Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

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10.ヒュー

『侍女の手配をしていただき、ありがとうございます』 一文だけの小さなカードが添えられた籠には、砂糖菓子が入った瓶と温室で育てた|トルコ桔梗《リシアンサス》とアネモネの花が彩りよく飾られていた。 ヒューガードはカードに書かれた、女らしい美しい書体をそっと指でなぞってみた。 昨夜のうちに書かれたインクはとうに乾いていて、ヒューガードの指を汚すことはなかったが、不思議と彼女の香りがするような気がした。 ヒューガードは机の上のトレイから便箋を取り出そうと手を伸ばしたが、少しだけ考えて、引き出しからカードを取り出して、部屋の隅で立っている|侍従《ヴァレット》に声をかけた。「トビー」 アデラインの使いで籠を持ってきた侍従のトビーは、静かに頭を下げた。 夫からの返事を、と催促こそされていなかったが、旦那様はきっと何か返事か言葉をくださるに違いないと、待機していたのだ。「これを奥方に」「かしこまりました」 ヒューガードが無造作に差し出したカードを、トビーは大事そうにハンカチに包んでポケットにしまい込んだ。 トビーが一礼して部屋を出て行くと、ヒューガードはもう一度アデラインからのカードを眺めてから、砂糖菓子が入った瓶を手に取った。「相変わらずだな」 ヒューガードは無意識に微笑むと、アデラインからのカードをそっと机の引き出しにしまい込んだ。 ヒューの家は、貧しいレンガ職人だった。 父親は朝から晩まで黙って土を練り、レンガを焼き、時折塀や建物の修理をする——そんな平凡な男だった。 ヒューが14歳になった年の夏になる少し前。嵐でアルマン侯爵家の塀が崩れたため、修理に出かけた。 塀の損傷が思った以上に酷かったことと、年頃になったこともあって、父親はヒューを修行がてら手伝わせることにした。 ひと月近く修理にはかかると思われたが、アルマン侯爵は構わないと快く了承してくれた上、通常よりも多くの賃金を提示してくれた。 お屋敷はヒューの家がいくつ入るかもわからないくらい広かったが、ヒューたちが入ることを許されたのは、塀の周辺と庭の奥にある資材置場だけだった。 ヒューは初めて見るお屋敷に興奮していた。この中で働くにはどうしたらいいんだろう。この中ではどんな美味い飯が食えるんだろう。どんな仕事をしてるのか、本はどれだけあるのか……想像は尽きなかった。 そんな時、
last updateDernière mise à jour : 2026-09-22
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11.ヒューガード

「旦那様、ケイル様がお見えになりました」 扉を叩く使用人の声が、ヒューガードを思い出から引き戻した。 返事を待たずに部屋に入ってきたのは、サテンのスーツを粋に着こなした浅黒い肌をした男だった。「やあ、アルマン小侯爵どの」 女が喜びそうな華やかな顔に軽薄な笑みを浮かべる男だったが、黒曜石のような黒い瞳には親しみが込められており、ヒューガードの心をどことなく軽くさせた。「アリスター。3か月ぶりか?」 ヒューガードは立ち上がると、部屋に置いたソファへアリスター・ケイルをエスコートした。「新婚生活はどうだい?美人の奥方はいつ紹介してくれるんだ」 柔らかい絹張りのソファにゆっくりと腰を落とすと、狙いすましたように使用人が小さなカップに入った香りのいいコーヒーを運んできた。 アリスターから購入した真鍮のジェズヴェで煮たてた、砂糖とスパイスたっぷりのターキッシュコーヒーは、粉っぽく味も濃厚すぎて最初は苦手だったが、今では難なく飲めるようになっていた。「しかし、鉄道の投資権が欲しいからって、本当に貴族になるとはね」 アリスターはコーヒーを飲み終えると、楽しそうにカップに皿を被せてひっくり返した。「港の二の舞は御免だからな」 ヒューガードは、ソファに大きくもたれるとテーブルの上に置いてあったパイプを手に取ってゆっくりと火をつけた。「だからって侯爵家に婿入りなんて、さすがというか」 アリスターが笑うとヒューガードはゆっくりと煙を吐きだした。口の中の濃厚なコーヒーの香りがまろやかな苦みへと中和されるようで心地良い。「没落した貴族なんか、金をちらつかせれば平民より簡単だ。どうせ手に入れるのなら中途半端な貴族なんかより、歴史ある侯爵家の方が何かと都合がいいだろ」 まるで商談をひとつ片付けたようなヒューの言い方に、アリスターは肩をすくめ、弄っていた皿に臥したカップを止めて、ニヤリと笑った。「おい、何度も言うが俺は占いなんて非科学的なもの信じないぞ」「まあまあ。俺からの結婚祝いさ」「この19世紀に何を馬鹿なことを」 ヒューガードが呆れるのも構わず、アリスターはカップを持ち上げてカップの中を覗き込んだ。「ほお——」 アリスターは興味深そうな表情でまじまじとカップを見つめていたが、ヒューガードに向けるとニヤリと笑ってみせた。「底に沈んだ粉はひび割れた
last updateDernière mise à jour : 2026-09-23
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12.ベッカー邸

「あたしはまだまだ納得できないね」 使用人の食堂でミートパイをひと切れ皿に盛りながら、中年のメイドはまるで演説するかのように胸を張って声をあげた。「そうは言っても、トマスさんだって言ってたじゃないか。あのお方は旦那様の正式な奥様なんだ」 とび色の瞳を面倒くさそうにメイドに向けながら、ジーンがパイにかぶりついたが、給仕をしていた若いメイドも遠慮がちに首を横に振ってみせた。「でも、旦那様の財産が目当てなんでしょ?」「そうさ。身分をひけらかして——なぁにがアルマン侯爵家に連なる者、だ」 中年のメイドが嫌味たらしく言うと、リヴァリー・コートのボタンを外していた|従僕《フットマン》のひとりがニヤリと笑った。「洗濯メイドから聞いたんだけどさ——」 従僕が声をひそめて言いかけたその時、ナタリーが手にしていたカップを乱暴にテーブルに置いた。 カップの叩きつけられた音と、テーブルがぐらりと揺れた衝撃に、その場の全員が驚いてナタリーを見た。「あんたらごちゃごちゃと言う暇があったら、仕事の一つもしたらどうだい?ウィリアム、あんた執事のリチャードさんに午後一番に衣装屋に行くよう言われてたんじゃなかったのかい?」「そうだけどさ、あんただって最初っから不満そうな顔してたじゃないか」 中年のメイドが、機嫌を取るように作り笑いをナタリーに向けたが、ナタリーは仏頂面を不機嫌に歪ませて、ふんと鼻で息を吐いた。「あたしのこの顔はうまれつきさ——旦那様がお連れしたお方が不満なら、さっさと別の屋敷に行くんだね。もっとも、そんな理由で辞める人間に、ミセスポーラが紹介状を書いてくれるとも思えないけどね」 ナタリーが睨むと、中年のメイドは途端に顔色を変えて、詰め込むように慌ててパイを食べた。 同じように、従僕のウィリアムもパイをかき込むと、飲み込むのも待たずに食堂を後にした。「ウィリアム、出て行く前にボタンをちゃんとお締め!またリチャードさんに叱られるよ」 ナタリーがウィリアムの背中に声をかけると、その場にいた全員が口を閉じて食事を再開した。 ポーラから報告を受けたトマスは、深く溜息を吐いて頭を抱えた。 やはり使用人の間でも、旦那様が奥様を放置していることが話題になっているうえに、奥様を女主人と認めない者も少なからずいるのだ。「幸い、ナタリーが目を光らせてくれてはいますが
last updateDernière mise à jour : 2026-09-24
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13.招待状

ヒューガードは、執事のリチャードが差し出したジャケットに腕を通して、手早く着替えを済ませた。 さっき降った雨のせいで、馬車に泥をはねられたため、屋敷に着替えに戻ったのだ。 まったく、忙しいというのに厄介なことだ。 着替えながら、明るい時間に屋敷にいるのは久しぶりだと気付いた。 屋敷には毎晩寝に帰ってはいるが、昼間とは全く様子が異なって見える——いや、実際これまでとは違うような気がする。 調度などはこれまで通りなのに、どことなく屋敷の中の雰囲気が明るくなったように感じる。 アデラインが屋敷の模様替えなどに手をつけたと報告は受けていたが、彼女のやりたいようにやればいいと、大して気にしていなかった。 だが、父の趣味で購入した美術品たちが無造作に飾られていた屋敷内は、まるで全てがあるべき場所に納まったかのような状態になり、心なしか品性すら感じることができた。 庭には職人が入り込み、そこかしこを掘り返しては埋めている。使用人たちの動きも洗練されているように見える。 自分ひとりが過ごすようになってから屋敷の中に活気を感じるのも久しいと思いながら、ヒューガードは仕度を終えて出かけようと泥の落とされた靴に足を通した。 「きゃあ!」 部屋を出ようとした時、窓のすぐ下から女性の悲鳴が聞こえた。何かあったのかと窓辺に寄って視線をやると、見覚えのある女が彼女の背丈ほどもある大きな犬に飛びかかられていた。 ヒューガードはその光景に体を強張らせたが、すぐにそれは杞憂だったことを知った。 アデラインは飛びついてきた犬が自分にじゃれついてきたのがわかるや、楽しそうな笑い声をあげながら犬の体を抱き留めた。 犬はすぐにアデラインから離れると、尻尾を千切れんばかりに振って、彼女の周りを走り回っている。 アデラインは犬に誘われるようにスカートをひらひらと翻しながら、犬を追いかけたり追いかけられたりと忙しそうにまだ水が掃けていない芝生の上を泥を飛ばしながら駆け回っていた。 キャサリンは自分に泥がかからないように、遠巻きにそばにいるトビーに奥様を止めるよう懇願したが、トビーは呑気に笑っているだけだった。 「すみません、奥様!」 庭師の見習いの少年が慌てて駆け付けて、必死の様相で犬を捕まえるとリードをつけた。 「あなたの犬なのね。とても賢
last updateDernière mise à jour : 2026-09-25
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14.夜会

 揺れる馬車の中で、アデラインは息苦しさを感じていた。 結婚式以来、初めて会う夫に何を話していいのかわからないからだ。 2頭立ての馬車は、向かい合って座る2人を乗せて、ガス灯に照らされた夜の街並みをガタガタと音を立てて進んでいく。 屋敷を出てどのくらい経ったのだろう。ダストン子爵の屋敷まではおおよそ30分くらいだとトマスから教えてもらっていたが、馬車に乗り込んでからもう2時間は経っているような気がしていた。「俺が贈ったドレスとは少し違うようだが?」 会話の口火を切ったのはヒューガードだった。「あれは……その、装飾があまりにも多くてわたくしには少し重たかったのですわ。ですから、キャサリンと一緒に少し手を加えさせていただきましたの」 アデラインはもじもじと手袋の指先を摘まんで、ヒューガードの顔を盗み見るように視線をやった。 ヒューガードは窓枠に肘をつきながら、目線だけアデラインを見た。 胸元のダイヤモンドやサファイアはそのままだったが、それ以外の宝石は全て取り払われている。その代わりに胸元や裾を飾るレースがより映えている。膨らんだスカートには散りばめた宝石の代わりに金糸で伝統的な蔦模様が刺繍されていて、繊細なレースと重なって幻想的な美しさだと感じた。 アデラインは、ヒューガードが何も言わず視線を窓の外に移したので、怒らせてしまったのだろうかと不安になったが、それからヒューガードの口から言葉が発せられることはなかった。 やがて馬車が子爵邸に到着すると、ヒューガードは慣れた手つきでアデラインが馬車を降りるのをエスコートした。 アデラインが取った手を、自然に自分の肘に誘導すると玄関に立っていた使用人に招待状を見せて中に入っていく。 その慣れた仕草に、アデラインは頼もしさを覚えた。「ご存知と思いますが、わたくし社交界にデビューしておりませんので、夜会はこれが初めてなのです」「俺がいるのだから問題ない。ダストン子爵とは見知った仲だし、あなたが粗相をするとは思っていない」 アデラインが言い終わる前にヒューガードが答えたので、アデラインは少しだけ驚いた表情を見せたが、すぐに安心したように微笑んだ。 ヒューガードの隣に立って、何人との貴族と挨拶を交わしたのか全く覚えていない。中には幼い頃のアデラインを覚えていてくれる者もいて、アデラインの社交界への参
last updateDernière mise à jour : 2026-09-27
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15.手紙

 夜会の翌日、アデラインは父親のアルマン侯爵と、セシルから届いた手紙を受け取った。  久しぶりに見る上質な紙が侯爵家の財政が好転したことを物語っていた。  アルマン侯爵からの手紙を読むと、アデラインの生活や体調を気遣う文句から始まり、ヒューガードが無事にアルマン侯爵の後継者と認定されたことが書かれていた。  だが、その後の文言を読んで、アデラインは手にしていたホットチョコレートのカップを取り落としてしまった。 新婚早々、お前をひとりにさせることになってすまない。  ヒューガードには口止めをされていたが、彼には結婚前から領地の財務処理をしてもらっていたのだ。  彼の使用人たちに任せるのではなく、彼が直々に全てを処理してくれた。  彼はとても優秀な会計士でもあったよ。  これまで我々が行っていた計算が間違えていたことが発覚した。  税収を多く見積もりすぎていた為に、領地から国への税金を払い過ぎていたようだ。  更に彼は、未収だった水利権の使用料まで取り立ててくれた。  昨年まで収めすぎた税金についても、追って調査して国から取り返すといってくれた。  初めこそ平民だと侮っていたが、彼は責任と誇りをもって領地を支えてくれている。 侯爵の手紙には、そう書かれていた。 「キャサリン――わたくしは、とんでもない勘違いをしていたわ」  アデラインは、手紙をそっと机に置くと、そばにいたキャサリンに言った。 「大丈夫ですか?奥様」  キャサリンはアデラインの隣に立つと、身を屈めてアデラインを抱き締めるように背中をさすった。 「旦那様が領地に行っていたなんて、トビーもトマスも教えてくれなかったわ――ナタリー、あなたはしっていたの?」  アデラインが顔を向けると、ナタリーは気まずそうに目を逸らした。 「あたしはメイド長ですから、一応は知っていましたとも――と、言っても知ったのはつい先日ですし、トマスさんからも奥様が心配なさるからと口止めされてましたので」 「あなたの職務への忠実さは本当に感心するわ」  アデラインが苦笑いを向けると、ナタリーは仏頂面の口元を少しだけ緩めて肩をすくめてみせた。 「旦那様が夜中に帰ってきていたのは、わたくしを避けているわけでも、ベッカー商会の仕事が忙しかったからでもなく、アルマン侯爵家の業務まで担ってくださっていたか
last updateDernière mise à jour : 2026-09-28
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16.夫婦の夕食

 夕食前に手紙を書き終わると、屋敷の中が慌ただしいことに気が付いた。  何かあったのかと、呼び鈴を鳴らそうとしたが、その前にキャサリンとナタリーが部屋に入ってきた。 「旦那様がお帰りになられました。夕食は奥様とお召し上がりになるとのことです」 キャサリンとナタリーによって夕食用のドレスに着替えると、アデラインは緊張しながら食堂の扉を開けたが、ヒューガードの姿はまだなかった。  何故か安堵の息を吐いて席に着くが、テーブルに違和感しかなかった。  いつもはひとり分の食器が並べられているのに、今日はわざとらしいほどに香りのいい花や豪華な蝋燭が燭台の上で揺らめいている。  初めて夫婦が揃う食事だからと、使用人たちが気を利かせたのだろうかと思うと、アデラインは恥ずかしさで逃げ出したくなった。  トマスが食堂のドアを開けて姿を現すと、アデラインは頭の中が真っ白になりながら、立ち上がってヒューガードを迎えた。  ヒューガードは平然とした態度で用意された席に座ると、アデラインに視線をやった。  蝋燭の炎に揺らめくとび色の瞳に見つめられて、どういう顔をすればいいのかわからず、ついヒューガードの姿から顔を背けてしまう。  灰色のジャケットを着たヒューガードは、結婚式や昨夜の夜会の姿よりも軽装ではあったが、だからといって彼の精悍さを損なうものではないと思えた。  何を話していいのかわからず、気まずい沈黙が流れたように思われたが、ジーンとウィリアムが給仕を始めると、ヒューガードは胸の前で手を組み合わせた。 「祈りは俺が行っても?」 「え——はい、もちろんですわ」  アデラインが答えると、ヒューガードは短い常套句を低い声で唱えた。  耳障りのいい低い声に聴き入りながら、アデラインは手を組み合わせて目を伏せた。 「アーメン」  アデラインが続くと、ヒューガードはシェリー酒のグラスを軽く持ち上げて口に含み、アデラインにも促すように視線を送った。 「あなたの教育のおかげか、使用人たちの動きが見違えるようだ」  ヒューガードのとび色の瞳が自分を見つめて、感心したような口調で言うと、アデラインは微笑んで
last updateDernière mise à jour : 2026-09-29
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17.トマスの進言

 仕度を終えたヒューを見送りに玄関に出ると、絹の燕尾服を着て髪を几帳面に撫で付けたヒューが立っていた。  見送りの使用人たちを一瞥すると、ヒューは少しだけ顔を顰めてトマスを見た。  トマスがアデラインに気付かれないよう、顎を小さく動かすと、ヒューは観念したように溜息をついた。 「では、行ってくる」  ヒューはそう言ってアデラインの顔をじっと見つめた。  とび色の瞳がどこか戸惑うように自分を見ているのを、アデラインが不思議に思っていると、ヒューは諦めたようにもう一度小さく息をついてアデラインの頬に唇を押し付けた。  突然のことにアデラインが見送りの言葉も忘れて立ち尽くしていると、ヒューはその間にリチャードが開けたドアから颯爽と出て行った。  アデラインは呆然とその姿を見送ったが、使用人たちは目を丸くしたり、年若いメイドたちは頬を赤らめて微笑んでアデラインを見ていた。  その様子を見て、トマスとポーラは安心したように、張っていた肩を少しだけ落とした。   「旦那様。奥様のことでお話があります」  仕度を整えにきたトマスが、真面目な顔でヒューに言った。 「どうした。何か不都合でもあったのか?予算なら——」 「お金の問題ではありません」  トマスの緊迫した声に、ヒューは眉根を寄せた。 「使用人たちが奥様について——その、信頼を寄せてよいものかと悩んでおります」 「なら解雇しろ。新しい使用人を雇えば済む話だ」  ヒューはシャツを羽織りながら面倒ごとを処理するように言い捨てたが、トマスは納得しなかった。 「そういう問題ではありません。浮ついている者を解雇すると、残った者がまた不信感を覚えます。全員を解雇なさるおつもりですか」 「忠誠心のない者は不要だ。彼女は俺の妻であり、この屋敷の女主人だ。そうだろう?」  ヒューの言い分はもっともだった。だが、トマスは溜息をつきながらヒューのシャツのボタンを丁寧に留めた。 「逆でございます。旦那様への忠誠心が強すぎるあまり、旦那様が蔑ろになさっている奥様を女主人と認めてよいのか、皆考えあぐねているのです」 「俺のせいだと
last updateDernière mise à jour : 2026-09-30
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18.贋作

 ヒューが紳士の集まりに行くようになってから、アデラインもまた婦人の集まりに招待されることが増えていた。  中でも母の古い友人であったヒドルストン伯爵夫人は、アデラインを気に入ったのか、長年の疎遠の罪滅ぼしかは分からないが、毎回のようにアデラインを招待しては自分の近くに座らせた。  そのおかげで、参加も5回を数える頃には、アデラインはサロンの一員としてすっかり馴染んでいた。 「アルマン小侯爵夫人は本日もとてもお美しいわ」 「本当に——あのベッカー商会の会長を射止めただけありますわ。わたくしが殿方でも、夫人に跪いて愛を請うと思いますのに」  ヒドルストン伯爵夫人の寵愛が深いと気付くや、サロンのメンバーはすぐにアデラインの機嫌を取るようになっていた。  だが、伯爵夫人のサロンに集まる貴婦人たちは皆、教養深く、政治や哲学について話し合うこともあれば、音楽家を呼んでダンスを楽しみ、たまにゴシップに花を咲かせるような淑女たちだったので、すぐにアデラインに対しても特別な扱いはされなくなっていた。 「そういえば、先日の海難事故……お聞きになりました?」 「ええ。オルランド伯爵が大変な債権を背負ってしまったとか」 「オルランド商会ももうお終いかも知れませんわね」  カウチに座った夫人たちがひそひそと話しているのを、アデラインは耳にした。  先日新聞で読んだ商船の積み荷が爆発して沖合で沈んだ事故のことだろうと、すぐにわかった。 「——伯爵家の従僕がダンテ・ギャラリーがオルランド伯爵の家に入っていったのを見たと、夫が言っておりましたわ」 「まあ……ダンテ・ギャラリーと言いますと、最近よく名前を聞きますわね」 「ですが、あの小さなギャラリーがオルランド伯爵家の美術品を買えるだけの資金なんてあるのかしら」 「それが、わたくしの夫が——」  婦人たちの噂話は留まるところを知らず、あちこちで花を咲かせていたが、アデラインは手持ち無沙汰で耳を傾けるだけだった。 「ベッカー氏——いえ、アルマン小侯爵の商会や銀行は保険への投資はなさっていないと聞きましたわ。さすがですわね」  アデラインの姿を見つけたダストン子爵夫人
last updateDernière mise à jour : 2026-10-01
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19.貴族とは

「なぜそう思うのですか」  ヒューの感情が読めない声に、アデラインは息を呑んだ。 「……ユンベルグは100年前の画家です。つまり、絵具も100年前のものでなくてはなりません。ですが、この青はかなり濁してはいますが鮮やかすぎます」  アデラインの言葉には迷いがなかった。 「そして、この土に使われている黄色もそうです。昔見た絵はもう少し色褪せていたように思いますが、この絵にはそれがなくて——まるで新しい絵具で描いたような感じがします」  ヒューは絵をよく見たが、元の絵など知らないし、絵具の違いなどもっとわからない。  だが、アデラインの言葉には不思議な説得力があるように感じた。 「最後にサインです——ユンベルグのこの絵は、草のすぐ上にサインがありましたが、この絵のサインは草の上から描かれています。ユンベルグは必ず被写体にかからない場所にしかサインをしない画家です。こんなのあり得ません」  話しながら、アデラインは目元が熱くなるのがわかったが、感情的にならないようにと務めた。  だが、自分の好きだった絵が——華やかだった侯爵家の思い出が、そしてそれを取り戻そうとしてくれたヒューの想いが贋作によって踏みにじられてしまったようで、悔しかった。  ヒューはすぐに客間の入口に立っていたリチャードに向き直ると、「作業員を呼び戻せ」と命じた。 「あなたが安心できるなら、信頼できるギャラリーに鑑定にだそう」  そう言った横顔は、明らかに怒りに満ちていた。  アデラインは客間を大股で出て行くヒューの後姿を見送りながら、自分の物言いが夫の自尊心を傷つけたしまったのではないかと、酷く後悔した。 次にヒューに会ったのは1週間後だった。  結婚して既にひと月以上が経っていたが、アデラインがヒューに会ったのは指折り数える程度だった。  それでも、使用人の前では挨拶の抱擁や、頬へのキスを義務のようにされていたおかげで、屋敷の使用人の態度がわかりやすく変化していた。  ナタリーがいなくても、アデラインが刺繍をしていると甘いバーリーウォーターを持ってきてくれたり、夜遅くまで仕事をしていると蝋燭
last updateDernière mise à jour : 2026-10-02
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