうだった。 やがて、車寄せに急ぎ足の馬車の音が聞こえて、アデラインはようやく主役が登場したのかと胸をなで下ろした。 客間に現れたヒューガードは、衣服はもちろん髪の毛すら一筋も乱れてはいなかった。 アデラインに言葉をかけるでもなく、すんなりと隣に立って残りのゲストとの挨拶を終えた。 「遅くなりった」 ゲストが全て食堂に移動すると、ヒューガードが初めて口を開いた。 低く艶のある声に、アデラインは驚いたが、すぐに笑顔を作って「大丈夫ですわ」とだけ答えた。 ヒューガードは慣れた仕草でアデラインに肘を差し出した。 特段許しも求めていなかったのだろう。アデラインが儀礼的な手つきでその肘に手を絡めると、ヒューガードは堂々とした足取りで食堂に向かった。 見たこともないフットマンたちが、慣れた手つきで給仕をするのを、まるで他人事のように眺めながら、アデラインは久しぶりの豪華な食事を楽しむ余裕もなかった。 テーブルの飾りつけに使われた銀食器は、アルマン家のものもあれば見たこともないものも沢山あった。 それもそのはずで、アルマン侯爵家にこれだけのゲストを迎えるだけの什器など揃ってはいない。 10年の間に銀食器はおろか、陶器の皿やグラスまで売りに出してしまったからだ。 ただ、テーブルの上を彩る、小さな鳥を模った銀の塩入れだけは、母の嫁入りと共に侯爵家にやってきたのだからと、売らずに取っておいたものだった
last updateLast Updated : 2026-09-18
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4.新しい生活

 目を覚ましたアデラインは、重いカーテンの隙間から日差しが差し込んできているのを、ぼんやりと見ていた。 少し前までの夏の強い光ではない。秋の柔らかい朝の光だ。 恐ろしく寝心地のいいベッドから起き上がると、体のあちこちが痛い。 それもそうだ。 昨日は結婚式に披露宴、そして首都への移動と忙しかった。 その上、ウェディング・ブレックファストの後の小さな宴で、ヒューガードの知り合いから誘われたダンスは、とてもダンスといえる代物ではなかった。 楽団が奏でる、聞いたこともない平民の音楽だという賑やかな音に合わせて、足を踏み鳴らしくるくると回る様は、アデラインがこれまで習得してきたものとは全く違うもので、とてもダンスとは呼べなかった。 貴族のゲストが眉を顰めているのを横目に見たアデラインは、自分が滑稽な見世物にでも出されているのかと惨めな気持ちになったが、それでも笑顔は絶やさないよう努力した。 そんな苦労をしたというのに、昨夜は初夜すら拒否されたのだ。「いいえ。あれは旦那様の気遣いだったに違いないわ。あんなに遅くに帰られたのだもの。旦那様もお疲れだったに違いないわ」 自分に言い聞かせるように、アデラインは小さく呟いた。 昨日は疲れていたから、色々悪いようにと考え込んでしまったのだ。 政略結婚など貴族にとっては当たり前のことだ。「そうよ。お父さまとお母さまだって親が決めた結婚だったと言っていたじゃない」 長い時間をかけて、お互いを理解して信頼しあえる夫婦になったのだと、母は何度もアデラインに言って聞かせてくれた。「わたくしも、そうすればよいのよ——ええ」 決意するように呟いて立ち上がると、顔を洗うためのたらいを探した。 しかし、それらしいものはどこにもない。 それどころか、朝だというのにメイドがやってくる気配もないのだ。 いくら貧しい侯爵家であっても、朝にはメイドが洗顔用のたらいを準備して起こしにきていた。 アデラインは呆然としながらも、カーテンを開けて部屋に光を取り込むと、大きく息を吸った。 明るくなった部屋を見回すとベッドの脇にある呼び鈴の紐を見つけたので、ゆっくりと引いた。「おはようございます。奥様」 窓からじわじわと漂う冷たい空気に、シミーズ一枚で肌寒さを感じ始めた頃に、やっと昨夜のメイドがやってきた。 いくら広い屋敷といっ
last updateLast Updated : 2026-09-18
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5.身支度

 トマスが馬車に乗り込んで20分ほど進むと、首都の中心部分に堂々と建つベッカー商会に到着した。 使用人の案内も待たずに、つかつかと商会長の部屋の前に立つと、手袋をしたままの手で扉をノックした。「旦那様。トマスでございます」 一呼吸を終える前に、中から「入れ」と、聞き慣れた主人の声が聞こえた。 トマスは丁寧な所作で扉を開けると、眉間に皺を寄せて新聞を読む主人の前に立った。「昨日のことがもう新聞に出ている。この程度のことで騒ぐなど馬鹿馬鹿しいことだ」 新聞を机の上に乱暴に放り投げると、引き出しからパイプを取り出して、慣れた手つきで葉を詰めた。 新聞には、昨日アルマン侯爵領でベッカー商会の馬車が小高い崖から下の道路に転落したことが書かれていた。 トマスは昨夜遅くに戻った主人の姿を思い出した。 花嫁であるアデラインだけが、夜も更けた頃に屋敷に到着したことにも驚いたが、深夜に上等な花婿衣装を泥だらけにして戻ったヒューガードにも驚いた。 朝読んだ記事には、積み荷の下敷きになった使用人たちは全員無事に救出されたことと、夜遅くまでベッカー商会によって散乱した積み荷は撤去されたことが書かれていた。「奥様のことですが」 トマスは前置きを嫌う主人の性格を熟知していたので、新聞から目を逸らすと単刀直入に話すことにした。「侍女がおりません。そのため、お召し替えひとつにも苦労されているようでございます」「アルマン家から連れて来ているんじゃないのか?」 パイプに火をつけると、ゆっくりと煙を燻らせながら、トマスを正面から見つめた。「アルマン侯爵家には使用人は最低限しかおりません。侍女も1人しかおらず、3人の令嬢の世話をしているため連れてはこれないと以前お伝えしました」「そうだったか?」 トマスの言葉にヒューガードは眉根を寄せた。 そういえばそう言っていたような記憶もある。 だが、結婚の準備は全てトマスに任せていたのだ。いちいち覚えてはいなかった。「メイドではだめなのか」「侍女とメイドでは全く違います」 トマスは溜息をつきながら首を横に振った。 ひと月前に奥様の侍女をどうするのかを尋ねた際に、もっとしっかりと聞けばよかったと、トマスは強く後悔した。『奥様の侍女ですが、ご用意はいかがいたしましょうか。アルマン侯爵家であてがあるのでしたら結構ですが』
last updateLast Updated : 2026-09-18
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6.女主人

「家政婦のポーラでございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」 ナタリーが部屋に連れてきた40半ばの初老の女性は、深々と頭を下げた。「いいのよ。わたくしも人前に出られる姿ではなかったし」 アデラインが言うと、ポーラは横目で半歩後ろで控えているナタリーを見た。「今後はお手伝いが必要な際はわたくしをお呼びくださいませ。以前はヘッセン伯爵家でメイドをしていた経験がございます」 この数少ない会話でポーラは全てを察したのだろう。 アデラインはポーラの存在を少しだけ頼もしく思った。「そうね。明日の朝はあなたにお願いします——と、言いたいのだけど、わたくし、このドレスがとても気に入ったの。明日もこれを着たいわ」「ですが、2日続けて同じご衣裳など——いいえ、畏まりました。では、針子に命じまして同じようなものをすぐに作らせますわ」 ポーラはアデラインの考えを察して、すぐににこやかに答えた。 アデラインはポーラの答えに満足して、「よろしくね」とだけ言うと、ナタリーは仏頂面を少しだけ気まずそうにしかめたが、アデラインは見ない振りをした。「家令のトマスは——」「外出しているとナタリーに教えてもらったわ。戻ったらまた挨拶をさせて頂戴。それまでナタリーに屋敷を案内してもらうわ」 アデラインが言うと、ポーラは頷いてナタリーに「頼みましたよ」とだけ言って、部屋を後にした。 ナタリーの先導で屋敷を見て回ったアデラインは、領地の侯爵邸に引けを取らない広さと、豪華な装飾、そしてそれらが埃ひとつなく丁寧に手入れされていることに感心していた。 窓にかけられたカーテンひとつとっても、丁寧にブラシをかけて手入れをされていることがわかる。木の床などは念入りにワックスをかけて磨かれているおかげで、艶やかに輝いている。「旦那様はとても厳しい方なのかしら」「いいえ。旦那様はお忙しくい方ですのでお屋敷にはほとんどいらっしゃいません。屋敷にいらっしゃる時も執務室から出られることは滅多とありません」「お客様は頻繁にいらっしゃるの?」「滅多といらっしゃいません。年に数回、お食事をご一緒されることはありますが、滞在される方は見たことがありませんね」 ナタリーの答えに、アデラインは「そう」と残念そうに答えた。 せっかくこれだけ素晴らしい家を、ヒューガードという人は気にかけもしないのだ。
last updateLast Updated : 2026-09-18
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7.覚悟

「わたくしは、朝は食堂で食事をします」 アデラインが言うと、トマスは「承知いたしました」と頷いた。 ヒューガードがどの程度の権限を認めたのかという問いには、トマスは明確には答えなかった。「奥様に不自由がないようにと仰せつかっております」との返事は、肯定的に受け止めると女主人の全権を認めるとなるし、否定的に受け止めると単なる客人の扱いだとなる。 アデラインはどちらなのかと問いただすことはしなかった。その代わり、確認すればよいのだ。「屋敷の誂えを整えたいわ。屋敷の維持費や改修費の予算を見せてもらえるかしら」 その要望にも、トマスは黙って頷いた。 アデラインはその動作を見て、満足そうに頷いた。 トマスの答えで、旦那様はそれなりに自分に裁量を任せてくれている——アデラインはそう確信することができた。「夕食前に使用人を集めてちょうだい。挨拶がしたいわ」「かしこまりました。全員、玄関ホールに集まるよう申し伝えます」「お願いね」 アデラインが言うと、トマスは目元で微笑んで見せた。目尻に皺が寄るのを見て、父のアルマン侯爵が懐かしくなったが、別れたのはつい昨日のことだ。 それなのに、これからここが自分の生活する場所なのだと思うと、もう数か月も会っていないかのような切なさが胸を締め付けた。 これが結婚というものなのだろうか。 これまで一緒に過ごした温かい家庭からでて、新しい環境で1人の大人の女性として生きていく。そこにはもう、愛しい父や妹たちの温もりはなく、代わりに得た新しい家族の手を取って歩く。それが結婚なのだと亡くなった母から教えられた。 だが、アデラインはすぐに否定した。 何故なら、結婚とは1人でするものではない。そして、自分の夫は手を取るどころか、初夜はもちろん、結婚したばかりの朝にすら顔を出さないのだ。 いくら世間知らずなアデラインにもわかる。こんなのは普通じゃない。 アデラインはトマスの目尻の皺から目を逸らして、小さく両手を重ねて握った。 それでも—— もう結婚生活は始まってしまったのだ。 それならば、少なくともこの屋敷の女主人として、そして、次期アルマン侯爵夫人として堂々と振舞わなければならない。 アデラインは深く息を吸い込むと、ぐっと胸を張った。「夕食のお召し替えはいかがいたしましょう。ミセスポーラを呼んでまいりましょう
last updateLast Updated : 2026-09-19
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9.始まりの朝

 重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」  ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」  アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。  サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。  アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。  続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。  顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。  鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。  鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。  一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。  おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。  アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」  アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。  10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」  トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。  ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承知
last updateLast Updated : 2026-09-19
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8.食事

ベッカー邸の食堂で初めて摂る夕食は、アルマン侯爵家とは違い、ロシア式でサービスされるのだと、食堂に向かう途中でトマスが教えてくれた。 アルマン侯爵家では、フランス式——と言えば聞こえがいいが、質素な食事がいくつかテーブルに並べられただけのもので、一品ずつ提供されるロシア式は本や新聞でしか見たことがなかった。 「本日の給仕を務めさせていただきます、第一侍従のジーン・フィッシャーです」 トマスが紹介した従僕は、夫と同じとび色の瞳を細めて会釈をした。 瞳の色は同じでも、ジーンはフットマンらしく若々しく、彫刻のように美しい顔が華やかで、ヒューガードとは全く違うとアデラインは思った。 ジーンは、丁寧な所作でグラスにシェリー酒を注ぎ入れたが、左手でグラスの底を押さえていた。 アデラインは少しだけ眉をしかめたが、すぐにシェリー酒を口に運んだ。 癖のない舌触りのシェリー酒は、するすると喉を通り抜けた。アーモンドのような香りが鼻をくすぐり、爽やかな口当たりが食欲を増してくれるようだ。 こんなに上等なシェリー酒は口にしたことがない。 ほっと感嘆の溜息をつく間に、目の前にスープの皿が差し出された。 湯気の立った皿はそっと受け皿の上に運ばれたが、置かれる際に食器同士の重なる音が静かな食堂に小さく響いた。 アデラインは気付かないふりをして、食事を続けようとスープ皿を覗き込んで息を呑んだ。 スープは透明な琥珀色が美しい、初めて見るものだった。 「こちらはコンソメスープでございます」 トマスが伝えると、アデラインは驚きと興奮が入り混じった顔でトマスを見つめてから、もう一度スープを見つめた。 「これが……」 本で読んだコンソメスープは、大量の肉や野菜を使い捨てる上、大変な技量を要する、それはそれは贅沢なスープだった。 そんなものを一生口にすることなどないと思っていたのに、目の前で光り輝いているのだ。 アデラインはそっと、スープを掬うと一口目をゆっくりと味わった。 透明な液体の中に濃厚な牛肉の甘味が溶け込み、それを野菜たちのスパイシーな香りが包み込む。今までに味わったことの無い美味しさに、気が付くと皿はすぐに空っぽになっていた。 部屋に戻ったアデラインは、木綿の生
last updateLast Updated : 2026-09-20
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9.始まりの朝

重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。 「おはようございます。奥様」 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。 「おはよう。ナタリー」 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。 「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。 「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」 「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承
last updateLast Updated : 2026-09-21
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