All Chapters of 30日後には、他人に戻るはずだった: Chapter 21 - Chapter 30

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21話. 盗まれた真実

「あの日、私は部室にさえ行けませんでした」「君たちが、俺のことで笑っていたと言われた。君にとっては遊びで、俺が本気にしたのがおかしかったって」蓮は昔の話をしても、声を荒らげなかった。ただ、最後の言葉だけが、痛いほど明瞭だった。もう治ったと思っていた傷を、自分で開いて見せるように。紗月の声も尖った。「私には、あなたが直哉の出資を受けたと言っていました。サーバーを増強するお金が必要だから、私と進めていた企画を捨てて行ったと」「その話は断った」「私に、どうしてわかるんです? あの日、大学で捜してもいなかった。直哉は、もう行ったと言ったんです」「俺は、夜9時まで裏庭にいた」「父の会社に捜査が入ったのは、午後4時でした」ぶつかり合っていた言葉が、同時に途切れた。紗月は鉄の手すりを握った。父の会社のロビーを埋める記者。母が持ち出せなかった薬。家の前で待つ債権者たち。あの日の光景が、順に浮かんだ。「父の秘書が、大学まで迎えに来ました。携帯も捜査のために押さえられたままで、その夜は郊外の別荘へ。翌日、国外に出ました。誰にも説明できなかった」蓮の顎に力が入った。「わざと連絡を切られたんだと思った」「私は、あなたがお金を選んだと思いました」2人の間に、1人の名が残った。鷹宮直哉。蓮が先に尋ねた。「サーバー代と、企画を捨てたって話は、どういう意味だ?」「そのままです。直哉が、自分のお金でサーバーを動かすと提案したでしょう。あなたが、それを受けたと」「サーバー代は、サークル宛ての匿名の支援金だった」「匿名にしてほしいと、私が頼んだからです」蓮の表情が、初めて崩れた。紗月は手首を見下ろした。8年前、いつも身につけていた細いサファイアのブレスレットは、とっくになくなっている。それでも留め具が触れていた感覚は、妙に鮮明だった。「あのとき、先生にお願いして、業者の口座へ送ってもらったんです。私の名前を出したら、受け取らない気がして」「いくらだったか、知ってるか?」「180万円。6か月分のサーバー使用料と、外部データの購入費です」蓮が近づいた。「そのお金を、どうやって用意した?」「ブレスレットを売りました。20歳の誕生日に、母がくれたものを」「あのブレスレットを、売ったのか?」否定というより、衝撃の声だった。それでも紗月の表情は冷たく
last updateLast Updated : 2026-09-24
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22話. 見つけられなかった8年間

蓮は長い間、画面を見下ろしていた。イベントが終わり、日付が変わった頃だった。8年間食い違っていた事実が、小さな画面の中で、ようやくあるべき場所に収まった。「元帳が本物かどうかは?」蓮が尋ねた。「その後、サーバー業者の税理士が保管していた資料を、銀行の保管資料と照合しました。当時の指導教員、森山修一教授も経緯をご存じだそうです。午前中に、お会いすることになっています」橘の説明が終わると、蓮はタブレットを紗月へ渡した。その動作が、いつもより遅かった。「どうして、言わなかった?」「言う時間がありましたか? あなたはもういなくて、私は大学に戻れなかった」「その前は」「知ったら、お金を返す方法を真っ先に考えそうだったから」紗月は画面を消した。「それに、施しじゃありません。あなたのアルゴリズムを私の企画に使いたくて、先に投資したんです」「失敗したら、君が損をする投資だった」「投資は、そういうものでしょう」蓮はうつむいた。タブレットの縁を握る手に力が入る。お金を返す方法を先に探しただろう。紗月の推測を、否定できなかった。「明日、一緒に行きましょう」紗月が言った。「私も、確かめたいことがあるので」* * *森山教授は、大学の研究棟にある小さな研究室で、2人を迎えた。古い書類箱には、サーバーの見積書、支援申請書、紗月が送ったメールが、会計の証憑として残っていた。メールには、ブレスレットの委託販売の領収書が添付されている。売却代金210万円のうち、180万円がサーバー費用に使われていた。「外部からの支援金として処理する以上、出所は残す必要があったからね。桐谷さんは、一ノ瀬君にあげるお金ではなく、まだ誰も値段をつけていない技術を、先に買うお金だと言っていたよ」蓮は領収書から手を離せなかった。教授は2人を見比べ、今まで知らなかったのかと尋ねた。続いてノートパソコンをこちらへ向け、ビデオ通話をつないだ。画面には、当時サークルの会計係だった小野寺香織がいた。「橘さんには、私の連絡先を捜していただいただけです。記録は、自分で保管していました」香織は古い携帯電話のバックアップから、やり取りの原本を示した。午後3時6分。香織から直哉へ。――蓮が紗月のロッカーに入れた封筒、先輩が持っていきました?――俺が直接渡すよ。今日、紗月の家に何かあ
last updateLast Updated : 2026-09-24
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23話. すべてを明かして

「捜した。ある冬には、リュヌの問い合わせ欄に自分の名前まで入力して、消した。君が手紙を読んで笑ったと、直接確かめる勇気がなかった」「私も、アルデンのインタビューを保存していました。でも、直哉のお金で始めたって見出しを見て、消した。今さら理由を聞いたら、捨てられたほうがすがっているみたいで」蓮が短く笑った。笑いと呼ぶには、苦すぎる音だった。「俺たち、そろって、とんでもない臆病者だったな」「始めたのは直哉でも、確かめなかった時間は、私たちの責任だよ」「ああ」教授の研究室を出ると、キャンパスには夏の終わりの光が満ちていた。学生が研究棟の階段を駆け下り、遠くで図書館の時計が正時を告げる。蓮は、人の少ない木陰で足を止めた。「君は、俺を恥ずかしいと思っていたわけじゃなかった」紗月に話すというより、自分に確かめる声だった。「一度だって、ありません」「なのに、俺は捨てられたと思っていた。憎めば忘れられると思ったのに、まともに憎むことさえできなかった」蓮は両手をポケットに入れた。紗月をつかまえないよう、わざと隠したように見えた。「君の家が破綻した記事を読んでも、すぐには行けなかった。成功してから現れたら、君がいちばん苦しいときを待っていた男に見える気がして。それでもリュヌの資料は全部見た。うまくいっているか、確かめずにはいられなかった」「紗月」眠っていない彼から、その柔らかさで名前を呼ばれたのは初めてだった。「俺は、今でも君を……」「蓮」呼びかけると、彼の言葉が止まった。紗月はポケットに隠れた手首をつかみ、外へ出した。手をつないだのではない。ただ、もう逃げないよう、指先を留めた。「私も、あなたに捨てられたと思ってた。だから再会したとき、余計にひどいことを言った」「それでいい」「そういう許し方、しないで。私たち、どちらも騙されたんだから」蓮の目元が、ついに崩れた。紗月は握っていた手首を離さず、自分の手を返した。手首の内側に、彼の唇が触れる。短い温もりが残った。紗月は、袖を下ろさなかった。* * *疑いは、小さな日付から始まった。リュヌに戻った紗月は橘に、鷹宮が最初に接触してきた時期を照会した。過去の手紙も今の圧力も、直哉から始まっていたのなら、いつから会社を狙っていたか確かめる必要がある。返信には、鷹宮の最初の接触は7か月前
last updateLast Updated : 2026-09-24
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24話. 契約の終わり

「ご請求の資料です」分厚いファイルを受け取った紗月は、尋ねた。「一ノ瀬社長の政略結婚の噂は、実際にはどの程度だったんですか?」橘はすぐには答えなかった。「秘密を漏らしてほしいのではありません。この契約が、投資上の利害関係において、何の必要から結ばれたのか、確認しています」「会社として、恋人役を必要とする事情はありませんでした。軽い縁談の記事はありましたが、対応しなくても収まるものでした」「公の場での同伴予定は?」「社長が契約案を作ったあと、戦略室で調整しました」必要な事実だけを告げ、橘は口を閉じた。かばおうとも、告発しようともしていない顔だった。「残りは、ご本人からお聞きになるべきかと」「そうします」紗月はファイルを持ち、ペントハウスへ帰った。蓮はリビングに立って待っていた。テーブルに置かれた書類を見て、すぐに何かわかったらしい。「6か月前からだったんですね」紗月は、債権譲渡契約の日付を指した。「直哉が君の債権を集めていると、わかってすぐだ」「どうして、言わなかったんですか?」「言えば、君が断るから」「だから、断れなくなるまで待ったんですか?」蓮の顔が固まった。「待っていたんじゃない。直哉が返済を迫れないよう、先に押さえた。家だって、ほかの債権者に渡れば、すぐに出なくてはならなかった」「なら、そう説明して、返済猶予の契約だけをすればよかったでしょう。投資審査だって、別に始められた」蓮は否定できなかった。紗月は薄い契約書を、ファイルに重ねた。「政略結婚の噂を消すために、恋人が必要だと言いましたよね」「必要だったのは、君がそばにいてくれる時間だ」「私が必要としていたものじゃありません」「わかってる」「いいえ、わかっていなかった。わかっていたら、家と社員の給料を一度に失いかけた日に、これを選択肢として差し出したりしなかったはずです」「途中で終わらせても、借金は戻らないようにした」「理由なしにいつでも終えられて、借金をほかへ渡せないようにしたのは、私です。その一文で、最初から私に選択の余地があったことにはなりません」蓮の唇が固く閉じられた。「傷つけようとしたのではないことは、わかっています。直哉から守ってくれたのも、時間を稼いでくれたのも、事実でしょう」揺れる声を抑え、紗月は言い切った。「でも、守るという
last updateLast Updated : 2026-09-24
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25話. 先に作ったのは誰か

「わかった」蓮は玄関から身を引いた。紗月はスーツケースを引き、その前を通り過ぎた。引き止められると思っていたわけではない。ただ、何か月もかけて債権や建物を買い集めた人が、こんなに素直に道を開けるとも思わなかった。「車は用意してある。君が行きたい場所まで送るだけだ。運転手も嫌なら、タクシーを呼ぶ」「最後まで、選ばせているふりですか」「そう聞こえても、返す言葉はない」蓮は弁解しなかった。だからといって、紗月の怒りが軽くなるわけではなかった。バッグの中で電話が鳴った。美緒だった。――紗月、ブリエがうちのカプセルラインと同じものを出してきた。ルックブックの情報解禁がたった今だったんだけど、シルエットが似てる程度じゃない。縫い目も裏地の配色も同じ。玄関の扉を開けたまま、紗月は尋ねた。「サンプルは?」――第3室に鍵をかけて保管した。工場と外注先のメールも保存してる。向こうの先行予約は3日後。「誰にも原本を送らないで。今から行く」電話を切ると、蓮が言った。「ブリエは、鷹宮が先月買収した会社だ」「買収を知っていたんですか?」「それだけだ。デザインの流出は、今知った」「では、まずブリエが鷹宮傘下だと、アルデンに正式に伝えてください。今回の判断から、あなたは外れて。リュヌから直接メールを送ります」それ以上は、求めなかった。紗月は壁に寄せたスーツケースを引き、玄関を越えた。契約が終わった家へ、戻るつもりはなかった。* * *リュヌのオフィスは、明け方まで明るかった。美緒が壁一面をプリントで埋めていた。左はリュヌの開発段階ごとの図面、右はブリエが配布したルックブック。ジャケットのアシンメトリーな打ち合わせ。手首の内側の三日月の刺繍。動いたときにだけ見える、青みがかったグレーの裏地。それらが、ことごとく一致していた。「外注のパターン室2か所、生地会社1社、それから撮影会社にも、資料へのアクセス権があった」美緒がノートパソコンを回した。「そのうち、パターン室の責任者が3日前に退職してる。転職先は、ブリエの協力会社」紗月は椅子に座らず、壁の前を行き来した。日付と修正の跡を照らし合わせる。最初のスケッチは4か月前だ。最初のサンプルでは三日月の刺繍糸が肌に当たって、位置を変えた。次のサンプルでは、裏地の混用率を修正した。ブリエのルックブッ
last updateLast Updated : 2026-09-24
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26話. 鷹宮プロジェクトのアカウント

「ブリエが先に売り始めたら、私たちは後追いで釈明することになる」美緒が言った。「だから、制作過程を先に公開する」紗月は空いた会議室を指した。「ショールームに作業台を置いて、最初のサンプルから全部見せよう。完成品だけじゃなく、失敗した袖も刺繍も一緒に。予約代金は第三者管理の口座で預かってもらって、注文が基準に届かなければ自動返金」「初回の生産費は?」「入金確認書をもとに、工場と支払い日程を組み直す。それまでに要るのは、証拠保全と撮影の費用。今日予定していた広告を全部止めれば、捻出できる」紗月は、最も長く取引している工場の社長へ直接電話した。相手はブリエとの紛争を理由に、生産ラインを押さえ続けることはできないと言った。「2日だけ、待ってください。予約金の入金が確認でき次第、着手金を送ります。届かなければ、ライン変更の費用はリュヌが負担します」「桐谷社長。今、その費用を負担できるんですか?」「だから、保留を2日間に絞るんです。自分たちで引き受けられるリスクだけを、お願いしています」長い沈黙のあと、工場の社長は2日をくれた。善意だけではなかった。過去3年間、リュヌは納期に問題があったときも、代金の支払いを延ばしたことがない。その記録が生んだ猶予だった。午前4時、アルデンへ正式なメールを送った。デザインの流出と、ブリエを買収した鷹宮との関係を伝え、今回の判断から一ノ瀬蓮を外すよう求めた。朝になる頃、橘とアルデンの法務責任者が到着した。蓮は来なかった。「一ノ瀬は、まず鷹宮によるブリエ買収の金融面を止める方法を検討しました」橘は隠さずに言った。「その手は使わないよう、伝えてください。ブリエの資金が止まっても、リュヌのデザインが私たちのものだという証明にはなりません」「すでに撤回しています。桐谷社長が正式な手続きで求めた範囲に限り、支援するようにと」アルデンの法務は、販売差止めの申立てとプラットフォームとの調整を担当した。公開イベントと生産の判断は、リュヌが担った。蓮と紗月の通話は、1分もかからなかった。「鷹宮の資金には、手を出さないでください」「出さない」「私の会社が戦っている間、投資家として、必要な時間だけ守ってください」「そうする」謝罪も、自分が行くという言葉も、付け足さなかった。正午を過ぎると、フォレンジック調査の第1報
last updateLast Updated : 2026-09-24
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27話. ペントハウスに残したもの

先に口を開いたのは、直哉の弁護士だった。資料の原本と、取得手続きの提示を求めた。「独立したフォレンジック調査会社の原本保全証明と、サーバー事業者の接続記録です。裁判所にも、同じ資料を提出しました」直哉は画面をひと目見て、黙った。隣の弁護士が何か耳打ちすると、彼の手で悠々と回っていたペンが止まった。「8年前の手紙の件は、小野寺香織さんの陳述書と当時のメッセージ原本をもとに、別途、訂正を求めます。今日の協議対象は、リュヌの営業秘密侵害と販売停止です」相手の弁護士が、休憩を求めた。話し合いは、まだ終わっていない。だが争点は、もはや「似た流行」ではなかった。誰が、いつ、どのアカウントでファイルを持ち出したのか。それになっていた。* * *2日後。リュヌの公開イベントが、小さなショールームとオンライン配信で同時に始まった。紗月はランウェイの代わりに、中央へ作業台を置いた。傷んだ最初のサンプルから完成品まで、順にトルソーへ着せていく。美緒は、ファイルの作成記録と工程日誌を、必要な範囲だけ画面に映した。「デザインは、ある日突然、完成するものではありません」紗月は、失敗した袖を掲げた。「この曲線では、腕を上げると引っ張られました。この刺繍は、肌に跡が残りました。だから、捨てました。今日お見せするのは、きれいな完成品だけではなく、リュヌが失敗を直してきた時間です」模倣の被害を訴えるだけでは終わらなかった。工場の社長を壇上に招き、製造の順序を一緒に説明した。予約代金がいつ工場へ渡るのかも公開し、配送を守れなければ自動返金するという条件も隠さなかった。発表が終わると、注文が入り始めた。夕方には販売プラットフォーム2社が、調査証明と仮処分申立ての受理資料を確認し、ブリエの販売ページを一時停止した。生地会社も、問題の商品への納品を保留した。アルデンの名は、プレスリリースの末尾に、法務支援の会社としてだけ載った。記事の見出しになり、カメラの前に立ったのは、桐谷紗月だった。蓮は客席の最後列に座っていた。拍手が始まったときだけ、手を上げた。その夜、紗月は残した私物を取りに、ペントハウスへ寄った。服も充電器も、洗面所の化粧品も、漏れなく詰めた。蓮はリビングにいたが、バッグには触れなかった。「車は下にある」「今回は乗ります。荷物が多いので」玄関の棚
last updateLast Updated : 2026-09-24
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28話. 自分のための交渉

ペントハウスを出て10日目の朝、紗月は長年住んだ家の窓を開けた。所有者は、今も蓮の個人法人だ。けれど戻った日に渡されたのは、退去通知ではなかった。周辺の物件と同程度の敷金と家賃を記した賃貸借契約書だった。1年以内なら、自分で買い戻せるという条項も添えられていた。紗月は司法書士に確認してもらってから署名した。初月の家賃も、自分の口座から振り込んだ。家具は昔のままでも、暮らしは変わっていた。明け方に債権者から電話が鳴ることはない。冷蔵庫を開けるたび、自分で選んだわけではない無糖ヨーグルトが入っていそうな気もしない。朝を抜くなと、言う人もいない。紗月はテーブルにつき、トーストを1枚、最後まで食べた。あの男の言うことを聞いたわけではない。午後のローンチを乗り切るために、必要だっただけだ。「社長。ベスタ・リテールの最終契約書、届きました」電話の向こうで、美緒が言った。「手数料は?」「こちらの提示額で通った。その代わり、初月の目標数量が少し上がった」「受けて。海外通販は、返品物流費の上限を入れたか確認して」「入ってる。それと、アルデンの投資委員会の結果も来たけど、読み上げようか?」カップの持ち手で、紗月の指が止まった。「会社で見る」美緒が短く笑った。「本人との契約は終わっても、投資審査は最後まで公的に、ですか」「仕事を仕事として見るのが、そんなに変?」「いいえ。声がやけにきっちりしてるのも、別に変じゃないですよ」電話を切ったが、トーストはさっきほど素直に喉を通らなかった。リュヌへ着くと、机の半分が契約書に覆われていた。ベスタ・リテールがオンラインとセレクトショップへの流通を担い、小規模工場の連合が生産枠を確保する。公開プレゼンのあと、外部投資家のサークル・ベンチャーズからも、先に連絡が来ていた。サークル・ベンチャーズには、投資金の優先回収権と、合意した持ち株を認める。その代わり、リュヌの経営権とデザインは誰にも渡さない。その線は譲らなかった。アルデンの投資も承認されていた。審査意見書には、リュヌの強みだけでなく、分散生産のリスクまで明記されている。一ノ瀬蓮の名は、審査から外れた者の一覧にだけあった。サークル・ベンチャーズとの最終交渉は、簡単ではなかった。担当パートナーは初回案に、「目標売上未達時のデザイン・商標の優先買取権
last updateLast Updated : 2026-09-24
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29話. 予定どおりのローンチ

交渉室を出ると、美緒は大きく肩を伸ばした。「今の20分で、社長が出資金を蹴る場面を3回は想像したよ」「何かを奪われる契約のほうが、結局高くつく」「知ってる。だから止めなかった」紗月は、自分のペンで修正契約書に署名した。蓮が稼いでくれた時間。その上にどんな条件を書くかは、自分で決めた。続く債権者協議でも、紗月は新たな投資契約と予約金の保管明細を、自ら広げた。債権者側は、まず18か月以内の返済を求めた。「その期間では、来年の生産費と元金返済がまた重なります。最初の6か月は利息のみ。そのあと、月々の売上の一定割合を元金返済に充てます。代わりに、在庫と資金繰りを毎月開示します」「3年は長すぎます」「だから、ベスタ・リテールの確定発注と予約金口座を、返済の裏づけとして持参しました。商標を担保に求めるなら、協議はここまでにします」翌日の明け方まで、計算表が行き来した。債権者側は、3年で分割返済する案を受け入れた。最初の半年は生産費を守り、そのあと服が売れた分だけ、元金を減らす。紗月は新しい返済表の初回支払日に、赤い丸をつけた。次のシーズンを作るには十分先で、借金を忘れるほど遠くはない日付だった。このお金は、社員が作った服を売って返す。紗月は赤丸の横へ、短く記した。最初の返済。「社長」社員がサンプルラックを押してきた。紗月はジャケットの内側を確かめた。緊急で切り替えた工場が、三日月の刺繍を2mm下に縫いつけていた。「このままでは、動くと刺繍が折れてしまいます。今日の分は、全部直してください。納期より商品を優先します。お客様には1日遅れるとご案内して、お詫びのポイントを付与しましょう」「はい」判断することは、次々に来た。広告文、プラットフォームのバナーの順番、海外バイヤーとの面談時刻。机で昼食を済ませ、午後3時にはローンチ会場へ向かった。忙しくて考える暇がない、というのは嘘だった。隙間は、いくらでもできた。信号で車が止まるたび、隣の席が空いている。窓に雨が当たれば、髪を乾かした温風と蓮の濡れたシャツが浮かぶ。連絡してこない人のことを、一緒に暮らしていた頃より頻繁に考えていた。彼からは、メッセージ1通来なかった。* * *開始2時間前、橘がリュヌの仮控室を訪ねてきた。持っていたのは、アルデン名義の書類封筒だけだった。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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30話. 誰もいない廊下

ブリエの販売ページが停止してから、リュヌの検索数は前シーズンの最高記録を大きく超えた。だが、関心を売上へ変えるのは、また別の仕事だ。紗月は舞台で模倣事件を繰り返す代わりに、次の季節にリュヌが何を作るのかを語った。「リュヌは、危機に追い込まれたから透明性を掲げたブランドではありません。作る人と着る人が、同じ情報を持ってこそ、長く続けられると考えています。本日から、すべての商品ページに生産工場、主な修正履歴、修繕費用の目安を公開します」大きな販路を失った弱みを、顧客と直接つながる仕組みへ変える。ベスタ・リテールとの新規契約、お直しのための回収プログラム、残布を使った小ロットの受注生産計画が、順に発表された。イベントが半分ほど進んだとき、紗月は客席の後方に蓮を見つけた。黒いスーツの彼は、カメラも来賓席も避け、柱のそばに立っていた。目が合うと、ごく小さく頭を下げる。祝福は、それだけだった。最終の予約注文数は、目標を大幅に上回った。社員が抱き合い、美緒が紗月の手に炭酸水のグラスを握らせた。「そろそろ笑って。今日は、紗月が勝ったんだから」紗月は画面の数字を確かめてから、ようやく笑った。「私たちが、でしょ」その瞬間、柱のそばに誰もいないことに気づいた。紗月はグラスを置き、会場の裏へ出た。蓮は駐車場へ続く廊下の先にいた。ヒールの音で振り向いたが、近づいてはこなかった。「おめでとう」「それを言うためだけに来たんですか?」「ああ」「それで、また目の前から消えるつもり?」蓮は一瞬目を閉じ、開いた。「いなくなるのが、君の望みだと思ってた」「聞いているのは、そこじゃありません。どうして8年前も、今度も、正直に話してくれなかったんです?」廊下の向こうから、イベントの音楽がかすかに流れてきた。蓮は、答えを急がなかった。「8年前は、君が俺を選ぶはずがないと信じていた。今度は、断られるまでの時間に耐えられる自信がなかった」「だから、私の債権を買った」「持ちこたえる時間をあげたかったのは、本当だ。でも、それだけなら、お金を渡して引くべきだった」蓮は、自分の手を見下ろした。紗月をつかまえていない手だった。「俺は、30日を買った。君が俺の家にいて、隣に立って、毎日帰ってくる時間を。契約と呼べば、君が離れずにいてくれると思った」「人の気持ちも、
last updateLast Updated : 2026-09-24
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