All Chapters of 君ともう一度、スタートラインに立つ: Chapter 11 - Chapter 20

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11話. カレンダーの片隅の一文

夕焼けに染まる学生食堂前のベンチに、冷たい沈黙が落ちた。蓮のスプーンは、宙で止まったままだ。手にしたカップの中で、白いバニラアイスが溶けていく。焦点の曖昧だった黒い瞳が、地震に揺さぶられるように激しく震えていた。「先輩……?」自分が何を口にしたのか気づき、千紗は全身の血が冷えるような震えを覚えた。(次は、自分のレースも……)二十八歳の初冬。冷たい部屋のカレンダーに、短い鉛筆で強く書きつけた、一度目の人生の最後の叫び。青春も関節も、蓮の再起のためにすべてすり減らし、心臓が止まる直前になって、ようやくのみ込んだ悔恨の一言だった。どうして、よりによって今、口に出てしまったのか。千紗は唾をのみ、落ち着かない指先を動かした。蓮が強張った顎をゆっくり動かし、千紗のほうを向いた。焦点は合っていない。それでも、そこから伝わる震えは、肌を切り裂きそうなほど鋭かった。「……千紗」擦れた声だった。「今、何て言った?」「え? あ、私ですか?」暴れる心臓を押さえ込むようにして、無理に口角を上げる。動揺を隠そうと、少し高い声を出した。「先輩の練習を手伝うのもいいけど、私の春季選考会の準備も、しっかりしないとなって! 五時半に終わってクールダウンしてるとき、ふと思ったんです。自分のレースの準備も忙しいのにって、変な言い方になっちゃいました」平気なふりで、アイスを大きく一口すくった。冷たい甘さに舌先が痺れる。背中には、冷や汗が流れていた。蓮は、千紗の顔のほうをじっと見ていた。短く乱れる息も、カップの縁に触れるスプーンの細かな震えも、感覚に引っかかった。ただの言い間違いと片づけるには、自分の心臓が、あまりにも速く打っていた。蓮は、ゆっくり手を下ろした。「……そうだな。お前のレースが、先だ」低くつぶやく。けれど、眉間の深い皺は消えなかった。(次は、自分のレースも……。どうしてあの言葉が、あんなに悲しく聞こえた?)手のひらについたアイスを拭う。胸のどこかが、刃物でえぐられたように痛んだ。すっかり溶けたカップを置いた。どこで聞いたのかもわからない言葉が、別れたあとも、いつまでも耳から離れなかった。* * *翌朝六時、西都体育大の補助トラック。霧の晴れない青い薄明の中で、森川がストップウォッチを首にかけて立っていた。千紗が相談し、その日の補助
last updateLast Updated : 2026-10-13
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12話. 手首からほどけた結び目

洗面台の鏡に映る顔は、死人のように青白かった。蓮は濡れた前髪をかき上げ、血がにじむほど下唇を噛んだ。冷たい水が顎を伝い、ぽたぽた落ちる。それでも、胸の奥を焼く地獄のような炎は、少しも鎮まらなかった。すべて戻ってきた記憶。それは二十二歳の神崎蓮に下された、最も残酷で、正当な死刑宣告だった。(俺が、殺したんだ)両手で顔を覆った。前の人生の自分は、目が悪くなるほど、近くにいる人へ簡単に怒りをぶつけた。千紗が黙って受け止めてくれると、その日の過ちまで消えた気になっていた。見えなくなる恐怖に押しつぶされ、世界へ棘を向けた。その鋭い怒りを、いちばん近くで全身に受けていたのが、千紗だった。彼女の足首の靱帯が切れたときも、医師に「もう全力疾走はできない」と告げられたときも、蓮は自分の記録とパラリンピックの出場権しか見ていなかった。『先輩、私は大丈夫です。一人で走られるより、私が隣で見てるほうが安心ですから』馬鹿みたいに笑ってくれた、その一言を、卑怯な盾にした。千紗が一晩中、従兄の代理人、隼人の溜め込んだ領収書を処理し、明け方には運転代行の仕事で、自分の特別なサプリメント代を稼いでいた。知っていたのに、知らないふりをした。千紗がそばにいるのは、当たり前だ。そんな、恥知らずな思い込み。そして二十八歳の千紗が、冷たいコンクリートの床で、過労の果てに一人、息を引き取った日。霊安室の隅で、隼人が平然と口にした言葉が、蓮の頭を何度も切り裂いた。『蓮。千紗の葬式は、俺が適当に金を出して済ませるから、気にするな。あいつの補助費や支援金の精算も、俺のほうで赤字にしておいた。お前は、今度の世界大会の決勝を走ればいい』その瞬間になって、蓮は気づいた。自分が立っていた栄光の表彰台は、千紗の骨と肉をすり潰して作った墓だったのだと。それからは、一日たりとも、まともな気持ちで生きられなかった。千紗が大丈夫と言うたび、蓮は安心した。なぜ大丈夫なのか。本当に休む時間はあるのか。そんなことは、聞かなくてもいいと思っていた。血の涙を流すように悔やみ続けた、二十九歳のある日。蓮も、胸を掻きむしるようにして倒れた。そして再び目を開けると、二十二歳の自分が、西都体育大のトラックに立っていた。(過去に戻ったからって、俺の罪が消えるわけじゃない)洗面台に置いた指が、白くなるほど力
last updateLast Updated : 2026-10-13
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13話. 先輩の記録は、先輩が

スポーツ支援課の監査室による、第一次緊急調査の結果は、翌朝九時、陸上部全員へ正式に通知された。カッターを手にロッカールーム付近をうろつく沙耶の姿が映った、鮮明な防犯カメラ映像。午前六時十四分の電子錠の入退室ログ。そして一年生、芽衣の自筆の目撃証言。どの証拠も、その朝、沙耶がロッカールームに入った事実を示していた。大学側は直ちに、「学生競技者懲戒委員会の最終議決まで、陸上部の公式練習場と用具室への立ち入り、および被害選手との接触を禁止する」という、暫定的な隔離措置を取った。ロッカーの前をうろつき、特権と権威を振りかざしていた四年生。その傲慢な肩書は、一夜にして砕け散った。「放して! どうして私が調べられなきゃいけないの! お父さんに一本、電話すれば……!」監査担当者に制止されながら沙耶は叫んだが、誰も味方をしなかった。いつも沈黙を強いられていた後輩たちは、固い表情で、その背中を冷たく見送るだけだった。結局、沙耶は帽子を目深にかぶり、逃げるように寮へ追い返された。けれど、腐った結託の根は、まだしぶとかった。総監督の黒田は、沙耶の父がスポーツ振興財団の有力な理事であることを盾に、何とか事件をもみ消そうとあがいた。正式な懲戒へ進み、管理責任や不正な帳簿まで暴かれるのを防ぐため、正午ごろ、千紗をひそかに監督室へ呼び出した。ブラインドを閉め切った室内には、強い煙草の煙が、霧のように立ち込めていた。革のソファに座った黒田が、湯飲みを机へ叩きつけるように置き、荒々しく脅した。「朝倉。今回の件で、ずいぶんいい気になってるな。先輩の将来を丸ごと潰して、気が済んだか?」千紗は姿勢を崩さず、冷静な目で見つめた。「先輩の将来を壊したのは、私ではありません。他人の道具を故意に壊した、先輩自身の行為です」「黙れ! この礼儀知らずが!」黒田が立ち上がり、机を激しく叩いた。「沙耶の父親は財団の理事だ! 大学への支援を切られて、実業団との連携まで打ち切られたら、部全体が路頭に迷うんだぞ! 先輩一人を引きずり下ろして、チームを潰す気か? 委員会が開かれる前に、適当に嘆願書を書いて示談にしろ。そうすれば、お前も卒業のとき、推薦状くらいはもらえるだろうが!」前の人生でも、嫌というほど聞かされた脅しだった。お前一人が犠牲になれば、チームは平和になる。そんな、腐りきっ
last updateLast Updated : 2026-10-13
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14話. 二十分の並走

翌朝八時。体育館脇の、屋外テラスのテーブル。春風が葉を揺らし、柔らかな朝日を散らしていた。テーブルには、千紗のリング綴じの練習日誌と、蓮の革の手帳が、並んで開かれている。二人はそれぞれ、スマートフォンとペンを手に、予定を照らし合わせていた。前の人生の千紗には、自分の「時間割」などなかった。カレンダーを埋めていたのは、蓮の練習、蓮の通院、蓮の遠征の予定だけだった。専門科目の授業はしょっちゅう休み、成績は警告を受ける寸前まで落ち込んだ。実業団の奨学金も、失っていた。けれど今、ノートには、二年前期の専門科目の名前が、はっきりと書かれていた。「先輩、午前中から決めましょう」千紗がペン先で、時間割の欄を示す。「月、水、金の九時から十二時は、専門の必修です。先輩はスポーツ医学と機能解剖学ですよね。私は運動生理学と陸上トラック指導論。授業中は連絡しないで、それぞれ勉強と単位に集中すること」蓮はうなずき、万年筆で手帳に丁寧に書き込んだ。「そうだな。卒業できず、いつまでもここで顔を合わせてたら困るし」続いて、別の曜日の欄を指す。「火曜と木曜の午前は、病院の予定が入ってる。今週は十時から十二時。検査結果を確認して、残っている見え方に合った補助具や、生活に慣れる方法を相談することになった」千紗の視線が、眼科受診の欄で止まった。記憶の深いところから、不吉な痛みが這い上がってくる。以前は蓮が病院へ行くたび、一人で怖い思いをさせたくなくて、授業を放り出して付き添っていた。そのころの癖が、無意識に口をついた。「先輩……火曜日、私も一緒に行きましょうか。十時なら、生理学の教養科目を一つ休めば……」その瞬間、蓮の手が、千紗のノートを軽く叩いた。とん。サングラスの向こうから、まっすぐ顔を向ける。柔らかい声だった。けれど、少しも譲る気配はなかった。「だめだ。授業は休むな」千紗ははっとして、口を閉じた。蓮は落ち着いた調子で続ける。「今回の通院は、付き添いの支援も調べてある。お前は授業に行け。検査が終わったら、俺から電話する。そのとき話を聞いてくれればいい」頭の中が、じんと鳴った。(私が、行かなくてもいいんだ)前の人生で自分を犠牲にしてきた、根深い癖。それが、また顔を出していたのだ。千紗は消しゴムを取ろうとして、手を止めた。火曜の授業の欄に引き
last updateLast Updated : 2026-10-13
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15話. 11.82――知らない速さ

春の日差しがまぶしく降り注ぐ、ロッカールーム前の屋外ベンチ。直人が肩から重いカーボン素材のスポーツバッグを下ろし、からりと笑った。濃い小麦色に焼けた、たくましい首筋。短距離選手らしく、大きく発達した大腿四頭筋。男子100メートルの公認自己ベストは、10秒42。大学時代、全国総合体育大会の決勝で蓮と0.1秒差の名勝負を演じた、昔からのライバルだった。実業団を経て、視覚障害者陸上T11の専門ガイドへ転向した、ベテランスプリンターだ。汗を拭い、二人へ手を差し出した。「久しぶりだな、蓮。森川コーチから連絡をもらって、飛んできたよ」蓮が、まめのある硬い手で握り返す。「来てくれてありがとう。ガイドランナーになったって聞いた」「実業団で短距離をやってたころ、パラリンピックの並走レースを生で見たんだ。二人のスプリンターが呼吸を一つにして、10秒台を駆け抜ける。それを見た瞬間、心臓が破裂しそうでさ。そこからガイドの訓練を受けて、選手登録の手続きをしたんだ」直人はバッグを開け、用具を一つずつ、テーブルへ整然と並べた。伸縮しない競技用テザー。練習中の号令を確かめるための無線インカムのヘッドセット。そして、アイマスクと遮光用のアイパッチ。テザーの両端の輪を伸ばすと、全長は三十センチだった。輪を広げ、仕上げとストッパーを見せる。歩行練習で使った面ファスナーのロープと違い、競技中に輪がほどけたり、長さが変わったりしないことを確認した用具だった。直人は閉じた輪に指を通し、千紗へ体を向けた。「朝倉選手。これまで、蓮の低速での基礎練習を担当してくださったと聞いています」「はい。歩行ドリルと、五十メートルの低速ビルドアップまで、合わせてみました」落ち着いて答えると、直人は真剣な目で、タブレットを起動した。「お疲れさまでした。テザーの張りを感じる基礎を、しっかり作ってくださったおかげで、蓮の足首の反発も、ストライドのバランスも崩れずに残っています。ただ、正式なチーム練習を始める前に、はっきりさせておきたいことがあります」視線が、千紗の細い手首と足首へ向いた。「これから取り組む、時速三十四キロを超える高速走や実戦で、朝倉選手がガイドを続けるのは、力学的に無理があります」率直で、冷静な指摘だった。直人は走行時の衝撃を示すグラフを開き、静かに説明を加えた。「ガイドに
last updateLast Updated : 2026-10-13
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16話. 三本目のテーピングの秘密

11秒82。表示板の赤い数字は、嘘をつかなかった。一人で走っていたころより、一秒以上も遅い。その記録を、蓮は簡単には受け入れられなかった。風一つないトラックに、重い沈黙が落ちていた。以前の蓮なら、スパイクを投げつけ、罪もないトラックを蹴り、激しい暴言を吐いていただろう。崩れた自尊心に耐えられず、世界へ鋭い刃を向ける、そんな瞬間だった。実際、一度目の人生の二十二歳の蓮は、視覚を遮った最初のテストで同じ11秒台を突きつけられたとき、宿舎の備品を壊し、一か月、酒に溺れて暮らした。その暴力的な荒れ方も、絶望の破片も、千紗が一人、泣きながら片づけた。けれど、今の蓮は違った。荒かった呼吸をゆっくり整え、汗に濡れた前髪をかき上げた。トラックの向こうから、上級生の冷たいささやきが届いた。「神崎も、結局終わりだな。11秒台後半じゃ、女子と変わらないだろ」「ガイドをつけたって、目が見えない選手の限界ってことだよ。パラリンピックだって? 無理だろ」卑しい嘲りと同情の混じった言葉が、刃のように突き刺さる。蓮の拳が震えた。その隣で、直人が肩を軽く叩き、にっと笑った。「人の話なんか聞くなよ。俺たち、今初めて最後まで走ったんだろ。足りないところから探そうぜ」頼もしい一言に、蓮の顎の力が緩んだ。千紗がタオルを差し出し、そばに立つ。蓮は受け取り、首にかけた。何も言わないでいてくれるのが、かえってありがたかった。もう二度と、この子の前で弱さを振りかざしたり、逃げたりしない。その決意が、背筋をまっすぐに支えた。直人がタブレットを持って近づいた。「蓮。最初の三十メートル、分析が出た」蓮が顔を向ける。「大丈夫だ、直人。正直に言ってくれ。何が悪かった?」惨めな記録の前でも、平静を失わず原因を尋ねる。その態度に安堵し、直人は画面を切り替えた。「筋肉も神経も、まだ10秒23の速さで飛び出そうとしてる。でも、前が見えないから、無意識に体が踏ん張ってしまうんだ」高速カメラで撮影した、毎秒二百四十フレームの映像をスローで再生する。「足裏が地面に触れるたび、転ぶかもしれないって防御反応が働いて、着地が0.03秒ずつ遅れてる。四十メートルの加速区間では、股関節で支える上体の角度が五度以上固まった。七十メートル以降は、歩幅が十二センチも縮んでる」過去の栄光を覚える体と、
last updateLast Updated : 2026-10-13
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17話. 「前の人生」という一言

トラックに降りた夕焼けが、血のように赤く燃えていた。競技場のスタンド席の足元で、蓮は片膝をつき、千紗の右足首をそっと包み込んでいた。その指先が、かすかに震えている。「無理をしたら、靱帯が完全に切れる。前の人生で……いや、前からここは、絶対に無理しちゃいけないって」蓮の唇から、思わずこぼれた、口にしてはいけない言葉。(前の人生で……)その瞬間、千紗の耳元で雷が落ちたような、鋭い轟音が鳴り響いた。千紗は足を地面に下ろした。ほどけた靴ひもが足の甲に触れていたが、結び直そうとも思わなかった。凍りついた目で、自分の足首をつかむ蓮の頭を、ただ見下ろした。蓮も、今、自分が何を口走ったのか気づいたらしい。血の気を失った唇をきつく結び、顔を上げられずにいた。手はまだ千紗の足首を包んでいた。けれど、その手にこもる力は、今にも崩れてしまいそうに頼りなく揺れていた。時間ごと凍りついたような、重苦しい沈黙。スタンドを、冷たい春風だけが通り抜けていく。千紗は震える唇を、ようやく開いた。「先輩」声が細かくひび割れた。「今……何て言ったんですか?」蓮は答えられなかった。足首をつかんでいた手を離した。千紗が返事を待つあいだ、唇を開いては、声もなく閉じるばかりだった。千紗は蓮の手元から足をさっと引き、一歩後ずさった。靴ひもがほどけたまま冷たい土を踏んだ足首の外側に、ぴりりと熱が走る。だが、そんな体の痛みなど、少しも気にならなかった。心臓が、肋骨を砕いて飛び出しそうなほど激しく暴れていた。「先輩、聞いてるんです。前の人生って、どういう意味ですか?」千紗の声が、鋭く割れた。「どうして私の腓骨筋腱の腱鞘炎を知ってるんですか? まだ病院にも行ってない。森川コーチにも言ってないのに、どうして先輩が知ってるの?」その瞳が、激しく揺れた。ここ数日、何度も覚えた既視感が、頭の中で嵐のように渦を巻き始めた。二十二歳の神崎蓮には、知りようのないことばかりだった。「どうして、私がカレンダーに書いたメモを聞いて、あんなに真っ青になったんですか? それに……腓骨筋腱の三本目のテーピングを、くるぶしから五センチ上まで巻かなきゃいけないって、どうして知ってるんですか!」次々とあふれる問いの一つひとつに、前の人生の悲しい傷が、刃のように突き刺さっていた。七年後の悲劇を、とも
last updateLast Updated : 2026-10-13
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18話. 手首に残った七年

「二十一歳の春。申込書も出せずに、俺の部屋に呼び出されて、一晩中、視界を遮った練習を手伝って……お前のスタートラインを丸ごと失った、あの選考会」蓮の唇からこぼれた、残酷なほど鮮明な過去。その言葉が暗い湖畔の空気を切り裂いた瞬間、千紗の心臓がずしんと沈んだ。かすかな街灯の下で、二人の視線がぶつかった。漠然とした疑いと既視感が、ついに逃れようのない大きな真実となり、千紗の全身を押しつぶした。千紗は震える唇をかみしめ、荒く息をついた。「……ええ。覚えてる」声が、悲しみに裂けた。「自分で申込書を出すこともできずに、黒田と桐谷沙耶に押し切られて、泣きながら諦めた日。その夜、先輩の合宿所の部屋に呼ばれて、目が見えなくなっていく先輩の世話に、私の陸上人生を丸ごとつぎ込んだ。あの選考会でしょう」千紗の目の縁が、赤く染まった。前の人生の最初の夜が、昨日のことのようによみがえった。黒田監督に頬をたたかれ、申込書を取り上げられ、寮の部屋で泣いていた二十一歳の自分。あのとき、合宿所の三〇二号室に呼ばれて行くと、蓮は明かりをすべて消した暗闇の中で、うずくまっていた。『先輩、大丈夫ですか? 電気、つけましょうか?』『つけるな。レーンが見えないんだ……千紗、助けてくれ』絶望に震える天才スプリンターの、その一言に。千紗は愚かにも、自分のすべてを投げ出した。先輩だから。日本一のスプリンターだから。もう一度走れるようになるなら、自分の一日くらい差し出したってかまわない。そう信じていた、あまりに無謀な青春。毎朝五時、凍える手で赤いテザーを握り、合宿所の廊下で蓮のバッグを用意していたときの、冷たい空気。実業団のスカウト候補から自分の名前が消えたとき、黒田が浮かべた卑劣な笑み。遠征のたび、従兄で代理人の神崎隼人に『蓮のおかげで飛行機に乗れるんだからな』と、雑用も領収書の整理も押しつけられた屈辱。医療費や練習費が足りなくなれば、夜ごと飲食店の皿洗いや配達のアルバイトをして、荒れた手を隠さなければならなかった記憶。そして、足首の靱帯が三度も部分断裂してなお、手術を先送りにし、消炎鎮痛剤を一握りずつのみ込んで、蓮と並走し続けた七年間。その代償に残ったのは、完全に壊れた足関節。そして、代表選考会の名簿から永遠に消された、自分の名前だった。蓮が世界選手権の表彰台で金メダル
last updateLast Updated : 2026-10-13
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19話. 二冊の時間割

湖畔の木のベンチを、春の夜の冷たい風がなでていった。蓮は、さっき千紗が握ってくれた手を膝に置いた。手のひらは温かかった。けれど、その温もりを、許された証しだと思わないようにした。千紗がノートを取り出す音がした。蓮もそれにならい、バッグのファスナーを開けた。風に浮いた紙の角を、千紗が押さえた。近くに座っていても、二人の手が再び触れることはなかった。蓮はゆっくり手の力を抜き、千紗を見た。ぼんやりと闇に沈んだ視界の中でも、その黒い瞳には、これまでになく明晰な光が宿っていた。「忘れたなんて言えないように、書いておこう。さっき、お前が言ったとおりに」蓮はポケットから革の手帳と万年筆を取り出し、ベンチの上に広げた。千紗も、練習日誌のノートを隣に置いた。街灯の下で、二冊のノートが並んで光を浴びた。千紗はボールペンを握り、一つ目の条項を、はっきりと読み上げた。「一つ。けがと出場、そしてすべての練習計画は、各自が担当の指導者と相談し、自分で決める。相手の事情や頼み事を理由に、自分の受診や正式な選考会への出場を、決して延期も中止もしない」前の人生の悲劇を、根元から断ち切るための、最も大切な条項だった。蓮の予定に振り回されて受診を先延ばしにし、足首の靱帯を取り返しのつかないほど壊した千紗。そして、その献身に甘え、千紗の選手生命が削られていくのを見て見ぬふりした蓮。二十一歳の春季大会の申込締め切りが近づいていたころ、千紗は蓮の夜間適応訓練を手伝い、病院のリハビリを休んで、自分の申込書さえ奪われたのだった。リハビリの予約を書いては消した日付が、浮かんだ。今度はその欄を空白にしないと、千紗は書き留めた。二人は、もう二度とあの恐ろしい罠にはまらないと誓った。蓮はうなずき、万年筆を押しつけるようにして、文字を書いた。「同意する。二つ目。サポートと生活面の管理は、徹底して外部の専門家に任せる。並走は高瀬直人に専任してもらう。俺の移動の補助と事務作業は、体育部の担当インターンに任せる。今度の人生で、お前に俺のマネージャーをやらせることは絶対にない」千紗の口元に、かすかな笑みが広がった。従兄で代理人の隼人が、『蓮のおかげで飛行機に乗れるんだからな』と雑用や領収書の整理を押しつけ、千紗を無給の奴隷のように働かせていた過去。それを完全に断ち切る約束だった。千紗の
last updateLast Updated : 2026-10-13
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20話. 一線を越えた人

「視覚障害者になった神崎蓮の世話ばっかりして、あんな目の見えない男にすがってたら……あんたの選手人生だって、そこで完全に終わりよ」廊下の曲がり角に響いた桐谷沙耶の言葉には、悪意が満ちていた。通りかかった陸上部の一年生、二年生たちが、息をのんで足を止めた。「桐谷先輩、いくら何でも言いすぎじゃないですか?」同級生の美咲が怒りをあらわにして前へ出かけたが、千紗は腕を伸ばし、そっと制した。遠く、補助トラックの入り口で直人とウォーミングアップの準備をしていた蓮が、勢いよく廊下のほうを向いた。沙耶の甲高い声は、廊下の壁に響いてトラックの入り口まで届いていた。誰がいるのか、直人に聞く必要もなかった。蓮は顎をこわばらせ、大股で廊下へ向かおうとした。握った拳には、血管が浮いていた。千紗は蓮のほうへ体を向け、廊下の向こうにも届くよう、はっきりと言った。「来ないで、先輩。私が話します」昨夜、湖畔のベンチで交わした、最初の約束。自分で答えると、千紗は言った。蓮は割って入ろうとした言葉をのみ込んだ。代わりに、コーチがどこにいるか確かめてほしいと、直人に頼んだ。毅然とした千紗の声を聞き、蓮は拳を固く握ったまま、その場に踏みとどまった。千紗はゆっくり振り返り、沙耶をまっすぐ見据えた。口元に浮かんでいたのは怒りではなく、冷ややかな笑みだった。「桐谷先輩」声は落ち着いて、明瞭だった。「私の将来を心配してくださるなんて、涙が出るほどありがたいです。でも、そういう心配は、口より記録で示したらどうですか?」沙耶の眉間が、険しくゆがんだ。「何ですって?」その爪が、自分の手のひらに食い込んだ。この四年間、沙耶はスポーツ財団の理事を務める父親の権力を後ろ盾に、陸上部の女王として君臨してきた。後輩にボトル洗いやスパイク磨きを押しつけ、練習にいいレーンを独占する。そうした特権を、当然のように受け取ってきた。その権威のすべてが、二年生の後輩、朝倉千紗の堂々とした拒絶と、11秒42という圧倒的な記録の前で、粉々になっていた。自分の無能さも、底の見えた実力も認められず、あがいているだけだった。千紗は、壁に貼られた陸上部の公式記録表を、顎で示した。「先輩の大学での公認ベストは、11秒52ですよね? 私はさっき、メイントラックの四レーンで11秒42を出しました。先輩の全
last updateLast Updated : 2026-10-13
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