All Chapters of 新郎も兄も、もう待たない: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

キャンセルの手続き書類にサインをしていると、賢太からまた電話がかかってきた。「結衣の予備のドレスはどこだ?さっき鍋の汁が飛んで、息もできないくらい泣いてるんだぞ」私は冷ややかに答えた。「ブライズメイドのドレスは1着だけ。予備なんてないわ」電話の向こうで、大輔が鼻で笑った。「はっ。知紗、お前は何の役にも立たないくせに、そういう小細工だけは一人前だな。結衣が今日、淡い色のドレスを着るってわかってて、わざと予備を用意しなかったんだろう」真斗も口を挟んできた。「式に少し遅れただけだろう。いったい誰への当てつけのつもりだ」結衣が涙声でふたりをなだめた。「……お兄ちゃんたち、知紗姉ちゃんを責めないで。今日の主役は知紗姉ちゃんなんだから、私が怖い思いをしたことなんて大したことないわ。知紗姉ちゃんがドレスを届けてくれないなら、私、汚れたままのドレスで行くから……っ恥をかくのは私だけだもの。知紗姉ちゃんの結婚式には影響しないわ」賢太の声が、途端に冷たくなった。「聞いたか?結衣はお前にこんな目に遭わされても、まだお前をかばってるんだぞ。ドレスを届けて、直接謝ってこい」私は受け付けに掲げられた、大きなウェディングフォトを見つめた。「……結婚式は中止よ」電話の向こうが、一瞬静まり返った。賢太が、ふっと嘲るように笑った。「お前なんかに、中止にする度胸があるわけないだろ?知紗、お前はもう30だろう。俺と別れて、他に誰が貰ってくれるって言うんだ。気性は悪いし、口も減らないし、1日中無愛想で木石みたいに突っ立ってるだけの女をな!俺が昔のよしみで、お前みたいな誰も欲しがらない売れ残りを拾ってやってるんだろうが」大輔が、蔑むような口調で言った。「賢太、お前が甘やかしすぎたせいだよ。こういう女は、しばらく放っておけばおとなしくなる」真斗が、鼻先で笑った。「ま、本当に中止になるなら、それもいいな。藤城家に嫁いでから、三重野家の恥を晒さずに済む」結衣が慌てて口を挟んだ。「そんなっ、お兄ちゃんたち、そんなふうに言わないでよ。知紗姉ちゃんは賢太さんのことが好きすぎて、彼が私に優しくするのが妬ましいだけなのよ」結衣が小さくしゃくり上げた。「全部、私のせいね……
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第2話

不動産業者は、翌朝早くに客を連れて内見にやってきた。賢太は、ひと晩中帰ってこなかった。午前3時、彼はSNSに鍋を囲む写真を投稿していた。結衣は賢太のジャケットを羽織り、彼の肩に寄りかかっていた。大輔が彼女のためにかいがいしく魚の骨を取り除き、真斗はそばにしゃがんで、ヒールで赤く擦れた足の手当てをしてやっていた。添えられた言葉は、たった1行。【ひと晩がかりで、やっとお姫様を笑わせてやれた】私は静かにSNSを閉じ、賢太の最後の荷物を藤城家へ送り届けた。午前10時、結衣が家族のグループチャットに音声メッセージを送ってきた。「知紗姉ちゃん、まだ怒ってる?昨日の夜、私が悪夢を見るんじゃないかって心配して、賢太さんがずっとそばにいてくれたの。もう帰って知紗姉ちゃんのところに行ってってお願いしたんだけど、知紗姉ちゃんはもう大人なんだから、彼がいなくても大丈夫だろうって」彼女は一度言葉を切り、さらに悲しげな声で続けた。「知紗姉ちゃん、誤解しないでね。私はただ、賢太さんを本当のお兄ちゃんだと思ってるだけなの。知紗姉ちゃんが嫌なら、これからはなるべく迷惑かけないようにするから」直後、賢太からすかさず返信が来た。【結衣。お前が、あいつのために我慢する必要なんてない】大輔も続けて書き込んだ。【あいつは、自分より可愛がられてる人間が気に食わないだけだ】真斗の言葉はもっと直接的だった。【三重野の長女って肩書きだけの役立たずが、お前に口出す資格あるのか?】うんざりしてグループを退出しようとしたところへ、賢太から栗のケーキの写真が個別のチャットに届いた。【知紗の分、取っておいた】10年前、初めてのデートで、彼は2時間も並んでこのケーキを買ってくれた。昔は喧嘩をするたびに、彼がこれをひときれ持って帰ってくるだけで、ほだされた私の方から仲直りを切り出したものだった。けれど今回、私が返したのはたったひと言だった。【いらない】瞬時に彼からの返信が表示された。【いい加減にしろ!俺がわざわざお前の機嫌を取ってやってるのは、あと数日で俺と結婚するからだぞ!俺の堪忍袋の緒が切れたら、後悔して泣きついてきても遅いからな】だが、次に続くメッセージこそが、彼の本当の用件だったのだ。【結衣の
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第3話

翌朝、賢太が会社の前で待ち伏せていた。彼は指輪のケースを、私の胸元に乱暴に投げつけた。「もう気が済んだか?お前の母親が死んだ時だって、こんなに取り乱したりしなかっただろうが」私の足が、一瞬だけぴたりと止まった。それが私の心に最も深く刺さった棘だと、賢太はよく知っていたはずだ。それでもなお私を屈服させるためとあらば、彼は躊躇なくその傷口を踏みにじるのだ。「婚約解消の通知書は、データでもう送ったはずよ」賢太はちらりと自分のスマホに目をやると、私の目の前でこれ見よがしにそれを削除した。「チッ。こんなふざけた紙切れで、いったい誰を脅かすつもりだ?お前はもう夢見る20歳じゃないんだぞ。今の年齢で婚約破棄の経験まであって、性格もひねくれてるとなれば、婚活市場に出たところでただのワケアリ物件扱いだ。俺がお前と結婚してやるのは単なる情けだ。お前じゃなきゃ駄目だからじゃない」そこへ大輔と真斗も駆けつけてきた。大輔が、新しい結婚式の進行表を私に投げつける。「明後日、改めて式を挙げることになった。結衣にきちんと謝って、当日は不機嫌な顔を一切見せないと今ここで約束しろ」真斗は車のドアにもたれかかり、嘲るような冷たい目で私を射抜いた。「自分の身の程をわきまえた方がいいぞ。賢太を逃したら、お前は一生仕事と添い遂げるのがお似合いの惨めな女だ。年老いて家の中で孤独死しても、死体が腐るまで誰にも気づかれないなんてことになるなよ」私は彼らの顔を順番に見つめ、ふいに声を出して笑った。「ふふ……私が死のうが生きようが、あなたたちに何の関係があるのよ?」大輔の顔色が、さっと険しく変わった。「俺たちはお前の実の兄貴だぞ!」私は、さらに冷ややかに笑い返した。「兄貴?あなたたちは結衣の忠実な番犬じゃなかったの?」言い終わるのとほぼ同時に、結衣が慌てた様子で車から降りてきた。結衣はうさぎのように目を赤くして、あの私のヴェールを胸に抱え込んでいた。「知紗姉ちゃん、私を責めるのはいいから、お兄ちゃんたちを責めないで!ふたりはただ、私のことが心配で少しきつい言い方をしちゃっただけなの。知紗姉ちゃんは昔から何でも持ってたけど、私にはあの人たちしかいないのよ。それなのに、ふたりが私にかけてくれるわず
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第4話

出発前夜、私は三重野家に戻った。母が残してくれたアクセサリーとアルバムを、取りに行くためだった。暗証番号は変わっていなかった。けれど自分の部屋のドアを開けた瞬間、私はしばらく、その場から動けなかった。私の部屋は、いつの間にか結衣の衣装部屋に変わっていた。壁にあった卒業写真は、もうどこにもない。本棚に並んでいたトロフィーは、段ボール箱に放り込まれていた。母が手縫いしてくれたベッドカバーは、靴箱の下敷きにされていた。結衣が私のシルクのパジャマを着て、浴室から出てきた。私を見るなり、彼女は口元を手で覆った。「知紗姉ちゃん、来るなら先に言ってよ!散らかってて、誤解されたら困るもの」「ここは私の部屋よ」結衣が、唇を噛んだ。「……大輔兄ちゃんが、知紗姉ちゃんはもうすぐ嫁に出るんだから、嫁に出た娘はお客様みたいなものだって。私の服が多すぎるからって、この部屋を使わせてくれたの」彼女は、小さく付け加えた。「……知紗姉ちゃんは、部屋のひとつくらい私に譲ってくれないの?」私は化粧台に歩み寄った。母の形見のバングルが、結衣の手首にはめられていた。「外して」結衣はとっさに手首を押さえ、涙をこぼした。「だって!真斗兄ちゃんが、つけていいって言ったの!お母さんが生きてたら、きっと私のことも本当の娘みたいに思ってくれたはずだって。知紗姉ちゃんは、もうお母さんの愛情を全部もらったでしょう?形見をちょっとだけ分けてくれても、いいじゃない」そう言い終わると同時に、結衣の指の力がふっと抜けた。バングルは床に落ち、真っ二つに割れた。結衣は青ざめた顔で、怯えたように私を見た。「あっ……ごめんなさい……わざとじゃないの。そんなに大切なら、私を叩いてもいいから」結衣は私の手を取ると、自分の頬を勢いよく叩いた。ちょうどそこへ、大輔と真斗が部屋に入ってきた。ぱん、と乾いた音が響いた。結衣は頬を押さえ、崩れるように床に座り込んだ。大輔が駆け寄ってきて、私を乱暴に突き飛ばした。腰が机の角にぶつかり、私は痛みにその場へへたり込んだ。「知紗、よくも結衣に手を上げたな!」「結衣が自分で――」「黙れ!」真斗が結衣を抱き起こしながら、私を引き裂かんばかりの目で睨んだ。「結衣を
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第5話

賢太の顔色が、さっと曇った。「誰が中止にしろと言った?」プランナーは、戸惑ったように言った。「……三重野様ご本人です。キャンセル確認書も、返金の手続きも、すべてご本人のサインがございます」彼女は電子データを呼び出した。サインの筆跡は、紛れもなく知紗のものだった。賢太はちらりと目をやると、鼻で笑った。「ただの意地っ張りだ。俺に頭を下げさせたいんだろう」大輔が腕時計に目をやった。「会場を元に戻せ。10時半までには、あいつも来るはずだ」プランナーは、困った様子で言った。「しかし、本日宴会場は別のご予約が入っておりまして。三重野様がいらしても、式を挙げることはできません」真斗が、その場で顔をこわばらせた。「言ってることが分からないのか?いくら貰って、あいつの茶番に付き合ってるんだ?」結衣が慌てて彼を引き止めた。「真斗兄ちゃん、怒らないで」彼女は目を赤くして、誰もいない壇上を見つめた。「全部、私のせいだもの。知紗姉ちゃんはきっと、私の顔なんて見たくないのよ。私、先に帰るね。知紗姉ちゃんが来たら、ちゃんと機嫌を取ってあげて」賢太が、彼女の肩を押さえた。「お前はどこにも行かせない。出て行くべきはお前じゃない」彼は高砂席に腰を下ろし、結衣をそばに座らせた。「写真を撮って、あいつに送れ。10時半までに戻ってくれば、この騒ぎはなかったことにしてやると伝えろ」秘書は写真を撮ったものの、なかなか送信できなかった。賢太が苛立たしげに眉をひそめた。「何をぐずぐずしてる」秘書がスマホを差し出した。「藤城社長、何度送ってもメッセージが届かないようです。三重野様とは、連絡が取れない状態になっています」賢太の顔から、笑顔が凍りついた。だがすぐに、スマホを突き返した。「別の番号から送れ。俺が連絡してくるのを、待ってるだけだ」大輔はすでに、自分の秘書へ電話をかけていた。「知紗の職場に行け。あいつを連れて来い」数分後、秘書から折り返しの電話が入った。「大輔様、知紗様は昨日の午後、すでに引き継ぎを済ませております。デスクも、すでに片付けられておりました」真斗が言葉を失った。「……こっちの職場まで離れたっていうのか?」賢太は鼻
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第6話

賢太の顔が、一瞬で凍りついた。「前の所有者とはなんだ?」男は、売買契約書を彼の前に叩きつけた。「この家は、昨日引き渡しが済んでる。今はもう、俺のものだ。三重野さんから、あんたが残した物は今日中に片付けてくれって頼まれてるよ」賢太は契約書をひったくった。署名のページをめくった指が、ぴたりと止まった。そこに記された知紗のサインは、迷いのない筆跡だった。仲介業者も、慌てて駆けつけてきた。「藤城様、お荷物はすでに荷造りを済ませております。三重野様から、本日中にすべてお引き取りいただくようご指示がございました」賢太は、彼を睨みつけた。「どうしてあいつが、勝手に家を売れるんだ」仲介業者は、怪訝な顔をした。「登記名義は、三重野様おひとりです。頭金もローンも、すべて三重野様が単独で負担されています。ご自身の家を売却されるのに、他の方の同意は必要ありません」真斗が、一瞬呆気にとられた。「賢太、この家、お前が買ったんじゃなかったのか?」賢太は気まずさを隠せないまま、声をさらに冷たくした。「あいつ、わざとやりやがったな!家を売ったくらいで、俺にプロポーズさせようって魂胆だろう。ちっ、手口がどんどんエスカレートしていくな」そこへ、配送業者が段ボール箱を抱えてやってきた。賢太が箱を開けた。中には彼の服やカフスボタン、古い鍵、それに浴室に置き忘れていた半分残ったアフターシェーブローションまで入っていた。いちばん下には、色褪せたヘアピンがひとつ入っていた。10年前、彼が屋台でふと買って知紗に贈ったものだった。彼女はずっと、それを大切に取っておいた。だが今はもう、いらないものになった。真斗は、がらんとした部屋を見回した。「知紗の荷物は?」業者が答えた。「昨夜のうちに、すべて運び出されました」大輔が鼻で笑った。「どこに運んだところで、たかが知れてる。あいつの手持ちの金じゃ、そう長くは持たないだろう。外の世界で十分痛い目を見れば、そのうち三重野家に戻ってくる」一行は、再び三重野家へと戻った。玄関の棚には案の定、知紗の置いていった鍵があった。家政婦が小さな声で言った。「知紗様はアルバムと奥様の形見を、すべてお持ちになりました」結衣が唇を噛
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第7話

賢太はそれを聞いて、すっかり安堵した様子だった。「やっぱりな。本当に出て行く度胸なんて、あいつにあるわけがない」彼は秘書に、結婚式の日取りを変更するよう命じた。「1週間後にずらせ。自分から戻ってきたら、そのまま婚姻届を出しに行ってやる」結衣が、おずおずと尋ねた。「知紗姉ちゃん、それでも賢太さんと結婚してくれるのかな」賢太は、彼女にちらりと目をやった。「あいつは俺を手放せない。この10年、喧嘩のたびに先に折れてきたのはあいつの方だろう」大輔も、知紗を捜すのを打ち切らせた。「外で少し痛い目を見させておけ。三重野家が自分なしでやっていけないなんて、勘違いさせないためにもな」真斗だけは、絶えず知紗にメッセージを送り続けていた。【気が済んだら、無事だけでも知らせろ】【大輔が、お前の部屋を片付けさせてるぞ】【戻って結衣に謝れば、この件は水に流す】どのメッセージにも、返事はなかった。画面を見つめながら、彼はわけもなく苛立ちを覚えた。結衣は、あの鍋を囲んだ写真を取り出しながら、小さな声で言った。「知紗姉ちゃん、あの写真を見て、嫉妬しちゃっただけかもしれない。気が済むのを待てばいいよ」賢太は、写真にちらりと目をやった。「もう30歳にもなって、家出なんてな。戻ってきたら、式は結衣の好みに合わせてやり直させる」真斗が眉をひそめた。「あいつの部屋、もうないんだろう。戻ってきたらどこに住むんだ」大輔が冷淡な口調で言った。「クローゼットの半分を空けてやればいい。態度さえ改めれば、家に住み続けることを許してやってもいい」結衣は一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑みを浮かべた。「もちろんいいよ。知紗姉ちゃんの荷物は、私が責任を持って元に戻しておくから」彼らはもう、知紗にどこまで譲ってやるか相談し始めていた。賢太は、結婚式をやり直してやってもいいと考え、大輔は、三重野家に戻ることを許してやるつもりで、真斗は、結衣への謝罪を強要しないと約束するつもりでいた。まるで自分たちが少し譲りさえすれば、知紗が感謝して戻ってくるとでも思っているようだった。突然、インターホンが鳴った。知紗の勤め先の担当者が、玄関に入ってきた。「三重野様が書類を置き忘れられましたので、お
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第8話

担当者はそう言い残すと、踵を返して去っていった。賢太が、玄関まで追いかけた。「待て!向こうの住所を教えろ」担当者は、足を止めた。「申し訳ございませんが、三重野様の個人情報ですので。藤城様には、お調べになる権利はございません」賢太の顔が、さっと曇った。「俺は彼女の婚約者だ!」「もう、そうではございません」担当者は、彼の手の中の書類に目をやった。「婚約解消の通知は、すでに三重野様から正式に届いております」「ちっ、ただ意地を張ってるだけだろうが」賢太が、玄関先に立ちはだかった。「3日以内に俺へ連絡しろと伝えろ。さもなければ結婚式は中止だ。後から文句を言っても遅いからな」担当者は、どこか複雑な目で彼を見た。「結婚式は、もともと中止になっておりますが?あなたを選ばなかったのは、三重野様の方です」扉が閉まった。賢太はその場に立ち尽くし、恐ろしいほど険しい顔をしていた。大輔はスマホを取り出し、直接海外本社へ電話をかけた。「三重野知紗の兄だ。電話に出させろ」電話口の担当者は、丁寧に応じた。「申し訳ありません。三重野は現在業務中でございますので、私的なお電話はお取次ぎいたしかねます」「なら、実家で緊急事態が起きたと伝えろ。どうしても戻ってこなければならないと」「失礼ですが、どのようなことが起きたのでしょうか」大輔は、言葉に詰まった。家では、何も起きてなどいなかった。彼らが本当に焦り始めていたのは、とうとう知紗を見つけられなくなったということだった。真斗は別の番号から、何度も電話をかけた。何度か呼び出し音は鳴ったものの、誰も出なかった。7回目にかけ直したところで、ようやく相手が出た。「知紗か?」「お電話ありがとうございます。海外本社総務部でございます」真斗は、背筋を伸ばした。「三重野知紗に代われ」「三重野は、お電話に出ないとはっきり申しております」「僕は彼女の兄だぞ!」「申し訳ございません。三重野は、連絡を取る必要のある家族はいないと申しておりました」電話は、切られた。リビングは、しんと静まり返った。結衣が、そっと真斗の袖を引いた。「知紗姉ちゃん、まだ怒ってるだけよ。落ち着けば、きっとまたお兄ちゃんたちを認め
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第9話

翌朝、三重野グループの技術部門は、大混乱に陥っていた。社内の知財管理システムには、特許使用許諾の終了期限を知らせる警告が表示されていた。関連する研究設備や生産ラインにも、許諾終了後は該当技術の使用を停止するよう指示が出されていた。大輔は、書類を会議テーブルに叩きつけた。「この3件の特許を回避しろ。今日中に代替案を出せ」技術部長は、顔を青ざめさせた。「それは……回避はできません!基礎アルゴリズムも、センサー部品も、校正システムも、すべて連動しております。無理に差し替えれば、プロジェクト全体をやり直すことになります」大輔が眉をひそめた。「これだけ多くの人間を雇っていて、あいつひとりに敵わないっていうのか?」会議室には、誰の声もなかった。技術部長は、古い書類の束を差し出した。「最初のモデルは、知紗様が作られたものです。その後の3度の改良も、すべて彼女が……私どもが担っていたのは、試験と実装だけでした」真斗が、書類をめくった。どのページの下にも、知紗の署名があった。最も古い日付は、8年前にまで遡った。あの頃、母が亡くなったばかりだった。知紗は昼間は会社に勤め、夜になると三重野グループに戻って技術上の問題を片付けていた。それなのに彼らは、彼女が頻繁に会社に出入りするのを煙たがっていた。たいした能力もないくせに、偉そうに口を挟むなと言って。大輔の顔が重く沈んだ。「なぜ、今まで誰も俺に言わなかったんだ」技術部長は、堪えきれずに口を開いた。「申し上げました!彼女が研究開発費を申請されるたび、あなたは浅野様に相談しろとおっしゃっていました。家の資金は、まず浅野様の起業に回すべきだと」大輔の指先が、ぴたりと止まった。結衣が立ち上げ、半年で潰れた工房には、前後合わせて2億円近くがつぎ込まれていた。一方で、当時知紗が申請していた研究開発費は、わずか4千万円だった。大輔は決裁を下さなかった。結局知紗は、母の遺した小さなマンションを売り払い、自分で不足分を補った。真斗は、広報資料をめくった。発明者の欄は、空白のままだった。彼は、あの時の新製品発表会のことを思い出していた。知紗は古びたワンピースを着て舞台裏に立っていた。自分は、お前は愛想がな
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第10話

生産ライン停止の知らせは、すぐに藤城グループへも伝わった。賢太が社に着くなり、プロジェクトマネージャーが彼を呼び止めた。「社長、先方が契約締結をいったん見合わせたいと言ってきております。三重野グループが、特許の使用許諾を証明できずにおりまして」賢太は、ネクタイを乱暴に緩めた。「知紗は俺の婚約者だ。彼女の許諾書なら、俺が代理でサインしてやる」マネージャーは、言葉を返せなかった。法務担当が、小さく咳払いをした。「こほんっ……法律上それはできません。それに、社長と三重野様との婚約はすでに破棄されております」賢太の目が、すっと冷たくなった。「俺は同意していない」法務担当は、頭を下げた。「婚約解消に、必ずしも双方の同意が必要なわけではありません」「黙れ」賢太は、車のキーを掴んだ。まず向かったのは、知紗が以前勤めていた会社だった。受付で、中に入れてもらえなかった。次に、彼女が行きつけだったカフェへ行った。店員は、知紗がすでに会員登録を退会していたと告げた。最後に、彼は栗のケーキの店の前に立った。ショーケースには、最後のひと切れだけが残っていた。10年前、知紗がこのケーキを食べた時、目を輝かせていた。彼女は彼の腕に腕を絡め、これから喧嘩しても、このケーキを買ってきてくれたら許すと言ったものだった。賢太はそのケーキを買い、海外本社宛てに送らせた。荷物の中には、婚約指輪も入れた。カードには、たったひと言だけが添えられていた。【気が済んだら、帰ってこい】3日後、荷物は送り返されてきた。ケーキはすでに傷んでいて、クリームが箱いっぱいに付着していた。婚約指輪は、手つかずのままだった。カードの裏には、新たに一行が加えられていた。【藤城様。会社宛てへの私物の送付はご遠慮ください】字は、知紗のものではなかった。総務担当者が、代わりに処理したものだった。賢太はその一文を見つめ、胸の奥が鉛を詰め込まれたように重く沈むのを感じた。彼は、海外本社のプロジェクトの直通番号にかけた。今度は、知紗が電話に出た。「藤城社長、何かご用でしょうか」賢太は、スマホを握りしめた。「指輪は、届いたか?」「プロジェクトに関するご用件でしたら、メールでお願いします
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