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秘密の恋3年、彼は別の女と入籍した

秘密の恋3年、彼は別の女と入籍した

By:  悠木 ぬくもCompleted
Language: Japanese
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私の名前は武内柚晴(たけうち ゆずは)。高柳敏昭(たかやなぎ としあき)とは、誰にも知られてはならない秘密の関係を3年続けている。 妊娠が分かった、まさにその日のこと。 敏昭を驚かせようと、私は内緒で彼の家を訪れていた。 けれど、最悪のタイミングだった。 敏昭が私の兄である武内越己(たけうち えつき)と一緒に帰宅した。 パニックになった私は、咄嗟にベッドの下へと身を潜めた。 やがて部屋の外から、兄の鋭く問い詰める声が響いてくる。 「ここが、お前が3年間も隠し続けてきた女の部屋か?美遥を一体なんだと思ってるんだ」 緊張のあまり、ぎゅっと拳を握りしめた。 私と敏昭が付き合っていることすら、兄はまだ知らない。 どうすればいいのかも分からず、ただ息を殺していたそのとき、敏昭の低く穏やかな笑い声が聞こえてきた。 「美遥はいい子だよ。俺たち、もう籍を入れたから」

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Chapter 1

第1話

ベッドの下に潜り込んだ私の体から、すうっと力が抜けていく。

笹谷美遥(ささや みはる)は、敏昭の亡くなった親友・笹谷徹也(ささや てつや)の妹だ。

私と敏昭が秘密の関係を続けてきた3年間、彼女はまるで悪夢のように、ずっと私たちにつきまとってきた。

1年前、敏昭に告白して振られた美遥は、逆上してビルから飛び降りた。

処置が早く九死に一生を得たものの、あの日、敏昭は私を彼女の病室へ連れて行き、冷たく言い放った。

「救急車を呼んでやるのは、これで6回目だ。そして最後にする。

もう二度と俺の前に現れるな。俺が愛しているのは柚晴だけだ」

そう告げると、敏昭は嫌悪感をあらわにして美遥のスマートフォンを奪い、自分に関するデータをすべて消去した。

警備員にも、彼女を完全にブラックリストへ登録するよう命じた。

「二度とお前に関わるつもりはない。死ぬ死ぬ詐欺も大概にしろ」

あのとき、美遥がどれほど泣き崩れて彼の名前を叫ぼうと、敏昭は一度も振り返らなかった。

それなのに、あれからどれほど経ったというのだろう。

敏昭が彼女と極秘入籍していたなんて。

だとしたら、1か月前に私を抱きしめて甘い愛を囁き、狂ったように体を求めてきたあの時間は、一体何だったのか。

*

次の瞬間、部屋のドアが開き、再び閉まった。

私は床の上で身を縮め、壁にぴったりと背中を押しつける。

やがて、兄の低く抑えた声が耳に届いた。

「美遥と結婚したとして、3年間隠してきたあの子はどうするつもりだ」

ぎゅっと拳を握りしめた。

敏昭がどう答えるのか、知りたくてたまらなかった。

数秒の沈黙のあと、敏昭が淡々と口を開く。

「徹也に、妹の面倒を見ると約束したからな。あいつ、2日前に屋上から飛び降りかけたんだ。俺が駆けつけるのが少しでも遅れていたら、衝動のまま本当に落ちていた。

重度のうつ病だと診断された。いつまた突発的な行動を起こすか分からない。俺がそばにいてやらないと駄目なんだ」

兄が深く息を吸い込む気配がした。

「お前、あの子を愛していたんじゃないのか」

その言葉を聞いた途端、胸をぎゅっと押しつぶされたように息苦しくなる。

耳元に、再び敏昭の冷たい声が響いた。

「美遥が妊娠した。子どもがいれば病状が安定すると医師にも言われている。籍も入れずに、あいつをシングルマザーにさせるわけにはいかない。

あの子には、俺の持つすべてを与えるつもりだ……結婚以外ならな」

「……そうするしかないか。美遥にはお前が必要だし、あの子には運が悪かったと諦めてもらうしかないな」

兄の言葉は、あまりに残酷だった。

二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。

私の頬は、とうに涙でぐしゃぐしゃになっていた。

そうか。

1か月前、敏昭がSNSで交際を公表した「一般人の恋人」は、私ではなかった。

期待に胸を膨らませて握りしめていた、妊娠の診断書。

結局のところ、私はただの滑稽な道化にすぎなかった。

二人が部屋を出て行ったあと、私はベッドの下から這い出た。

乱暴に顔をこすり、涙を拭い去る。

敏昭が美遥と籍を入れたというのなら、私が身を引いて、二人の邪魔をしないようにするだけだ。

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第1話
ベッドの下に潜り込んだ私の体から、すうっと力が抜けていく。笹谷美遥(ささや みはる)は、敏昭の亡くなった親友・笹谷徹也(ささや てつや)の妹だ。私と敏昭が秘密の関係を続けてきた3年間、彼女はまるで悪夢のように、ずっと私たちにつきまとってきた。1年前、敏昭に告白して振られた美遥は、逆上してビルから飛び降りた。処置が早く九死に一生を得たものの、あの日、敏昭は私を彼女の病室へ連れて行き、冷たく言い放った。「救急車を呼んでやるのは、これで6回目だ。そして最後にする。もう二度と俺の前に現れるな。俺が愛しているのは柚晴だけだ」そう告げると、敏昭は嫌悪感をあらわにして美遥のスマートフォンを奪い、自分に関するデータをすべて消去した。警備員にも、彼女を完全にブラックリストへ登録するよう命じた。「二度とお前に関わるつもりはない。死ぬ死ぬ詐欺も大概にしろ」あのとき、美遥がどれほど泣き崩れて彼の名前を叫ぼうと、敏昭は一度も振り返らなかった。それなのに、あれからどれほど経ったというのだろう。敏昭が彼女と極秘入籍していたなんて。だとしたら、1か月前に私を抱きしめて甘い愛を囁き、狂ったように体を求めてきたあの時間は、一体何だったのか。*次の瞬間、部屋のドアが開き、再び閉まった。私は床の上で身を縮め、壁にぴったりと背中を押しつける。やがて、兄の低く抑えた声が耳に届いた。「美遥と結婚したとして、3年間隠してきたあの子はどうするつもりだ」ぎゅっと拳を握りしめた。敏昭がどう答えるのか、知りたくてたまらなかった。数秒の沈黙のあと、敏昭が淡々と口を開く。「徹也に、妹の面倒を見ると約束したからな。あいつ、2日前に屋上から飛び降りかけたんだ。俺が駆けつけるのが少しでも遅れていたら、衝動のまま本当に落ちていた。重度のうつ病だと診断された。いつまた突発的な行動を起こすか分からない。俺がそばにいてやらないと駄目なんだ」兄が深く息を吸い込む気配がした。「お前、あの子を愛していたんじゃないのか」その言葉を聞いた途端、胸をぎゅっと押しつぶされたように息苦しくなる。耳元に、再び敏昭の冷たい声が響いた。「美遥が妊娠した。子どもがいれば病状が安定すると医師にも言われている。籍も入れずに、あいつをシングルマザーにさせるわ
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第2話
家に帰り着いた私は、部屋のキャビネットいっぱいに並ぶプレゼントを見つめた。すべて敏昭から贈られたものだ。かつては宝物のように大切にしていたのに、今となっては滑稽な皮肉でしかない。目頭が熱くなり、それらを段ボール箱へと乱暴に詰め込んだ。ちょうどゴミ捨て場へ持っていこうとしたその瞬間、スマートフォンが激しく鳴り響く。画面に出た敏昭のアシスタントは、切迫した声で叫んだ。「武内さん!高柳さんがワイヤーアクションの撮影中に事故に遭いました!頭を強打して意識不明の重体です……危険な状態なんです、すぐに来てください!」危険な状態――その言葉を聞いた途端、頭の中が真っ白になった。無我夢中で駆けつけ、気がついたときには病室の前に立っていた。だが、足を踏み入れようとした瞬間、扉の向こうからアシスタントと敏昭の声が聞こえてきた。「やっぱり高柳さんは頭がいいですね。結婚したことが遅かれ早かれ武内さんにバレると察して、いっそ記憶喪失のフリをするなんて。これなら武内さんも責めないどころか、おとなしく3年間待ってくれますよ」敏昭が低く警告する。「黙れ。二度とその話をするな。俺が愛しているのは柚晴だけだ。あと3年待って美遥の病状が落ち着いたら、記憶を取り戻したことにして柚晴と結婚する」耳を疑った。全身の震えが止まらず、喉から声すら出ない。2年前、敏昭は肺に腫瘍が見つかったときも、手術が終わるまで隠し通していた。あのとき、私は泣いて怒り、別れ話にまで発展した。彼は「二度と嘘はつかない」と誓ったはずだった。それなのに、これが2度目の嘘だった。そのとき、背後から美遥の甲高い悲鳴が響いた。彼女はいきなり廊下の床に膝をつくと、私の手を無理やり引き寄せ、自分のお腹へと何度も打ちつけ始めた。「お願い、敏昭から私を引き離さないで!私の子どもを傷つけないで!お願いだから、この子だけは見逃して……!」咄嗟に手を引き戻そうとしたが、美遥は狂気じみた力で手首を掴んで離さない。これではまるで、私が彼女の腹を殴りつけているようにしか見えない。引き寄せられた至近距離で、美遥の口元に勝ち誇った笑みが浮かんだ。彼女は私の耳元で、低く囁いた。「ねえ、今度は敏昭がどっちを選ぶと思う?」青ざめる間もなく、病室のドアが勢いよく開いた
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第3話
視界がじわりと滲んでいく。「敏昭……っ」すがるように救いを求めた、その瞬間だった。開いたエレベーターから、大勢の記者が一斉になだれ込んできた。私の悲痛な呼びかけに、敏昭が足を止めて振り返る。その瞳に、一瞬だけ複雑な色がよぎった。けれど、美遥がすかさず彼の腕にしがみつき、怯えたように声を震わせた。「敏昭、ここから連れていって……怖いよ」敏昭に迷いはなかった。私を一瞥することもなく、美遥を抱きかかえて足早に立ち去っていく。彼が本当に私を愛していたのか、もう分からなかった。もし少しでも愛してくれていたのなら、私の青ざめた顔にも、血に染まったスカートにさえ気づかないはずがない。無数のフラッシュが焚かれ、鋭い光が容赦なく目を射抜く。私は壁を背にしてずるずると滑り落ちた。視界が激しく回転を始める。意識を手放す寸前、看護師が人を呼んで叫ぶ声が遠くで響いた。*次に目を覚ましたとき、鼻を突く消毒液の匂いに強烈な吐き気が込み上げた。ベッドに横たわる私の下腹部は、ぽっかりと冷たく、空っぽになっている。病室の片隅で、看護師が私の伝えた番号へ電話をかけていた。流産した事実を伝えた瞬間、スピーカー越しに冷酷な嘲笑が漏れ聞こえる。「柚晴は嘘つきなんですよ。あいつのことは最初から妹としか思っていませんし、指1本触れたことすらありません。俺の子を妊娠するはずがないでしょう。頭がおかしいなら精神科で治療を受けさせてやってください。あいつの兄貴とはただの友人です、それだけだ。二度と電話してこないでくれ」一方的に通話が切れた。看護師はいたたまれない表情で、私に同情の視線を向けている。胸の奥を激痛が突き刺し、息が詰まった。だが、それだけでは終わらなかった。敏昭は、私が美遥へ危害を加えるのを警戒し、あらかじめ兄を呼び出していた。病室のドアが乱暴に開け放たれた。入ってきたのは越己だった。私の実の兄。去年、私が初めて手にしたアルバイト代で買ってあげた上着を着ており、その襟元にはまだ雨粒が残っている。部屋に入るなり、兄は私をじっと見下ろした。シーツの血痕から私の青白い顔へと視線を走らせた。次の瞬間。乾いた破裂音が病室に響いた。激しい平手打ちを食らい、私の体はベッドの上へ横ざまに吹き
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第4話
兄は苛立ちを隠そうともせず、冷たく言い放った。「荷物をまとめろ。実家に帰るぞ。敏昭と美遥の結婚式が終わるまで、戻ってくるな」実家、という言葉を聞いた瞬間、全身の震えが止まらなくなった。私たちの実家は、辺鄙な離島の漁村にある。祖父母が勝手に決めた縁談を、兄が知らないはずはない。相手は地元の資産家、瀬川(せがわ)家の息子だ。今にも息を引き取りそうな病弱な男のもとへ嫁がされ、死ぬまで介護させられる――そんな残酷な話だった。流産したばかりの体を押して、私は兄の前に膝をついた。冷たい床に額を擦りつけ、必死にすがりつく。「お願い、実家には帰りたくない……!もう敏昭のことは諦めるから、ここにいさせて。ポートフォリオを提出して、バークリア大学の合格通知が届いたらすぐに海外へ行くから。2人の結婚式なんて絶対に邪魔しないから……!」兄の瞳に、わずかな後ろめたさがよぎる。だが、口から出たのは冷徹な言葉だった。「その話はとっくに終わっただろ。いつまで引きずっているつもりだ。それに、敏昭と話し合って決めた。お前のポートフォリオは美遥の名義でバークリア大学へ送って、すでに合格枠を押さえてある。美遥はこっちの大学を休学したばかりだ。出産が終わったら留学させる。余計なトラブルを防ぐためにも、お前はもう留学など諦めろ」全身が凍りついた。涙がボロボロとこぼれ落ちる。「徹也に借りがあるのはあんたたちでしょ!私じゃない!どうして私の未来を奪って恩返しするのよ!」兄の表情に、あからさまなうっとうしさが滲んだ。「いつからそんな身勝手になったんだ。徹也が命がけで遺した妹は美遥1人なんだぞ。あいつを助けて何が悪い。チケットはもう手配した。明日、島へ帰れ」私は床へ何度も額を打ちつけた。「絶対に嫌!お願いだから……瀬川家のあの人はもう死にかけてるのよ!そんなところに嫁がせて私の一生を台無しにする気!?私、お兄ちゃんの実の妹なんだよ!」「それもお前が美遥に償うためだ!」兄は私の胸ぐらを乱暴に掴み、強引に引き起こした。「誰が敏昭との間に割り込めと言った!」「割り込んでなんかいない!」再び鋭い平手打ちが飛んできた。「まだ口答えする気か!」必死に抵抗する私を、兄は力任せにアパートへと連れ戻した。逃げ出せないよう私を自室へ閉じ込め、
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第5話
「私じゃない……っ」声を絞り出した瞬間、喉を引き裂くような痛みが走った。だが兄は構わず、血走った目で私の肩を乱暴に揺さぶる。「徹也を殺したのがお前なら、残りの人生すべて美遥に償え!」「お兄ちゃん、お願いだから話を聞いて……あの動画は偽物なの……!」すがる思いで兄の袖を握りしめた。「まだ見苦しく言い訳する気か!」兄は私をベッドへと手荒に突き飛ばした。サイドテーブルの角に後頭部を強打し、目の前で火花が散る。だが兄は怪我の心配をするどころか、倒れ込む私の腕を掴み、外へと引きずり出した。無理やり車に押し込まれ、高熱と寒気で全身がガタガタと震え続ける。意識が朦朧として、どこへ向かっているのかも分からなかった。窓の外の街灯は次第にまばらになり、やがて視界は山道を取り囲む暗い森の影だけになった。車が止まったのは霊園だった。私は荷物のように車から引きずり降ろされ、笹谷家の墓前に放り出される。墓石の傍らには、すでに敏昭と美遥が立っていた。冷たい夜風が容赦なく吹きつけ、体の芯まで凍えていく。砂利の上に打ちつけられた両膝が激しく痛む。顔を上げると、黒いコートを羽織った敏昭が、美遥の腰を抱き寄せてぴったりと寄り添っていた。地面にへたり込む私を見下ろす敏昭の瞳には、何の感情も浮かんでいない。「柚晴」ようやく開かれた敏昭の口から、夜風よりも冷たい声が降ってきた。「心優しいやつだと信じていた。だが、美遥から俺を奪うために放火なんて真似をするとはな。心底失望したよ」「火なんて……つけてない……」私は砂利に手をついたまま、必死に敏昭を見上げた。彼がこれほど冷酷な目で私を睨みつけたのは、出会ってから初めてだった。彼も兄と同じだ。私が徹也を殺した犯人だと、端から決めつけている。何年もの歳月を共に過ごしてきたのに。この2人には、私へのわずかな信用の欠片すら残っていなかった。生きる気力を失った私は、兄の力任せに、美遥の前に無理やり膝をつかされる。兄のかすれた怒声が頭上から響いた。「徹也と美遥に合わせる顔があるのか!早く2人に土下座して謝れ!」敏昭の瞳に、あからさまな嫌悪が満ちる。「事故だと思っていた火災が、まさかお前の仕業だったとはな。警察に通報する。自分の罪はすべて刑務所で償
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第6話
胸の奥がツンと痛み、何かを言おうと唇を開いた。けれどその瞬間、美遥が敏昭の手を引いた。「敏昭、ちょっと気分が悪くなっちゃって……」敏昭の伸ばしかけた手が止まる。彼は兄を振り返ると、美遥を抱き上げた。「ここは任せる。美遥を冷やしたくない。先に連れて帰る」言い残すと、敏昭は一度も振り返らずに立ち去った。その背中は霊園の山道の先へと消えていく。美遥は敏昭の肩に顔を寄せながら、首だけを巡らせて私を見た。声を出さず、唇の動きだけで告げる。――あんたの負け、と。地面に膝をついたまま、私は遠ざかっていく車のテールランプをただ眺めていた。胸の奥に残っていた敏昭へのわずかな情も、完全に消え失せた。魂が抜けたように呆然とする私を、兄は港の貨物船へと無理やり連れて行った。埠頭の夜風は強く、薄手のズボンが冷えた肌に張りつく。高熱のせいで立っていることすらすでにおぼつかない。兄が私の背中を乱暴に小突いた。「早く乗れ。向こうに着いたら迎えがいるから」もつれる足でタラップを上がる。兄は岸に戻ると、振り返ることもなく車へと歩いていった。そのとき、甲板から数人の船員が下卑た笑みを浮かべて現れた。「へえ、いい女じゃねえか。今回は当たりだな」「怖がらなくていいぜ?たっぷり可愛がってやれって頼まれてるんでな」男たちが一斉に私の手足を押さえつけにかかる。強烈な恐怖から、私はどこから湧いたのかも分からない力でその腕を振りほどき、無我夢中でタラップを駆け下りた。遠ざかっていく兄の背中が見える。背後からは荒々しい足音が迫ってくる。「お兄ちゃん……っ!」足がもつれて派手に転倒し、擦りむいた膝から血が滲んだ。だが兄は車に乗り込み、エンジン音を響かせて走り去ってしまう。私の悲鳴など届きもしない。追っ手が急速に距離を詰めてくる。私は埠頭の脇にある暗い植え込みの中へ必死に滑り込んだ。尖った枯れ枝が顔や腕を引き裂く。両手で口を強く塞ぎ、呼吸を極限まで押し殺した。ポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で兄に発信する。しかし、兄は容赦なく着信拒否を繰り返した。敏昭にかけるしかない。コール音が鳴り、通話が繋がった。すぐ近くまで足音が迫る中、私は声を震わせて叫んだ。「助けて、敏昭……
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第7話
だが、予想していた悪夢は訪れなかった。直後、耳元で激しい怒号が上がり、肉を打つ鈍い音が連続して響き渡る。「てめえ、何者だ!」男の叫び声を皮切りに、短い悲鳴と激しい打撃音が重なる。恐る恐る目を開けると、船員たちはことごとく地面になぎ倒されており、その周囲を見知らぬ黒服の男たちが取り囲んでいた。薄暗い街灯の下、何人もの影が無様に転がっている。そのうちの1人が深々と頭を下げ、低く報告した。「旦那様、すべて制圧いたしました」冷たい海風が吹き抜け、私はあらわになった自分の脚を見下ろした。引き裂かれた服の端を慌てて引っ張るが、無残に裂けた布地では肌を覆い隠すことすらできない。破れた布を握りしめる指先の震えが止まらず、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。そのとき、真っ白なスーツのジャケットが、傷だらけの私の脚をふわりと包み込んだ。怯えさせないよう配慮された、あまりにも優しい手つきだった。顔を上げると、切れ長の黒い瞳と視線がぶつかる。海風に前髪を揺らすその顔立ちは冷徹で殺気立って見えるのに、私の胸の奥には何年も忘れていた安らぎが広がっていく。「川津……さん?」高熱で頭がおかしくなって、幻覚でも見ているのかと思った。15歳のとき、私は実家の海岸で行き倒れていた川津雅之(かわつ まさゆき)を助けたことがある。あの頃の彼は体中傷だらけで岩場に倒れ、顔色は紙のように真っ白だった。私は彼を自分の部屋にかくまい、毎日こっそり食事を運び続けた。祖父母に見つからないよう、彼は何度も私のクローゼットに身を潜めた。一番恥ずかしかったのは、彼にバスタブの中に隠れてもらったときのことだ。私は背を向けたまま着替えをし、2人で息を殺して固まっていた。外からは、扉を乱暴に叩く祖父の怒声だけが響いていた。怪我さえ治れば出ていってほしい、このことは秘密にしてほしい――そう頼んだ。けれど翌朝、彼は置き手紙1つ残さず姿を消してしまった。もうろうとする頭では、それ以上深く考える余裕などなかった。手を離せばまた消えてしまう気がして、私は必死で彼の襟元を掴んだ。口を開いた瞬間、情けない涙声がこぼれる。「連れていって、川津さん……もう、戻りたくありません」雅之は何も言わなかった。私の前に片膝をつき、そっと手を伸ばして頬の
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第8話
「私、夢を見てるんじゃないですよね……?」自分の頬をつねってみた。じんわりと痛みが走る。夢じゃない。雅之はベッド脇の椅子に腰を下ろした。その視線は私の顔から腕の包帯へ、そしてサイドテーブルの診断書へと移っていく。彼は診断書を手に取り、数秒ほど眺めていたが、口を開こうとはしなかった。そこには流産の兆候と、いくつもの異常値が冷たく並んでいる。視線を落とす彼の横顔で、顎の筋肉が一瞬きつく引き結ばれた。だが、すぐに表情を緩めて元の場所へ戻す。やはり、何も言わなかった。大きすぎるシャツの襟ぐりが滑り落ち、肩が半分はだけていることに自分でも気づいていなかった。雅之の視線が熱を帯びるのを感じ、私は顔を真っ赤にして後ずさり、慌てて襟元を引っ張り上げた。声すら出ず、穴があったら入りたいほど恥ずかしい。耳元で、雅之の低く笑う声がした。顔を上げようとした瞬間、身をかがめた彼に唇を塞がれた。咄嗟に身を引こうとしても、後頭部に回された大きな手で引き寄せられ、私はシーツをぎゅっと握りしめることしかできなかった。しばらくして彼が唇を離すと、私はようやくかすれた声を絞り出した。「川津さん、こんなの駄目です……」雅之は眉をわずかに上げ、私の首元にあるペンダントに目を留めると、薄く微笑んだ。「母の形見だ。将来の妻に渡せと言われていた。それを着けているということは、プロポーズを受けてくれたと解釈していいんだな」あのとき、姿を消した彼が残していったアンティークのペンダント。私はただのお礼だと思い込み、お守り代わりにずっと身につけていただけだった。慌てて外そうとする私を見て、雅之の表情からからかいの色が消えた。険しい顔つきに変わり、焦ったように手首を押さえつける。「まだ高柳のことを考えているのか?」再びあの男の名前を耳にしても、心はとうに麻痺していた。ベッド脇の診断書に視線を落とし、唇をきつく噛み締める。「あなたが普通の立場の人じゃないことくらい、私にも分かります。私なんかより、もっとふさわしい人がいるはずです。私なんかに構わないでください」もう一度ペンダントを外そうとした瞬間、両手首をベッドの上に押さえつけられた。嵐のような口づけが落ちてくる。さっきよりも強引で、容赦がない。身動きすらできず、至近距
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第9話
電話に出るべきか迷っていると、雅之がためらいなく画面をなぞって通話を切った。そのままスマートフォンの電源を落とし、私の手元へと戻してくる。真っ暗になった画面を見つめたまま、私は言葉を失っていた。「聞きたくないなら、無理に出る必要はない」雅之は椅子に深く腰掛け直し、淡々と言った。「これからは俺がいる。お前に嫌なことを無理強いできる奴なんて、もう誰ひとりいない」スマートフォンを握ったまま、何も言い返せない。以前の私なら、兄からの着信にはどんなに忙しくても必ず出た。何かあったのではないかと心配でたまらなかったからだ。けれど、こうして電源を切られても胸の中に不安はかけらもなく、ただ静けさだけが広がっていた。「明日、病院へ連れていって精密検査を受けさせる」雅之は枕元の診断書を手に取り、最後のページを開いた。「体が限界を迎えていると医師も言っていたぞ」私はうつむいたまま、黙り込んだ。かつて敏昭の撮影に付き添っていた頃は、食事もまともに喉を通らない生活が当たり前だった。夜間撮影があった日、モニターの横で明け方4時まで待ち続け、睡魔に負けて椅子にもたれて眠ってしまったことがある。朝になって現場スタッフに揺り起こされたとき、敏昭は私に声をかけてくれることもなく、とっくに引き揚げていた。あの頃は、ただ彼の姿を見られるだけで嬉しくて、自分の体のことなど顧みもしなかった。その時期、兄は美遥の世話にかかりきりで私に構う余裕などなく、そこへ流産まで重なった。体が耐えきれなくなるのも無理はない。ぼんやりと思いを巡らせていると、雅之がベッド脇まで歩み寄ってきていた。不意に鼻先をつままれる。「痛っ……」「俺の前で他の男のことを考えるな」雅之が見下ろすように視線を向けてくる。声は低いが、有無を言わせない響きがあった。「特に高柳だ」その手を払いのけ、眉を寄せる。「考えてなんかいません」「顔に書いてある」言い放つなり、雅之はぐっと顔を近づけてきた。反射的に身を引いたが、背中がヘッドボードに当たって逃げ場を失う。心臓が嫌になるほど跳ね上がり、私はシーツを強く握りしめた。「これからは俺のことだけを考えろ」耳元に落ちてくるささやきが、熱いほど近い。思わず息を呑み、目を固く閉じる。数秒の沈黙
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第10話
越己は冷酷に吐き捨てた。「聞きに行く必要なんてない。あいつが野垂れ死のうが、知ったことじゃない。それより、2人の結婚の話を進めよう」美遥は甘えるように敏昭の腕へすり寄った。だが、敏昭は呆然とスマートフォンの暗い画面を見つめたまま、微動だにしない。美遥の胸に、黒い嫉妬がかすめる。彼女は敏昭の手をぎゅっと握り直すと、下から顔を覗き込んで甘くささやいた。「明日、妊婦健診なんだ。前はパパラッチを警戒してたけど、今度は一緒に行ってくれるよね?」敏昭が口を開くより早く、越己が割って入った。「敏昭、美遥と結婚するなら一途でいろよ。そろそろ世間に2人の関係を公表する潮時だ。どうせ今年の東都アカデミー賞、主演男優賞はお前で決まりだ。パパラッチに嗅ぎ回られるくらいなら、授賞式の壇上で堂々と発表したほうがずっといい。それに美遥はバークリア大学の学生だ。その肩書きはお前の箔付けにもなる」越己は言葉を切り、吐き気を催すような嫌悪をあらわにした。「あの人殺しの妹とは大違いだ。あいつの顔を思い出すだけで虫唾が走る。電話に出ないなら結構だ。どこでくたばろうが知ったことじゃない、縁起でもない」美遥は敏昭の胸元に顔を寄せ、か弱げにすがりつく。「私には敏昭しかいないの。お願いだから見捨てないでね」胸にのしかかる重圧に耐えかねたように、敏昭はスマートフォンを伏せ、固く目を閉じた。「……余計な心配をするな。2日後、健診に付き添う」*川津の屋敷で迎えた2日目の夜、私は再び高熱を出した。もうろうとする意識の中、誰かに抱き上げられ、車へと運ばれる。次に目覚めたとき、そこは病院だった。病室のドア付近に立ち、雅之が無言で私の診断書を見つめている。隣で主治医が、極度の衰弱や髄膜炎のリスクについて深刻な声で説明を続けていた。途切れ途切れにしか聞き取れなかったが、雅之の指先がその紙をぐしゃりと強く握りしめるのが見えた。主治医が退室すると、雅之は診断書をサイドテーブルに置き、払いのけるように診断書を床へ叩き落とした。ガシャンと鋭い破裂音が響く。「……お前の兄貴は、こうやって妹の世話をしてきたのか」振り返った雅之の瞳が私を射抜いた。押し殺した低音の奥から、煮えたぎる激しい怒りが漏れ出ている。「あのとき、両親がお前たちを島
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