Tous les chapitres de : Chapitre 31 - Chapitre 40

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30.貴族らしさ

「なんだって言うんだい!あのお嬢様は!」 使用人の食堂で昼食を摂りながら、ナタリーは憤りを隠せないでいた。「いやあ、俺もあれには驚きましたよ。ナタリーさんがメイド長だってことは奥様も紹介なさるときに言ってたんだけどなぁ」「でも、とてもお美しくて可愛らしいお嬢様でしたわ」 ジーンの言葉はまるで耳に入らなかったのか、若いメイドのサラはうっとりと言った。 ナタリーに言われて、セシルの荷物を解きに部屋に行った時のことを思い出しているのだろう。 亜麻色の髪を可愛らしく巻き毛にして、幼さの残る大きな目には緑色の瞳がきらきらと輝いていたセシルは、サラから見るとまるでお姫様のようだった。「確かに見た目は奥様に似てお美しいかもしれないけどね。中身はえらい違いだよ——あんたもくれぐれも粗相しないように気を付けな」 ナタリーはサラを睨みながらキッシュをスープで流し込むと、手早く食器を片付けて立ち上がった。 奥様がご立派な方だから忘れていた。貴族とは、本来ああいうものなのだ。尊大で、傲慢。使用人など言葉をしゃべる物程度にしか思っていない。それが貴族というものなのだ。 ナタリーは少しだけ、自分もアデラインに甘えていたことを自覚して、自分を恥じた。 アデラインはジーンから受けた報告に頭を抱えていた。 侯爵家が貧しくなってからも、妹たちにだけは貧しい思いをさせないよう心掛けてきたつもりだった。 貴族としての教育も怠ってはいなかった自負はある。 だが、決定的な過ちが一つだけあったのだ。 アデラインはまだ母と共に、他の貴族の屋敷に招かれる機会も多くあった。 だから社交界にデビューしていなくとも、それなりのマナーは心得ていたのだ。 だが、幼かった妹たちにはその経験がない。 まして、侯爵家では数少ない使用人で、メイド長や下働きなどといった区別なんてほとんどなかったのだ。 そんな中で育ったセシルが、客として滞在する際のマナーなど持ち合わせているはずがなかったと、落ち着いて考えればわかることだ。 いや、そもそもこの屋敷に滞在する自分を客だ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-15
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31.教育

 セシルは可愛らしい家具に囲まれてご機嫌だった。  アデラインは、セシルが物語を読むたびにロココ調の家具の挿絵を見て素敵だと言っていたことを覚えていたからこそ、この調度を整えたのだ。 「お部屋は気に入ってくれた?セシル」  アデラインが部屋に来ると、セシルは無邪気に顔を輝かせてソファから飛び起きた。 「ええ、お姉さま。なにもかもが完璧だわ。それにね、首都にはたくさんのお店があるでしょ?わたくし、お姉さまとお出かけするのを楽しみにしてたのよ」  セシルはやおら表情を曇らせた。 「……でも、わたくしのドレスはどれも少し古いみたい。首都のみんなはとても素敵な格好ばかりよ」  甘えるように上目遣いにアデラインを見るセシルは、やはり可愛らしく、アデラインはセシルの肩を抱いてソファにゆっくりと座らせた。 「そうなのね。ではわたくしのドレスを貸してあげるわ。あなたにも似合いそうなのが沢山あるのよ。コートも必要ね——旦那様があなたにと選んでくれたコートがあるのよ。あとで一緒に見ましょう」 「ヒューガード様が?なんて素敵なの!ありがとう、お姉さま」  セシルは可愛らしくアデラインに抱き着くと、昔のように頬にキスをしてくれた。 「いいのよ、可愛いセシル。でもね——」  アデラインはセシルの体を優しく引き離すと、微笑みを浮かべたまま続けた。 「この屋敷の使用人は旦那様の使用人なのよ。だから、何があっても無礼を働いてはだめ。それはあなたの滞在を許してくださった旦那様への無礼に当たると思いなさい」  何のことを言ってるのか、セシルはすぐに察したようで、蕾のような愛らしい唇を尖らせてアデラインを見た。 「でも……あれはあのメイドが」 「彼女はナタリー。この屋敷のメイド長よ」  セシルの言い訳をアデラインはあくまでも優しく制した。 「ナタリーもあなたに意地悪な言い方をしていたことを詫びていたわ。だから、許してあげてくれる?」 「——ええ。お姉さまがそう言うなら」 「えらいわ、セシル。さすがはわたしくしの可愛い妹ね」  アデラインがセシルの頬に
last updateDernière mise à jour : 2026-10-16
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32.絵具

 夜遅くにヒューが帰るのを、アデラインは着替えずに待っていた。 リチャードに伝言は託したが、昼間の件は自分の言葉で報告すべきだと思ったからだ。 静まり返った屋敷の庭に馬車の音が響くと、アデラインは鏡の前で髪の乱れがないかを確かめ、ショールを羽織って玄関に向かった。 ここ数日は夕食の時間には帰っていたヒューが、今日に限って遅くなったのはセシルに気を遣ってのことだろうとアデラインは思っていたが、玄関から入ってきたヒューを見てそれは違うのだと理解した。 いつもは髪や服装の乱れなど一切見せないヒューが、今日に限って髪は乱れてジャケットの中のシャツは襟が取れてしまっている。「どうかなさったのですか?」 ヒューがアデラインに気付く前に声をかけると、ヒューは普段の冷静な態度からは考えられないほど驚いた表情でアデラインを見た。「こんな時間まで起きてたのか——いや、ちょうどいいというのは語弊があるが、君に話さなければならないことがある」 翌日の朝早くから、アデラインはヒューの馬車に乗って首都の町を進んでいた。 目的地は旧ダンテ・ギャラリー——アデラインが一週間後にサロンを開く予定の建物だった。 ヒューは、俯いて膝の上で両手を握るアデラインを何度も見たが、声をかけられないまま馬車は目的地に到着した。 ヒューの手を取って馬車を降りたアデラインは、その光景に息を呑んだ。「こんな——ひどい……」 アデラインは両手で口元を覆うと、声を漏らした。 昨夜ヒューから聞かされたとおり、重厚な樫の木の扉は鮮やかな緑の絵具で彩られていた。 その扉の前ではベッカー商会の従業員が2人、黙々と作業をしていた。きっとかなり前から作業していたと分かるのは、彼らの近くに置かれた絵具を落とすためのテレピン油が入ったブリキ缶と緑色に染められた大量の布から推察することができた。「旦那様、奥様」 使用人の1人が2人に気付くと、作業の手を止めて頭を下げた。「絵具はまだ乾いてませんので表面上は落とせると思いま
last updateDernière mise à jour : 2026-10-17
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33.画材商

「旦那様、一先ず商会に戻りましょう」 サムと入れ違いに追いかけてきたウィリアムがヒューに声をかけたが、ヒューは首を建てには振らなかった。 じっと緑の絵具を睨みつけると、左の扉よりも右の扉の方が飛沫が多いことに気が付いた。「ここから一番近い画材商はどこだ」「はい——?」 ウィリアムが首を傾げると、ヒューは振り返ってウィリアムを睨みつけた。「い、一番近い画材商はリックス通りのベンジャミンの店です」 ウィリアムが答え終わる前に、ヒューは御者に行先を伝えると馬車に乗り込んでウィリアムが後ろのステップに乗る間も与えずに出発させた。 馬車の中で、ヒューは息苦しさを感じてにシャツの襟を外してシートに乱暴に放り投げた。 リックス通りのベンジャミンの店は、まだ灯りが点いていた。 ヒューは御者が止めるのも聞かずに、鍵のかかった扉を乱暴に叩いた。「とっくに店じまいだよ。明日来てくんな」 扉を叩くヒューの手が赤くなった頃、ようやく店の中から面倒臭そうに声が聞こえた。「ベッカー商会のヒューガード・アルマンだ。開けていただけるか」 ヒューが名乗ると、中から慌てて鍵を開ける音が聞こえて、額に汗を滲ませた枯れ枝のように痩せた店主が顔を出した。「会長さんがいったい何の用ですか」「聞きたいことと頼みたいことがある。もちろん、満足な礼もする。来てくれるか」 店主を見下ろすように言うヒューの表情は、以前見たことのある冷静で冷淡な表情ではなかった。 「確かにこれはエメラルドグリーンで間違いないです——うちの店では直接は売ってませんが、業者から見本を見せてもらったんで覚えてます」 扉にべったりと付いた絵具を見て、店主はヒューを見上げた。「落とせるか?」「乾くまでに時間がかかりますから、表面の絵具を剥ぎ取ればなんとか——朝一番でうちの人間を寄越しますよ」「それで間に合うのか?」 ヒューが矢継ぎ早に質問するのを、店主は後ずさりしながら頷いた。
last updateDernière mise à jour : 2026-10-18
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34.捜査状況

 警察という組織ができたのは3年前のことだった。 国内の治安を守るために、と言うには聞こえはいいが、実際は高圧的な態度で市民を睨み、暴動や反乱を抑えるだけの組織だった。 だが、それはヒューが平民だった頃の話だ。「ベッカーさん——あ、いやアルマン小侯爵。あなた方が調べられた通り、画材商に聞き込みをして、帳簿も洗いざらい調べましたが、この1週間でエメラルドグリーンを買った客はいませんでしたよ」 真新しい制服を着た若い警察官が、横柄な態度で報告をしてきたのは、次の日の午後だった。 ヒューはベッカー邸でアデラインと共に警察官からの報告を受けていたが、警察官の態度にヒューは苛立ちを隠せなかった。「1週間より前は?」「そりゃね、この町には大勢の画家がおりますから、全く売れてないわけじゃないですとも。それでも、えーっと」 警察官は手帳を取り出すと、わざとらしくページを捲り、何かを発見したかのように目を見開いた。「12月にはいってからは3人ですね。よっぽど高価なんでしょうな。みんな豚の膀胱じゃなく、シリンダーで買ってます。こんな量じゃ到底あれだけ派手なぶちまけ方はできませんな」 警察官は馬鹿にするような笑いを浮かべると、ちらりとアデラインを見た。 ヒューに寄り添うように、青ざめた表情を浮かべるアデラインは、警察官がこれまで見た誰よりも美人だった。「こんなことをした犯人を見つけてくださるのですよね?」 アデラインの縋るような目は、警察官の胸をくすぐるのに十分だった。「も——もちろんですよ、奥様。そうですね、また色々聞きたいこともありますんで、今度は奥様にゆっくりお話を聞きに来てもよろしいですかな」 警察官は好色の眼差しでアデラインを見たが、アデラインには気付いていないようだった。「もちろんですわ」 と、答えようとしたが、ヒューが力強くアデラインの肩を抱いてその言葉を途切れさせた。「妻に話を聞く時は私も同席する」 ヒューのとび色の瞳が警察官を睨みつけると、警察官は一瞬怯んでみせたが、すぐに咳払いをしてさっきよ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-19
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35.姉妹の時間

 午後になると、アデラインはセシルを連れてセントジョーンズホテルに向かった。 「わあ、素敵!まるでお城みたいよ」  セシルが小声で感動しているのを見て、アデラインは連れて来てよかったと心から思った。  あれから、時々ヒューと出かけた時に立ち寄るようになったサロンは、すっかりアデラインのお気に入りになっていた。  ジーンがいつも通り純金の名刺を恭しい態度で出すと、2人はすぐにいつもの一番いい席に案内された。  可愛らしい苺の模様が描かれた茶器が目の前に運ばれると、セシルは目を輝かせて喜んでいる。 「お姉さまが淹れてくださった紅茶は甘いのに、こちらの紅茶は苦いのね」  紅茶を一口飲むと、セシルは顔を顰めてみせた。 「そうね。こちらの紅茶は、この甘いケーキを食べながらいただくのよ」  初めて訪れた自分の姿を見ているようで、アデラインはおかしくてつい笑ってしまった。 「まあ、ひどい。わたくしが初めてだからって、馬鹿にしてるのね」 「ちがうわ、セシル。拗ねないで。あなたが可愛すぎて嬉しくなったのよ」 「本当に?」 「ええ。わたくしがあなたを馬鹿にしたことがあって?」  アデラインがセシルの顔を覗き込むと、セシルはぱっと顔を輝かせて微笑んだ。 「いいえ!お姉さまはいつもわたくしとコレットを大事にしてくださっているもの」  セシルはそう言うと、少しだけ顔を曇らせた。 「どうしたの?」  アデラインが心配して尋ねると、セシルは紅茶の入ったカップを両手で包み込んだ。 「いいえ、ただ——わたくしだけこんなに楽しい思いをして……コレットも連れて来てあげたいなって思ったの」 「まあ」  アデラインは微笑むと、セシルの手をそっと握った。 「あなたが本当に優しい子で、わたくし嬉しいわ」  アデラインの言葉に、セシルははにかんだように笑って応えた。 「ねえ、わたくし劇場にも行ってみたいわ」 「ええ、そうね。年が明けたら行きましょう」  アデラインはそう言いながら、セシルのデビューの準備もしなければと考え、やることの多さに頭が痛くなるよ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-20
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36.機転

「まったく、君の発想には感心する」 出来上がった扉を前に、ヒューは隣に立つアデラインを感心して見下ろした。「いいえ、旦那様のお店を参考にさせていただいただけですし、そのきっかけをくれたのはセシルですわ」 アデラインは嬉しそうに微笑んでヒューを見上げると、とび色の瞳と目が合って頬が熱くなるのを感じて、すぐに正面に向き直った。 絵具を丁寧に取り除いたものの、わずかな隙間に入り込んだエメラルドグリーンはいやというほど存在感を主張し、拭い取るために使ったテレピン油のシミが、重厚な樫の木をただの薄汚れた木材の扉へと格下げしていた。 新しい扉を作る時間など到底なく、招待状はとうの昔に出し終えている。 だが、ベッカー宝石店の扉がアデラインの悩みを全て解決してくれたのだ。 扉を真鍮の枠で覆い、三分の二の高さまで真鍮のプレートを貼り付けた。そして、扉の前面に大きな手すりを取り付けたのだ。 ホテルを出てセシルをジーンに任せて屋敷に返すと、アデラインは職人の元に急いで、そのアイディアを話して聞かせた。「それくらいなら、材料もありますから、3日もありゃ準備できますよ」 職人が夜も徹して準備してくれた真鍮のプレートは、ただの板だけではなく絨毯と同じ牡丹やロータスの飾りが小さくつけられていた。 重厚だった樫の木の扉が、真鍮の彩りによって一気に華やかなものへと変身したのを、ヒューは驚いて賞賛したが、アデラインは決して自分の手柄にしようとしなかった。「セシル嬢が——」 アデラインの言葉にヒューがそっと呟くと、アデラインは驚いてもう一度ヒューを見上げた。 そういえば、以前セシルからもらった手紙に、ヒューからの土産やデビューのドレスを作ってもらうと書いていたことを思い出して、なぜか少しだけ胸の奥がもやもやとするのを感じた。「ならば、褒美にそろそろ彼女を許してあげてはどうだ?君が連れ出してやっているとはいえ、いつまでも自室で食事をさせるのは可哀想だろう?」 ヒューの提案に、アデラインは少しだけ胸が痛むような気がしたが、主人の言うことなのだからと笑顔を作った。「そうですわね。
last updateDernière mise à jour : 2026-10-21
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37.自覚

「では、祈りはセシル嬢にお願いしようか」「まあ、わたくしが一番年下だからって子供扱いなさっているのかしら」 ヒューの言葉に、セシルは可愛らしく拗ねてみせた。「こんな素晴らしいレディーを子供扱いだなんてとんでもない。大事なゲストだからこそ、祈りをお願いしているんだ」 アデラインは、ヒューが他の人間にこんなに優しい声で話すのを聞いたのは初めてだった。 夜会や晩餐会に参加した時も、貴婦人たちに話かけられてもいつも通り無表情で感情の無い声で対応していたのがアデラインが知っているヒューだった。 だが、いつ頃からだろうか。 アデラインといる時のヒューは、どこか優しくユーモアがあってよく微笑みかけてくれる。 時折、熱のこもったとび色の瞳でアデラインを見つめてくれると、アデラインの胸は何故か早鐘を打つようになり、頬が赤くなるのが止められなくなっていた。 それらは、全て自分だけに向けられる特別なものだと思っていたのに——「アーメン」 セシルに続いてヒューが唱和したのを、アデラインは慌てて追いかけた。「お姉さまったらどうしたの?ぼんやりして」「君のお姉さまは疲れているんだよ。連日サロンの準備に君の相手にと大忙しだからな」「あら、子守と言いたいのね。意地悪だわ」 セシルが言い返すと、ヒューはくすりと笑ってシェリー酒のグラスを掲げた。「明日のサロンの成功と、セシル嬢を歓迎して」 ヒューが言うと、セシルも嬉しそうにグラスを掲げる。 アデラインも一緒に微笑んでグラスを掲げたが、なぜか胸の奥が重苦しい。 ヒューの言うとおり疲れているのだろうか。 エブラム夫人のポテトサラダは大好物なのに、今日は味がしないような気がした。「アデライン?」 名前を呼ばれて顔をあげると、ヒューが心配そうにアデラインを見つめていた。 アデライン—— 初めて名前で呼ばれたと、アデラインは思った。 ずっと、ヒューはアデラインの名前を呼んだことがない事実に、アデラインは今更気が付
last updateDernière mise à jour : 2026-10-22
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38.口付け

 アデラインが食堂を出ると、すぐにヒューが追い付いて彼女の体を支えた。 いつも自分を支えてくれる頼もしい大きな手が、なぜか他人のように感じてしまう。「旦那様、大丈夫ですわ。ご心配ならキャサリンかナタリーを呼びますので」「そんな状態の君を放っておけるわけないだろう」 ヒューの苛立った声が、アデラインの心を更に締め付けた。 怒らせてしまった—— そう思った瞬間だった。 アデラインの足が地面を離れ、体がふわりと宙に浮いた。「失礼する」 ヒューはアデラインの体を易々と持ち上げて、廊下を大股で進んでいく。「旦那様、降ろしてくださいませ。怖い——」 アデラインは落ちるのが怖くてヒューのシャツにしがみついたが、ヒューは歩くのをやめなかった。「落ちるのが怖いならもっとしっかりと掴まることだ」 そう言うと更に速度をあげて進むので、アデラインはたまらずヒューの首にしがみついて、落ちないように祈るしかなかった。 階段を上がってアデラインの部屋に到着すると、ヒューは一瞬だけ躊躇ってから扉を開けた。 まさかこんな形でこの部屋に入ることになろうとは—— 部屋の中はアデラインの香りで充満していた。 抱き上げた時でさえ、彼女の匂いに理性を失いそうになったというのに。 ヒューは小さく首を振って、気を引き締めると、ゆっくりとアデラインをカウチに降ろした。 そのまましゃがんでアデラインの顔を覗き込むと、さっきまで青ざめた顔をしていたのに、抱きかかえて怖がらせたせいか頬が紅潮している。「俺は君の夫としては物足りないだろうが、君を心配するくらいはさせて欲しい」 ヒューがアデラインの頬を撫でながら言うと、アデラインは俯いたまま首を左右に大きく振った。「そんなんじゃないんです——そんなんじゃ——」 声にならない声を絞り出そうとしたからか、思わず目から涙がこぼれ落ちた。 これまで、どれだけ辛くても泣くものか
last updateDernière mise à jour : 2026-10-23
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39.パラディス・ラズリ

 アデラインのサロンは初日から好評だった。 自宅ではなく、専用の建物を使うという斬新さが、貴族女性の興味を引いたのが一番強かったのかもしれない。「本当に素敵だわ。アルマン小侯爵夫人」 鮮やかな銀朱に染めた絹のドレスを着たアデラインに、ヒドルストン伯爵夫人は笑顔で話しかけた。 ドレスコードを赤と決めたのは、アデラインの遊び心からだったが、この日に限っては顔色の悪さをドレスの色が補ってくれるという利点があった。「ありがとうございます。夫人のお力添えのおかげで、ここまで来ることができましたわ」 アデラインは笑顔で応えると、夫人を一番いい席に案内した。「まあ、素敵な赤ですわ——それは東洋のキモノですか?」「ええ。タンモノを手に入れることができましたので」「やっぱりベッカー商会で?」 ポッツ男爵夫人は興味津々といった表情でアデラインのドレスを舐め回すように見つめた。「そりゃ、ベッカー商会で買えないものはありませんわ。ご覧あそばして?この絨毯の美しいこと」「本当ですわ。ラドリー子爵夫人。こんな素晴らしい絨毯、わたくし王宮でも見たことがありませんわ」 貴婦人たちは、使用人から茶やシャンパンを受け取ると、思い思いにこの空間を楽しんでいた。 サロンのために雇い入れた使用人たちは、皆申し分なくゲストを満足させている。 アデラインはヒドルストン伯爵夫人近くに腰を下ろすと、安堵の溜息をついた。 夫人がサロンを譲ってくれてよかった。忙しくするおかげで、昨夜のことを考えなくて済む。「顔色が優れないわ、アデライン」 ヒドルストン伯爵夫人はアデラインの顔を心配そうに覗き込むと、優しく頬を撫でた。「いえ、ご招待した皆様をちゃんとおもてなしできるか不安でしたの」 アデラインは誤魔化すように微笑んだが、ヒドルストン伯爵夫人はにやりと意地の悪い優しい笑みを浮かべた。「恋の悩みかしら?」「え?」 アデラインは咄嗟にヒューとのキスを思い出して、顔を赤くした。「男性というのはね、圧倒的に言葉が足りないものなのよ。そのくせプライドだけは無駄に高いの——嫌になるわね」 ヒドルストン伯爵夫人の言葉はアデラインの心を小さく揺さぶった。「男性というのは、わたくしたちが思うほど強くないの。臆病なのね。だから面倒だけど、わたくしたち女が男性の心を察して話させてあげないとい
last updateDernière mise à jour : 2026-11-03
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