All Chapters of ただ、退屈だっただけ: Chapter 41 - Chapter 50

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第39話

ユゴンの表情も、少しだけ和らいだ。「そう言いながら、連絡もしないくせに」「忙しかったの」「いつも忙しいって言うじゃん」「本当に忙しかったのよ。韓国に戻ってきてまだ一週間しか経ってないんだから」ユゴンがふっと笑った。母親はそんな息子をしばらく眺めていた。そしてテーブル越しに手を伸ばし、ユゴンの乱れた前髪を整えてやった。「ちょっと顔見せて」「何を見るんだよ」「痩せた?」「痩せてない」「ちゃんとご飯食べてる?」「うん」「大学は?」「ちゃんと行ってる」少し間を置いてから、彼女は何でもないことのように尋ねた。「付き合ってる人は?」ユゴンの眉が上がった。「なんで急に?」「気になるから」「いない」「本当に?」「うん」彼女が意味ありげに笑った。「つまらない生き方してるのね」「母さんにだけは言われたくないけど」「どうして?」「最近、母さんのほうがつまらなそうじゃん」ワイングラスを回していた手が、一瞬だけ止まった。「私が?」「うん」「そんなことないけど」「あるって」彼女は答える代わりに窓の外へ目を向けた。ガラス越しに、南山タワーの明かりがきらめいていた。やがて、何でもないことのように言った。「長いこと持ってたものを、一つ整理したからかしら」「よかったじゃん」ユゴンは大して気にも留めずに答えた。「いらないものは捨てたほうがいいよ」彼女はゆっくりと息子を見た。「……そうね」口元にはまだ笑みが残っていた。けれど不思議なことに、目だけは笑っていなかった。ユゴンは気づかなかった。そのとき、ウェイターが静かにテーブルのそばへ近づいてきた。「本日も、いつもの内容でご用意いたしましょうか?」彼女はメニューを開くこともなく顔を上げた。「ええ。そうしてください」「前菜はキャビア、メインは前回と同じラムでよろしいでしょうか?」「いいえ」彼女は少し考えてから、窓の外を見た。「今日は魚がいいわ。今日入ったもので、何がおすすめ?」「ドーバーソールが大変よろしいです」「じゃあ、それにしてください。バターは少なめで」「かしこまりました」ウェイターは自然にユゴンのほうへ目を向けた。「お坊ちゃまは、前回と同じくフィレでご用意いたしましょうか?」ユゴンはメニューを手に取りかけて、止まった。「俺のも覚えて
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第40話

そのとき、ウェイターがメインの皿を下げ、デザートメニューを持ってきた。彼女はメニューを見ることもしなかった。「私はいつものをお願いします」「バニラのミルフィーユでございますね?」「ええ。コーヒーも一緒に」「いつものエスプレッソでご用意いたします」ユゴンが笑った。「ここのスタッフ、母さん本人より母さんの好み分かってるんじゃない?」「だから楽なのよ」「俺、何食べよう」彼女がユゴンを見た。「チョコレートにしなさい」「なんで?」「あなた、チョコレート好きでしょ」「いつ俺が」「小さい頃から」「それは子供の頃の話じゃん」「味の好みって、そんなに変わらないものよ」結局ユゴンがチョコレートのデザートを注文すると、彼女はほら見たことかという顔で笑った。「ほら」「たまたまだって」「はいはい」食事が終わる頃には、彼女のワイングラスもほとんど空になっていた。最後の一口をゆっくり飲み、グラスを置く。「美味しかった」「母さんのおごりだから、もっと美味しい」「この子ったら」彼女は笑いながら、ナプキンで口元を軽く押さえた。「次はあなたがおごりなさい」「俺がここでどうやって払うんだよ」「バイトしなさい」「息子に厳しすぎない?」「二十歳ならもう大人でしょ」「さっきは子供扱いしてたくせに」「私の息子なんだから、子供よ」彼女は当然だという顔で答えた。ユゴンがふっと笑った。彼女は椅子から立ち上がった。「ちょっとお手洗い行ってくる」「うん」彼女はドレスの裾を軽く整え、ホールの奥へ歩いていった。ヒールのある靴を履いているのに、足取りには少しも力みがない。伸びた背筋と、ゆったりとした歩調。通りかかったスタッフが自然に一歩横へ退き、道を空けた。「お食事はいかがでしたでしょうか」「ええ。今日もとても良かったわ」彼女は笑いながら通り過ぎた。「デザートは少しあとで持ってきてください」「かしこまりました」化粧室はホールから少し離れた、静かな廊下の突き当たりにあった。彼女はゆっくりと廊下を歩いた。そして角を曲がった瞬間――誰かとぶつかりそうになった。「あら」「あ、すみません」彼女が一歩下がった。向かいにいた女も驚いた顔で頭を下げた。「私が前を見てなくて」「大丈夫ですよ」彼女が柔らかく微笑む。女もつられるよ
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第41話

ここへ来る直前まで、ソハはジェヒョクの家にいた。昨夜からずっと。最初は、本当に少しだけ寄って帰るつもりだった。遅くとも日付が変わる前には自分の家へ戻るつもりだったし、朝になれば、それぞれの日常へ戻るのだと思っていた。けれど、予定どおりになったことは何ひとつなかった。一度だったセックスが、二度、三度になった。夜が過ぎて朝になり、朝が過ぎて、気づけばもう午後だった。カーテンをきちんと閉めていないリビングには、遅い午後の日差しが長く差し込んでいた。ソファの下には昨夜脱いだジェヒョクのシャツが落ちていて、テーブルの上には飲みかけの水と、すっかり冷めたコーヒーが並んでいた。ソハはシャワーを浴びたあと、しばらく窓辺に立っていた。漢江の上で陽の光がきらめいていた。あまりにも普通で、明るい午後だった。だからこそ、昨夜から続いているこの時間のほうが、かえって現実味を失っているように思えた。背後に人の気配がした。振り返らなくても、ジェヒョクだと分かった。もうすっかり覚えてしまった香りが先に近づいてきた。ムスク。その奥に重く沈むウッディノート。ジェヒョクは後ろからソハを抱きしめた。胸をつかみ、うなじに唇を押し当てる。ソハは小さく声を漏らしながら彼の頭に手を回し、そのまま振り返ってキスをした。「何時に出るって言ってたっけ」低く沈んだ声が耳元に落ちた。「七時」「まだ時間あるな」ソハが振り返った。会社で見るジェヒョクとは、まるで別人だった。気軽に着た薄手のコットンTシャツの下からは、引き締まった肩と胸の輪郭が見えていた。いつも乱れひとつない髪も、少しだけ崩れていた。会議室では、誰も気軽には声をかけられない男。仕立てのいいスーツ。きっちり整えられた髪。めったに感情を表に出さない顔。そんな男が今は、裸足に下着とTシャツ一枚だけで、自分の前に立っている。ソハはなぜか、その姿から目を離せなかった。誰にでも見せる姿ではない気がした。夜を越え、朝を迎え、また午後になるまで同じ空間にいたからこそ見られた、パク・ジェヒョクの乱れた姿。自分と二人きりになるときだけ、あの整然とした表面にひびが入る。ソハは、その瞬間が好きだった。自分のせいで、ジェヒョクがいつもの彼ではなくなる瞬間。「何ですか」「何が」「また、そんなふうに見るから
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第42話

――――――――玄関のドアが開いた。ヘウォンはしばらく、その場に立っていた。久しぶりだった。なのに不思議と、懐かしいとは思っても、よそよそしさは感じなかった。家の中へ入ると、まず馴染みのある香りが届いた。ほのかにウッディが混じったムスク。ずっと昔からジェヒョクが使っていた香りだった。ヘウォンはゆっくり靴を脱いだ。「相変わらずね」家はほとんど何も変わっていなかった。リビングのソファも。窓辺の低いテーブルも。壁に掛けられた絵も。漢江を見下ろす大きな窓まで。ヘウォンはごく自然に奥へ入っていった。まるで数か月の旅行を終えて、自分の家へ帰ってきた人のように。後ろからジェヒョクが言った。「コーヒー?」「うん」「何にする」ヘウォンが振り返った。「それ、聞くの?」ジェヒョクの表情がほんのわずかに固まった。ヘウォンは笑った。「まだ覚えてるくせに」しばらくして、ジェヒョクはキッチンへ向かった。ヘウォンは一人、リビングに残った。ゆっくりと周囲を見回す。本当はこの家に足を踏み入れた瞬間から、ずっと確かめていた。何が変わったのか。自分が最後に来たときから、何が変わっているのか。大したものはなかった。だからこそ、むしろ安心した。ほら。何も変わってない。ヘウォンは窓辺へ近づいた。漢江の上で、遅い午後の日差しが細かく砕けていた。裁判所から届いた数枚の紙に、いったいどれほどの意味があるというのだろう。ヘウォンにとって、離婚はまだ現実のことのようには思えなかった。ジェヒョクと自分は、数え切れないほど喧嘩した。別れて。また会って。二度と顔も見ないと言いながら、結局同じベッドで朝を迎えた。今回だって、何が違うというのだろう。少し時間がかかっただけだ。ヘウォンはそう思っていた。ジェヒョクが本当に自分を捨てられるなんて、一度も考えたことがなかった。彼がどれほど自分を愛していたか、知っていたから。いや。今だって、知っているつもりだったから。「ほら」ジェヒョクがコーヒーカップを置いた。ヘウォンはカップを持ち上げた。一口飲んで、笑う。「同じね」ジェヒョクは答えなかった。「私の好きな味」「覚えてはいるから」その言葉にも、ヘウォンは傷つかなかった。むしろ、かすかに笑った。覚えてるじゃない。それで
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第43話

あの頃は、この景色が二人のものになれると信じていた。変わるのは季節と光だけ。二人が交わした約束だけは、この川のように、いつまでも流れ続けていくのだと。けれど川は、いつも同じ場所にありながら、一度として同じ姿で流れたことはなかった。ヘウォンはコーヒーカップを口元へ運んだ。熱いマグが唇に触れた。喉を通っていくのがコーヒーなのか、それとも古い記憶なのか、自分でも分からなかった。何も変わっていないように見えた。窓の外も。この家も。そして、もしかしたら――自分とジェヒョクも。そう信じたかった。そうでなければ、今こうして再びこの場所に座っている理由を説明できない気がした。過去は終わったのではなく、ただ少しの間、止まっていただけなのだと。二人の間に積もった沈黙だって、いつかは昔のように埋められるのだと。けれど、ジェヒョクの固い表情が、その確信に小さなひびを入れていた。自分の記憶の中にいるジェヒョクと、今目の前にいるジェヒョク。その間には、川のように深く暗い時間が流れていた。その時間の中で、自分の知らない誰かが彼のそばにいたのかもしれない。そんな考えが、窓の外の夕焼けより先に、ヘウォンの心を冷たく染めていった。彼女はカップを置いた。同じ景色を見ているのに、自分だけがあの頃の場所から一歩も動けていない人間のように思えた。「時々、考えてた」「何を」「私たち、本当に終わったのかなって」ジェヒョクはしばらく答えなかった。「終わったよ」短かった。ヘウォンはゆっくり顔を向けた。「そんなに簡単に?」「簡単じゃなかった」「でも、あなたは平気そうに見える」「じゃあ、俺はどんなふうに見えればいいんだ」ヘウォンが笑った。「分からない」短い沈黙。「もう少し、ぼろぼろになってると思ってたのかも」ジェヒョクの目が静かに沈んだ。「どうして」「私がいないから」あまりにも当然のように出た言葉だった。ジェヒョクが乾いた笑いを漏らした。「変わらないな」「何が?」「その自信」「自信じゃない」ヘウォンは真っすぐジェヒョクを見た。「あなたが、私をどんなふうに愛してたか知ってるから」ジェヒョクの顔から笑みが消えた。それでもヘウォンは目をそらさなかった。「私だって分かってる」「何を」「私が悪かったこと」「……」「た
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第44話

ある日、チェウォンはユゴンの腕の中に寝転んだまま言った。「私たち、冬に旅行行かない?」「どこに」「まだ決めてない。ヨーロッパでもいいし、東南アジアでもいいし」「でも、なんで俺?」チェウォンは当然だと言わんばかりに、指を一本ずつ折り始めた。「英語もできるし、中国語もできるでしょ。道にも強いし」「それだけ?」「体もいいから、ボディーガードもしてくれるし」チェウォンがにやっと笑った。「夜は一緒にセックスもできるし。あんた、ぴったりじゃん」ユゴンが呆れたように笑った。「ガイドにボディーガードに、夜の相手まで?」「うん。コスパ最高」「ウケる」ユゴンは笑っていたが、ふと尋ねた。「じゃあ、彼氏とはなんで付き合ってんの?」ほんの一瞬、チェウォンの顔に影が差した。一瞬だけの変化だった。ユゴンには見られていないと思ったのか、チェウォンはすぐいつもの表情に戻った。「彼氏は……タコ?」「は?」「タコ。足にできるやつ」「どういう意味だよ」チェウォンは天井を見上げた。「長くありすぎて、そこにあるのが当たり前になったもの」「……」「取ったら痛そうだから、そのままにしてるもの」ユゴンの笑みが少しずつ消えた。「好きだから付き合ってるんじゃないの?」チェウォンは少し考えた。「好きではあるよ」「でも?」「好きなのと、ときめくのは別でしょ」ユゴンは答えなかった。なぜか、その言葉が引っかかった。「じゃあ俺は?」チェウォンが顔を向ける。二人の目が合った。「あんた?」「俺は何なんだよ」チェウォンが笑った。「あんたは新しい皮膚?」「何それ」ユゴンは鼻で笑いながら顔をそらした。けれど、その笑いは長く続かなかった。チェウォンが自分を彼氏と比べていること自体が、なぜか気になった。そもそも比べる必要なんてない関係だった。二人は恋人ではない。互いに責任を負う必要もなければ、嫉妬する必要もない。誰かと会うなと言える権利だってなかった。なのに最近は、何かがおかしかった。セックスそのものより、そのあとの時間のほうが長くなっていた。旅行の話をして。一緒にご飯を食べて。授業が終わるのを待って。少しずつ、お互いの日常の中へ入り込んでいた。ユゴンはふと思った。こんなの、最初に決めたことじゃなかったのに。そのときチェウォ
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第45話

どちらが先だったのかは、あとになっても正確には思い出せなかった。ただ、気づいたときには唇が触れていた。最初は確かめるように、短く。一度離れて、また重なった。二度目は、少し長かった。彼がヘウォンの腰を引き寄せた。ついさっきまで掌でふざけるように触れていた硬い体に、今度は自分の体全部が触れた。ヘウォンは一瞬、息を止めた。ハワイで感じた、あの見知らぬ感覚がまた込み上げてきた。けれど今度は、ずっと鮮明だった。彼は急がなかった。まるで本当に、この瞬間を長いあいだ待っていた人のように。ヘウォンが大人になるまで待っていたかのように、慎重に彼女を抱いた。初めて互いの裸を前にして恥ずかしさからヘウォンが体を縮こませても、無理にその手をどかそうとはしなかった。緊張が解けるまで待った。唇を重ね、抱きしめ、少しずつ互いの体に慣れていった。最初、ヘウォン自身も自分が何を好きなのか分からなかった。どこに手を置けばいいのかも。どう呼吸すればいいのかも。ただ、彼の手に導かれるままについていった。初めて知る感覚が、一度に押し寄せてきた。熱いと思った次の瞬間には、ひやりとした。くすぐったかった感覚が、いつの間にか体の奥に重く沈んでいった。ヘウォンは無意識に彼の肩を強くつかんだ。彼は何度も、大丈夫かと聞いた。ヘウォンがうなずくまで待った。彼女の体から力が抜けるまで、ゆっくり触れ続けた。それでも、初めての感覚は慣れないものだった。体の内側を満たしていく重い感覚と、かすかな痛みに、ヘウォンはしばらく何も考えられなかった。彼の胸元に顔を埋めた。「痛い?」ヘウォンはしばらくしてから、首を横に振った。痛いだけではなかった。もっとずっと複雑だった。一度も味わったことのない感覚だった。知らなくて。少し怖くて。なのに、不思議とやめてほしいとは思わなかった。その日、ヘウォンは初めて知った。人の体は、誰か一人の存在だけで、こんなにも敏感になれるのだと。――――――――そして翌日、ヘウォンはまた彼に会った。その次の日も。最初のぎこちなさは、驚くほど早く消えていった。二度目には少し緊張しなくなった。三度目には、自分からキスをした。何度か繰り返すうちに、ヘウォンは自分の体を知っていった。どんな触れ方で呼吸が変わるのか。ど
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第46話

だから、ちょっとした悪戯を仕掛けた。片方の靴を、彼の前へ差し出した。「履かせてくれます?」ジェヒョクの目つきが変わった。その瞬間、ヘウォンは自分が何に触れてしまったのか、ぼんやりと悟った。けれど皮肉なことに、先に崩れたのはジェヒョクではなかった。ヘウォンだった。彼が近づいてきて、指先が自分に触れた瞬間から、すべてが予想とは違っていた。最初に仕掛けたのは自分だった。どこまで耐えられるのか見たかった。自分をどれほど欲しがっているのか、確かめたかった。ところが実際に、あの男が押し殺していた欲望が自分へ向かって解き放たれた瞬間、ヘウォンは今まで味わったことのない種類の震えに包まれた。あの夜。車の中で彼の体を引き寄せ、強く求め合ったとき、ふと別の男が頭に浮かんだ。幼い頃からずっと自分の隣にいた男。二つの家が、ずっと昔から冗談のように自分と結びつけてきた男。彼はシベリアンハスキーみたいだった。大きくて。美しくて。力も強い。運動で鍛え上げた体をしていて、どこへ連れていっても目立った。けれど、ヘウォンにとっては馴染み深い存在だった。どんな顔をするのか分かった。怒っても、どこまで怒るのか分かった。ヘウォンが逃げれば、どのくらい追いかけたところで笑い出すのかも分かっていた。生まれたときから、人間のそばで暮らしてきた動物みたいに。自分と似た世界に生まれ、似た教育を受け、似た規則を教え込まれた男。ヘウォンは、その男を怖いと思ったことが一度もなかった。けれどジェヒョクは違った。狼だった。誰かの家に生まれ、首輪というものを教わったことすらないような男。雪原と森を一人で抜けながら、生き残る方法から先に覚えた獣。もちろん、本物の狼は孤独な動物ではない。むしろ家族を作り、つがいと子を中心に緊密な群れを形成する動物だ。だからこそ、より危険だった。誰にでもそばを許すわけではないということ。自分の群れと、そうではない存在との間に、はっきりとした境界があるということ。一度、自分の領域の内側へ受け入れた存在には、簡単には無関心になれないということ。あの頃のヘウォンは、まだそれを知らなかった。ただ、ジェヒョクの目が好きだった。獲物を見つけた獣のように、欲望だけでぎらつく目ではなかった。むしろ逆
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第47話

木曜の夜。残業を終えて帰宅したソハは、なかなか寝つけずにいた。シャワーを浴びてベッドに入ったのは、十二時を少し過ぎた頃だった。体は疲れていた。肩は凝っていたし、目もひりひりした。明日の朝は六時に起きなければならない。なのに妙に、頭だけは冴えていた。ソハはYouTubeで雨音の動画を探して再生した。黒い画面に、『10 HOURS RAIN SOUNDS FOR SLEEP』というタイトルが浮かんでいる。スマートフォンを伏せてサイドテーブルに置き、明かりを消した。サアア――一定の雨音が、暗い部屋を満たした。最初は悪くない気がした。ソハは布団を顎の下まで引き上げ、目を閉じた。十分。二十分。また目を開けた。天井がぼんやり見えた。冷たい枕に頬をつけ、もう一度目を閉じる。それでも眠れなかった。「ああ、もう」結局ソハは、またスマートフォンを手に取った。十一時四十七分。明日の出勤まであと何時間あるのか計算して、余計に憂鬱になった。退屈だった。いや。疲れ切っていた、というほうが正しいのかもしれない。朝起きて出勤して。会議をして。ご飯を食べて。また会議をして。残業して。家に帰ってシャワーを浴び、ベッドに入る。そして眠れば、また朝。ここ数週間、ずっとそんな毎日だった。けれど眠れずに起きている今夜だけは、その繰り返しから少しだけ外れているような気がした。ソハはもう一度スマートフォンを手に取った。今度はメッセンジャーを開く。何となくトーク一覧を下へスクロールしていた指が止まった。パク・ユゴン。最後のやり取りは昨日だった。[お姉さん][何][お腹すいた][ご飯食べなよ][おごって][嫌]そのあとに、ユゴンが送ってきた泣き顔のスタンプが三つ。ソハの口元が少し緩んだ。かわいい。『何してる?』二文字打って、消した。こんな時間に連絡してどうするの。明日だって会社がある。スマートフォンを置こうとした、そのときだった。ブブッ――手の中で振動した。画面に名前が表示される。パク・ユゴン。ソハは瞬きをした。タイミング良すぎでしょ。電話に出た。「何」『寝てないじゃん』「寝ようとしてたの」『じゃあなんで出たの?』「電話かかってきたから」ユゴンが笑った。受話口の向こうから、かす
last updateLast Updated : 2026-10-20
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第48話

「あなたのせいで、明日有休まで取ったんだから」「よかったじゃん」「何がよ」「お姉さんの会社、それくらいじゃ潰れないって」「会社は潰れなくても、私がクビになるかもしれないでしょ」「そしたら俺が養うよ」ソハが呆れたように笑った。「あんたが?」「うん」「何して」ユゴンは少し考えた。「バイト二つ掛け持ちする」ソハはとうとう声を上げて笑った。「いいよ。自分で稼ぐから」「じゃあ俺のこと養って」「そっちのほうがもっと嫌」二人の笑い声は、人気のない車内に思った以上に大きく響いた。ソハは慌てて前方を確認した。二人の乗客は、どちらも動く気配がない。「静かにして」「笑ったの、お姉さんじゃん」「あんたが笑わせたんでしょ」「しーっ」ユゴンが人差し指を唇に当てた。ソハはその手を軽く叩いた。それから二人とも口を閉じた。バスは高速道路に入った。ソウルの明かりが少しずつ遠ざかっていく。しばらく、どちらも何も言わなかった。不思議と気まずくはなかった。ソハは目を閉じた。体から少しずつ力が抜けていった。残業で凝り固まっていた肩も、家であれほど自分を苦しめていた考えも、バスの規則的な振動に揺られながら少しずつぼやけていった。そのとき、手の甲に何かが触れた。ソハは目を開けなかった。ユゴンの小指だった。最初は偶然だと思った。けれど、少ししてまた触れた。今度は、さっきより少し長く。ソハが目を開けた。「何してるの」ごく小さな声で尋ねる。「別に」「手」「手が何」「当たったでしょ」「狭いから」ソハは周囲にずらりと並ぶ空席を一度見回した。「ここが?」ユゴンが笑った。そして今度は、いっそ堂々と掌を上に向けて差し出した。握れと言わんばかりに。ソハはその手を見下ろした。「子供みたい」そう言いながらも、自分の手を重ねた。ユゴンの指が自然にソハの指の間へ入り込んだ。大きな手だった。それに、温かかった。ただ、それだけ。なのに妙に意識してしまった。二人は恋人ではない。付き合おうと言ったこともない。互いに他の誰とも会わないと約束したこともない。それなのに木曜の深夜。ほとんど誰も乗っていないソクチョ行きのバスの中で、二人はあまりにも自然に手をつないでいた。ユゴンが親指で、ソハの手の甲をゆっくり撫でた。
last updateLast Updated : 2026-10-21
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