LOGIN私の名前は武内柚晴(たけうち ゆずは)。高柳敏昭(たかやなぎ としあき)とは、誰にも知られてはならない秘密の関係を3年続けている。 妊娠が分かった、まさにその日のこと。 敏昭を驚かせようと、私は内緒で彼の家を訪れていた。 けれど、最悪のタイミングだった。 敏昭が私の兄である武内越己(たけうち えつき)と一緒に帰宅した。 パニックになった私は、咄嗟にベッドの下へと身を潜めた。 やがて部屋の外から、兄の鋭く問い詰める声が響いてくる。 「ここが、お前が3年間も隠し続けてきた女の部屋か?美遥を一体なんだと思ってるんだ」 緊張のあまり、ぎゅっと拳を握りしめた。 私と敏昭が付き合っていることすら、兄はまだ知らない。 どうすればいいのかも分からず、ただ息を殺していたそのとき、敏昭の低く穏やかな笑い声が聞こえてきた。 「美遥はいい子だよ。俺たち、もう籍を入れたから」
View Moreハネムーンの最初の目的地は、南の島だった。雅之はプライベートビーチを丸ごと貸し切り、昼間はパラソルの下で並んでココナッツジュースを飲んだ。彼はサングラスをかけて読書をし、時折ふと顔を向けて私を見つめる。私がちゃんと隣にいることを確かめてから、再び本へと視線を戻す。夕暮れどきになると潮が引き、きめ細かな白い砂浜が広がった。雅之に手を引かれ、素足のまま波打ち際を歩く。寄せては返す波が足首を洗い、心地よい冷たさを残していった。「柚晴」不意に彼が足を止めた。サーフパンツのポケットから何かを取り出す。親指ほどの大きさの、淡い桜色の貝殻だった。海水に濡れてつややかに輝いている。雅之はそれを私の前へ差し出した。「拾った。やるよ」受け取って眺め、私はくすりと笑った。「川津社長、東都一の大富豪が、奥さんへのハネムーンプレゼントに貝殻1つ?」雅之は片眉をぴくりと上げ、サングラスを少し押し上げた。「大富豪だって人間だ。それに――」顔を寄せ、私の唇にそっとキスを落としてくる。「――これは俺が自分で拾った。買ったどんな宝石より価値がある」小さな貝殻を握りしめると、手のひらがじんわりと温かくなった。*ハネムーンから戻ったあとの日々は、穏やかに過ぎていった。ある日の午後、中庭に並べたラタンの椅子に2人で腰掛けていた。日差しはぽかぽかと温かい。雅之の肩に頭を預けてまどろんでいると、頭上からふいに声が降ってきた。「柚晴」「……ん?」「数日前、刑務所へ行ってきた」意識が少し浮上したが、私は目を閉じたままでいた。「越己から人づてに伝言があってな」雅之の声はとても静かだった。「向こうでたくさん本を読んでいるらしい。お前が子どもの頃に一番好きだった絵本を見つけたから、渡してほしいと頼まれた」中庭は静まり返り、風が木の葉を揺らすサラサラとした音だけが響く。「あいつに持たせておいた。お前があいつを許すことは金輪際ないし、いまは何不自由なく幸せに暮らしていて、存在すら忘れていると伝えた」私はそっと目を開け、雅之を見上げた。横顔に差す光が、くっきりとした輪郭とすっと通った鼻筋、引き締まった顎を際立たせている。視線に気づいた雅之が、こちらを向いて小さく微笑んだ。「……間違っていた
式場は、海辺にたたずむ小さなガラスの教会だった。足元まで届く大きな窓の外には、穏やかな灰青色の海が広がっている。雲の切れ間から差し込む光が、白いバージンロードを斜めに照らし出していた。大勢の招待客は呼ばず、参列したのはごく一握りの側近だけ。誓いの言葉を交わすとき、司祭が雅之に「武内柚晴を妻として迎えるか」と問いかけた。雅之は私を優しく見つめ、「誓います」とはっきりと告げた。私に同じ問いが向けられたときも、まっすぐに「誓います」と答えた。続いて、指輪の交換。雅之が私の左手薬指へリングを滑らせる。その指先がかすかにこわばり、緊張を隠しきれずにいた。顔を上げ、彼の目を見つめる。「手、震えてるよ」雅之は片眉を跳ね上げ、指輪を根元まで押し込むと、そのまま私の手をぎゅっと握りしめた。「この日をどれだけ待ちわびたと思ってるんだ。手が震えるくらい当たり前だろ」思わず吹き出してしまった。司祭が誓いのキスを促す。雅之が身をかがめ、静かに唇を重ねてきた。窓の隙間から吹き込んだ海風が、ウェディングドレスの裾をふわりと揺らす。静まり返った礼拝堂に、寄せては返す波の音だけが心地よく響いていた。彼の口づけはどこまでも優しく、そして切実だった。失くした宝物を、ようやく取り戻したかのように。唇が離れ、そっと目を開けると、雅之の目元が赤くにじんでいた。「……これから、なんて呼べばいい?」頬を染めながら尋ねてみる。「雅之」彼の眉尻が下がり、満足そうに口元が緩んだ。「もう1度」「雅之……もう、しつこいよ」雅之は低く喉を鳴らして笑い、私をいっそう強く抱き寄せた。「しつこくていい。これからは毎日聞かせてくれ」式を終えて参列者たちが帰ったあと、雅之と手をつないで教会の外へ出た。砂浜に2人の足跡が並び、やがて満ちてきた潮の波にゆっくりと消されていく。雅之がふと足を止め、遠くの海岸線を指さした。「あのあたりだ。昔、お前が俺を拾ってくれた場所は」指された方へ顔を向ける。岩場は昔と変わらずそこにあり、引き潮で顔を出した濡れた黒い岩肌は、あの日の記憶そのものだった。「あの少し先の海の底に、この数年間抱えていた俺の未練も執念も、全部沈めてきた」彼は視線を落とし、私をまっすぐ見つめた。「
家に戻ると、雅之は身をかがめ、私の額に自分の額をそっと重ねた。互いの吐息が触れ合い、重くよどんでいた頭の中が、すっきりと澄み渡っていく。「柚晴、過去のことはもう終わったんだ」不意に鼻の奥がツンと痛み、私は雅之の首元にぎゅっと抱きついた。「川津さんも……いつか私に嘘をつくの?」雅之は2秒ほど沈黙した。それから私を腕の中からそっと離し、まっすぐに視線を合わせて、一言ずつ噛みしめるように告げた。「絶対にない。お前を何年も捜し続けたんだ。その年月を冗談になんかするものか」見つめる雅之の瞳が、わずかに赤くにじんでいた。あの日、傷だらけで漁船の中に身を潜めていた少年の姿が蘇る。ぼろ布で刃物の傷を縛り、顔の半分を血まみれにしながらも、ちぎったパンを差し出して笑いかけてくれた。「怖がらなくていい、取って食ったりしないから」あの頃の私は15歳で、何も分からなくて、見知らぬ他人だった雅之を半月もかくまい続けた。祖父母の目を盗んで毎日食べ物を運び、緊張のあまり手が震えていた。今にして思えば、あれも運命の巡り合わせだったのかもしれない。鼻をすすり、私は雅之の胸元へ顔をうずめた。「じゃあ、毎日私の名前を呼んで。愛してるって、1日3回言って。それから、勝手に――」雅之が不意に顔を寄せ、唇を重ねてきた。そのあとの言葉をすべて塞ぐように。「柚晴、条件が100個あったって全部飲んでやる。泣くな。お前に泣かれると、どうしていいか分からなくなる」*結婚式は12月中旬に決まった。雅之は当初、財界の重鎮を招く盛大な披露宴を考えていたが、疲れてしまうから嫌だと伝えた。すると彼は親しい顔ぶれだけの小規模な式にしようと笑ってくれた。式の前夜、敏昭からまた新しい番号で長文のメッセージが届いた。川津邸の門前で一晩中立ち尽くしていたこと。美遥の私物をすべて焼き捨てたこと。そして、金庫にしまっていた私への贈り物を並べた写真が添えられていた。そこに写る部屋には、足の踏み場もないほどプレゼントが埋め尽くされている。口紅からネックレス、マフラーからヒールに至るまで、年と日付が几帳面に記されていた。最後の1行には、こう書かれていた。【明日、あいつと結婚するのをやめてくれないか】読み終えた私は、たった
庭は静まり返り、風がこずえを揺らすかすかな音だけが響いていた。軒下に吊るされた灯りを、私はしばらくじっと眺めた。「手配をお願い。会いに行くわ」秘書は深々と一礼し、静かに下がっていった。*面会当日は一面の曇り空だった。雅之が付き添ってくれた。彼は何も詮索しなかった。朝出かける際に私の手をそっと握りしめ、車に揺られる道中も静かに隣に寄り添っていてくれた。面会室の中央には、透明なアクリル板が据え付けられていた。奥の扉から連れられてきた越己は、私の姿を捉えた瞬間、ぴたりと足を止めた。ニュースの写真で見たときよりもさらに痩せこけ、頬は深く削げていた。だが、その瞳だけは昔の兄のままだった。仕切りを挟んで向かい合って腰を下ろす。数秒の間、互いに視線を交わしたまま、どちらも口を開かなかった。先にわずかに身をかがめ、仕切りの中央にある通話孔へ顔を寄せたのは越己だった。「……柚晴」かすれたその声は、長い間まともに人と会話していなかったことを物語っていた。私は返事をせず、透明なアクリル板越しに、ただ静かに兄を見据え続けた。越己が顔を上げる。その目は赤く腫れていた。「……俺を、恨んでいるか?」少しだけ考え、私は小さく首を横に振った。どれほど憎くても実の兄であり、幼い頃はあんなにも私を可愛がってくれた。「恨んではいないよ。でも、もう二度と関わりたくない。ここに来たのはこれが最初で、最後だから」越己はきつく目を閉じた。涙が頬を伝ってぼろぼろとこぼれ落ちる。拭おうともせず、ただうなだれたまま座っていた。「すまなかった……」震える声が漏れ出す。「あの頃の俺は、どうかしていた。徹也のことばかり頭にあって、お前が俺のたった1人の妹だってことすら忘れていたんだ……」私は椅子に腰掛けたまま、静かに兄を見つめていた。目頭が熱くなったが、涙はこぼれなかった。長い沈黙のあと、越己はようやく顔を上げ、袖口で顔を乱暴に拭った。声は依然としてかすれていた。「あいつは……」越己は視線を泳がせ、私の背後へちらりと目を向けた。「お前を大切にしてくれているのか?」振り返ると、雅之が面会室の入り口にたたずんでいた。部屋には入らず、ドア枠に背を預けてスラックスのポケットに手を突っ込み、ただ静かに