Share

第2話

Penulis: 猫丸いぬ子
その瞬間、雫の理性が完全に吹き飛んだ。

彼女は手近にあった酒瓶をわし掴みにすると、テーブルの角に力任せに叩きつける。鋭く割れたガラスの首部分を握りしめたまま、獣のように私めがけて突進してきた。

「あんた、本当にぶっ殺してやるーッ!」

光貴と彼の友人たちが血相を変え、慌てて止めに入ろうとする。

けれど、私の動きの方がずっと速かった。

凶器の瓶が振り下ろされるほんの一瞬前、果物ナイフの切っ先はすでに彼女の腹部にぴたりと突きつけられていたのだ。

薄手のニットワンピース越しに、腹部のぬくもりと、わずかな膨らみが伝わってくる。

雫の動きが、嘘のように硬直した。

冷や汗が頬を伝い落ち、凶器を握る手が小刻みに震えている。

私は恐怖に引きつるその顔をじっくりと鑑賞しながら、思わず声を上げて笑いそうになった。

本気でキレたら何をするか分からない、ね。

なるほど、この雫という女は、確かに昔の荒々しかった私によく似ている。

けれど、所詮は安い模造品でしかない。

この数年間、私は光貴のそばで大人しく爪を隠しすぎたようだ。おかげで彼は、私が本性を現せばどれほど狂気を孕んだ女なのか、すっかり忘れてしまったらしい。

「真夏!」

光貴が慌てふためき、雫を背中へ庇うように割って入った。

大きな手のひらを彼女のお腹に当てるその仕草は、ほとんど本能に根ざした保護の姿勢に他ならなかった。

「もう、いい加減にしてくれ」

私は冷ややかに片眉を跳ね上げた。

「いい加減にしてって、一体誰に向かって言っているの?

私の目の前で、彼女をけしかけて私を挑発させたのはそっちでしょう?

私に正面から喧嘩を売ったからには、それ相応の痛い代償を払ってもらわないと。筋が通らないわよね?」

息が詰まるような、長い沈黙が場を支配した。

やがて光貴は深くため息をつき、まるで聞き分けのない子供に手を焼いているとでも言いたげな、甘やかな声に切り替えた。

「……分かった。俺が代わりに払うよ」

言い終えるが早いか、彼は躊躇うことなく1歩ずつ私の方へと間合いを詰めてきた。

鋭利な果物ナイフが、彼の脇腹へとゆっくり沈み込んでいく。

純白のシャツに、鮮烈な赤い血。

みるみるうちに広がっていく濃い紅の染みをじっと見つめていると、目の奥が針で刺されたように痛んだ。

それでも彼は、痛みなど微塵も感じていないかのように振る舞った。

甘く蕩けるような狂気の笑みを私に向け、血に染まっていない方の手を伸ばして、私の頬を愛おしげに撫でた。

「どうだ?これで少しは、気が済んだか?」

「光貴さん、あなた頭がおかしいんじゃないの!?」

雫が金切り声を上げてすがりつこうとする。

けれど光貴は彼女を無理やり横抱きに抱え上げると、そのまま大股で部屋を後にしてしまった。

光貴が一歩遠ざかるごとに、雫は暴れ狂い、泣き喚き、耳を塞ぎたくなるような汚い罵り声が階下からいつまでも響いてくる。

私は静かに目を伏せ、バルコニーからその惨めな様子を見下ろした。

雫は私を殺してやると喚き散らしながらも、涙声で必死に光貴の傷の深さを確かめている。

そして光貴はといえば、自分の傷には目もくれず、終始彼女の膨らんだお腹だけを大事そうに庇い続けていた。

夜の闇に寄り添い合う、ふたつの影。

私は声も出さず、自嘲するように唇の端をわずかに持ち上げた。

人の心というものは、本当に複雑で不可解なものだ。

昔、光貴と私は絵に描いたような犬猿の仲だった。ある日は奴が私の大型案件を横取りし、その翌日には私が奴の会社を徹底的に叩き潰す。そんな血みどろの間柄だったのだ。

私はずっと、彼が私のことを「いっそ死ねばいい」と憎悪しているのだとばかり信じ込んでいた。

おかしな話よね。彼が私を狂おしいほど愛していたなんて。

そして何より反吐が出そうなほど気持ち悪いのは、彼がすでにあっさりと心変わりしてしまったという事実だ。

私はそっと自分の左胸を押さえ、じわじわと全身に広がる鈍い痛みを、どうにかして無視しようと努めた。

さらに気持ちが悪いのは、この5年間で、いつの間にか私自身までもが、彼を愛してしまっていたことだ。

その日の午後、私は自室でスマホを手に、ある画面を何度も何度も見返していた。

私の本当の恋人である朔弥は、この5年間、狂ったように私を探し続けてくれていた。

けれど光貴は無数の偽の手がかりを世界中にばらまき、彼を遠く離れた海外へと誘導し続けていたのだ。

さらに「君がかつての敵から報復されるのが心配だから」というもっともらしい名目で、自分で、あるいは人を雇って常に私を監視し、縛り付けていた。

スマホに埋め込まれたチップが、私の現在地を24時間特定している。

通話の内容はすべて裏で監視され、写真をたった1枚ネット上にアップしようとするだけで、即座にブロックされる仕様になっていた。

光貴は私を黄金の鳥籠に閉じ込め、その出口の扉を自らの手で固く溶接して塞いでしまっていたのだ。

ぼんやりと過去の記憶に浸っていると、不意にSNSの友だち追加申請を知らせる通知音が鳴った。

表示されたアイコンは、光貴と雫の親しげなツーショット写真。

女は彼のたくましい腕の中にすっぽりと寄り添い、甘ったるく目を細めて笑っていた。背景に写っているのは、どこかの島の美しい夕焼けだ。

私が申請を承認した途端、相手は待ってましたとばかりに矢継ぎ早にメッセージを送りつけてきた。

まずは、見せつけるような何枚かの写真。

光貴がベッドの端にゆったりと腰かけ、雫の肌に妊娠線予防のオイルを塗ってやっている1枚。

膨らんだお腹に、この上なく優しい眼差しを向けながら、ゆっくりと円を描くように。

キッチンでは、エプロン姿の彼がコンロの前に立ち、忙しなく立ち働いている。

カウンターには、彩りも香りも申し分ない、栄養満点の妊婦向けの料理がずらりと並んでいた。

続いて送られてきた音声メッセージをタップすると、雫の得意げな声が流れ出した。

「彼の友達からこっそり聞いたんだけど、前はあんたのこと、ものすごく愛してたんでしょ?あんたが彼の『かけがえのない人』だったとか?

でも、だから何?それがどうしたっていうの。結局のところ、すっかり飽きられて捨てられたじゃない。

私は正妻だの愛人だの、そんな肩書きにはこだわらないの。最後に愛された方が、絶対的な勝者なんだから。

素敵な贈り物を贈っておいたから、ちゃんと受け取ってね」

ちょうどその音声が途切れたとき、絶妙なタイミングで玄関のチャイムが室内に鳴り響いた。

届いた宅配便の封筒を開けると、中に入っていたのは1通の離婚届だった。

夫の欄には、すでに光貴のフルネームがしっかりと記入されている。

鋭く、どこか癖のあるその筆跡は、紛れもなく彼自身の字だった。

私はそのフルネームの署名を、しばらくの間じっと見つめていた。

やがて、今度こそ心の底から、堪えきれない笑いがこみ上げてきた。

あの雫という女は、私が未練がましく彼にしがみついて泣き喚くとでも想像していたのだろうか。

冗談じゃない。こっちこそ、願ったり叶ったりの最高の贈り物だというのに!

私は一瞬の迷いもなく、妻の欄にペンを走らせた。

完成した書類の写真を撮り、メッセージアプリから光貴へと直接送りつける。

添えたメッセージは、たった一言。

【ご結婚、本当におめでとう】

送信ボタンをタップしてから1秒も経たないうちに、私のスマホが狂ったように着信音を鳴らして震え始めた。

Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi

Bab terbaru

  • 真夏は、彼のものにはなれなかった   第11話

    後日、光貴がもう一度会いたいと言ってきた。待ち合わせ場所は、かつてよく通ったカフェだった。けれど、同じ店でも、何もかもが変わってしまっていた。彼は尋ねた。「どうすれば、許してもらえる?」私は少し考えて、こう言った。「私の部下たちを業界から締め出したわよね。だったら、落とし前として、あなたが持っている会社の株式と全財産を私に譲ってくれない?」彼は一切の迷いもなく、その場で顧問弁護士に契約書を用意させ、保有する全株式と個人資産を私に譲渡する契約書に署名した。私は鼻で笑って言った。「私に土下座させておいて、雫が私を叩くのも黙って見てたわよね」彼は恐る恐る私の手を握り、その手で自分の頬を思いきり2度叩いた。私が何の反応も示さないのを見て、今度はテーブルの上の果物ナイフに手を伸ばそうとした。私は片眉を上げて彼を見た。「今度は、私があなたの子供を死なせたって責めないの?」光貴は慌てて首を振った。「君が一番大事なんだ!君が嫌なら、あの墓だって掘り返していい!」私はしばらく彼を見つめていた。それから、ふっと笑いを漏らした。「ふっ、滑稽ね……あなたがこれだけのことをしてくれても、私、やっぱりあなたのこと好きになれないみたい」彼の瞳が、すっと暗く沈んだ。私はふと興味が湧いて、尋ねた。「どうして、私のこと好きになったの?私たち、犬猿の仲で、潰し合うような関係だったのに」その話を振られて、彼は何かを思い出したように目を細めた。「ずっと前は、確かにそうだった」私が彼の案件を横取りし、会社を潰しにかかっていた頃、彼は私を見るだけでも苛立っていた。「でも時間が経つにつれて、ふと気づいたんだ。君が勝った後、勝ち誇って俺を見下ろすあの姿が、綺麗だって。ああいう目で見られたかった。俺だけを見てほしいと思った。それで、気づけば、好きになってた」私は頷いた。「へえ。でも、気づいてる?あなたの愛が、私にもたらしたのは吐き気がするほどの絶望だけだったのよ」彼は胸を刺されたように、ふっと目を閉じた。しばらくして、掠れた声で笑いながら言った。「……っ。分かった」彼はテーブル越しに、1通の書類を差し出した。すでに署名済みの、離婚届だった。私は少し驚いたが、首を振った。バッグの中から

  • 真夏は、彼のものにはなれなかった   第10話

    宴会場のエントランスを出た時、突然、エンジンの轟音が響いた。見上げると、白いスポーツカーの運転席に雫が座っていた。アクセルを床まで踏み込み、まっすぐ私めがけて突っ込んでくる。フロントガラス越しに見える顔は真っ赤で、目は血走り、正気の沙汰とは思えなかった。「真夏ぁぁぁ!!!」タイヤがアスファルトを擦る甲高い音が響き渡った。けれど突然、彼女は悲鳴とともに急ブレーキを踏んだ。光貴が飛び出し、私の前に立ちはだかっていたからだ。タイヤがロックし、彼のすぐ目の前で止まる。フロントバンパーが、彼の膝に触れそうなほど近くにあった。「光貴、あんた狂ってる!私はあんたをあんなに愛してるのに、あんたはあんな泥棒猫のために死のうとするわけ!?」彼女は車から転がり降りて、地面に崩れ落ちて泣き喚いた。泣き叫ぶ悲痛な声が、夜の闇に吸い込まれていく。光貴のシャツは冷や汗でびっしょりだった。だが真っ先に気にしたのは自分の怪我ではなく、振り返って私を見ることだった。私は静かにふたりを見つめていたが、ふと、笑った。大股で雫の車へと歩み寄り、運転席に乗り込む。思いきりアクセルを踏み込んだ。ヘッドライトがふたりを鋭く照らし出す。車は、雫と光貴のいる方向へ、まっすぐ突っ込んでいった。「きゃあああ!このイカれ女!人殺し!」雫は瞬時に悲鳴を上げて逃げ出した。一方で光貴は、その場に立ち尽くしたまま、両手を広げて待ち構えていた。その表情は、突っ込んでくるのが車ではなく、待ち焦がれた恋人であるかのように優しく緩んでいた。私を抱き締めようとしているかのように。車が彼に触れる数センチ手前で、私は急ブレーキを踏んだ。それから悠々と車を降り、横目で雫を見る。彼女は全身の震えが止まらなかった。汗で服がぴったりと肌に張りついている。雫はしばらく荒い息をつき、ようやく落ち着きを取り戻した。私は袖口についた埃を払い、軽く笑って言った。「ほら、あなただって、口で言うほど彼を愛してなんていなかったのよ。私が突っ込んでいった時、あなた、彼を引っ張って逃げようとすらしなかったもの」雫は座り込んだまま顔を上げた。屈辱で顔が真っ赤に染まっている。「あんた、私を試したのね!あんた……」「ただ、あなた自身に、本当の自分を見せてあげただけよ」私は

  • 真夏は、彼のものにはなれなかった   第9話

    私と朔弥は、都内のホテルで開かれたレセプションパーティーに出席した。今里家と盛岡家、ふたつの名家が正式に財界の表舞台に返り咲いたことを知らしめる場だった。人々は私を見るなり、一様に驚愕の表情を浮かべた。「真夏?この5年、どこに行ってたの?」「朔弥さん、あなたを探して狂ったように探し回っていたのよ。てっきり、もう……」光貴が宴会場に飛び込んできたのは、ちょうどその時だった。華やかな衣装と香水の匂いが満ちる会場で、財界の若きトップに君臨する男は、場違いなほど憔悴していた。皺だらけのシャツ、脇腹には新たに滲んだ血の染み。まるで瓦礫の中から這い出てきたかのような姿だった。彼は人垣をかき分け、私の前まで歩いてきた。潮が引くように周囲の喧騒が静まり返っていく。グラスの音も、囁き声も、音楽さえも遠のいた。すべての視線が、彼の開いた手のひらに注がれる。そこには、無数の結婚指輪が、シャンデリアの灯りの下で乱反射してきらきらと光を放っていた。「真夏、これを……全部、返す」私は視線を落として冷たく見下ろした。そして、ふっと笑った。手を上げ、彼の手のひらを指の腹でそっと撫でた。光貴が期待に満ちた目でこちらを見つめる中、私はその指輪をすべて、勢いよく払い落とした。チャリン、チャリンと硬質な音を立てて、指輪が大理石の床に散らばっていく。来賓たちの足元まで跳ねるものもあれば、テーブルの脚のそばで数回転がって止まるものもあった。中にひとつ、装飾のないシンプルなリングがあった。光貴が自分で作った、かつて私が一番気に入っていたものだ。それは一直線に朔弥の靴先へ転がっていき、彼に無造作に踏みつけられた。光貴は慌てて膝をつき、拾い集めようとした。ひやりとした大理石の床に膝が当たる。身を屈め、這いつくばってひとつずつ拾い集めていく。指の関節が床に擦れる。脇腹からにじみ出た血がシャツの裾を伝い、艶やかな床材にぽたぽたと赤黒い染みを作った。会場中の人々は息を呑み、どよめきすら起きなかった。私は彼の前に立ち、見下ろした。「知らないでしょうけど」私は口を開いた。声は大きくなかったが、静まり返った会場にははっきりと届いた。「実は私、本当にあなたに絆されかけていたの。もう少しで、過去の恨みなど忘れたふりをして、あなたと一

  • 真夏は、彼のものにはなれなかった   第8話

    雫の笑みが、その場で凍りついた。「……何?」「お前が真夏の寝室から盗み出した、あの結婚指輪たちだ」光貴は言った。「返せ」病室に、重苦しい沈黙が下りる。雫の顔から血の気がゆっくりと引き、唇まで震え始めた。彼女は勢いよく身を起こした。包帯がベッドの柵に擦れ、赤みがさらに濃くなる。「光貴、どういうつもり!?私、手首を切ったのよ!死にかけたのよ!入ってきていきなり、あの女の指輪のことを聞くわけ!?」「返せ」彼はもう一度繰り返した。雫はまるで頬を打たれたかのように、その場で固まった。しばらくして、胸が張り裂けんばかりに泣き出し、シーツを握りしめる指の関節が白くなる。「あんた、私のこと、少しでも愛したことがあったの?私はずっと、あの女の代用品にすぎなかったの……!?」光貴は、泣きじゃくって歪んだ彼女の顔を見つめた。ふと、何も感じていない自分に気づく。真夏は記憶を失ってから、性格がどんどん穏やかになっていった。牙を内に秘めていても、彼に向けて剥き出しにすることは一度もなかった。考えてみれば、人間とは勝手なもので、彼は次第に以前の荒々しい彼女を懐かしむようになっていた。だからこそ、かつての真夏によく似た雫を見た時、抗いがたい魅力を感じたのだ。けれど今になってようやく、彼は気づいた。彼女は、真夏ではなかった。真夏は、誰にも代わりが務まらない。光貴はため息をつき、淡々と言った。「俺とお前の関係は、ただの過ちだった。悪い。俺も気づいたのはつい最近なんだ。俺が心から愛していたのは、最初から最後まで、あいつだけだった」雫は狂ったように泣き叫び、手の届くものを片っ端から投げつけた。光貴は避けることもなく、彼女の怒りをすべて受け止める。けれど瞳の奥は虚ろなだけで、愛情の欠片もなかった。これが、彼女への精一杯の詫びだった。ふと、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して確認すると、秘書からのメッセージだった。【社長、奥様の居場所が分かりました!】光貴は全身を震わせ、スマホを握りしめたまま踵を返して部屋を出た。背後で雫が何か叫んでいたが、ひと言も耳に入らない。廊下に、せわしない足音が響き渡る。非常口の扉を勢いよく押し開け、壁に激突した鈍い音を背に、階段

  • 真夏は、彼のものにはなれなかった   第7話

    光貴は、街中を血眼になって真夏を探した。出国記録、なし。航空券の利用記録、なし。ホテル、鉄道駅、高速バスターミナル。すべて、なし。万が一怪我をして病院にかかっているかもしれないと、救急外来の患者名簿まで人を使って調べさせた。それもなかった。真夏は、まるでこの世から消し去られたかのようだった。何者かに破壊されていたマンションの防犯カメラの映像が、ようやく復元された。彼はがらんとしたリビングに立ち、モニターに最後に映った映像を見つめる。エントランスの前、黒いコートを着た男が、彼女をエスコートして車のドアを開けている。彼女が身を屈めて乗り込む瞬間、街灯に照らされた横顔がはっきりと映っていた。男の顔は見えない。けれど光貴には、その背中に見覚えがあった。手が微かに震え、全身の血が凍りつくような感覚に襲われる。頭の中には、たったひとつの考えしか残っていなかった。終わった。奪われた。5年前、彼女と結婚するはずだったあの男――今里朔弥が、彼女を見つけ出したのだ。光貴はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ゆっくりと彼女の寝室へ向かった。視線が、散乱した室内を掠める。雫がかき回したクローゼットの扉は開いたままで、切り刻まれたウェディングドレスのサテン生地が床一面に散らばっていた。アクセサリーボックスはひっくり返り、真珠のネックレスが引きちぎられ、いくつもの真珠が転がり出ている。ソファの脇にあった写真立ても、裏返しのまま床に落ちていた。ガラスは割れていないが、枠の角が少し欠けていた。彼は歩み寄り、しゃがみ込んで写真立てを拾い上げ、表に返した。写真の中にいるのは、5年前の真夏だった。ぶかぶかの病衣をまとい、彼の肩にもたれかかっている。痩せこけて細くなった顎のライン、三日月のように細められた目元。口角が少し上がり、片手で彼の裾をそっと握っていた。あの頃の彼女は目覚めたばかりで、何も覚えていなかった。彼は自分が恋人だと名乗った。彼女はそれを信じた。あどけないほど真っ白な顔を彼に向け、「光貴」と呼んだ。声は、甘く蕩けるように柔らかかった。あの瞬間自分は、死んでも悔いはないとさえ思った。彼は散らばったサテン生地と真珠の間にしゃがみ込んだまま、親指でゆっくりと、写真の中の顔を

  • 真夏は、彼のものにはなれなかった   第6話

    扉の外にいたのは、光貴ではなかった。背の高い男が、逆光を背にして立っている。顔の輪郭ははっきり見えなかったが、声よりも先に、冷たい気配が流れ込んできた。彼は私を見下ろすと、手を伸ばして頬にかかった髪をそっと撫でつける。5年ぶりの再会。彼の第一声は、信じられないほど掠れていた。「……痩せたな」手には1枚の写真が握られていた。さっきのライブ配信で、ベランダから見えた街並み。それだけを手がかりに、彼は私を見つけ出したのだ。私は彼の手首を掴み、ようやく笑った。「帰りましょう」朔弥の手のひらはひどく熱く、私の手をすっぽりと包み込んだ。車が角を曲がった瞬間、バックミラーに、必死に駆けてくる光貴の姿が映った。扉を叩く音がガラスを震わせるほど響く。どれくらい叩き続けただろう。ようやく扉が開くと、中にいたのは顔を腫らし、怯えきった部下だけだった。「社長……私たち、奥様を引き止められませんでした」車はまた角を曲がり、マンションの前の騒ぎを完全に置き去りにする。私はふっと口の端を上げた。光貴。今度こそ、本当に、二度と会うことはないだろう。車内が静かになり、ようやく隣の男をじっくりと見る余裕ができた。彼も痩せていた。頬の輪郭は以前より硬くなっている。全体の雰囲気は沈み込み、瞳の奥には偏執的とも言える暗い執着が渦巻いていた。少し黙ってから、私は口を開く。「この5年、森上光貴と結婚してたの」「さっき調べて、もう知ってる」彼の声は平坦で、喜怒を読み取ることはできない。「体の関係もあったわよ。もし、気にするなら……」車が急に止まった。男が身を乗り出し、荒々しいキスで、続く言葉を塞がれた。その口づけには、5年分の想いの重さが詰め込まれている。私を粉々に砕き、自分の中に押し込めようとするかのように。彼は私の腰を強く抱きしめ、指が食い込むほどの強さだった。痛かった。けれど、逃げなかった。彼は耳元で、くすりと笑い声を漏らした。息が耳たぶを熱く炙る。「真夏、俺をなんだと思ってる?お前が汚れたからって、嫌になるような男だとでも?」肩から首筋にかけて、温かいものが伝ってくる。顔を横に向けると、彼の瞳の奥がきらきらと光っているのが見えた。「どんな姿でも、お前は神が俺に与え

Bab Lainnya
Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status