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第3話

Author: 猫丸いぬ子
私はすべて無視して、電話に出なかった。

5分後、玄関の扉が激しく蹴破られた。

息を切らした光貴が、ドア枠にもたれかかるように立っていた。

全力で走ったせいで傷口が開き、脇腹に滲む血の染みが痛々しく広がっている。

それでも光貴は気にする様子もなく駆け寄ると、私がサインした離婚届を引き裂いた。

さらに破片に火をつけ、灰にしてしまう。

顔を上げた瞬間、彼の視線が私を射抜いた。

危うい狂気と、どす黒い支配欲を孕んだ眼差しだった。

「真夏、知ってるだろう。俺は死んでも君を離さない。

そっちだって分かってたはずだ。あの離婚届は、雫が俺を騙して書かせたものだって。

なのに、どうしてサインした!」

答える間もなく、嵐のようなキスを奪われた。

荒々しく性急で、血の匂いが混じっている。

私は必死で顔を背け、息を切らしながら笑い声を漏らした。

「……へえ。死んでも離さないって言いながら、不倫はできるのね」

彼の動きが止まる。

「それとも、こう思ってるの?私があなたを愛してる限り、どうあがいても逃げられないって」

私の皮肉げな視線を受け、光貴の表情が和らいだ。

頬を私の首筋にそっと擦り寄せる。

「俺が悪かった。どうしたら機嫌を直してくれる?」

「雫に、子供を堕ろさせて」

光貴は一切の迷いなく、「分かった」と答えた。

「彼女と別れて」

今度は、少し沈黙があった。

「……分かった」

私は何も言わず、低く笑った。

その時、枕元のスマホから引き裂かれるような泣き声が響く。

「森上光貴!あんたって人は!」

光貴の表情が一変した。

私は笑いながら画面を見せる。通話中の表示。

あの女にずっと、このやり取りを聞かせていたのだ。

電話の向こうで雫がヒステリックに泣き叫んでいる。

「私と子供を見捨てたくせに!後悔させてやる!」

一方的に通話を切った。

光貴は苛立ちを隠せず、何か怒鳴りたそうにしていたが、私の顔を見ると歯を食いしばって飲み込んだ。

荒々しく私を押しのけ、大股で飛び出していく。

のんびりと位置情報を頼りに後を追うと、大きな橋にたどり着いた。

ふたりはすでに、痴話喧嘩の真っ最中だった。

汚い言葉で罵り合いながらキスをし、殴り合いながら抱き合っていた。

私を見た瞬間、光貴は背筋を強張らせ、雫をさらに背後に庇った。

苛立ちを抑えた声で言う。

「真夏、今度は何のつもりだ?雫は今、精神的にも不安定なんだ。これ以上刺激するな!」

ところが雫が、ふいに彼の背後から飛び出してきた。

頬に涙の跡を残しながらも、瞳の奥には勝ち誇った光が戻っている。

素早く私に駆け寄ると、耳元でそっと囁いた。

「男の言葉なんて、適当に聞き流しておけばいいのよ。

言葉じゃなくて、やったことを見なきゃ。

今の私は、ふたり分の命を抱えてる。ねえ、彼がどっちを選ぶと思う?」

言い終えるが早いか、彼女は私の首を掴み、勢いよく身を躍らせた。

冷たい水面が激しく水しぶきを上げ、私は骨まで凍るような冷たさの中に突っ込んだ。

無数の水の刃が、肌を容赦なく刺していく。

雫の焦りと自信が入り混じった叫びが響いた。

「光貴!私はあなたの子を身ごもってるのよ!できるものなら、見殺しにしてみなさいよ!」

砕けた水しぶきの間へ、光貴が飛び込んでくる。

必死に私たちの方へ泳いでくる。

けれど数秒迷った末、彼が抱き寄せたのは、雫だった。

「真夏、君は泳ぎが得意だから自力で上がれるだろ。でも雫は無理なんだ!」

雫は彼の肩にもたれかかり、振り返って私に勝ち誇った笑みを浮かべる。

声を出さず、口の動きだけで告げた。

「今回は、私の勝ちね」

私も彼女に笑い返す。

「もしかしたら、勝つのは私かもしれないわよ?」

彼女は呆気に取られ、警戒心をあらわにした。

けれど私は助けを呼ばなかった。

岸に泳ぎ着くこともしない。

雫の言う通り、私は昔から泳ぎが得意だ。

ふと、気づいてしまったのだ。

生きている限り彼から逃げられないのなら、死んだふりをすればいい。

水面越しに差し込む陽光が、ひどく遠く、薄らぎながら見えた。

固く抱き合うふたつの影を見つめながら、私は静かに水の底へ沈んでいく。

さようなら、光貴。

そのまま音もなく遠くへ泳ごうとした、その時。

水面に映る影が不意に、ぴたりと止まった。

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