All Chapters of 30日後には、他人に戻るはずだった: Chapter 11 - Chapter 20

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11話. 朝食を分け合う距離

「条件は社内で検討します。夕食でもご一緒しながら、ほかの案もお話ししませんか」「会社にご連絡ください。運営責任者も同席して検討します」紗月は名刺を美緒に渡した。断るべきところは明確に断り、取引の道は閉ざさない。そこで、会議室のガラス扉の外に立つ蓮に気づいた。翌週の投資審査に先立つ現場確認のため、橘と来ていたのだ。相沢と紗月が握手する様子を、静かに見ていた。相沢が帰ると、蓮が会議室に入ってきた。「星和と交渉してたのか」「投資家に必要な情報は、資料に追加します」「個人の番号も?」紗月は目を上げた。蓮の表情はいつもどおりなのに、問いかけだけが妙に短い。「調査項目が広いんですね」「契約相手に、好意がありそうだったから」「それで、気に入りません?」「気に入らない」あまりに正直な答えだった。美緒が横で咳払いをして、書類を持って出ていった。蓮は止めなかったし、相沢の名刺を渡せとも言わなかった。「ただ、俺の気分で取引を変える必要はない」「契約上の恋人が、ほかの男性と夕食に行っても?」「君がそうしたいなら」蓮は一度、口を閉じた。「俺が嫌だと思うことと、君がしてはいけないことは、別だから」嫉妬に気づいた瞬間より、その感情を支配の理由にしない態度に、紗月は長く目を留めた。「夕食には行きません」「俺のためなら――」「取引相手と、私的な席を設ける理由がないので」紗月は名刺を書類に挟んだ。「一ノ瀬社長のご機嫌を取っているわけではありません」「わかってる」そう答えた目は、少しだけ穏やかになっていた。帰りの車では、後部座席の両端に座った。曲がるたび、紗月の膝と蓮の手の甲が近づく。蓮は報告書を読み、紗月は窓の外を見ていた。「相沢さんの提案は、受けられそうか?」蓮が先に聞いた。「ポップアップの場所と手数料は、もう少し詰めないと。関心があるのは確かです」「個人的な関心の話じゃなくて?」「まだ引きずってるんですか?」笑いをこらえきれず、紗月は彼を向いた。蓮がタブレットを下ろす。「嫉妬が1日で消えると思ったか?」「あなたが、そんなことを言うとは思いませんでした」「隠した覚えはない」「うまく隠していましたよ。8年間も」言った途端、車内の空気が変わった。蓮の目が紗月に据わる。何に触れてしまったかわかっていても、紗月は目をそらさな
last updateLast Updated : 2026-09-24
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12話. もう一度、現れる勇気

知らない家に、少しずつ2人の習慣ができていった。8日目の夜。紗月は、翌日の投資審査に使う資料を印刷するため、書斎に入った。蓮は戦略会議で遅くなると聞いていた。プリンターの下の引き出しで予備の用紙を探していると、「LUNE」と書かれたグレーのバインダーが目に入った。1冊ではなかった。2023年・顧客構成分析。2024年・販売チャネルの変化。2025年・公開財務指標と商品群別のオンライン反応。記事や公表資料、リュヌが配布したルックブックをまとめた報告書が、年ごとに並んでいた。最も古いものは、3年前。蓮と再会するより、ずっと前だ。紗月は最初のページから、手早くめくった。下線もメモも、蓮の筆跡だった。『デザインの独自性を維持』『代表の意思決定が速い』『資金構造さえ改善できれば、拡大可能』その下には、繰り返し「投資検討は保留」と記されていた。玄関の開く音がした。蓮が書斎に入ってきたとき、紗月は3冊のバインダーを机に広げ終えていた。「説明してください」コートも脱がずに、蓮は資料を見た。「何が知りたい?」「いつから、私を調べていたんですか」「リュヌが初めて外部出資を受けたときから」「3年前ですね」「ああ」「再会は、偶然じゃなかったんですね」紗月の声が冷たくなった。「私が潰れていくのをずっと眺めて、債権も家も買える頃合いを待っていたんですか?」「違う」蓮はきっぱり否定した。「ここにあるのは、すべて公表資料と記事、リュヌが公開した情報を使った事業分析だ。君の通話も行動も、私的な人間関係も調べていない。調べるつもりもない」「私には、その違いが重要ではないかもしれません」「重要だ。君の私生活には踏み込んでいないということだから」「許可もなく3年間、私の会社を見続けるのは、踏み込んだことにならないんですか?」「企業分析に、代表の許可は要らない」投資家としては、正しい。それでも、バインダーのあちこちに残るメモは、普通の検討資料にしては執拗だった。リュヌが消えかけるたびに資金構造を計算し直し、紗月がインタビューで話した言葉まで取ってある。「どうして投資しなかったんです?」「俺が出ていっても、君が受け入れるとは思えなかった」「それなのに今は、借金まで買った」蓮は黙った。その沈黙の隙間へ、不快感とは違うものが入り込んでき
last updateLast Updated : 2026-09-24
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13話. 恋人になる資格

「勇気まで出して、私を訪ねた理由は何ですか?」紗月は書斎の机に置かれた、リュヌの分析資料を閉じた。表紙の日付は3年前。初めてのショールームを開くよりも前、3人の社員と徹夜しながら、オンライン販売を始めた頃だ。蓮の指先が、その表紙に一瞬触れた。「投資する価値があったから」「会社の話ではなくて」「その答えで、明日、君が示す数字に余計な色をつけたくない」「ずいぶん便利な先延ばしですね」蓮は資料を彼女へ押しやった。「明日の審査に出るのは、君が提出した資料だけだ。俺は質問もしないし、採決にも加わらない」「社長が抜けてもいいんですか?」「俺が入った途端、審査の対象は数字より先に、俺たちの関係になる」契約8日目の夜だった。翌朝、アルデン・パートナーズの投資審議室には、7人が座っていた。長いテーブルの端にある蓮の席は、空いていた。紗月は持参したサンプルラックを据えても、しばらくその空席から目を離せなかった。利益相反を避けるため採決を辞退すると橘から正式に伝えられたのは、開始10分前だ。特別扱いを望んだことはない。それなのに、姿すら見せないとなると、きれいに積み上げた数字のどこかが緩んだようで、気に障った。審査委員の1人が尋ねた。「桐谷社長の個人債務とお住まいの問題には、当社代表が関わっています。リュヌへの投資判断に影響しないと、言い切れますか?」紗月はリモコンを置いた。「その質問は、想定していました。先にご説明します」スクリーンに、持ち株比率と資金使途を映した。アルデンへ渡す株式の上限、自分が守る議決権、デザインと商標を譲渡しない条件を順に示す。「私の個人的事情は、投資の根拠にも、撤回の理由にもなりません。アルデンが買うべきなのは、私の窮状ではなく、リュヌがこれから生むキャッシュフローです」別の委員が腕組みを解いた。「では、そのキャッシュフローを説明してください。既存の百貨店売上がなくなれば、3か月後には運転資金が底をつきます」紗月は次の画面に切り替えた。顧客が2度目の購入まで迷った期間、返品理由、最後まで残ったサイズ別在庫を、ひと目でわかるようまとめてある。「これまでリュヌは、シーズンごとに60品目を一括生産していました。次のシーズンからは、主力デザイン12点を2週間おきに発表し、先行予約の数に応じて、生産を3回に分けます。返品率
last updateLast Updated : 2026-09-24
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14話. 48時間、消えない明かり

「ひと言くらい、添えてくれてもよかったのに」「そうしてほしかった?」紗月はすぐに答えられなかった。蓮の目に、かすかな光が差した。期待されていたことを、見逃さなかった目だ。「投資家は、恋に落ちてはいけません」紗月が先に線を引いた。「だから、外れた」蓮は間も置かずに返した。「審査からだけは」そばで待つ橘を振り返る。「8年前、鷹宮が私に送った投資提案と、匿名のサーバー支援金の経路を調べてください」紗月の歩調が、わずかに落ちた。橘が理由を尋ねると、蓮は彼女にも聞こえる距離で答えた。「お互いに覚えている、最後の日が違うんです」彼が去ったあとも、紗月はしばらくエレベーターのボタンを押せなかった。* * *12日目の午後、栄林リテールから契約解除の通知が届いた。リュヌの売上の38%を担うオンライン販売会社が、次のシーズンの取扱いを全面的に取りやめるという。確定済みの商品分には違約金を払うが、トップページも物流倉庫も提供できないとのことだった。美緒は通話を切り、歯を食いしばった。「鷹宮キャピタルが、栄林の仕入先向け融資をひとまとめに握ったんだって。直哉、うちを外すためだけに、栄林の首を締めてるのよ」「違約金が入れば、給料1か月分は確保できる」「そのあとは?」「今から作る」紗月はホワイトボードから、栄林リテールのロゴを消した。下に、自社通販、先行予約、独立系セレクトショップ、当日配送エリアと書き足していく。午後7時。アルデンで開かれた追加審査は、最初よりも冷ややかだった。委員たちは最大の販売先を失った会社に、なお出資する根拠を求めた。蓮は今回も採決の席にはつかなかった。独立した情報提供者として入り、紗月の向かいに立った。「栄林の解除通知については、残念に思います」私的な温度は、声にひとかけらもなかった。「アルデンが把握している独立系セレクトショップの稼働状況と、地域別の物流単価を共有します。連絡先は含めません。法務は栄林の違約条項と、鷹宮キャピタルの関与に競争上の問題がないか検討してください」委員の1人が尋ねた。「一ノ瀬社長。栄林と直接交渉するお考えは?」「私が交渉すれば、栄林は戻ってくるでしょう」蓮の視線が紗月に届いた。「ただ、それは桐谷社長の望む方法ではありません」会議が終わると、紗月は彼を呼び止めた。「栄林
last updateLast Updated : 2026-09-24
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15話. 投資家は恋をしない

紗月は美緒と、顧客の注文を地域別に仕分けし直した。独立系セレクトショップには、従来の委託販売条件を見直し、売れた分の精算を7日ごとに短縮することと、リュヌから顧客データを共有する案を持ちかけた。物流スタートアップには空き倉庫を貸してくれと頼む代わりに、夜間の集荷量を保証した。最も難しかったのは、生産工場だ。先行予約に応じた生産では、工場側が何度もラインを切り替えなくてはならない。紗月は工場の社長の前に、過去3年分の発注書を広げた。「最低ロットを下げてほしいというお願いではありません。12品目で生地を共通化します。裁断日程はこちらが合わせますし、1次分の代金は、予約金が入った当日に支払います」「栄林も抜けたんでしょう。何を信じて乗れと?」「私を信じてとは言いません。こちらは、6,000人のお客様からいただいた発売通知の登録です。今夜までに8,000人を超えたら、1次生産を進めてください。届かなければ、生地の予約金まで私が責任を持ちます」締切の20分前、通知登録者は9,000人を超えた。セレクトショップ9店がポップアップ展示に合意し、物流会社とは首都圏の当日集荷契約を結んだ。アルデンの審議室へ送った補足案の最終ページには、栄林がなくても、初月の固定費の大半を回収できる計算が載っていた。審査は、条件付き承認に変わった。条件は、合意した予約購入への転換率と、セレクトショップ5店からの確定発注。紗月は承認メールをそのまま社員へ共有した。祝いのスタンプが続々と届いたが、まだ出資金が振り込まれたわけではないと、念を押した。「今日は、生き返った日じゃない。次の関門に進めるようになった日。週末は休んで、来週は実際の注文で条件を満たそう」言葉はしっかりしていた。それでも、電話を置く手には3日分の疲労がにじんでいた。オフィスを出た途端、3日分をため込んだような雨が降り出した。傘は美緒が工場に忘れてきた。呼んだ車は、あと20分かかるという。黒いセダンが、路肩に止まった。後部座席のドアを開けた蓮が、紗月を見た。「乗って」「今日は、運転手まで引き受けるんですか?」「契約相手が風邪をひくと、予定が狂う」紗月は雨の中を走った。蓮が自分のコートを脱ぎ、彼女の肩に掛ける。乾いたウールに、体温が残っていた。ペントハウスに着いたときには、2人とも濡れていた。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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16話. 契約15日目

契約15日目の朝、紗月はテーブルのカレンダーを裏返した。黒いペンで消した日付は、ちょうど半分まで来ていた。残り15マスを数えていると、背後でトースターのパンが跳ねた。蓮はいつもどおり、コーヒーだけで出かけそうな格好だった。けれど紗月の席には、バターを塗っていないトーストとブルーベリージャム、皮をむいた桃が置かれている。「桃の皮まで、むいてくれたんですね」紗月は、わざわざ言った。「手に果汁がつくの、嫌いだろ」「食べるのには、困りませんけど」「知ってる」蓮は昨夜のことに触れなかった。髪を乾かした手も、鏡の中で唇へ落ちてきた視線も、なかったことのようにシャツのボタンを留めた。紗月はジャムを塗ったナイフを、皿の縁にまっすぐ置いた。「一ノ瀬社長は、朝食を取らないんでしょう?」「今日は食べる」彼は向かいに座り、トーストを取った。何をするにも、決めてから動く男だった。紗月が夜ごとテーブルに置くサンドイッチの包装が、翌朝には空になっているのも、彼女用のコーヒー豆が切れないのも、偶然ではない。そう気づくと、テーブルの幅が以前より狭く見えた。「今日の投資条件の交渉は11時だ」蓮が言った。「社長は、また欠席ですか?」「ああ。交渉が終わるまで、外で待つ」「それが筋でしょうね」「そう言うと思った」蓮がカップを持ち上げると、紗月は桃を必要以上に細かく切った。「交渉より、桃のほうが手ごわいか?」紗月はフォークを置いた。「わかったようなこと、言わないでください」「もう、わかってるんだから仕方ない」蓮が先に玄関へ向かった。整った後ろ姿が消えてからも、紗月は口もつけていない桃を、長くフォークで押していた。* * *条件交渉は、予想より険しかった。アルデンは3億円を提示する一方、売上目標を2期連続で下回った場合、次の投資家を入れるには事前承認を得るよう求めた。紗月はその文言を、3度書き直して返した。「目標未達を理由に次の資金調達先までアルデンが選ぶなら、リュヌは一度つまずいたあと、ずっと縛られます。市場全体が冷え込んだ場合も、同じですよね」担当者が眼鏡を押し上げた。「リスクを負う側には、防衛策が必要です」「帳簿は四半期ごとに開示します。在庫消化が約束したペースに届かなければ、取締役会にオブザーバーを1人受け入れましょう。ただし、見届
last updateLast Updated : 2026-09-24
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17話. キスの条件

「ただ、ここは変えてほしい。次の投資家がデザインを担保に求めたときは、アルデンも反対できるように」「私の権利を守るという口実で、拒否権を確保するおつもりですか?」「君が反対するときだけ、同じ票を入れる条件で」紗月はペンを取り、自分で文言を直した。蓮は修正された条項を読み、書類を閉じた。「投資家の一ノ瀬蓮は、なかなか使えますね」「それ以外の一ノ瀬蓮は?」「評価は保留」「期限は?」あまりに真剣な問いに、冗談では流せなかった。蓮は答えを急かさない。その自制が、また紗月を落ち着かなくさせた。午後、リュヌに戻ると、広報がアルデン主催の創業者交流会の資料を持ってきた。主催側は、ガラ以来初めてアルデンの合同イベントに並ぶ2人を、メイン記事に使いたいらしい。紗月はインタビュー項目を読み、恋愛に関する質問を3つ削った。代わりに、リュヌの先行予約ページへの導線を入れる。「契約恋愛まで、販路にするつもり?」美緒が尋ねた。「私の私生活を見にくるなら、入場料くらい払ってもらわないと」「一ノ瀬社長、喜びそう」「あの人の機嫌は、契約条件に入ってない」けれど蓮は修正案を見ても、削られた質問を1つも戻さなかった。車内では、紗月が入れたリンクの流入予測だけを確認した。「俺の名前は、使っていい」「許可をもらうために入れたんじゃありません。今日は私が、一ノ瀬社長を利用する日ですから」「公平だな」タブレットを閉じて、蓮は続けた。「もっと利用してもいい。君が決めた範囲なら」紗月は窓へ顔を向けた。何でも与えられると言うくせに、いちばん意識している、たった1歩だけは踏み出してこない。それが気に入らなかった。夜は、アルデンの創業者交流会だった。公式の恋人役が必要な日程として、紗月も出席した。フラッシュが光るたび、蓮の手が背後に回る。触れていないのに、手のひらの位置がわかる気がした。カメラマンが笑って注文した。「もう少し寄ってください。お2人とも、ずいぶんよそよそしいですよ」紗月から半歩近づいた。ようやく蓮の手が腰に触れた。薄い布越しに広がる熱に、笑顔が少しだけ固まる。「これくらいでいい?」耳元の声は低い。「仕事ですから」紗月はカメラへ笑いかけた。腰に広がる体温まで仕事のせいにするには、自分の耳にも説得力がなかった。ペントハウスへ帰ったのは、午
last updateLast Updated : 2026-09-24
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18話. 延長しない契約

「その理由がある限り、俺から触れたら、君が嫌だと言えるかどうか確信が持てない」「私を、そんなに弱いと思ってるんですか?」「自分を信用できないんだ」蓮は感情を抑えるように、言葉から力を抜いた。「君に触れたら、ほどほどでやめられる自信がない」数日前に選んだ濃紺のネクタイが、紗月の指先に滑らかに触れた。彼女はその先を、指に巻きつけた。「じゃあ、今度こそちゃんとわかってください」見下ろす蓮の前で、紗月はネクタイを引いた。唇が触れた瞬間、蓮はひと呼吸遅れて息を吐いた。離れずにもう一度ネクタイを握り直すと、彼の手が紗月の顎を包んだ。そこからは、もう待たなかった。最初は、長く覚えていた形を確かめるようにゆっくりだった。2度目に角度が変わると、抑えていた力がそのまま伝わってきた。紗月がシャツの襟をつかむと、キスが深くなる。蓮の手が腰を抱いた。薄いドレス越しにも、指の位置がわかった。紗月は玄関の壁に背を預けながらも、彼を離さなかった。逃げる場所を探す代わりに、肩をつかんで引き寄せた。紗月が顔を横に向け、息を整えようとすると、蓮の手はすぐに緩んだ。彼は額を紗月のこめかみに寄せ、そのまま動かなかった。呼吸は乱れているのに、腰を抱く手は、それ以上上がらなかった。「紗月」「何ですか」「もう一度したら、俺はこれを、契約の中に収められない」警告というより、告白だった。紗月は熱くなった唇を手の甲で押さえ、彼を押し返した。「誰が、収めろなんて言いました?」何でもない顔で寝室まで歩くのに、全身の力を使った。扉を閉めた瞬間、背中から力が抜けた。鏡に映る唇は、言い逃れできないほど赤い。引き出しから契約書のコピーを出したが、開かなかった。どの条項にも、今のキスは書かれていない。借金は、紗月をこの家へ連れてきた。けれど、ネクタイを引いた手まで借金が動かしたとは、言い張れない。紗月は契約書を、引き出しのいちばん奥へ押し込んだ。活字では言い訳のできない夜だった。夜更けまで眠れず、水を飲みに出ると、蓮がリビングのソファで眠っていた。ノートパソコンにはリュヌの投資修正案が開かれ、テーブルには眼鏡が置かれていた。昔より精悍になった顔も、眠っている間は警戒が緩んでいた。紗月がブランケットを取ると、蓮の唇がかすかに動いた。「……紗月」続きは、声にならなかった。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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19話. 延長しないで、という言葉

「私が、延長してほしいと頼むとでも?」紗月の声は滑らかだった。握ったブランケットだけが、しわだらけになっていた。「いや」蓮は少し彼女を見てから、言った。「俺が、そうしたくなりそうだから」紗月は答えず、ブランケットをソファに置いた。背を向けても、言葉は追ってこなかった。それから3日間、2人は必要以上に礼儀正しく過ごした。朝食は別々。移動の際は、橘から送られる日程だけを確認した。蓮は遅く帰っても、紗月の部屋の前で足を止めなかった。キスの前より、正確な距離だった。だからこそ、余計に気になった。契約18日目。リュヌの新商品先行公開イベントが開かれた。契約書に記された、3度目にして最後の公式同伴だった。今回は蓮のイベントではなく、紗月の舞台だ。恋人と呼ばれなくても、投資家として彼が参加する場でもあった。栄林リテールの離脱を跳ね返すためのイベントだった。紗月は完成品をまとめて披露する代わりに、12の主力デザインの制作過程を展示壁に並べた。袖とボタンの組み合わせを顧客投票で選び、会場の注文数を生産の順序に反映させる仕組みだ。「服を売るだけではなく、作る過程へお客様を招くイベントです」リハーサルで、紗月はスタッフに伝えた。「投票結果は20分ごとに画面へ。票の少ないデザインも隠さないでください。在庫を減らせるという根拠になりますから」美緒がタブレットを持ってきた。「セレクトショップのバイヤー、13人出席確認。アルデンは橘室長まで到着してる。一ノ瀬社長は、あと10分」「招待したんだから、来るでしょ」「そういう意味じゃないんだけど」冷たい視線を向けると、美緒は肩をすくめた。「はいはい。唇の話はしません」「美緒」「私、何も言ってないよ?」美緒は笑みを引っ込め、声を落とした。「鷹宮直哉も来てる。鷹宮が出資したセレクトショップの代表として」紗月は入口を見た。直哉が招待状を見せ、余裕のある足取りで入ってくる。追い返せば、かえってリュヌに隠し事があるように見える。「予定どおり進めて」「また仕掛けてきたら?」「今度は、マイクがあるから」紗月はジャケットの前を整え、壇上へ上がった。開始早々、用意した受注枠が埋まり始めた。バイヤーたちは完成品よりも先に、小ロットの分割生産が本当に工場で回るのかを尋ねた。紗月はデザインの説明だけにとど
last updateLast Updated : 2026-09-24
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20話. 消えた手紙

客席に、短いざわめきが広がった。紗月は記者ではなく、その隣の直哉を見た。彼は困ったような顔を作り、首を振った。「昔の同窓生の噂まで、記事にする必要がありますか。桐谷社長も困るでしょう」止めるふりをして、事実として定着させるやり方だった。紗月は口元にマイクを寄せた。「8年前の私の評判で、今日のリュヌのジャケットの縫製が変わるわけではありませんよね」会場が静まった。「ただ、ご質問をいただいたので、お答えします。私は一ノ瀬社長の可能性を、笑いものにしたことはありません。彼の需要予測技術をファッション市場に応用しようと提案したのは、私ですから」紗月は画面の注文グラフを指した。「人を生まれや背景で判断する癖は、8年たっても残るようですが、市場が見るのは結果です。私の私生活を審査しにいらしたのでなければ、今日リュヌが示した数字について、ご質問ください」何人かのバイヤーがうなずいた。記者がマイクを下ろそうとしたところで、蓮が立ち上がった。「1点、訂正します」彼は壇上に上がらなかった。客席に立ったまま、淡々と言った。「告白したのは私です。桐谷紗月が私を弄んだという証拠は、どこにもありません。返事がなかったことを、誰かの人格の問題にすり替えたのは、当時の状況を利用した人間の解釈です」紗月の手の中で、マイクが少し傾いた。告白。初めて聞く言葉だった。直哉から聞かされたのは、まるで違う話だ。蓮は鷹宮の創業資金を選び、挨拶さえせず大学を去ったのだと。蓮が直哉を見た。「鷹宮専務は、当時、事情を知る立場でしたね。違う記憶をお持ちなら、資料を添えてお話しください。噂ではなく」直哉は笑みを保った。「今からでも、お2人で仲良く整理できたのなら何よりです。私は他人の初恋を商談の場へ持ち込むほど、暇ではありませんので」「その割には、記者に質問を用意してあげたんですね」紗月が受けた。直哉の目が細くなった。彼はそれ以上言わず、グラスを置いた。イベントは再開された。紗月は残りの質問に答え、想定を大きく上回った受注数も自分で発表した。拍手は、耳に入らなかった。壇上を降りると、美緒がライブ配信を止めるか尋ねた。悪意のある質問の部分だけを切り取って拡散するアカウントが、すでに出ているという。「全編をそのまま公開して。私と一ノ瀬社長の答えまで、1つも切らないで
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