All Chapters of 秘密の恋3年、彼は別の女と入籍した: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

顔を上げると、雅之のまっすぐな眼差しと視線が重なった。「今から婚姻届を出しに行く。これからは俺にお前の面倒を見させてくれ」頭がぼうっとして、無意識に言葉がこぼれる。「でも、先生が退院を許可してくれなくて……」雅之は立ち上がり、身をかがめると、ベッドから私の体を軽々と抱き上げた。病室の入り口で、看護師が慌てて声を張り上げる。「お待ちください!患者さんの外出は――」「ちょっと結婚してくるだけだ。すぐ戻る」雅之はそう言い放ち、堂々と歩き出した。廊下を行き交う人々が怪訝そうに振り返り、ひそひそとささやき合う。私は彼の肩に顔をうずめて目を閉じた。規則正しい胸の鼓動を聞いているうちに、余計な不安はすべて消え去っていく。この瞬間だけは、穏やかな温もりに満たされていた。*役所の窓口で、婚姻届に受理印が押される。その光景を眺めながら、私はまだ夢の中にいるような錯覚を覚えていた。刷り上がったばかりの『婚姻届受理証明書』には、「妻:武内柚晴」の文字が鮮明に印字されている。白い照明の下、職員が証明書を両手で差し出してきた。「すべての手続きが完了いたしました。お2人とも、ご結婚おめでとうございます。それでは、次の方どうぞ」手渡された証明書を見つめたまま、指先1つ動かせない。生涯をかけてこの紙を交わす相手は敏昭だと信じ込んでいた。それなのに、いま私の隣に座っているのは雅之だ。雅之が横から証明書を受け取り、私の名前に視線を走らせると、わずかに口元を緩めた。そのまま書類袋へ丁寧に収め、まるで宝物のように胸元へ抱き寄せる。その仕草を眺めていると、なぜか鼻の奥がツンと熱くなった。役所の玄関を出ると、冷たい風が吹き荒れていた。私の薄着に気づいた雅之は、着ていたコートを脱いで私の肩に掛けてくれた。身をかがめてボタンを1つひとつ留め、顔を上げて私の瞳をじっと覗き込む。数秒の沈黙。やがて雅之は再び私を抱き上げ、階段を下りて車へと向かった。運ばれる中、低く澄んだ声が耳に届く。その声は、ほんのわずかに震えている。「柚晴、お前から奪われたものはすべて取り返してやる」雅之はひと呼吸置き、言い聞かせるように続けた。「これからは何の心配もいらない。堂々と俺の妻でいろ」顔を上げると、前を見据え
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第12話

敏昭の瞳には、怒りと疑念しかなかった。「徹也を死なせただけじゃ飽き足らず、今度は俺たちを尾行して美遥に危害を加える気か!」私は必死で腕を振りほどこうとしながら、声を絞り出した。「そんなことしてない!私は最初からこの病院にいたの。手を離して!」だが、返ってきたのは敏昭の冷酷な嘲笑だった。「ここは私立病院だぞ。越己に家族カードを止められて、まともに飯も食えないお前に、ここで診察を受ける金なんてあるわけがないだろう。嘘が得意なんじゃなかったのか?穴だらけの言い訳だな」そのとき、美遥が周囲の視線を集めるように床へ崩れ落ち、お腹を抱えながら泣き叫んだ。「お願いだから敏昭につきまとうのはやめて!私たち、もう結婚したの。彼はあなたのことなんて愛してないわ!彼を解放して……私とこの子を見逃してちょうだい!」美遥の芝居がかった叫びに、周囲の患者や看護師たちからひそひそと非難の声が漏れ始める。「白昼堂々、人の夫を略奪しようとするなんてね。顔がいいのをいいことに他人の家庭を壊すような女、本当に反吐が出るわ」「旦那さんがしっかりした人で良かったよ。本妻を見捨てたりしなくて」敏昭は怒りに目を血走らせ、美遥のもとへ歩み寄って抱き起こした。「美遥、こんな奴にひざまずく必要はない。ここから消えるべきはあいつだ。2日ほど大人しくしていたから反省したかと思えば、まだ懲りずにつきまとっていたとはな。今すぐ越己に連絡して、島へ送り返させる」あの船の上での恐怖が脳裏をよぎり、全身がガタガタと震え出した。私は背を向け、必死でその場から逃げ出そうとする。「帰りたくない……戻りたくない……っ」だが、背後から敏昭に再び手首を掴まれた。彼はもう片方の手でスマートフォンを耳に当てている。「越己か、柚晴を見つけた。今すぐ人を手配して島へ送り返せ」島、という言葉が悪夢のようにフラッシュバックし、私は狂ったように暴れた。「私を送り返す資格なんてあなたにない!私、結婚したの!これが私の結婚指輪よ!」敏昭は私の左手から強引に指輪を引き抜くと、冷笑を浮かべた。「そんなに俺と結婚したかったのか?自分で指輪を買ってはめるなんて、どこまで恥知らずなんだ。記憶喪失の今はもちろん、たとえ記憶が戻ったとしても、お前なんか愛するはずがないだろう」敏昭
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第13話

平手打ちを食らった敏昭は、衝撃のあまりその場に立ち尽くしていた。頬には5本の指の痕がくっきりと浮かび上がる。足を止めた周囲の人々は、誰も声を上げられない。やがて我に返った敏昭の目が赤く充血し、かすれた声がこぼれた。「……そいつのために、俺を殴ったのか?」私はいら立ちを隠さず眉をひそめた。「何がおかしいの?事情も聞かずに人の結婚指輪を投げ捨てておいて、殴られないとでも思った?親友の妹にすぎない、ろくに知りもしない他人だって言い切ったのはあなたよ。私のことに口を出す資格なんてない」敏昭の表情が激しく歪み、やがて冷ややかな嘲笑へと変わる。「いい度胸だな。たった2日足らずで、俺への当てつけに男を見つけてくるとは。ダイヤの指輪だと?適当な男に露店の安物でも買わせれば、俺を騙せると思ったのか!」美遥がお腹をかばうように歩み寄り、雅之を一瞥した。その目が雅之の顔に留まった瞬間、美遥の瞳にかすかな動揺が走る。だが、彼女はすぐに視線を逸らし、見下したような笑みで覆い隠した。「そうよ。柚晴さん、お兄ちゃんを死なせたあなたを責めたりしていないのに……わざわざ男を連れてきて見せつけるなんて惨めすぎるわ。そんなに敏昭の気を引きたいなら、お兄ちゃんも敏昭も返してあげてもいいのよ?」私の兄と敏昭を奪い去った張本人のくせに、たった一言で私を悪者に仕立て上げてみせる。そのとき、周囲の誰かが敏昭の顔に気づいた。「あれ、高柳敏昭じゃない?なんでこんなところに」「隣にいるのって奥さん?ほら、この前ネットで話題になってた……」「じゃあ、揉めてるもう1人の女は誰?」ざわめきが次第に大きくなり、スマートフォンを向ける手が次々と増えていく。敏昭に関係を公表させようと躍起になっていた美遥は、周囲の視線に気づくや否や、わざと声を張り上げた。「ずっと前から敏昭に片思いしていたのは知っているけれど、この数年間、彼の隣にいたのは私よ!みっともない真似はやめなさい!私たち、もう結婚したんだから!」だが敏昭は美遥の言葉など耳に入らない様子で、狂ったように私を凝視していた。「頼むから、そいつは雇った役者だと言ってくれ。お前がそう言うなら信じる……言えよ!」私は迷わず雅之の首に腕を回し、その薄い唇に自ら口づけを落とした。「これでも、まだ演技に見
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第14話

美遥の悲鳴を聞いた瞬間、敏昭と兄は私を放り出し、慌てて彼女のもとへと駆け寄っていった。2人の背中を見つめ、思わず自嘲の笑みが漏れる。けれど次の瞬間、冷え切っていた私の手を温かく大きな手のひらが包み込み、胸の奥の寒さを優しく溶かしてくれた。「行こう。別の病院へ連れていく。あんな連中は放っておけ」目頭が熱くなり、私は雅之の手を強く握り返した。「もう病院には行きたくないです……お家に帰りたい」雅之の切れ長の瞳に喜びの色がきらめき、直後、張り詰めたように全身をこわばらせた。「ああ、家に帰ろう」去ろうとする私を、越己が血走った目で激しくにらみつける。怒声が病院の廊下に響き渡った。「今日そいつについていくなら、もう二度と俺を兄貴だと思うな!」私は一度も振り返らなかった。「電話を何度も切られたあの日から、私にお兄ちゃんなんて最初からいなかったと思ってるよ」口にした私の声はひどく平坦で、自分でも他人の声のように思えるほどだった。意地を張ったわけでも、恨み言をぶつけたわけでもない。ただの厳然たる事実だった。あの港で、私の命の叫びを無情に拒絶し続けた男は、もう私の兄ではない。これほど冷淡に突き放されるとは思っていなかったのか、越己は呆然とし、やがて顔を激しく歪めて叫んだ。「お前がそう言ったんだからな!これで完全に縁を切るからな!」雅之はポケットからUSBメモリを取り出すと、無造作に越己へ放り投げた。越己が反射的に受け止め、手元を見下ろす。彼が顔を上げたときには、雅之はすでに冷たく背を向けていた。「そこにお前が知りたがっていた真実が入っている。せいぜい後悔するんだな」雅之はそう言い捨てると、振り返ることなく私を連れて歩き出した。*連れてこられた川津家の屋敷に足を踏み入れて初めて、私は彼が東都屈指の資産家だと知った。車が重厚な正門をくぐった瞬間、場所を間違えたのではないかと疑ったほどだ。広大な敷地には見事な古木が並び、長く続く軒先には温かな灯りが吊るされている。石畳を照らし出す光景は、歴史ある由緒正しい名家そのものだった。居間に通されても落ち着かず、並ぶ豪奢な調度品を眺めたまま立ち尽くしていると、雅之が私の戸惑いに気づいた。「家が……」「少し広すぎるか」私の言葉を先回りす
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第15話

窓の外に越己の背中が見えた。だが私はそっと視線を逸らし、扉を開けに行くことはしなかった。敏昭のアプローチはもっと直接的だった。すぐに会いたいと何度も連絡を寄越したが、雅之の秘書に冷たくあしらわれていた。向こうで散々わめき散らしていたらしいが、最後は一方的に切られたそうだ。私は一度も電話に出ることはなかった。雅之が特注してくれたウェディングドレスが届いた。デザイナーがアシスタントを連れて採寸に訪れ、私は姿見の前に立った。なすがままに体を測られながら、視線のやり場に困る。鏡に映る私は、仮縫いの白いドレスをまとい、髪を下ろしたままで、顔色にはまだ青白さが残っていた。デザイナーがドレスのウエストをピンで直していたとき、雅之の秘書が足早に入ってきた。手元の端末から壁面の大型モニターへ映像を映し出す。画面の向こうには、またしてもビルの屋上から飛び降りようとしている美遥の姿があった。私はモニターを見つめたまま、身動き1つしなかった。美遥は涙で顔をぐしゃぐしゃに歪めて叫んでいた。「刑務所になんて行きたくない!お願いだから見逃してよ!お兄ちゃんが遺した唯一の妹なのに、私が捕まるのを黙って見てるつもりなの!?」デザイナーがちらりと私を見上げたが、何も言わずに視線を落とし、待ち針を留める作業に戻る。だが、今度の越己は泣き落としにだまされなかった。「お前のために、俺は実の妹をないがしろにしたんだぞ!あいつのポートフォリオを奪ってお前の名義にして、大学の枠を用意してやった!それなのに恩を感じるどころか、人を雇って柚晴を襲わせただと!?刑務所送りで済むだけでも生ぬるい!」敏昭が越己の腕を掴んで制止する。「飛び降りたいなら勝手にさせろ。あの日、自分の過失で台所から火を出しておきながら、知らせもせずに1人で逃げ出さなければ、徹也だって死なずに済んだんだ。その上、配線のショートによる事故だったと警察に嘘までつきやがって。どうせ、こいつに死ぬ度胸なんてありはしない」美遥は信じられないといった目で敏昭を見つめた。「お腹にはあなたの子がいるのよ!?私のことなんてどうでもいいの!?」敏昭の目元が激しい怒りで引きつる。「どこの馬の骨とも知れないガキを俺の子に仕立て上げるな!バーで泥酔して勝手にはらんだんだろうが!父親が誰か
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第16話

リビングのソファに腰掛け、モニターの画面を見つめていた。映像の中、越己が泣きじゃくりながら、私に1度だけでも会わせてほしいと懇願している。いつの間にか帰宅していた雅之が、背後からそっと私を抱きしめた。私の頭の上に、彼の顎が優しく乗せられる。「会いに行くか?ついていってやってもいい」画面いっぱいに映る越己の顔を、私はじっと眺め続けた。顔は涙で濡れ、瞳には後悔がにじんでいる。けれど、脳裏をよぎるのは別の光景だった。あの暗い港で、容赦なく切られた電話のコール音。病室で浴びせられた、激しい平手打ち。「野垂れ死のうが知ったことじゃない」と吐き捨てた、あの冷酷な声。私は静かに首を横に振った。「これからは、あなたが私の家族です。2度目の命をくれたのはあなた。他の人はもう、どうでもいいです」雅之は何も言わず、私を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。ドレスの試着を終えたあと、雅之は急ぎの役員会議へ向かった。私は一足先に車で川津邸へ戻り、体を休めることにした。だが、屋敷の目前で、敏昭が強引に車の前に立ちはだかって停車させ、私の目の前へと詰め寄ってきた。警護の者たちが慌てて止めに入ろうとしたが、私は手で制して彼らを下がらせた。ここで完全に決着をつけ、すべてを終わらせるべきときだった。車から降り、敏昭と正面から対峙した。前回の対面よりもさらにやつれ果て、目の下には濃い隈が浮かび、スーツもしわだらけだ。何日もまともに眠っていないことがひと目で分かる。私の姿を認めた敏昭の瞳に、すがるような光が灯った。立ち尽くすその姿は、まるで叱られるのを恐れる子どものようだ。「……全部、思い出したんだ。愛してる、柚晴、本当に愛してるんだ。取り返しのつかないことをしたとは分かってる。でも記憶を失っていたんだ、俺を責めないでくれ。記憶は全部戻った。頼むから、もう1度だけやり直すチャンスをくれないか」私は1歩後ずさりし、敏昭が近づくのを拒絶した。その瞳に浮かぶ痛ましげな色を無視し、冷ややかに告げる。「私に隠れて美遥と籍を入れたあの瞬間から、私たちに未来なんてないのよ」敏昭は取り乱したように言い訳を重ねた。「あいつにだまされていたんだ!3年間付き合っていたのは本当にあいつだと思い込まされていた!それに徹也
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第17話

敏昭は涙で顔を濡らしながら、壊れたように同じ言葉を繰り返した。「すまない、柚晴……もう二度と嘘はつかない。頼むから、俺のそばに戻ってきてくれ。他の男と結婚なんてしないでくれ……俺が悪かった。本当に、俺が悪かったんだ!」彼はポケットから指輪を取り出すと、手のひらに載せて私の前へ差し出した。それはシンプルなダイヤの指輪だった。見覚えがあった。3年前、敏昭に連れられて特注で作ったものだ。「ふさわしいときが来たら渡す」と約束していた。「この指輪、美遥には渡していない。ずっと金庫にしまっていたんだ。昨日、お前が川津と結婚する夢を見て……本当に気が狂いそうだった」差し出された指輪を一瞥し、私は冷ややかに顔を上げた。「謝罪は受け取れない。帰って。もう2度と私の前に現れないで」背を向け、迎えの車へと乗り込む。背後で泣き叫びながら許しを乞う敏昭の声を置き去りにした。その惨めな悲鳴は、車のドアが閉まると同時に遮られた。*それから、私は体の養生に専念した。敏昭の名を再び耳にしたのは、数日後のことだった。週刊誌のトップ記事で極秘入籍と二股交際のスキャンダルを大々的に暴かれ、所属事務所は最優秀主演男優賞の選考辞退を発表。さらに、10数本あった広告契約も次々と打ち切られた。彼を待ち受けていたのは、莫大な違約金の山。対応に追われて頭を抱えながらも、敏昭は毎日私へ謝罪のメッセージを送り続けてきた。着信拒否に設定しても、次から次へと別の番号に変えて連絡を寄越してくる。敏昭からのメッセージは、毎日届いた。謝罪から思い出語りへ、思い出から哀願へ、そして哀願から狂気じみた告白へ。私はそのすべてに目を通し、そのすべてを無視した。敏昭はこの3年間の記憶を細かく切り刻み、1日ごとに語りかけてくる。撮影現場で初めて会った日の私が、白いワンピースを着ていたこと。雨の夜におぶわれて帰る途中、私が彼の肩に顔を寄せて歌を口ずさんだこと。妊娠が分かったあの日、本当は指輪を用意してプロポーズするつもりだったこと。だがその日に美遥から「屋上から飛び降りる」と泣き叫ぶ電話がかかってきたこと。【あの日、あの電話に出さえしなければよかった】画面に浮かぶその1行を見つめ、私は削除ボタンの上で親指を一瞬止めたあと、迷わずタップした
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第18話

庭は静まり返り、風がこずえを揺らすかすかな音だけが響いていた。軒下に吊るされた灯りを、私はしばらくじっと眺めた。「手配をお願い。会いに行くわ」秘書は深々と一礼し、静かに下がっていった。*面会当日は一面の曇り空だった。雅之が付き添ってくれた。彼は何も詮索しなかった。朝出かける際に私の手をそっと握りしめ、車に揺られる道中も静かに隣に寄り添っていてくれた。面会室の中央には、透明なアクリル板が据え付けられていた。奥の扉から連れられてきた越己は、私の姿を捉えた瞬間、ぴたりと足を止めた。ニュースの写真で見たときよりもさらに痩せこけ、頬は深く削げていた。だが、その瞳だけは昔の兄のままだった。仕切りを挟んで向かい合って腰を下ろす。数秒の間、互いに視線を交わしたまま、どちらも口を開かなかった。先にわずかに身をかがめ、仕切りの中央にある通話孔へ顔を寄せたのは越己だった。「……柚晴」かすれたその声は、長い間まともに人と会話していなかったことを物語っていた。私は返事をせず、透明なアクリル板越しに、ただ静かに兄を見据え続けた。越己が顔を上げる。その目は赤く腫れていた。「……俺を、恨んでいるか?」少しだけ考え、私は小さく首を横に振った。どれほど憎くても実の兄であり、幼い頃はあんなにも私を可愛がってくれた。「恨んではいないよ。でも、もう二度と関わりたくない。ここに来たのはこれが最初で、最後だから」越己はきつく目を閉じた。涙が頬を伝ってぼろぼろとこぼれ落ちる。拭おうともせず、ただうなだれたまま座っていた。「すまなかった……」震える声が漏れ出す。「あの頃の俺は、どうかしていた。徹也のことばかり頭にあって、お前が俺のたった1人の妹だってことすら忘れていたんだ……」私は椅子に腰掛けたまま、静かに兄を見つめていた。目頭が熱くなったが、涙はこぼれなかった。長い沈黙のあと、越己はようやく顔を上げ、袖口で顔を乱暴に拭った。声は依然としてかすれていた。「あいつは……」越己は視線を泳がせ、私の背後へちらりと目を向けた。「お前を大切にしてくれているのか?」振り返ると、雅之が面会室の入り口にたたずんでいた。部屋には入らず、ドア枠に背を預けてスラックスのポケットに手を突っ込み、ただ静かに
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第19話

家に戻ると、雅之は身をかがめ、私の額に自分の額をそっと重ねた。互いの吐息が触れ合い、重くよどんでいた頭の中が、すっきりと澄み渡っていく。「柚晴、過去のことはもう終わったんだ」不意に鼻の奥がツンと痛み、私は雅之の首元にぎゅっと抱きついた。「川津さんも……いつか私に嘘をつくの?」雅之は2秒ほど沈黙した。それから私を腕の中からそっと離し、まっすぐに視線を合わせて、一言ずつ噛みしめるように告げた。「絶対にない。お前を何年も捜し続けたんだ。その年月を冗談になんかするものか」見つめる雅之の瞳が、わずかに赤くにじんでいた。あの日、傷だらけで漁船の中に身を潜めていた少年の姿が蘇る。ぼろ布で刃物の傷を縛り、顔の半分を血まみれにしながらも、ちぎったパンを差し出して笑いかけてくれた。「怖がらなくていい、取って食ったりしないから」あの頃の私は15歳で、何も分からなくて、見知らぬ他人だった雅之を半月もかくまい続けた。祖父母の目を盗んで毎日食べ物を運び、緊張のあまり手が震えていた。今にして思えば、あれも運命の巡り合わせだったのかもしれない。鼻をすすり、私は雅之の胸元へ顔をうずめた。「じゃあ、毎日私の名前を呼んで。愛してるって、1日3回言って。それから、勝手に――」雅之が不意に顔を寄せ、唇を重ねてきた。そのあとの言葉をすべて塞ぐように。「柚晴、条件が100個あったって全部飲んでやる。泣くな。お前に泣かれると、どうしていいか分からなくなる」*結婚式は12月中旬に決まった。雅之は当初、財界の重鎮を招く盛大な披露宴を考えていたが、疲れてしまうから嫌だと伝えた。すると彼は親しい顔ぶれだけの小規模な式にしようと笑ってくれた。式の前夜、敏昭からまた新しい番号で長文のメッセージが届いた。川津邸の門前で一晩中立ち尽くしていたこと。美遥の私物をすべて焼き捨てたこと。そして、金庫にしまっていた私への贈り物を並べた写真が添えられていた。そこに写る部屋には、足の踏み場もないほどプレゼントが埋め尽くされている。口紅からネックレス、マフラーからヒールに至るまで、年と日付が几帳面に記されていた。最後の1行には、こう書かれていた。【明日、あいつと結婚するのをやめてくれないか】読み終えた私は、たった
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第20話

式場は、海辺にたたずむ小さなガラスの教会だった。足元まで届く大きな窓の外には、穏やかな灰青色の海が広がっている。雲の切れ間から差し込む光が、白いバージンロードを斜めに照らし出していた。大勢の招待客は呼ばず、参列したのはごく一握りの側近だけ。誓いの言葉を交わすとき、司祭が雅之に「武内柚晴を妻として迎えるか」と問いかけた。雅之は私を優しく見つめ、「誓います」とはっきりと告げた。私に同じ問いが向けられたときも、まっすぐに「誓います」と答えた。続いて、指輪の交換。雅之が私の左手薬指へリングを滑らせる。その指先がかすかにこわばり、緊張を隠しきれずにいた。顔を上げ、彼の目を見つめる。「手、震えてるよ」雅之は片眉を跳ね上げ、指輪を根元まで押し込むと、そのまま私の手をぎゅっと握りしめた。「この日をどれだけ待ちわびたと思ってるんだ。手が震えるくらい当たり前だろ」思わず吹き出してしまった。司祭が誓いのキスを促す。雅之が身をかがめ、静かに唇を重ねてきた。窓の隙間から吹き込んだ海風が、ウェディングドレスの裾をふわりと揺らす。静まり返った礼拝堂に、寄せては返す波の音だけが心地よく響いていた。彼の口づけはどこまでも優しく、そして切実だった。失くした宝物を、ようやく取り戻したかのように。唇が離れ、そっと目を開けると、雅之の目元が赤くにじんでいた。「……これから、なんて呼べばいい?」頬を染めながら尋ねてみる。「雅之」彼の眉尻が下がり、満足そうに口元が緩んだ。「もう1度」「雅之……もう、しつこいよ」雅之は低く喉を鳴らして笑い、私をいっそう強く抱き寄せた。「しつこくていい。これからは毎日聞かせてくれ」式を終えて参列者たちが帰ったあと、雅之と手をつないで教会の外へ出た。砂浜に2人の足跡が並び、やがて満ちてきた潮の波にゆっくりと消されていく。雅之がふと足を止め、遠くの海岸線を指さした。「あのあたりだ。昔、お前が俺を拾ってくれた場所は」指された方へ顔を向ける。岩場は昔と変わらずそこにあり、引き潮で顔を出した濡れた黒い岩肌は、あの日の記憶そのものだった。「あの少し先の海の底に、この数年間抱えていた俺の未練も執念も、全部沈めてきた」彼は視線を落とし、私をまっすぐ見つめた。「
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