All Chapters of ただ、退屈だっただけ: Chapter 31 - Chapter 40

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第29話

ジェヒョクの家は漢江が一望できるシグニエルのペントハウスでした。 静かで、過度に広かったです。 全面ガラス窓の向こうにソウルの明かりが足元に広がっていました。 ついさっきまで車の中から眺めていた漢江が、今でははるか下にありました。 ソハは玄関に入ってしばらく中を見回しました。 ジェヒョクは慣れた様子で中へ歩き入り、スーツのジャケットを脱ぎました。 ソファの背もたれにジャケットを適当に掛けた彼は、シャツの袖を一度まくり上げてからソハの方を振り返りました。 私の名前、知っていますか ソハはしばらく口を閉ざしました。 そういえば知りませんでした。 数か月前に光安里ホテルで名刺をもらいました。 財布に入れて、まだそのまま入っていました。 しかし、一度も取り出したことがありませんでした。 “……わかりません ジェヒョクはじっとソハを見つめました。 「私の名刺を持って行ったじゃないですか。」 そのまま財布に入れておきました ほんの少しの沈黙です。 ジェヒョクはくすくす笑いました。 「ちょっとひどすぎるね。」 彼はソハにゆっくりと近づきながら言いました。 パク・ジェヒョク そしてすぐ前に立ち止まりました。 今回は覚えています ジェヒョクは手を上げてソハの顎をゆっくりと撫でました。 あなたの名前は何ですか ジンソハしてください かわいい名前だね ジェヒョクの視線がソハの唇に向けられました。 親指が顎のラインに沿ってゆっくりと動きました。 ソハは静かにその手の感触を受けていました。 すぐにジェヒョクは頭を下げました。 上唇が少し噛み締められました。 ソハは避けませんでした。 避けられなかったのか、避けたくなかったのか、自分でも分かりませんでした。 そうやって避けたかった男でした。 二度と会うことはないだろうと考え、そうなることを願っていたと信じていました。 しかし、数か月ぶりに偶然のように再会し、手をつなぎ、結局、引きずられるように彼の家まで入りました。 そのすべての瞬間に、ソハは断ることができました。 手を抜くこともできたし、車に乗らないこともできた。 玄関の前で振り返ることもできました。 しかし、そうはしませんでした。 ジェヒョクの顔が再び近づきました。 やっとソハはぼんやりと悟りました。 もしかすると、あなたは
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第30話

-------------- その夜。 ユゴンがチェウォンと学校のサークル部室で熱く絡み合っているとき、 ソハもまたジェヒョクのベッドの上にいました。 一方は誰もいない遅い夜のサークル部屋で、もう一方は漢江の夜景が見渡せる高層階の寝室で。 お互いがどこで、誰と夜を過ごしているのか分からないまま。 そうして同じ夜、二人はそれぞれの欲望に深く溺れていました。 ---------------- 賢いです。 入ってください ジェヒョクはしばらく窓の外を見て、物思いにふけっていたところでした。 昨日、彼女の体と混ざっていた瞬間を思い出しました。 答えを言ってもジェヒョクはしばらく窓の外を見ていました。 正午の陽光が漢江の上に降り注いでいました。 しかし、目の前に浮かび上がってきたのは全く別の光景でした。 ジェヒョクの太ももの上でお尻を動かしていた彼女に名前を尋ねました。 進. 西. は。 心の中でゆっくりと三文字をつぶやきました。 変でした。 たった名前を知っただけなのに、やっと本格的に彼女を手に入れた気がしました。 ジェヒョクには女性が多かったが、自分の人生に迎え入れた女性はこれまでにたった二人だけでした。 そして、もしかしたら―― ジンソハが三番目になるとは思いもしませんでした。 その考えにジェヒョクの口元に薄い笑みが浮かびました。 何よりも面白いことは別にありました。 二つの穴です。 初めて光安里にいたときから、感じが違いました。 とても狭くて窮屈でした。 そして昨日、両目で確認し、味見し、入れました。 面白いね 彼女を再び思い出すと、下半身がぎゅっと上がりました。 その瞬間に秘書が入ってきたのです。 専務様、郵便物です。 そして本日のミーティング資料も一緒にお持ちしました 秘書が書類と郵便物を机の上に整然と置きました。 体をかがめた瞬間、ほのかな香水の匂いが漂いました。 秘書がジェヒョクを見つめる目には、わざわざ説明しなくても伝わる好意がにじんでいました。 はい ジェヒョクの視線が一瞬秘書に留まりました。 スタイルが綺麗でした。 「出てみてください。」 はい、専務様 ドアが閉まると、ジェヒョクは何事もなかったかのように郵便物を手に取りました。 ジェヒョクにはそれなりの鉄則がありました。 おや
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第31話

ソ・ヘウォンに初めて会ったのは、ジェヒョクが23歳のときでした。 清潭洞で開かれた友達の誕生日パーティーです。 その日も女性は多かったです。 誰が誰の娘で、どの家の子息と付き合っているかという話が酒杯の間で交わされました。 ジェヒョクにとっては慣れていて退屈な席でした。 黒いワンピースを着た女性が別の男性と踊っていました。 ジェヒョクは特に興味を示さず、視線をそらそうとしました。 しかし、ふと下の方を見た瞬間、視線が止まりました。 裸足でした。 高価な靴を履き、身なりの良い人々で賑わう清潭洞のパーティーの真ん中で、彼女だけが平然と靴を脱ぎ捨て、裸足で踊っていました。 靴がどこに脱ぎ置いたのか、見当もつきませんでした。 ジェヒョクは知らず知らずのうちに再び彼女を見つめました。 変な女ですね。 その時、ヘウォンは顔を向けました。 目が合いました。 彼女は慌てることも、視線をそらすこともありませんでした。 踊りながらそのままジェヒョクを見つめました。 そうして口角を少し上げました。 まるでさっきから自分を見ていたと分かっていたかのように。 ジェヒョクはその瞬間に初めて考えました。 危険な女です。 そしてほぼ同時に二つ目の考えが浮かびました。 欲しい. 後になって振り返れば、警告は最初から十分でした。 裸足で他人のパーティー会場を歩き回っていたその女性は、そもそも誰も決めた線の中にとどまる人ではありませんでした。 可愛いとか会ってみたいという考えよりも先に抱いた感情でした。 トイレへ続く狭い通路で再び彼女と出くわしました。 ヘウォンは依然として裸足でした。 今回は片手に脱ぎ捨てた靴を持っていました。 ジェヒョクを見つけた彼女は足を止めました。 そして何事もなかったかのように靴を一足、彼の前に差し出しました。 新しくしてくれますか 頼みというより挑発に近い口調でした。 ジェヒョクはしばらくヘウォンを見つめ、黙って靴を受け取りました。 彼女の前で身を低くしました。 細い足首を掴んで靴を履かせる瞬間、自然と視線が上に向きました。 まっすぐ伸びたふくらはぎと滑らかな脚です。 美しいと思いました。 靴を履かせても、ジェヒョクの手はすぐには離れませんでした。 足首に止まっていた手がゆっくりとふくらはぎを這い上がりまし
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第32話

「そいつ、誰だよ」「友達」「友達とあんなふうにくっつくのか?」ヘウォンは答える代わりに笑った。その笑い方が、ジェヒョクをどうしようもなく苛立たせた。「お前、俺と付き合ってるんじゃないの?」するとヘウォンは、逆に聞き返した。「私たち、付き合ってたっけ?」その一言がきっかけで、死ぬほど激しい喧嘩になったこともあった。何日も連絡を絶って、それでも結局、先に会いに行くのはいつもジェヒョクだった。ヘウォンは、手に入りそうになると遠ざかり、本当に手放そうとすると、また姿を現した。ジェヒョクは、どんどん深みにはまっていった。そしてヘウォンもまた、ジェヒョクに執着していた。ただ、二人の執着は向いている方向が違った。ジェヒョクはヘウォンを自分のそばにつなぎ止めておきたかった。ヘウォンは、自分をつなぎ止めようとするジェヒョクを失いたくなかった。それなのに、彼のものになることだけは嫌がった。その矛盾のせいで、二人は愛し合うのと同じくらい激しく争った。別れようという言葉も、数え切れないほど口にした。二度と会わないと吐き捨ててドアを閉めた翌日、互いの家の前まで会いに行ったことさえあった。ジェヒョクには、あの頃はまだ分かっていなかった。ヘウォンが彼を愛していなかったわけではない。ヘウォンはそもそも、一人の人間のもとに落ち着くというやり方では、誰かを愛せない女だった。そしてジェヒョクは、よりによってそんな女に出会ってしまったのだ。ジェヒョクが初めてヘウォンと結婚したいと思ったのは、彼女とこれ以上ないほど酷い喧嘩をして、別れたあとのことだった。今度こそ、本当に終わったと思った。友人たちとクラブへ行った。浴びるほど酒を飲んで、誰でもいいから女と寝てしまおうと思った。騒々しい音楽と明滅するライトの下、初対面の女と並んで座り、酒を飲んだ。女はジェヒョクの肩に手を置き、耳元で何かを囁いては、絶えず笑っていた。ジェヒョクも適当に笑ってみせた。「ちょっと待って。トイレ行ってくる」女が席を立った。一人残されたジェヒョクは、テーブルの上のジントニックを手に取り、一息に飲み干した。分かんねえよ、くそ。酔えば少しはましになると思ったのに、頭の中にいるのは相変わらず、たった一人の女だけだった。そのときだった。誰かの手が、ジェヒョクのうなじをつか
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第33話

目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入った。ソハはしばらくの間、ただ瞬きを繰り返した。ここ、どこだっけ。顔を横に向けた瞬間、記憶が戻ってきた。一面のガラス窓。漢江の夜景。男。昨夜。「……私、何やってるの」ソハは布団の中に顔を埋めた。いっそ酔っていたのならよかった。酔ってすらいなかった。あの男に無理やり連れてこられたわけでもない。車に乗らないこともできた。家の前で引き返すこともできた。彼が手を伸ばしてきたとき、拒むことだってできた。なのに、どれひとつしなかった。むしろ――ソハはそこで考えるのをやめた。これ以上、思い出したくなかった。ベッドの隣に目をやる。ジェヒョクはいなかった。そのことにほっとしながらも、ほんの少しだけ物足りなさを感じた。そんな気持ちを抱いたこと自体が気に入らなかった。ソハはベッドから降り、床に散らばっていた服を拾って身につけた。鏡の前で髪を整えていた手が、ふと止まる。鏡の中の自分の顔が、いつもと少し違って見えた。何が違うのかは、自分でも分からなかった。そのとき、スマートフォンが鳴った。ユゴンだった。[お姉さん、起きた?]ソハは画面を見つめた。いつもなら笑いながら返していたメッセージだった。けれど今日は、すぐには指が動かなかった。昨夜のジェヒョクが浮かんだ。低い声。自分を見つめていた目。手を握られたときに感じた体温。「なんで比べてるのよ」ソハは独り言のようにつぶやいた。比べる理由なんてなかった。ユゴンとジェヒョクは、まるで違う人間だった。ユゴンは若かった。素直で、感情がそのまま顔に出る。だからユゴンと一緒にいると、気が楽だった。ジェヒョクは正反対だった。何を考えているのか分からない。こちらへ近づいてきながらも、いつも余裕があった。自分を欲しがっていることを隠そうともしないくせに、本心には一歩たりとも踏み込ませない男だった。だから居心地が悪かった。なのに――ソハは唇をきゅっと噛んだ。その居心地の悪さが、嫌いではなかった。そこが問題だった。スマートフォンがもう一度鳴った。[今日の夜、会わない?]ソハはしばらくそのメッセージを見つめてから、返事を送った。[うん]送信してからも、気持ちは晴れなかった。そのとき、寝室のドアが開いた。ソハが顔を上げ
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第34話

チェウォン。読むつもりなんてなかった。ユゴンが手にしていたスマートフォンの画面が、たまたま目に入っただけだった。ユゴンはメッセージを確認すると、特に表情を変えることもなく画面を消した。いつもなら気にも留めなかったはずだ。二人は付き合っているわけではない。お互い、他の誰とも会わないと約束したこともなかった。ユゴンに他の女がいたって、おかしくはない。自分だって――昨夜、別の男と寝た。そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。自分だって後ろめたいことをしているくせに、ユゴンのスマートフォンを気にしている。心の中にはジェヒョクの名前を抱えたまま、ユゴンの前では何事もなかったような顔をして座っていた。それなのに、なぜか口が先に動いた。「チェウォン?」ユゴンが顔を上げた。「うん」「仲いいの?」ユゴンの目に、一瞬だけ妙な色が浮かんだ。「ただの同期」「ただの?」「なんで?」ユゴンが笑った。「気になる?」「別に」ソハはすぐに否定した。あまりにも早く答えたせいで、かえって気持ちを見透かされたような気がした。「画面に名前が見えただけ」「ああ」ユゴンはそれ以上、何も説明しなかった。それが妙に気になった。説明しないユゴンも。説明してほしいと思っている自分も。どちらも知らない人間みたいだった。ソハは水の入ったグラスを持ち上げた。聞きたかった。チェウォンとはどういう関係なのか。二人きりで会っているのか。もしかして、寝ているのか。けれど、聞けなかった。何の権利があって?自分とユゴンは恋人同士ではない。初めて会った日から互いのいちばん深いところまで見せ合っていたとしても、恋人になろうと約束したことは一度もなかった。まして、昨夜の自分を思えば滑稽だった。ユゴンにチェウォンとはどういう関係なのかと尋ねた瞬間、自分はまずジェヒョクについて説明しなければならない気がした。その名前を口にした瞬間、何もかも変わってしまう気がした。ジェヒョクと寝たということだけじゃない。そのあともずっと、ジェヒョクのことを考え続けていることまで知られてしまいそうだった。ソハは水を一口飲んだ。「でも、お姉さん」ユゴンが不意に言った。「ん?」「お姉さんは、他の男と会ったりしてる?」ソハの手が止まった。心臓がどくんと沈んだ。ま
last updateLast Updated : 2026-10-05
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第35話

ある日、チェウォンはユゴンの腕の中に寝転んだまま言った。「私たち、冬に旅行行かない?」「どこに」「まだ決めてない。ヨーロッパでもいいし、東南アジアでもいいし」「でも、なんで俺?」チェウォンは当然だと言わんばかりに、指を一本ずつ折り始めた。「英語もできるし、中国語もできるでしょ。道にも強いし」「それだけ?」「体もいいから、ボディーガードもしてくれるし」チェウォンがにやっと笑った。「夜は一緒にセックスもできるし。あんた、ぴったりじゃん」ユゴンが呆れたように笑った。「ガイドにボディーガードに、夜の相手まで?」「うん。コスパ最高」「ウケる」ユゴンは笑っていたが、ふと尋ねた。「じゃあ、彼氏とはなんで付き合ってんの?」ほんの一瞬、チェウォンの顔に影が差した。一瞬だけの変化だった。ユゴンには見られていないと思ったのか、チェウォンはすぐいつもの表情に戻った。「彼氏は……タコ?」「は?」「タコ。足にできるやつ」「どういう意味だよ」チェウォンは天井を見上げた。「長くありすぎて、そこにあるのが当たり前になったもの」「……」「取ったら痛そうだから、そのままにしてるもの」ユゴンの笑みが少しずつ消えた。「好きだから付き合ってるんじゃないの?」チェウォンは少し考えた。「好きではあるよ」「でも?」「好きなのと、ときめくのは別でしょ」ユゴンは答えなかった。なぜか、その言葉が引っかかった。「じゃあ俺は?」チェウォンが顔を向ける。二人の目が合った。「あんた?」「俺は何なんだよ」チェウォンが笑った。「あんたは新しい皮膚?」「何それ」ユゴンは鼻で笑いながら顔をそらした。けれど、その笑いは長く続かなかった。チェウォンが自分を彼氏と比べていること自体が、なぜか気になった。そもそも比べる必要なんてない関係だった。二人は恋人ではない。互いに責任を負う必要もなければ、嫉妬する必要もない。誰かと会うなと言える権利だってなかった。なのに最近は、何かがおかしかった。セックスそのものより、そのあとの時間のほうが長くなっていた。旅行の話をして。一緒にご飯を食べて。授業が終わるのを待って。少しずつ、お互いの日常の中へ入り込んでいた。ユゴンはふと思った。こんなの、最初に決めたことじゃなかったのに。そのときチェウォ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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第36話

ジェヒョクとソハが再び顔を合わせたのは、一週間後だった。今度はベッドでも、ワインバーでも、漢江を見下ろす彼の家でもなかった。会議室だった。「チン・チーム長、こちらの資料お願いします」「はい」ソハはノートパソコンを接続しながら顔を上げた。そして、そのまま固まった。会議室の向かい側のドアが開く。黒いスーツを着た男が、五人の社員を連れて入ってきた。パク・ジェヒョク。一瞬、ソハは自分の目を疑った。ジェヒョクもほんのわずかに歩みを緩めた。本当に、一瞬だけだった。すぐに何事もなかったような顔に戻った。「初めまして。専務のパク・ジェヒョクです」低く、落ち着いた声。ソハは呆れた。数日前、その声はベッドの上で自分の名前を呼んでいた。何度も。ソハの胸をつかみ、深く入り込みながら、吐息混じりに「お前は俺のものだ」と言っていた。そんな男が今は、まるで初対面の相手にするように名刺を差し出している。ソハも表情を整えた。「チーム長のチン・ソハです」名刺を交換する。ジェヒョクの指が、名刺の端をつまんだ。ソハはその手を見ないようにした。よりによって、真っ先に手を思い出してしまった。自分の二つの穴を弄り、濡れたところを指でなぞっていた、あの手。くそ。「よろしくお願いします」「こちらこそ」ジェヒョクの視線が、ほんの一瞬だけソハの顔に留まった。それだけだった。会議が始まった。ソハはすぐに別人になった。資料を説明し、質問に答え、修正された数字も即座に探し出した。「その条件では、こちらとしては受け入れがたいです」相手企業のチーム長が言った。ソハは画面を切り替えた。「ですので、代替案も併せて用意しています」ジェヒョクは腕を組んだまま、彼女を見つめていた。初めて見る顔だった。自分の腕の中にいた女でもなければ、自分に激しく抱かれ、顔を歪めながら快楽に溺れていた女でもない。話す速度が乱れることもなかった。相手に反論されても、表情ひとつ変えない。むしろ、相手が見落としていた数字を正確に指摘した。「専務」隣に座っていた社員が小声で呼んだ。「はい」「この条件で進めるのはどうでしょうか」ジェヒョクは書類に視線を落とした。「ちょっと待って」そして、もう一度ソハを見る。「チン・チーム長」「はい」「今ご提案いただいた案で
last updateLast Updated : 2026-10-06
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第37話

「専務?」ソハの声に、ジェヒョクは物思いから引き戻された。「私の説明に、何か問題がありますか?」ジェヒョクは彼女を見た。きちんとしたシャツ。綺麗に整えられた髪。少しの乱れもない表情。けれど、テーブルの下でペンを握る手には、わずかに力が入っていた。緊張している。ジェヒョクには分かった。それでも、逃げない。あのインターンもそうだった。そして今のチン・ソハも。そのときになって、ジェヒョクはようやく気づいた。自分には、ずっと昔から変わらない好みがあるらしい。強い女が好きだったわけじゃない。怖いもの知らずの女が好きだったわけでもない。怖がりながらも、引かない女。そして、誰もが知る強い顔の奥に、自分だけが知っているもう一つの顔を持つ女。ジェヒョクはゆっくりとペンを置いた。「いいえ」ソハと目が合った。「続けてください、チン・チーム長」ソハは再び画面に目を向けた。ジェヒョクは椅子の背にもたれた。厄介だった。ずっと昔、一度だけ本気でのめり込んだことのある種類の女だった。――――――――会議が終わった。「お疲れさまでした」椅子が引かれ、書類が閉じられる。二時間近く張り詰めていた会議室の空気が、ようやく緩んだ。ソハはノートパソコンを閉じた。緊張が解けた途端、指先がわずかに震えた。うまく終わった。少なくとも、言うべきことは全部言った。相手が専務だろうが何だろうが引かなかったし、準備してきた案も守った。問題は、その専務がパク・ジェヒョクだったということだけだ。「チン・チーム長」ソハが顔を上げた。ジェヒョクだった。「少し、私の部屋まで来ていただけますか?」その瞬間、周囲の視線が自然とソハに集まった。「先ほどの修正案について、確認したいことがあります」完璧に仕事上の口調だった。ソハも表情を変えなかった。「はい。資料を持って伺います」専務室は、思っていたより広かった。そして、あまりにも整然としていた。大きなデスク。打ち合わせ用のテーブル。ソファ。全面ガラスの窓の向こうには、ソウルの街が見下ろせた。入った瞬間、ソハは思った。家と同じ。余計なものが何ひとつない。「コーヒーはいかがですか?」秘書が尋ねた。「結構です」ソハが答える。ジェヒョクもジャケットのボタンを外しながら言った。「
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第38話

「ここ、会社ですよ」「知ってる」「外には秘書もいるし」「それも知ってる」「なのに?」ジェヒョクはしばらくソハを見つめた。そして、ひどく低い声で言った。「会議のときは、あんなにまっすぐ俺を見てたのに」「……」「どうして今は見られないんです?」ソハはすぐに彼を見た。「見てるじゃないですか」ジェヒョクが笑った。その瞬間だった。ほんのわずかな一線を、二人は越えた。ドア一枚隔てた向こうには人がいる。秘書がいつノックしてもおかしくなかった。ほんの少し前まで、自分たちは専務とチーム長だった。その事実が、かえって二人の間の空気を張り詰めさせた。ソハが小さく尋ねた。「ドア、鍵かかってます?」ジェヒョクの目つきが変わった。短い沈黙。やがてジェヒョクが聞いた。「かけましょうか?」ソハは彼を見つめた。「いいえ。そこまでする必要はないです」そして――言葉の代わりに、つないだ手に少し力を込めた。先にキスをしたのはソハだった。会議室にいたときから、ソハはジェヒョクのことを意識しすぎていた。今すぐ彼に触れられたい。彼の腕の中で、さっきまで必死に保っていた平静を崩してしまいたい。そんな衝動を押さえるだけで精いっぱいだった。ジェヒョクも同じだった。ソハをソファへ追いやるように抱き寄せ、互いに抑えていた欲望を一気に解放した。「いつから?」ソハが息を乱しながら聞いた。「何が」「こんなふうになってたの」ジェヒョクは低く笑った。「会議室に君が入ってきたときから」その答えに、ソハは一瞬だけ目を閉じた。少し前まで、あれほど整然としていた女が。会議室の真ん中で、誰にも隙を見せなかった女が。今は自分の腕の中で、別の顔を見せている。ジェヒョクはその表情を見つめながら思った。これだ。自分が知っている、もう一人のチン・ソハ。欲しい。何度でも、こんな顔をさせたい。ジェヒョクが彼女を強く抱き寄せると、ソハも逃がすまいとするように腕を回した。二人の呼吸は次第に荒くなり、外に人がいることも、ここが会社だということも、一瞬だけ遠くなった。そうして二人は、互いに抑えきれないまま頂点へと駆け上がっていった。――――――――上品なフレンチレストランだった。ユゴンと彼女が会う場所は、いつもここだった。ユゴンはいつものように、チ
last updateLast Updated : 2026-10-09
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