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第2話

Author: 七海らん
不動産業者は、翌朝早くに客を連れて内見にやってきた。

賢太は、ひと晩中帰ってこなかった。

午前3時、彼はSNSに鍋を囲む写真を投稿していた。

結衣は賢太のジャケットを羽織り、彼の肩に寄りかかっていた。

大輔が彼女のためにかいがいしく魚の骨を取り除き、真斗はそばにしゃがんで、ヒールで赤く擦れた足の手当てをしてやっていた。

添えられた言葉は、たった1行。

【ひと晩がかりで、やっとお姫様を笑わせてやれた】

私は静かにSNSを閉じ、賢太の最後の荷物を藤城家へ送り届けた。

午前10時、結衣が家族のグループチャットに音声メッセージを送ってきた。

「知紗姉ちゃん、まだ怒ってる?

昨日の夜、私が悪夢を見るんじゃないかって心配して、賢太さんがずっとそばにいてくれたの。

もう帰って知紗姉ちゃんのところに行ってってお願いしたんだけど、知紗姉ちゃんはもう大人なんだから、彼がいなくても大丈夫だろうって」

彼女は一度言葉を切り、さらに悲しげな声で続けた。

「知紗姉ちゃん、誤解しないでね。

私はただ、賢太さんを本当のお兄ちゃんだと思ってるだけなの。

知紗姉ちゃんが嫌なら、これからはなるべく迷惑かけないようにするから」

直後、賢太からすかさず返信が来た。

【結衣。お前が、あいつのために我慢する必要なんてない】

大輔も続けて書き込んだ。

【あいつは、自分より可愛がられてる人間が気に食わないだけだ】

真斗の言葉はもっと直接的だった。

【三重野の長女って肩書きだけの役立たずが、お前に口出す資格あるのか?】

うんざりしてグループを退出しようとしたところへ、賢太から栗のケーキの写真が個別のチャットに届いた。

【知紗の分、取っておいた】

10年前、初めてのデートで、彼は2時間も並んでこのケーキを買ってくれた。

昔は喧嘩をするたびに、彼がこれをひときれ持って帰ってくるだけで、ほだされた私の方から仲直りを切り出したものだった。

けれど今回、私が返したのはたったひと言だった。

【いらない】

瞬時に彼からの返信が表示された。

【いい加減にしろ!

俺がわざわざお前の機嫌を取ってやってるのは、あと数日で俺と結婚するからだぞ!

俺の堪忍袋の緒が切れたら、後悔して泣きついてきても遅いからな】

だが、次に続くメッセージこそが、彼の本当の用件だったのだ。

【結衣の胃薬が、新居のベッドサイドの棚にある。

すぐにホテルへ届けろ】

あのケーキは、決して私への埋め合わせなんかじゃなかった。

結衣のための使いっ走りをさせるための、安い報酬だったのだ。

私はそのまま画面を伏せ、返信しなかった。

30分後、大輔から電話がかかってきた。

「薬はどうした?」

「1階に薬局があるでしょう。賢太にでも買わせればいいじゃない」

大輔は、まるでたちの悪い冗談でも聞いたかのように言った。

「賢太はひと晩中結衣のそばについてたんだぞ。まだこき使う気か?

お前は嫉妬して不機嫌になる以外、いったい何ができるんだ?

結衣に何かあったら、母さんの墓の前に土下座して詫びるんだな」

携帯を握りしめた私の胸を、錆びた鈍い刃物でゆっくりと切り裂かれるような痛みが走った。

母は亡くなる前、兄ふたりの手をしっかりと握って、私のことをちゃんと守ってやってと言い聞かせたはずだった。

なのに結衣がこの三重野家に来てからというもの、その温かな遺言はいつの間にか無残に書き換えられていた。

私は、彼女に譲らなければならない。

彼女の機嫌を取らなければならない。

自分の持つものすべてを、彼女に分け与えなければならない。

さもなければ、私はたちまち意地悪な女に仕立て上げられてしまう。

「届けないわ」

大輔の声が、地を這うように低くなった。

「知紗、本当にいい加減にしろよ!

三重野家に養ってもらって、賢太に貰ってもらえなきゃ、お前なんて何者でもない女だろうが!

結衣は愛嬌もあるし、物分かりもいいし、誰からも可愛がられる性格をしてる。

それでお前はどうなんだ?30年も生きてきて、実の兄にまで疎まれてるじゃないか」

一方的に電話が切れると、今度は真斗からメッセージが届いた。

【ヴェールは警備員に預けておいたからな。

結衣のブライズメイド用のドレス、ちゃんとアイロンかけておけよ。

結衣は肌が敏感だから、ちょっとしたシワがあるだけでも落ち着かないんだ】

立て続けに結衣が、痛々しく手の甲に点滴を打っている写真を送ってきた。

【知紗姉ちゃん、真斗兄ちゃんの言うことは気にしないでね?

ドレスが少しくらいシワになっても平気。私、我慢できるから。

薬を届けてくれなくても、ひと晩くらいなら我慢できるし】

私は配達代行サービスを手配し、薬とブライズメイド用のドレスを三重野家に送った。

午後には婚約指輪を返し、家の譲渡契約書にサインを済ませた。

夜の帳が下りる頃、指輪が賢太の手元に届けられた。

彼は指輪のケースを写真に撮り、グループチャットに怒りに任せて投稿した。

【お前、何様になったつもりだ?

指輪は返してもらった。

これから先、お前が土下座して頼んできても、もう二度とはめてやらないからな】

結衣が、すかさず涙の絵文字を送ってくる。

【知紗姉ちゃんは、指輪が安物だから嫌だったのかな……?

賢太さんが私にハングルを買ってくれたことが原因なら、今すぐ返すから】

賢太が優しげに返信した。

【あれはお前にふさわしいものだ。あいつには一切関係ない。

あいつなんか、お前の足元にも及ばないさ】

私はそのふざけた一文を最後まで読み終えると、家族のグループを静かに退出し、海外赴任の同意書にペンを走らせた。

出発まで、残り48時間。

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