「このタイミングでヒーローに告白させちゃダメです」オンライン打ち合わせの画面越しに、作家が戸惑った顔をした。桜井朱里は共有ドキュメントの第73話を開き、蛍光色でマークした段落を指した。「読者はもう、彼の気持ちを知ってますよね。知らないのはヒロインだけです。ここで本人まで全部言ってしまったら、二人の間に残ってる緊張感がなくなります。告白より先に、行動を積みましょう。彼女が風邪を引いたら薬を買ってくるとか、ほかの男の話が出た途端に返事が短くなるとか。読者に先に『あ、この人、好きなんだ』って気づかせるんです」「じゃあ、告白は80話くらいまで引っ張ります?」「はい。その代わり77話で一回だけ手をつなぎましょう。大したことのない接触なのに、二人とももう昔には戻れない、みたいな感じで」作家はすぐに納得し、打ち合わせは予定より早く終わった。朱里は修正方針をまとめたメールを送り、次の作品の数字を開いた。前日に公開された新作は、序盤離脱率が予想より高かった。流入経路をもう一度確認し、プロモーションチームにバナー文言の差し替えを依頼しているうちに、昼休みはとっくに過ぎていた。恋愛小説チーム6年目の編集者、桜井朱里は、他人の恋がどこでつまずいたのかを見つけるのが得意だった。告白が早すぎるのか。別れ方に無理があるのか。読者がどこでときめくべきなのか。数字と文章、その両方からきっちり指摘できる。なのに、自分自身の恋愛歴は、新人作家の真っ白な企画書みたいにあっさりしていた。気になる人がいなかったわけではない。二、三度ランチをしたり、映画を観に行く約束までしたこともある。けれど、誰かを自分の日常の中へ入れる段階になると、いつも足が止まった。忙しいから。その言い訳がいちばん簡単だった。「桜井さん、ご飯まだ?」パーティションの上から高梨沙耶チームリーダーが顔をのぞかせた。朱里はモニターの隅の時刻を見て、慌てて立ち上がった。「食べます。今日なんですか?」「社員食堂。それと今日は逃げられないよ。みんな朱里に言いたいことがあるって」「なんですか、その嫌な予告」嫌な予感は当たった。トレーを持って席についた瞬間、向かいの若手編集が左手を差し出した。薬指の小さなダイヤが蛍光灯の下で光る。テーブル中から歓声が上がった。先月は同い年のマーケティング担当が結婚
Last Updated : 2026-09-19 Read more