オフィスの空気は、いつだって乾いていて生ぬるい。午後2時。ローンチを控えた新作の予約バナー案を確認する桜井朱里の目が、モニターを鋭く見つめていた。ウェブ小説編集者の一日は。読者のわずかな反応一つ。バナーの文字の角度一つまで拾う。細かく、面倒で、それでも外せない調整の連続だ。「先輩、3案で決めるなら、マーケティングとの調整は私がやりましょうか?」隣の新人編集が椅子を寄せて聞く。朱里がマウスを軽くクリックした。「いや。デザインチームとの最終確定は私がやる。代わりに、予約バナーの修正文言だけマーケティングへすぐ共有して」「はい!」新人が椅子を戻した瞬間。パーティションの向こうから、きれいなボブヘアの高梨沙耶が顔を出した。「朱里。ロビー受付から連絡。なんか、すごくかっこいい人が朱里宛てに紙袋預けたいって」キーボードの上の指が止まった。聞かなくても。その「かっこいい人」が誰かなんてわかる。エレベーターの鏡へ映った自分を見て。朱里は、口元が少し上がっているのに気づいた。一階ロビー。大きなガラス窓を背に立つ黒瀬悠真は、遠くからでも目立った。ダークグレーの半袖Tシャツに、ラフなトレーニングパンツ。それでも水泳で作った広い肩と、まっすぐな体格は、通り過ぎる人の視線を集める。「忙しいって言ってたのに、自分で来たの?」朱里が近づくと、悠真が白い紙袋を差し出した。中には、まだ少し温かい塩パンが二つ。それから透明容器へ丁寧に入れたりんご。「近くでスポーツブランドの打ち合わせ。朝、りんご残しただろ」声はいつも通り、ぶっきらぼうで淡々。「私、一人でちゃんと食べられるって何回言えばいいの。毎回こんなの持ってきたら会社で噂になるよ、黒瀬代表」「世話焼きに来たんじゃない。会いたかっただけ」悠真が朱里の髪先へ軽く触れ、低く言った。深い目が朱里の唇へ一瞬だけ落ち、離れる。15年間。世界でいちばん安全で、いちばん乾いた「男友達」の仮面をつけて隣にいた男が。恋人になった途端、隠す気もなく見せる甘さ。そのたび朱里の心臓は、いまだに不意打ちを食らう。「桜井さん?」そのとき。エレベーターから、恋愛小説チームの後輩二人と沙耶が降りてきた。後輩の視線が、朱里の紙袋と悠真の肩の間を忙しく行き来する。「あ、紹介する。私の彼氏、黒瀬悠真」
Last Updated : 2026-09-20 Read more