30日後には、他人に戻るはずだった

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last updateZuletzt aktualisiert : 24.09.2026
Von:  6jayGerade aktualisiert
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Zusammenfassung

現代

切ない恋

ハッピーエンド

元カレ

一途

独占欲

初恋

誤解

仲直り

別れたはずの元恋人と、30日間だけ同居することになった。終わった恋のはずなのに、近づく距離と消えない想いが、封じ込めていた過去を少しずつ揺らしていく。30日後、二人は本当に他人へ戻れるのか。すれ違いと未練が交差する、切なく甘い再会ラブストーリー。

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Kapitel 1

1話. 保留の代償

桐谷紗月は、最後のスライドを映さなかった。

画面には、LUNE――リュヌの前四半期のリピート購入率が表示されていた。広告費を削っても、顧客は離れなかった。それさえ示せば話の糸口はつかめる。そう思っていた。

向かいに座る投資会社の常務が、資料を閉じるまでは。

「ブランドの力は認めています。桐谷社長のセンスも、相変わらず素晴らしい」

褒め言葉のあとに続くのは、いつも同じだ。

「ただ、現状ではリスクが大きすぎます。主要な販売先との契約更新も決まっていませんし、短期借入金の返済期限は今週でしたね?」

「今回の出資金は、まず生産スケジュールの安定に充てます。秋のカプセルコレクションも、事前の反響は前シーズンを上回っています」

「資金が尽きる前に服が売れる保証は、ないでしょう」

「保証のある事業に投資する人はいません。いるのは、値上がりしてから買う人だけです」

常務の眉がわずかに動いた。紗月は笑わなかった。機嫌を取るために来たわけではない。数字で可能性を証明しに来たのだ。けれど相手は、その数字より先に、債務者の名前を見ていた。

「条件付きでも構いません。本日中に出資の確約をいただく必要があります」

「申し訳ありません。今回は保留とさせてください」

遠回しな断りだった。

紗月はノートパソコンを閉じ、バッグに収めた。指先は冷え切っていたが、差し出した名刺を引き取る手に乱れはない。

「ご検討いただき、ありがとうございました。次は、保留にしづらい数字を持ってきます」

会議室を出た途端、スマートフォンが鳴った。登録していなくても、覚えてしまうほど目にした番号だった。

「桐谷です」

――鷹宮債権管理の佐伯です。本日午後4時をもちまして、返済猶予期間が終了いたしました。

ロビーの時計は4時7分を指していた。

「今週金曜までに一部を返済すると、お伝えしたはずですが」

――その猶予案は、従前の債権者が社内承認前に検討していたもので、確定しておりません。譲受人は、新しい条件でのみ協議すると申しております。

「誰に譲渡されたんですか?」

相手は少し間を置いた。

――通知書を御社へお送りしています。そちらをご確認いただくのが早いかと。

通話が切れた。

紗月はガラス扉に映る自分を見た。朝に整えた化粧は、少しも崩れていない。転落とは、いつだってこういうものだ。人に気づかれるより先に内側から崩れていき、見た目だけは最後まで整っている。

タクシーの中から、藤沢美緒に電話した。

「美緒。書留、届いた?」

――うん。……とりあえず、驚かないで来て。弁護士さんにも連絡してる。

いつもより半拍速い声だった。いい知らせのはずがない。

リュヌのオフィスでは、社員たちが帰るに帰れず、モニターの前に座っていた。紗月がいつもどおりの足取りで社長室へ向かうと、誰もがさりげなく目をそらした。不安を見せまいとする気遣いが、かえって胸に刺さる。

扉を閉めた美緒が、分厚い封筒を2つ差し出した。

「オフィスビルの所有権移転通知。それから、紗月の家が競売で落札されたあとの、明け渡し協議の案内」

「社員には、どこまで話した?」

「ビルのオーナーが変わったことだけ。今月の給料は3日後に振り込むって伝えてある」

「予定どおり出して。サンプル室の保証金を一部返してもらえば、足りる」

「そうすると、次の生産の手付金が足りなくなるよ」

「今日の投資が決まっていれば、両方どうにかなったでしょうね」

紗月は使い終えたプレゼン資料をバッグから取り出し、机に置いた。落ち込んでいる暇があったら、何を先に守るか決めなければならない。

今回も、人が先だった。

通知書を最初から最後まで、一気に読む。

リュヌが入居する南青山のビルは、A1ホールディングスに買い取られ、すでに所有権が移っていた。

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1話. 保留の代償
桐谷紗月は、最後のスライドを映さなかった。画面には、LUNE――リュヌの前四半期のリピート購入率が表示されていた。広告費を削っても、顧客は離れなかった。それさえ示せば話の糸口はつかめる。そう思っていた。向かいに座る投資会社の常務が、資料を閉じるまでは。「ブランドの力は認めています。桐谷社長のセンスも、相変わらず素晴らしい」褒め言葉のあとに続くのは、いつも同じだ。「ただ、現状ではリスクが大きすぎます。主要な販売先との契約更新も決まっていませんし、短期借入金の返済期限は今週でしたね?」「今回の出資金は、まず生産スケジュールの安定に充てます。秋のカプセルコレクションも、事前の反響は前シーズンを上回っています」「資金が尽きる前に服が売れる保証は、ないでしょう」「保証のある事業に投資する人はいません。いるのは、値上がりしてから買う人だけです」常務の眉がわずかに動いた。紗月は笑わなかった。機嫌を取るために来たわけではない。数字で可能性を証明しに来たのだ。けれど相手は、その数字より先に、債務者の名前を見ていた。「条件付きでも構いません。本日中に出資の確約をいただく必要があります」「申し訳ありません。今回は保留とさせてください」遠回しな断りだった。紗月はノートパソコンを閉じ、バッグに収めた。指先は冷え切っていたが、差し出した名刺を引き取る手に乱れはない。「ご検討いただき、ありがとうございました。次は、保留にしづらい数字を持ってきます」会議室を出た途端、スマートフォンが鳴った。登録していなくても、覚えてしまうほど目にした番号だった。「桐谷です」――鷹宮債権管理の佐伯です。本日午後4時をもちまして、返済猶予期間が終了いたしました。ロビーの時計は4時7分を指していた。「今週金曜までに一部を返済すると、お伝えしたはずですが」――その猶予案は、従前の債権者が社内承認前に検討していたもので、確定しておりません。譲受人は、新しい条件でのみ協議すると申しております。「誰に譲渡されたんですか?」相手は少し間を置いた。――通知書を御社へお送りしています。そちらをご確認いただくのが早いかと。通話が切れた。紗月はガラス扉に映る自分を見た。朝に整えた化粧は、少しも崩れていない。転落とは、いつだってこういうものだ。人に気づかれるより先に内側から崩れていき、見
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2話. たった1人にたどり着くための買収
紗月が暮らしていた白金台の低層マンションは、父の会社が傾いたときに担保に入り、ついに競売にかけられた。ビルとは所有法人が違う。けれど、登記に記載された連絡先は同じだった。アルデン・パートナーズ。「ベンチャー投資会社が、どうして不動産を2つも一度に買うの?」美緒が声を落とした。「投資目的なら、もっと利回りのいい物件を選ぶでしょうね」紗月は次の書類をめくった。社員や取引先への支払いのために個人名義で借りた高金利の債務と、リュヌの短期借入金の一部を譲り受けたという通知だった。散らばっていた点が、ようやく1本の線になった。誰かが、利益を出すために買ったのではない。自分にたどり着く道を選び、買い集めたのだ。末尾に記された代表者の名前で、視線が止まった。一ノ瀬蓮。その名には、くたびれたパーカーの袖の記憶がまとわりついている。起業サークルの部室の隅で、人前で話すたび、大きな眼鏡を直していた痩せた青年。発表資料を渡すと、礼の言葉の代わりに、徹夜で修正したデータを返してくる人。そして何も言わず、お金を選んで姿を消した人。「まさか、紗月の知ってる一ノ瀬蓮?」「同姓同名でしょ」そう言いながら、紗月はもうアルデン・パートナーズの代表の記事を検索していた。画面の男に、記憶の面影はほとんどなかった。丸まっていた背筋はまっすぐ伸び、眼鏡の奥に隠れていた目は、正面からカメラを見据えている。複数のスタートアップの企業価値を数十倍に引き上げた投資家。決断は速く、損切りはさらに速いと評されていた。同じなのは、写真の下の名前だけだ。「……やっぱり、一ノ瀬蓮だね」美緒が小さくつぶやいた。そのとき、内線が鳴った。――社長、アルデン・パートナーズの方がお見えです。紗月はスマートフォンを伏せた。「お通しして」扉が開き、男が2人入ってきた。先に入った戦略室長の橘悠真が名刺を差し出し、その後ろの男が社長室の中央で足を止める。一ノ瀬蓮は、記事の写真よりもなお、知らない男だった。濃いグレーのスーツに余計な装飾はない。大柄な体を誇示することも、成功者らしい余裕をひけらかすこともなかった。ただ、その視線だけが、入ってきた瞬間から紗月に据えられていた。「久しぶりだな、桐谷紗月」低く、落ち着いた声だった。紗月は席を立った。「一ノ瀬社長」8年分の距離を、その呼び方に押
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-24
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3話. 30日間の選択
「公開されている財務資料だけで、そこまではわからないはずです」「債権を買う前に調査した。社員の退職金と取引先への支払いを、君が優先していたことも、その過程で確認している」「それで? 感心したから、返済を待ってくださるんですか?」「君を褒めに来たんじゃない」蓮の声は、むしろ静かになった。「立て直す価値があるから来た。リュヌにも、君にも」紗月のペン先が、書類に小さな点を残した。リュヌと自分を同じ重さで並べる、その言い方が気に障った。そこで美緒が口を挟んだ。「社長。債権の返済と賃貸借の件を併せてご相談にいらしたのでしたら、先に条件をお聞かせください」蓮が橘に目配せした。黒い革のファイルが机に置かれた。「個人で借りた高金利の債務は、俺が消す。リュヌには緊急運転資金の投資審査を始める。結論が出るまで、このビルを出る必要はない。住んでいた家も、今すぐ明け渡さなくていい」条件だけを聞けば、救いの手だった。紗月はファイルを開かなかった。「見返りは?」「30日」「どういう意味ですか?」「麻布台の俺の家で、一緒に暮らしてほしい」社長室が静まり返った。美緒が、あからさまに蓮を見た。正気なのか確かめるような目だった。蓮は黒いファイルを紗月へ押しやった。「公の場に、3回、恋人として同伴してくれ。出回っている政略結婚の噂を、片づけたい」「女性なら、ほかにいくらでもいるでしょう」「必要なのは君だ」蓮の言葉には、一切の回り道がなかった。そこで初めて、紗月は契約書を開いた。債務免除、投資の検討、賃貸借に関する猶予。目がくらむほど有利な条項の下に、同居と恋人役の文字が並んでいる。寝室を別にすることや、身体への接触に関する文言も見えたが、細かくは読まなかった。「断ったら?」「必要な猶予期間が過ぎたら、正式な手続きを進める」「結局、追い出すということですね」蓮は即答しなかった。書類に添えていた手を、膝の上に下ろした。「どんな答えでも、今日いきなり路上に立たせたりはしない。明日の午前中まで、考える時間はある」「ご親切に」「君が覚えている俺が卑怯だったなら、その代償も契約書に入れればいい」8年前、最後に耳にした噂がよみがえった。蓮は鷹宮直哉の出資を受け、大学を去ったのだと。家の騒動が起きた日、キャンパスを歩き回って捜しても、ついに会えなかった
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-24
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4話. 一ノ瀬蓮の条件
選んでくれ。蓮が帰ってからも、その言葉は社長室に残っていた。紗月は一晩かけて契約書を読んだ。債権譲渡契約、債務免除の合意書、投資検討の付属書類。条項ごとに色とりどりの付箋が増えていく。午前2時を過ぎた頃、美緒がコンビニのサンドイッチを机に置いた。「食べながらにして。倒れたら、あの人の家に入居する前に入院だよ」「入居するなんて言った?」「しないの?」紗月は答える代わりに、赤いペンで一文を引いた。『必要な範囲の、公の場における身体的接触に協力する』その「必要な範囲」を、誰が決めるのか書かれていない。「するよ」この取引が公平だとは、思っていなかった。いちばん苦しい日に突きつけられた条件だということも、忘れていない。それでも署名を先延ばしにすれば、最初に傷つくのは社員と取引先だ。今必要なのは、プライドを守るための強がりではない。不利な契約の中でも、奪わせないものを決める条項だった。ただし、屈したまま入るつもりはない。「でも、一ノ瀬蓮の思いどおりの契約にはしない」午前10時。蓮は寸分違わず現れた。昨日とは違う黒のスーツを着ていて、徹夜した気配はない。紗月の前に積まれた書類と空のコーヒーカップを見て、彼は言った。「修正が多そうだな」「穴が多かったものですから」「聞こう」紗月は書き直した付属合意書を広げた。「まず、部屋は階も分けます。出入りには、それぞれの許可を取ること。次に、恋人役を理由に触れる場合は、その都度、事前に同意を得ること。『必要な範囲』などという便利な表現は削除します」「同意する」ためらいのない返事に、紗月は目を細めた。蓮は反論されて不愉快そうではなかった。おとなしく従わない紗月を確かめたかのように、むしろ目がはっきりとこちらを捉えた。「まだ終わっていません。リュヌの投資審査は、この契約から完全に切り離します。私が契約を終わらせたり、公の場で失敗したりしたことを理由に、審査を打ち切らないこと。経営権、人事権、デザインの権利にアルデンが介入しないという文言も入れます」「投資契約が成立するなら、通常の株主としての権限は必要だ」「財務の監視権までは認めます。制作や運営に対する拒否権は認めません」「いいだろう」向かいに座った蓮は、修正案を1行ずつ読んだ。異議のある箇所は正確に指摘し、受け入れる箇所には未練を見せない
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-09-24
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5話. 麻布台での最初の夕食
蓮が買ったのは、時間だった。それが誰のための時間なのかは、まだわからない。「債務免除は、署名と同時に効力を持つんですね?」「ああ」「先に確認書をください」橘が、用意してきた公証済みの書類を渡した。紗月は弁護士と税理士に、順に電話をかけた。借金がなくなることで新たに生じる税負担と、それを分割で支払う場合の月々の金額まで確認してから、ようやく名前を書いた。桐谷紗月。蓮も個人契約の当事者として、その下に署名した。債務免除の付属合意書には、債権者であるIRブリッジの法人印と、「代表取締役 一ノ瀬蓮」の肩書が別に記されていた。彼の名が自分の名と並ぶと、妙に遠い昔の約束のように見えた。「今日が1日目です。30日目の24時をもって、自動終了」「わかってる」「忘れないよう、確認しただけです」ペンにキャップをかぶせかけた蓮の手が止まった。「俺が、その日を忘れると思うか?」その目に見つめられ、紗月は先に書類を片づけた。* * *荷物は、スーツケース1つで足りた。家を引き払うわけじゃない。30日間、居場所を変えるだけだ。自分にそう言い聞かせながら、服を数着、ノートパソコン、スケッチブックを詰める。美緒は玄関に寄りかかって、それを見ていた。「嫌になったら、すぐ出てきて。会議室に簡易ベッドでも置くから」「私、あの人に食べられたりしないよ?」「一ノ瀬蓮が何かするのを心配してるんじゃない。紗月って、耐えるって決めると、自分の気持ちから先に我慢させるでしょ」紗月はファスナーを閉めた。「30日だけだよ」「うん。でも、あの人は30日で終わる顔をしてなかった」どんな顔、と聞く前に、チャイムが鳴った。蓮が手配した運転手だった。紗月は最後にリビングを振り返った。父の会社が潰れ、残ったものを処分しながら、どうにか守ってきた家。それさえ、今は蓮のものだ。「絶対、戻ってくるから」誰に向けたのかわからない言葉を残して、扉を閉めた。麻布台のペントハウスは、あまりにも静かだった。都心を一望する大きな窓。背の低い家具。傷1つない明るい石の床。モデルルームのように完璧なのに、誰かが暮らしてきた気配は薄い。蓮は自ら玄関で迎えた。ネクタイは締めたまま、シャツの袖だけを1度折り返している。「運転手さんに任せてもよかったのに」「初めて来た人には、部屋くらい案内す
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6話. 色あせた写真の中の彼女
夕食には、辛すぎる料理も甘すぎる料理もなかった。あっさりとした白身魚に、焼き野菜。サラダのドレッシングは別添えだ。紗月は料理よりも、向かいの男を観察していた。蓮は食べるのが速い。スマートフォンが何度鳴っても、伏せたまま確かめようとしなかった。「普段から、こんな食事を?」「いや」「じゃあ、シェフに私の好みも伝えてあるんですね」「辛いソースと甘いソースは苦手。ドレッシングは別。違ったか?」「合っているから不愉快、なんて言ったら変ですよね」「変じゃない」彼は水をひと口飲んだ。「君が覚えていないことを俺が覚えていたからって、喜ぶ義務はない」紗月はフォークの先で、焼いたアスパラガスを切った。昔の蓮なら、こんな言葉を一度には言えなかった。唇だけを動かして、結局はノートパソコンの画面へ逃げていた。「ずいぶん変わりましたね」「君もな」「がっかりしました?」「どうして」「記憶の中の桐谷紗月は、借金を取り立てられて、他人の家に転がり込むような女じゃなかったでしょうから」蓮がフォークを置いた。「俺の知ってる桐谷紗月は、サーバーが3度落ちたプレゼンでも、最後まで投資家を説得していた。今も同じだ」喉の奥が、ちくりとした。同情ではない。もっと古く、もっと正確な評価だった。「あの頃のことは、よく覚えているんですね」「忘れる理由がなかった」蓮が先に立ち上がった。「コーヒーはマシンの右、2段目。酸味の少ない豆に替えてある。ただ、夜8時を過ぎたらデカフェにしてくれ」「それも覚えてるんですか?」「夜にカフェインを取ると、眠れないって言いながら、明け方までファッションショーの動画を見てただろ」答えを待たず去っていく背中は、そっけなかった。けれど紗月は、しばらく席を立てなかった。8年前、彼とそれほどたくさん話したつもりはなかった。必要な企画を説明し、一緒に発表を準備して、ときどき遅い時間に自販機のコーヒーを飲んだ。紗月にとっては、すべてが崩れ落ちた人生の前で、輪郭の薄れたひと季節だった。蓮にとっては、違ったらしい。* * *午前1時を過ぎても、眠れなかった。水を飲みに出た紗月は、廊下の奥から漏れる明かりに気づいた。書斎の扉が半分開いている。蓮がいるのだろうと通り過ぎかけたが、人の気配はなかった。扉を閉めようとして、手が止まった。壁一面
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7話. ゴシップの真ん中で
――損なわれていくのを、見たくなかった。契約3日目になっても、その言葉が耳から離れなかった。紗月は振り払うようにイヤリングを留めた。今日のガラは、ベンチャー投資業界とファッション業界が共同で開くチャリティーイベント。蓮が挙げた3回の公式日程のうち、最初の1つだ。ドレッシングルームの外から、声がした。「準備できたか?」「もう少し」鏡の前で、紗月は裾を整えた。貸し出し用のリストからは選ばず、リュヌの未発表のイブニングドレスを着ていた。黒いサテンをアシンメトリーに裁ち、肩の線を見せている。動くたび、内側の深い青が細くのぞく。危機を隠すために派手に飾った服ではない。残すべき線だけを残したデザインだった。扉を開くと、蓮がスマートフォンを下ろした。何も言わなかった。「契約上の恋人として、何か足りません?」彼の目が肩から腰へゆっくりと下り、再び顔に戻る。「いや」「そんな顔で言われても、説得力がないんですけど」「足りないから見てるんじゃない」短い答えは、妙に率直だった。紗月はクラッチバッグを手に、目をそらした。「今日は借り物ではなく、リュヌの服です。聞かれたら、来シーズンの先行披露だと答えてください」「サンプル番号L-27」紗月が振り返った。「そこまで覚えたんですか?」「投資検討の資料にあった」蓮は先に玄関へ向かった。黒いタキシードに包まれた背中を見ながら、紗月は口を閉じた。契約相手の服を確認する投資家ならいるだろう。けれど、サンプル番号まで覚える投資家は、そう多くない。車内で蓮が説明したのは、予定だけだった。フォトコール、主催者への挨拶、晩餐会。必要なときだけ、恋人らしく見えればいいという。「腰や腕に触れるときは、先に合図する」「どうやって?」「車を降りたら、手を差し出す。ロビーまではカメラが追ってくるから」「決定事項ですか?」「予告だ。驚いて俺の手を払いのけたら、それも記事になる」「それは少し、見てみたいですね」「俺は遠慮する」窓の外を向いたままの返事に、紗月は緩みそうな口元を引き締めた。ホテルの入口には、報道陣が集まっていた。アルデンの一ノ瀬蓮が誰を連れて現れるのか。レンズが一斉に車へ向く。先に降りた蓮が、手を差し出した。紗月は少しだけそれを見つめ、手を重ねた。車から出た瞬間、フラッシュで視界が白く染まる
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8話. リュヌを着る人
「アルデンはご縁よりも収益率を見ます。私も、その基準で審査を受けています」紗月はグラスを軽く上げて会釈し、通り過ぎた。助けてもらう女、という場所へ押し込めようとする言葉に、いちいち傷ついている暇はない。人々は弱みを嗅ぎつける。同時に、新しい話題にも飢えている。そのとき、聞き覚えのある声が行く手を遮った。「2人が、こんな形で再会するとはね」鷹宮直哉だった。濃紺のタキシード姿の彼は、大学時代より垢抜け、余裕も増していた。鷹宮キャピタル専務という肩書が、昔からの傲慢さに根拠を与えている。「桐谷社長。何度も連絡したのに返事がないから、心配していたよ」「返済の相談ではなく、持ち株を放棄する念書を持ってくる人に、返事をする必要はありませんから」「会社を救う現実的な方法を提案したんだ。感情的に受け取られても困る」直哉の視線が蓮に移った。「それにしても、一ノ瀬社長に先を越されるとは。よその不良資産を集める趣味ができたとは知らなかった」「価値の判断が違うだけだ」蓮の返事は短い。「価値、ね」直哉が柔らかく笑った。「紗月は、昔から人目を引くのがうまかった。でも今は、ドレスより来月の生地代を心配するべきじゃないかな。一ノ瀬社長の隣にいると、銀行の返済期限も忘れられるらしい」周囲の会話が、ゆっくりになった。露骨に見てはいなくても、誰もが耳を澄ませている。蓮が1歩動こうとした瞬間、紗月はその手首にそっと触れた。彼はその手を見下ろし、動きを止めた。「専務は、今も担保がなければ価値を見抜けないんですね」紗月は直哉をまっすぐ見た。「未払いの生地代があるのは事実です。でも、注文が戻らない会社なら、鷹宮が商標と過去のデザインまでまとめて、3度も買収を提案する理由はありませんよね」直哉の笑みが薄くなった。「経営の苦しい会社を整理してあげようという、善意だったんだが」「借金は嫌でも、ブランドの名前と歴史は欲しかったんですね」近くにいたファッション流通会社の社長が、紗月の袖を指した。「今日のお召し物も、リュヌの製品ですか? 写真で拝見したサンプルとは、ラインが違うようですが」紗月は袖の内側の小さなボタンを外した。折り込まれていた布が開き、手首のラインが変わる。「同じパターンです。お直しに出さなくても、丈とシルエットを変えられるようにしました。大量に作っ
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9話. 8年前も、君の味方だった
紗月はドレスのウエストの留め方を変えた。正面のひだが消え、ラインがまっすぐ落ちる。つい先ほどまで紗月の家の噂に聞き耳を立てていた人々が、今は服の構造を見ていた。白髪交じりの投資家が、運営スタッフを呼んだ。「来週、実務の打ち合わせを入れていただけますか。数字より先に、生産の現場を見たい」「工場の日程と併せて、お送りします」直哉はもう笑っていなかった。その目が、自分のドレスではなく、隣に立つ蓮の手へ向かうのを紗月は見た。利益より先に、誰のものかを測る目だった。蓮は黙って様子を見ていたが、近づいてきた主催団体の会長に、紗月を紹介した。「桐谷紗月社長です。私の同伴者である前に、アルデンが正式に審査中の、リュヌの創業者です」気の毒な昔の同級生でも、守るべき恋人でもない。創業者。紗月は1度、蓮を見てから、会長へ手を差し出した。「リュヌの桐谷です」晩餐会が始まる前に、追加の写真撮影を頼まれた。蓮は紗月の目の前で手を開いて見せた。腰に触れてもいいか、という合図だ。紗月は小さくうなずいた。手のひらが、ドレス越しに腰へ触れる。指は動かなかった。それでも、薄い布を通して体温がはっきり伝わってきた。カメラを見なければ。そうわかっているのに、紗月は隣の顔を見上げてしまった。蓮も、こちらを見ていた。演技なら、レンズに向かって笑うべきだった。けれど、2人ともそうできなかった。カメラマンは、むしろいいとシャッターを切り続けた。「もう少し近づいていただけますか」紗月が先に半歩寄った。蓮の指が、ほんの一瞬こわばる。ネクタイの上で動いた喉仏が、近くに見えた。「嫌なら言ってくれ」自分だけに聞こえる声だった。「一ノ瀬社長の手が震えるほうが、気になりますけど」「震えてない」「じゃあ、緊張してるのかしら」蓮はカメラへ顔を向けたまま答えた。「君がこんなに近ければ、する」紗月は、それ以上からかえなかった。* * *帰りのエレベーターには、2人だけだった。会場を離れると、蓮は約束どおり腰から手を離した。触れられていた場所が冷えるのが気に入らず、紗月は腕を組んだ。「今日は、ありがとうございました」「何が」「私が答えているとき、口を挟まなかったこと。それと、創業者だと紹介してくれたこと」「事実を言っただけだ」「事実だけで、人を助けるんですね」「助け
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10話. 覚えていなかった夜
8年前も、君の味方だった。開いたエレベーターの前で、紗月はしばらく動けなかった。蓮は説明を加えなかった。先に車へ行き、後部座席のドアを開けて待っていた。結局、紗月は聞かなかった。その言葉を受け入れる場所が、まだ自分の中になかった。契約4日目の朝、キッチンに下りると、蓮はすでにジャケットを着て資料を読んでいた。テーブルには2人分の朝食が並んでいたが、彼の前にあるのは水のグラスだけだ。「食べないんですか?」「8時から会議がある」「会議資料を読むより、噛むのに時間がかかるものはなさそうですけど」蓮が時計を見た。「もともと朝は食べない」「人には夜にコーヒーを飲むなと言って、自分は空腹で1日を始めるんですね」紗月はトーストを1枚ナプキンで包み、彼の書類に載せた。「投資家が先に倒れたら、誰が審査するんです?」蓮の視線が、トーストから紗月へ移った。「心配してくれるのか?」「利害関係の管理です」「そうか」そっけなく答えながらも、彼はトーストを手に取った。ひと口かじり、資料をめくる。思いのほか素直な姿に、紗月はなんとなくコーヒーマシンへ体を向けた。高い棚のタンブラーに手を伸ばすと、背後から腕が上がった。蓮は体が触れない距離を保ったまま、タンブラーだけを下ろしてくれた。シャツの袖から、かすかなウッディな香りがした。「言えば取るのに」「私の身長でも、届きます」振り向くと、思ったより近くに彼の胸があった。1歩下がろうとして、背中がカウンターに触れる。蓮はすぐに腕を引き、横へよけた。「一ノ瀬社長。そろそろ、もう少し離れていただけますか?」彼が目を細めた。「緊張すると言葉遣いが丁寧になるのも、変わらないな」紗月は顎を上げた。「人の話し方を分析するのが趣味ですか?」「ほかの人のは知らない」蓮がジャケットのボタンを留めた。「君のだけは、覚えてる」玄関が閉まっても、紗月はしばらくコーヒーをいれられなかった。その夜、2度目の公式日程の衣装を考えていた紗月は、共用のドレッシングルームの奥で蓮と鉢合わせた。よけようとするたび、同じ方向へ動いてしまう。収納は広いのに、通路は1人半がやっとだった。「先に出てください」「君が選んでるところだろ」紗月は引き出しから、濃紺のネクタイを1本取り出した。シャツに触れないよう胸元にかざすと、蓮が動きを
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