All Chapters of 真夏は、彼のものにはなれなかった: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

「真夏、聞いてくれ。彼女には余計な口出しをするなと釘を刺しておいたんだ。それなのに、どうしても……」光貴が身を屈め、すがるように私の手を取ろうとした。私は冷たく足を上げ、爪先で彼の肩を無造作に押しのけた。そのまま、強すぎず弱すぎない絶妙な力加減で、彼をあの生意気な若い女の方へと突き飛ばす。渋川雫(しぶかわ しずく)はすかさず彼の腕にすがりつき、顎をしゃくって勝ち誇ったように笑った。「何をそんなに緊張しているの?あれだけ『彼女の前で騒ぎを起こすな』って口を酸っぱくして言ってたから、どれほどの強敵かと思えば」彼女は小首を傾げ、私の全身をなめ回すように眺めると、あからさまに嘲りの笑みを浮かべた。「ほら、見ての通りじゃない?拍子抜けするくらい扱いやすい女。ここまでコケにされても、文句のひとつすら言い返せないなんて、情けないったらありゃしない。さあ、行きましょ。パパ、一緒に帰って、私に栄養たっぷりの食事を作ってよね」けれど光貴は、その場から一歩も動こうとしなかった。ただ昏い瞳を瞬きもせず、じっと私に注いでいる。私のあまりに素っ気ない態度が気に入らなかったのだろうか。それとも、私の表情に少しでも嫉妬や悲しみの色を見出したかったのだろうか。私はゆっくりと指を3本立て、口元だけに薄い笑みを浮かべた。「誰が行っていいと許可したの?まだゲームは終わっていないわよ。まず1つ目。私は戸籍上のれっきとした妻よ。日陰の愛人なんかじゃないわ」雫の足がピタリと止まり、その顔に張り付いていた笑みが凍りついた。「次に。実を言うと、私の結婚指輪は星の数ほどあるの。彼ったら、私がショーケースで少しでも目を留めた指輪は全部買い占めて、日替わりでつけさせてくれていたから。あなたが盗んだそれは、その中でも私が一番気に入らなかった、いちばん安いものってわけ」彼女の顔から一切の表情が削げ落ち、瞳の奥に剣呑な殺気が宿った。光貴の友人たちが慌てふためき、取りなそうと口を挟む。「真夏さん、もうそのくらいにしておいて!雫は本気でキレたら何をしでかすか分からないって、この界隈じゃ有名なヤバい奴なんですから!」私は優雅に薄く微笑み、彼女の膨らみかけたお腹へと冷たい視線を落とした。「最後に。光貴はね、陣痛を疑似体験したことがあるの。『こん
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第2話

その瞬間、雫の理性が完全に吹き飛んだ。彼女は手近にあった酒瓶をわし掴みにすると、テーブルの角に力任せに叩きつける。鋭く割れたガラスの首部分を握りしめたまま、獣のように私めがけて突進してきた。「あんた、本当にぶっ殺してやるーッ!」光貴と彼の友人たちが血相を変え、慌てて止めに入ろうとする。けれど、私の動きの方がずっと速かった。凶器の瓶が振り下ろされるほんの一瞬前、果物ナイフの切っ先はすでに彼女の腹部にぴたりと突きつけられていたのだ。薄手のニットワンピース越しに、腹部のぬくもりと、わずかな膨らみが伝わってくる。雫の動きが、嘘のように硬直した。冷や汗が頬を伝い落ち、凶器を握る手が小刻みに震えている。私は恐怖に引きつるその顔をじっくりと鑑賞しながら、思わず声を上げて笑いそうになった。本気でキレたら何をするか分からない、ね。なるほど、この雫という女は、確かに昔の荒々しかった私によく似ている。けれど、所詮は安い模造品でしかない。この数年間、私は光貴のそばで大人しく爪を隠しすぎたようだ。おかげで彼は、私が本性を現せばどれほど狂気を孕んだ女なのか、すっかり忘れてしまったらしい。「真夏!」光貴が慌てふためき、雫を背中へ庇うように割って入った。大きな手のひらを彼女のお腹に当てるその仕草は、ほとんど本能に根ざした保護の姿勢に他ならなかった。「もう、いい加減にしてくれ」私は冷ややかに片眉を跳ね上げた。「いい加減にしてって、一体誰に向かって言っているの?私の目の前で、彼女をけしかけて私を挑発させたのはそっちでしょう?私に正面から喧嘩を売ったからには、それ相応の痛い代償を払ってもらわないと。筋が通らないわよね?」息が詰まるような、長い沈黙が場を支配した。やがて光貴は深くため息をつき、まるで聞き分けのない子供に手を焼いているとでも言いたげな、甘やかな声に切り替えた。「……分かった。俺が代わりに払うよ」言い終えるが早いか、彼は躊躇うことなく1歩ずつ私の方へと間合いを詰めてきた。鋭利な果物ナイフが、彼の脇腹へとゆっくり沈み込んでいく。純白のシャツに、鮮烈な赤い血。みるみるうちに広がっていく濃い紅の染みをじっと見つめていると、目の奥が針で刺されたように痛んだ。それでも彼は、痛みなど微塵も感
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第3話

私はすべて無視して、電話に出なかった。5分後、玄関の扉が激しく蹴破られた。息を切らした光貴が、ドア枠にもたれかかるように立っていた。全力で走ったせいで傷口が開き、脇腹に滲む血の染みが痛々しく広がっている。それでも光貴は気にする様子もなく駆け寄ると、私がサインした離婚届を引き裂いた。さらに破片に火をつけ、灰にしてしまう。顔を上げた瞬間、彼の視線が私を射抜いた。危うい狂気と、どす黒い支配欲を孕んだ眼差しだった。「真夏、知ってるだろう。俺は死んでも君を離さない。そっちだって分かってたはずだ。あの離婚届は、雫が俺を騙して書かせたものだって。なのに、どうしてサインした!」答える間もなく、嵐のようなキスを奪われた。荒々しく性急で、血の匂いが混じっている。私は必死で顔を背け、息を切らしながら笑い声を漏らした。「……へえ。死んでも離さないって言いながら、不倫はできるのね」彼の動きが止まる。「それとも、こう思ってるの?私があなたを愛してる限り、どうあがいても逃げられないって」私の皮肉げな視線を受け、光貴の表情が和らいだ。頬を私の首筋にそっと擦り寄せる。「俺が悪かった。どうしたら機嫌を直してくれる?」「雫に、子供を堕ろさせて」光貴は一切の迷いなく、「分かった」と答えた。「彼女と別れて」今度は、少し沈黙があった。「……分かった」私は何も言わず、低く笑った。その時、枕元のスマホから引き裂かれるような泣き声が響く。「森上光貴!あんたって人は!」光貴の表情が一変した。私は笑いながら画面を見せる。通話中の表示。あの女にずっと、このやり取りを聞かせていたのだ。電話の向こうで雫がヒステリックに泣き叫んでいる。「私と子供を見捨てたくせに!後悔させてやる!」一方的に通話を切った。光貴は苛立ちを隠せず、何か怒鳴りたそうにしていたが、私の顔を見ると歯を食いしばって飲み込んだ。荒々しく私を押しのけ、大股で飛び出していく。のんびりと位置情報を頼りに後を追うと、大きな橋にたどり着いた。ふたりはすでに、痴話喧嘩の真っ最中だった。汚い言葉で罵り合いながらキスをし、殴り合いながら抱き合っていた。私を見た瞬間、光貴は背筋を強張らせ、雫をさらに背後に庇った。苛立ちを
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第4話

振り返っても私の姿が見当たらず、光貴は魂が抜けたように血の気が引いた。迷わず雫を突き放し、死に物狂いで水の中へ潜る。水は骨まで凍るほど冷たいのに、彼の体は異様なほどの熱を帯びており、私を抱きしめて離さなかった。私を岸へ送り届けると、すぐさま踵を返して雫を助けに戻る。だが、遅すぎた。水はあまりにも冷たかった。岸に上がった雫は、お腹を押さえて全身を震わせていた。血が白いワンピースを伝って流れ落ちる。病院に運ばれた時には、もう子供の命はなかった。雫は胸が張り裂けんばかりに泣き、爪を立てて彼の手を掴んだ。「光貴!あんたなんて大嫌い!あんたが私たちの子供を殺したのよ!全部あの女のせいよ!彼女を殺して、仇を取ってよ!」光貴の瞳には、今まで見たことのない痛ましさが宿っていた。けれど私の方を振り向いた途端、その表情から一切の感情が消え失せる。私は彼に笑いかけた。「泣いたの?珍しいこともあるものね。あなたが泣くところ、初めて見たわ。それなら、さっきはどうして私を助けたの?おかげで、みんな不幸になる羽目になったじゃない」光貴の目が、一瞬で赤く染まった。生まれて初めて、彼は私に向かって手を振り上げた。胸を激しく上下させ、歯を食いしばって吐き捨てる。「いい気になるのもいい加減にしろ!真夏、俺が君を愛してるからって、何度も何度も付け上がるな!」その手は宙で止まったまま、しばらく震え続けた。最後には、拳が壁に叩きつけられる。「出て行け。君の顔なんて見たくない!」その日を境に、光貴は二度と家に帰ってこなかった。以前は1分に10通もメッセージを寄越したのに、今ではスマホは死んだように沈黙している。雫が退院する日。子供を供養するための小さな墓碑も、すでに用意されていた。私は光貴の部下に「お連れします」と連れ出された。私の顔を見た途端、雫の瞳に憎しみの光が迸り、鋭い声で叫ぶ。「這いつくばりなさいよ!私の子に謝罪しなさい!」私は片眉を上げ、光貴を見た。けれど今回、彼はいつものように無条件で私を庇わない。表情を強張らせたまま、私の背後に回り込んだ。膝裏を強く蹴られ、私は不意を突かれて崩れ落ちた。大きな手が後頭部を掴み、有無を言わさず地面へ押しつける。額を冷
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第5話

雫が悲鳴を上げながら前のめりになり、額をシートに強く打ちつけた。罵声を上げる間もなく、光貴は友人のスマホを奪い取った。画面を食い入るように見つめた。動画の私は、相変わらず心から楽しそうに笑っている。風になびく髪。その姿はまるで、ようやく黄金の鳥籠を破って飛び立った鳥のようだった。車内の空気は、不気味なほど静まり返っていた。「……今の、誰の名前だ?」光貴の声が、喉の奥から絞り出される。友人は恐る恐る顔色を窺い、長い沈黙の末に答えた。「い……今里、朔弥」その名前はかつて、この街で知らない者のいないほど有名だった。今里家、盛岡家、森上家。3家の跡継ぎたちは、揃いも揃って恐ろしいほどの切れ者だと評判だった。けれど、私と朔弥の結婚式の日。光貴は前後の見境なく割り込んできて、5年間も私を隠し続けたのだ。その後、朔弥は会社どころではなくなり、時間と力のすべてを私を探すことに注いだ。私が姿を消すと、かつての部下たちも次第に散り散りになっていく。気づけばこの街には、森上家だけが一強として残っていた。車内はまた、長い沈黙に包まれる。光貴の友人が小声で付け加えた。「真夏さん……もしかして、記憶が完全に……」光貴の顔から、一気に血の気が引いた。勢いよくハンドルを叩き、車を街へ向けて切り返す。雫が不満を露わにし、ハンドルを奪おうと手を伸ばした。「光貴、どういうつもり!?私とハネムーンに行くって約束したでしょ!」だが彼は、まるで聞こえていないかのように反応しない。彼女は腕を引っ張り、甘えてみせても無駄だった。子供のことを持ち出しても、今回ばかりは効き目がない。彼女は怒りで歯を食いしばり、意を決してドアを開け、飛び降りた。幸いスピードは出ておらず、路肩に転がり落ちただけで済んだが、膝の皮が剥け、痛みに息を詰まらせた。けれど光貴の車は、一瞬たりとも停まることはなかった。結局、後続の車に乗っていた友人が引き返し、雫を助け起こす。彼女は縁石に座り込んだまま、遠ざかっていく車の後ろ姿を、凍りついたような顔で見つめ続けた。友人はため息をつき、彼女の前にしゃがみ込んで説明する。「雫、お前は知らないだろうけど……光貴は昔、ずっと真夏さんに片想いしてたんだ。真夏さんは、光貴が強
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第6話

扉の外にいたのは、光貴ではなかった。背の高い男が、逆光を背にして立っている。顔の輪郭ははっきり見えなかったが、声よりも先に、冷たい気配が流れ込んできた。彼は私を見下ろすと、手を伸ばして頬にかかった髪をそっと撫でつける。5年ぶりの再会。彼の第一声は、信じられないほど掠れていた。「……痩せたな」手には1枚の写真が握られていた。さっきのライブ配信で、ベランダから見えた街並み。それだけを手がかりに、彼は私を見つけ出したのだ。私は彼の手首を掴み、ようやく笑った。「帰りましょう」朔弥の手のひらはひどく熱く、私の手をすっぽりと包み込んだ。車が角を曲がった瞬間、バックミラーに、必死に駆けてくる光貴の姿が映った。扉を叩く音がガラスを震わせるほど響く。どれくらい叩き続けただろう。ようやく扉が開くと、中にいたのは顔を腫らし、怯えきった部下だけだった。「社長……私たち、奥様を引き止められませんでした」車はまた角を曲がり、マンションの前の騒ぎを完全に置き去りにする。私はふっと口の端を上げた。光貴。今度こそ、本当に、二度と会うことはないだろう。車内が静かになり、ようやく隣の男をじっくりと見る余裕ができた。彼も痩せていた。頬の輪郭は以前より硬くなっている。全体の雰囲気は沈み込み、瞳の奥には偏執的とも言える暗い執着が渦巻いていた。少し黙ってから、私は口を開く。「この5年、森上光貴と結婚してたの」「さっき調べて、もう知ってる」彼の声は平坦で、喜怒を読み取ることはできない。「体の関係もあったわよ。もし、気にするなら……」車が急に止まった。男が身を乗り出し、荒々しいキスで、続く言葉を塞がれた。その口づけには、5年分の想いの重さが詰め込まれている。私を粉々に砕き、自分の中に押し込めようとするかのように。彼は私の腰を強く抱きしめ、指が食い込むほどの強さだった。痛かった。けれど、逃げなかった。彼は耳元で、くすりと笑い声を漏らした。息が耳たぶを熱く炙る。「真夏、俺をなんだと思ってる?お前が汚れたからって、嫌になるような男だとでも?」肩から首筋にかけて、温かいものが伝ってくる。顔を横に向けると、彼の瞳の奥がきらきらと光っているのが見えた。「どんな姿でも、お前は神が俺に与え
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第7話

光貴は、街中を血眼になって真夏を探した。出国記録、なし。航空券の利用記録、なし。ホテル、鉄道駅、高速バスターミナル。すべて、なし。万が一怪我をして病院にかかっているかもしれないと、救急外来の患者名簿まで人を使って調べさせた。それもなかった。真夏は、まるでこの世から消し去られたかのようだった。何者かに破壊されていたマンションの防犯カメラの映像が、ようやく復元された。彼はがらんとしたリビングに立ち、モニターに最後に映った映像を見つめる。エントランスの前、黒いコートを着た男が、彼女をエスコートして車のドアを開けている。彼女が身を屈めて乗り込む瞬間、街灯に照らされた横顔がはっきりと映っていた。男の顔は見えない。けれど光貴には、その背中に見覚えがあった。手が微かに震え、全身の血が凍りつくような感覚に襲われる。頭の中には、たったひとつの考えしか残っていなかった。終わった。奪われた。5年前、彼女と結婚するはずだったあの男――今里朔弥が、彼女を見つけ出したのだ。光貴はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ゆっくりと彼女の寝室へ向かった。視線が、散乱した室内を掠める。雫がかき回したクローゼットの扉は開いたままで、切り刻まれたウェディングドレスのサテン生地が床一面に散らばっていた。アクセサリーボックスはひっくり返り、真珠のネックレスが引きちぎられ、いくつもの真珠が転がり出ている。ソファの脇にあった写真立ても、裏返しのまま床に落ちていた。ガラスは割れていないが、枠の角が少し欠けていた。彼は歩み寄り、しゃがみ込んで写真立てを拾い上げ、表に返した。写真の中にいるのは、5年前の真夏だった。ぶかぶかの病衣をまとい、彼の肩にもたれかかっている。痩せこけて細くなった顎のライン、三日月のように細められた目元。口角が少し上がり、片手で彼の裾をそっと握っていた。あの頃の彼女は目覚めたばかりで、何も覚えていなかった。彼は自分が恋人だと名乗った。彼女はそれを信じた。あどけないほど真っ白な顔を彼に向け、「光貴」と呼んだ。声は、甘く蕩けるように柔らかかった。あの瞬間自分は、死んでも悔いはないとさえ思った。彼は散らばったサテン生地と真珠の間にしゃがみ込んだまま、親指でゆっくりと、写真の中の顔を
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第8話

雫の笑みが、その場で凍りついた。「……何?」「お前が真夏の寝室から盗み出した、あの結婚指輪たちだ」光貴は言った。「返せ」病室に、重苦しい沈黙が下りる。雫の顔から血の気がゆっくりと引き、唇まで震え始めた。彼女は勢いよく身を起こした。包帯がベッドの柵に擦れ、赤みがさらに濃くなる。「光貴、どういうつもり!?私、手首を切ったのよ!死にかけたのよ!入ってきていきなり、あの女の指輪のことを聞くわけ!?」「返せ」彼はもう一度繰り返した。雫はまるで頬を打たれたかのように、その場で固まった。しばらくして、胸が張り裂けんばかりに泣き出し、シーツを握りしめる指の関節が白くなる。「あんた、私のこと、少しでも愛したことがあったの?私はずっと、あの女の代用品にすぎなかったの……!?」光貴は、泣きじゃくって歪んだ彼女の顔を見つめた。ふと、何も感じていない自分に気づく。真夏は記憶を失ってから、性格がどんどん穏やかになっていった。牙を内に秘めていても、彼に向けて剥き出しにすることは一度もなかった。考えてみれば、人間とは勝手なもので、彼は次第に以前の荒々しい彼女を懐かしむようになっていた。だからこそ、かつての真夏によく似た雫を見た時、抗いがたい魅力を感じたのだ。けれど今になってようやく、彼は気づいた。彼女は、真夏ではなかった。真夏は、誰にも代わりが務まらない。光貴はため息をつき、淡々と言った。「俺とお前の関係は、ただの過ちだった。悪い。俺も気づいたのはつい最近なんだ。俺が心から愛していたのは、最初から最後まで、あいつだけだった」雫は狂ったように泣き叫び、手の届くものを片っ端から投げつけた。光貴は避けることもなく、彼女の怒りをすべて受け止める。けれど瞳の奥は虚ろなだけで、愛情の欠片もなかった。これが、彼女への精一杯の詫びだった。ふと、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して確認すると、秘書からのメッセージだった。【社長、奥様の居場所が分かりました!】光貴は全身を震わせ、スマホを握りしめたまま踵を返して部屋を出た。背後で雫が何か叫んでいたが、ひと言も耳に入らない。廊下に、せわしない足音が響き渡る。非常口の扉を勢いよく押し開け、壁に激突した鈍い音を背に、階段
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第9話

私と朔弥は、都内のホテルで開かれたレセプションパーティーに出席した。今里家と盛岡家、ふたつの名家が正式に財界の表舞台に返り咲いたことを知らしめる場だった。人々は私を見るなり、一様に驚愕の表情を浮かべた。「真夏?この5年、どこに行ってたの?」「朔弥さん、あなたを探して狂ったように探し回っていたのよ。てっきり、もう……」光貴が宴会場に飛び込んできたのは、ちょうどその時だった。華やかな衣装と香水の匂いが満ちる会場で、財界の若きトップに君臨する男は、場違いなほど憔悴していた。皺だらけのシャツ、脇腹には新たに滲んだ血の染み。まるで瓦礫の中から這い出てきたかのような姿だった。彼は人垣をかき分け、私の前まで歩いてきた。潮が引くように周囲の喧騒が静まり返っていく。グラスの音も、囁き声も、音楽さえも遠のいた。すべての視線が、彼の開いた手のひらに注がれる。そこには、無数の結婚指輪が、シャンデリアの灯りの下で乱反射してきらきらと光を放っていた。「真夏、これを……全部、返す」私は視線を落として冷たく見下ろした。そして、ふっと笑った。手を上げ、彼の手のひらを指の腹でそっと撫でた。光貴が期待に満ちた目でこちらを見つめる中、私はその指輪をすべて、勢いよく払い落とした。チャリン、チャリンと硬質な音を立てて、指輪が大理石の床に散らばっていく。来賓たちの足元まで跳ねるものもあれば、テーブルの脚のそばで数回転がって止まるものもあった。中にひとつ、装飾のないシンプルなリングがあった。光貴が自分で作った、かつて私が一番気に入っていたものだ。それは一直線に朔弥の靴先へ転がっていき、彼に無造作に踏みつけられた。光貴は慌てて膝をつき、拾い集めようとした。ひやりとした大理石の床に膝が当たる。身を屈め、這いつくばってひとつずつ拾い集めていく。指の関節が床に擦れる。脇腹からにじみ出た血がシャツの裾を伝い、艶やかな床材にぽたぽたと赤黒い染みを作った。会場中の人々は息を呑み、どよめきすら起きなかった。私は彼の前に立ち、見下ろした。「知らないでしょうけど」私は口を開いた。声は大きくなかったが、静まり返った会場にははっきりと届いた。「実は私、本当にあなたに絆されかけていたの。もう少しで、過去の恨みなど忘れたふりをして、あなたと一
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第10話

宴会場のエントランスを出た時、突然、エンジンの轟音が響いた。見上げると、白いスポーツカーの運転席に雫が座っていた。アクセルを床まで踏み込み、まっすぐ私めがけて突っ込んでくる。フロントガラス越しに見える顔は真っ赤で、目は血走り、正気の沙汰とは思えなかった。「真夏ぁぁぁ!!!」タイヤがアスファルトを擦る甲高い音が響き渡った。けれど突然、彼女は悲鳴とともに急ブレーキを踏んだ。光貴が飛び出し、私の前に立ちはだかっていたからだ。タイヤがロックし、彼のすぐ目の前で止まる。フロントバンパーが、彼の膝に触れそうなほど近くにあった。「光貴、あんた狂ってる!私はあんたをあんなに愛してるのに、あんたはあんな泥棒猫のために死のうとするわけ!?」彼女は車から転がり降りて、地面に崩れ落ちて泣き喚いた。泣き叫ぶ悲痛な声が、夜の闇に吸い込まれていく。光貴のシャツは冷や汗でびっしょりだった。だが真っ先に気にしたのは自分の怪我ではなく、振り返って私を見ることだった。私は静かにふたりを見つめていたが、ふと、笑った。大股で雫の車へと歩み寄り、運転席に乗り込む。思いきりアクセルを踏み込んだ。ヘッドライトがふたりを鋭く照らし出す。車は、雫と光貴のいる方向へ、まっすぐ突っ込んでいった。「きゃあああ!このイカれ女!人殺し!」雫は瞬時に悲鳴を上げて逃げ出した。一方で光貴は、その場に立ち尽くしたまま、両手を広げて待ち構えていた。その表情は、突っ込んでくるのが車ではなく、待ち焦がれた恋人であるかのように優しく緩んでいた。私を抱き締めようとしているかのように。車が彼に触れる数センチ手前で、私は急ブレーキを踏んだ。それから悠々と車を降り、横目で雫を見る。彼女は全身の震えが止まらなかった。汗で服がぴったりと肌に張りついている。雫はしばらく荒い息をつき、ようやく落ち着きを取り戻した。私は袖口についた埃を払い、軽く笑って言った。「ほら、あなただって、口で言うほど彼を愛してなんていなかったのよ。私が突っ込んでいった時、あなた、彼を引っ張って逃げようとすらしなかったもの」雫は座り込んだまま顔を上げた。屈辱で顔が真っ赤に染まっている。「あんた、私を試したのね!あんた……」「ただ、あなた自身に、本当の自分を見せてあげただけよ」私は
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