君ともう一度、スタートラインに立つ

君ともう一度、スタートラインに立つ

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By:  YuImUpdated just now
Language: Japanese
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視力を失っていくエースを支え、短距離選手ユン・チェアは自分の夢を諦めた。命を落とし、21歳の春に戻った彼女は、今度こそ自分の名で代表選考に挑む。ところが、彼も前世の記憶を取り戻していた。赤いテザーで再びつながる二人は、愛もそれぞれの夢も守れるのか。

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Chapter 1

1話. 0.00――もう一度、スタートラインへ

足首が折れそうに疼くたび、朝倉千紗(あさくら・ちさ)は古びたシューズの紐を、いっそうきつく結び直した。

底の縁は擦り切れ、踵も破れている。何度このスパイクを履いてトラックの土埃をかぶったのか、もう数えられなかった。

男子100メートル、10秒23。日本代表スプリンター、神崎蓮(かんざき・れん)。

そのまぶしい名前が少しずつ闇に沈んでいく間、七年間、隣にいたのは千紗だった。

視力が落ち、一人ではレーンの位置さえわからなくなった蓮のために、夜明け前から手首のロープを握った。彼がもう一度走れるのなら、自分の一日を差し出すくらい、なんでもないと思っていた。

遠征先の宿を手配し、補助用具を揃え、治療費や活動費が足りなくなれば夜ごとアルバイトに出た。

「千紗、お前は大丈夫なのか?」

光を失いつつある目を瞬かせ、蓮がそう尋ねるたびに、千紗は馬鹿みたいに笑って答えた。

「先輩、私はもちろん大丈夫ですよ。私のことより、明日の練習のリズムを考えてください」

大丈夫、という言葉は便利だった。

それを口癖にしているうちに、千紗の名前は日本代表選考会の名簿から永遠に消えた。無理な伴走を重ねた足首の靱帯は、二度と元に戻らないほどすり減っていた。

二十八歳の初冬。地下の安アパートに置いた卓上カレンダーの隅には、短くなった鉛筆で書きつけた、最後のメモが残っていた。

『次は、自分のレースの準備もしよう』

けれど、次は来なかった。

蓮の従兄である代理人に押しつけられた雑務を、一晩かけて片づけた帰り道。廊下の突き当たりで、千紗の心臓はぷつりと止まった。冷たいコンクリートの床に頬が触れる瞬間まで思い出していたのは、手首を結んでいた赤いロープの、やるせない感触だった。

そんなふうに、何もかも惨めに終わったはずだった。

* * *

「ちょっと、千紗! 何ぼうっとしてるの? 森川コーチがスタートの記録表持ってきてって!」

耳を突く声とともに肺へ飛び込んできたのは、倒れた廊下のかび臭い空気ではなかった。

目にしみるほど澄んだ、春の風。

日差しに熱せられた赤いウレタントラックのゴムの匂いと、グラウンドの清々しい土の匂いだった。

千紗は激しく息を吸い込み、その場でよろめいた。

「はっ……!」

「え、千紗? 顔、真っ白だよ。気持ち悪いの?」

目の前には、蛍光色のジャージを着た藤田美咲(ふじた・みさき)が立っていた。西都体育大学陸上部の同期だ。

五年前、実業団に入ってから疎遠になったはずの友人が、二十一歳の瑞々しい顔で、そこにいる。

千紗は震える手を伸ばし、自分の脚を見下ろした。

余分な脂肪のない、引き締まったふくらはぎ。試しに足踏みしてみても、関節を蝕んでいた慢性の炎症も、あの凄まじい痛みも、嘘のように消えていた。

ズボンのポケットから取り出したスマートフォンには、日付がくっきりと表示されていた。

【2024年4月7日(日)13:42】

二十一歳。西都体育大学二年生の春だった。

(戻ってきた……私、本当に、もう一度やり直せるの?)

夢かと思って頬をつねると、ひりひりとした痛みが広がった。

「千紗、喉渇いた? 水、飲む?」

美咲が指さしたベンチに駆け寄り、ボトルをつかんで一気にあおった。

「ぷはっ! ごほっ、ごほっ!」

「ちょっと! それ、私のレモン味のスポドリ! 千紗の青い水筒はそっちでしょ!」

慌てた美咲が、ぱん、と背中を叩く。酸っぱい飲み物が喉を刺激した途端、咳と一緒に笑いがこぼれた。

「けほっ、あはは……ごめん。すごく、喉が渇いてて」

生きている。

その実感が、全身の細胞に満ちていく。ちゃんと息ができる。

けれど、笑っていられたのはほんの一瞬だった。四月七日。その日付が、稲妻のように脳裏を走った。

春季大学陸上選手権兼、日本代表第一次選考会の申し込み締切日。締め切りは、今日の午後五時だ。

一度目の人生のこの日、千紗は申込書を出せなかった。

先輩の桐谷沙耶(きりたに・さや)に「卒業を控えた四年生に譲るのがうちの慣例」と書類を止められ、黒田雅彦(くろだ・まさひこ)監督にも「チームの和のためだ。今回は譲れ」と肩を叩かれた。

そしてその夜、視界がかすむ恐怖に怯える蓮の部屋に呼ばれ、歩行や動作に慣れるための練習を手伝った。自分の人生でいちばん輝いていたはずのスタートラインを、自分から捨ててしまったのだ。

(今度は、絶対に譲らない)

千紗は拳を握りしめた。誰かの人生を代わりに走ったところで、誰のことも救えない。

ポケットの中で、もう一度スマートフォンを握る。締め切りまで、まだ時間はあった。今日は、まず自分の名前を出す。

「美咲、ちょっと本館の事務室行ってくる!」

「え? 森川コーチの記録表は?」

「戻ったら、すぐ届ける!」

千紗は振り返らず、トラックを蹴って走り出した。

タン、タンッ!

スパイクではなく普通のランニングシューズなのに、地面を蹴る足が、驚くほど軽かった。

* * *

大会の受け付けのため、休日も開いているスポーツ支援事務室。壁の時計は十四時十分を指していた。

「朝倉? どうしたの、そんなに汗かいて」

「春季大会の申込書を出しに来ました。女子大学の部、100メートル個人です」

千紗は壁際に置かれた用紙を取り、慣れた手つきでボールペンを走らせた。

【所属:西都体育大学陸上部/氏名:朝倉千紗/種目:女子100m/公認自己ベスト:11秒48】

前の人生で、血の涙を流す思いで諦めた自分の名前。その書類を受け取った助手が、首をかしげた。

「あれ? 四年の桐谷さんが、女子短距離は自分でまとめて監督の決裁をもらってから出すって言ってたけど。沙耶さんには言ってきたの?」

前とまったく同じ手口だ。千紗はにこりと笑い、一語ずつはっきり答えた。

「今回の大会要項を確認しました。標準記録を突破していれば、大学に個別の申込書を出せますよね。私が署名したこの用紙で、受け付けをお願いします」

「え? 規定では、そうだけど……」

いつもおとなしい後輩に参加条件を示され、助手は明らかに戸惑っていた。

「沙耶さんがまとめた分と重複したら、あとで揉めるよ」

「重複していたらシステムで照合して、私の自筆署名があるほうを正式な申請にしてください。自分で、出しに来たんですから」

千紗は用紙の下に、丁寧な字で署名した。

「今、受付印を押していただけますか?」

きっぱりした態度に、助手は渋々、赤い受付印を押した。

【受付完了:2024.04.07 14:18】

手のひらほどの控えを胸に抱いた瞬間、熱い震えが胸の奥からこみ上げた。前の人生では、なすすべもなく奪われた最初のスタートライン。それをようやく、自分の手に取り戻したのだ。

* * *

グラウンドへ戻ったとき、千紗はぴたりと足を止めた。

グラウンドの片隅。四レーンのスターティングブロックの近くに、春風を背負い、一人で立つ大きな人影があった。

百八十六センチの、均整の取れた体格。濃い黒髪の下には鋭い顎の線と、固く結ばれた唇。

神崎蓮だった。

日本短距離界の、誰もが認めるエース。一度目の人生で千紗が七年もの青春と体のすべてを捧げ、守ろうとした人。

蓮は、スターティングブロックの前にじっと立っていた。

一見すれば、今も冷ややかで傲慢な天才のままだ。けれど、千紗にははっきりわかった。

足元の白線を見下ろす角度。焦点が合わず、わずかに傾く頭。つま先でブロックを小さく蹴り、位置を探る不安定な動きまで。

(網膜色素変性症……このころも、見えないことを一人で隠してたんだ)

胸の片隅が、ちくりと痛んだ。

駆け寄って、「先輩、大丈夫ですか。私がそばにいます」と声をかけたい。その衝動が喉までせり上がってきた。それでも千紗は唇を噛み、踏みとどまった。

(今度の人生でも、あなたのそばにいる。でも、自分のスタートラインも守る)

静かに息を整え、芝生のほうへ回ろうとした。

そのとき蓮がスパイクのバッグを肩にかけ、補助競技場へ続く地下通路に向かって歩き出した。

まぶしい屋外のトラックから、暗い通路へ踏み入れた瞬間。急な明暗の差に、蓮の足取りが大きく乱れた。

通路の入り口には、修理中の金属製ハードルが置かれていた。

トンネルのように視野が狭くなった蓮には、死角の金属フレームが見えていないらしい。

つま先がぶつかる、その直前だった。

「先輩、危ない!」

千紗が駆け寄り、服の裾をつかもうとした刹那。闇の中で神経を尖らせていた蓮の手が、稲妻のように宙を切った。

ばしっ!

硬く、荒れた手が、千紗の細い手首をつかむ。骨が痺れるほど強い力だった。

「あっ……」

日陰の中で、蓮の黒い瞳が千紗に向けられた。

焦点がかすかに揺れている。それでも、獰猛な獣のように警戒を張り巡らせた、冷たい目だった。

蓮は息をひそめ、低く唸るように言った。

「そこに、誰かいるのか?」

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1話. 0.00――もう一度、スタートラインへ
足首が折れそうに疼くたび、朝倉千紗(あさくら・ちさ)は古びたシューズの紐を、いっそうきつく結び直した。底の縁は擦り切れ、踵も破れている。何度このスパイクを履いてトラックの土埃をかぶったのか、もう数えられなかった。男子100メートル、10秒23。日本代表スプリンター、神崎蓮(かんざき・れん)。そのまぶしい名前が少しずつ闇に沈んでいく間、七年間、隣にいたのは千紗だった。視力が落ち、一人ではレーンの位置さえわからなくなった蓮のために、夜明け前から手首のロープを握った。彼がもう一度走れるのなら、自分の一日を差し出すくらい、なんでもないと思っていた。遠征先の宿を手配し、補助用具を揃え、治療費や活動費が足りなくなれば夜ごとアルバイトに出た。「千紗、お前は大丈夫なのか?」光を失いつつある目を瞬かせ、蓮がそう尋ねるたびに、千紗は馬鹿みたいに笑って答えた。「先輩、私はもちろん大丈夫ですよ。私のことより、明日の練習のリズムを考えてください」大丈夫、という言葉は便利だった。それを口癖にしているうちに、千紗の名前は日本代表選考会の名簿から永遠に消えた。無理な伴走を重ねた足首の靱帯は、二度と元に戻らないほどすり減っていた。二十八歳の初冬。地下の安アパートに置いた卓上カレンダーの隅には、短くなった鉛筆で書きつけた、最後のメモが残っていた。『次は、自分のレースの準備もしよう』けれど、次は来なかった。蓮の従兄である代理人に押しつけられた雑務を、一晩かけて片づけた帰り道。廊下の突き当たりで、千紗の心臓はぷつりと止まった。冷たいコンクリートの床に頬が触れる瞬間まで思い出していたのは、手首を結んでいた赤いロープの、やるせない感触だった。そんなふうに、何もかも惨めに終わったはずだった。* * *「ちょっと、千紗! 何ぼうっとしてるの? 森川コーチがスタートの記録表持ってきてって!」耳を突く声とともに肺へ飛び込んできたのは、倒れた廊下のかび臭い空気ではなかった。目にしみるほど澄んだ、春の風。日差しに熱せられた赤いウレタントラックのゴムの匂いと、グラウンドの清々しい土の匂いだった。千紗は激しく息を吸い込み、その場でよろめいた。「はっ……!」「え、千紗? 顔、真っ白だよ。気持ち悪いの?」目の前には、蛍光色のジャージを着た藤田美咲(ふじた・みさき)が立っていた。西
last updateLast Updated : 2026-10-13
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2話. 三歩、半歩
手首をつかむ力は、容赦がなかった。それでも千紗は悲鳴を上げず、静かに呼吸を整えた。肌に食い込む、硬いまめの感触。七年間、夜明けのトラックを一緒に走り、嫌というほど握ってきた蓮の右手だった。「……神崎先輩」千紗は低く、落ち着いた声で呼びかけた。蓮の肩が、目に見えて強張る。暗がりで焦点を探していた黒い瞳に、戸惑いがよぎった。「朝倉……千紗?」「はい。二年の朝倉千紗です」蓮の視線が、千紗の顔のどこかをかすめて通り過ぎた。焦点の定まらない目には、激しい不安と身を守ろうとする本能が宿っていた。右手を見下ろすと、火傷でもしたように千紗の手首を放した。「……ここで何してる」冷えきった声だった。弱っているところを後輩に見られた羞恥が、鋭い棘になって突き出している。「森川コーチに、記録表を届けるところでした」千紗は痛む手首をさすりながら、蓮のつま先のすぐ前にある、修理中のハードルを示した。「入り口にハードルが置いてあったので。先輩が足を引っかけそうになって、声をかけたんです」蓮の顎に、ぐっと力が入る。暗い床を見ようとしている。けれど、明るいトラックから急に地下通路へ入ったせいで、暗順応がまったく追いついていなかった。通路を覆う影の中では、かろうじて感じ取れていた明暗の差さえ曖昧になる。蓮には、ハードルがどこにあるのかも見えていなかった。千紗は前の人生のように大騒ぎして腕をつかんだりしなかった。気の毒そうな目で見つめることもしない。ただ三歩離れた場所から、落ち着いて方向を伝えた。「右に三歩、よければ通れます。壁側に手すりがありますから」蓮が眉をひそめる。「自分でできる」傲然と顎を上げ、一歩を踏み出そうとした。けれど、突き出したハードルの脚につま先が当たり、上半身が大きく傾いた。「ちっ……!」唇から、荒い息が漏れる。床へ倒れかけたその瞬間、千紗の手が蓮の肘をしっかりと支えた。「先輩。意地を張って足首の靱帯を傷めたら、来月の春季大会に出られませんよ」蓮がはっとして、動きを止めた。千紗はハードルを足で押し、道を空ける。金属が床を擦る音に、蓮の顔がぴくりと動いた。転びかけた場所がどれほど近かったのか、ようやくわかったらしい。「支えてますから、壁の手すりをつかんでください。三歩だけです」肘に軽く手を添え、右へ導く。蓮は荒い呼吸を繰
last updateLast Updated : 2026-10-13
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3話. 一枚の受付控え
体育館の二階へ続く階段には、重い緊張が漂っていた。先を歩く四年生、桐谷沙耶の足取りは荒い。固く結んだ唇の隙間から、苛立った息が何度も漏れた。後ろに続く千紗の歩調は、静かで乱れがなかった。廊下には、西都体育大学陸上部が全国総合体育大会や種目別選手権で獲得したトロフィーと、色あせた写真が並んでいた。一見すれば、華々しい栄光の殿堂。けれどその内側は、黒田監督と一部の有力選手の私欲で、膿みただれている。前の人生の千紗は、この廊下を通るたびに、先輩の顔色をうかがって縮こまっていた。(私が少し我慢すれば、チームは丸く収まる)(先輩たちの進路が決まれば、いつか私にも順番が来る)そのお人好しな諦めこそが、青春を蝕み、二十八歳の孤独な死へと導いた毒だった。今なら、痛いほどわかる。先輩のスパイクを代わりに磨き、遠征先では雑用を引き受ける。「いい後輩だね」というわずかな褒め言葉のために、自分の権利を消していた、愚かな歳月。けれど今、千紗の目は冷静に澄んでいた。バンッ!沙耶が乱暴に監督室のドアを押し開けた。「監督!」革張りのソファに浅くもたれ、新聞をめくっていた黒田が、音を立てて湯飲みを置いた。「何だ。練習中に、廊下で何を騒いでる」沙耶は待ってましたとばかりに机へ近づき、大げさにため息をついた。「これ、聞いてください。二年の朝倉が、勝手に事務室へ行って、春季選考会に個人で申し込んだそうです」黒田の濃い眉が、不快そうに動いた。「何? 個人で?」沙耶は千紗を睨み、声をさらに張り上げた。「四年の分をまとめて、監督の決裁をいただいてから提出するって、ちゃんと伝えましたよね。実業団のスカウトを控えた先輩の枠を先に確保するのが、うちの伝統なのに。後輩がこんなふうに順番も守らず出てきたら、部の規律はどうなるんですか。前のリレーで金を取れたのも、後輩たちが犠牲になったおかげなのに、この子、自分だけよければいいんです」黒田は眼鏡を直し、千紗を上から下まで眺めた。視線は顔より先に、ジャージの胸についた大学のロゴへ向かう。この部屋では、選手の名前より所属が優先されるのが常だった。以前の千紗は、その目に怯え、息さえまともにできなかった。部から追い出す。その脅し一つで、自分の夢もスタートラインも手放し、蓮の目の代わりとなって雑用に追われるようになった。悲劇は、ここ
last updateLast Updated : 2026-10-13
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4話. 八レーンへ追いやられた名前
翌朝、グラウンドのロッカールーム前。練習用レーンと使用時間の新しい割り当て表が掲示されると、選手たちが集まり、ざわめき始めた。「これ、さすがにひどくない?」「午前九時から十一時、午後三時から五時まで、メインの三、四、五レーン、全部桐谷先輩と四年専用じゃん」「千紗は?」「正午。いちばん暑い時間……しかもウレタンが剝がれた八レーンと、土の補助グラウンドだって」表を見た美咲が、怒りを爆発させた。「千紗! 黒田監督と桐谷先輩、あからさまにテストを潰しにきてるじゃん! 正午なんて路面温度四十度まで上がるんだよ? どうやってスタート練習しろっていうの! 八レーンは排水溝の横で、でこぼこだし! 足首をやったらどうする気?」周囲の二年生たちも顔を見合わせるばかりで、黒田の割り当てに異を唱える者はいなかった。千紗は、苦く口元を緩めた。黒田がよく使う報復だった。書類で押さえつけられなければ、練習環境を壊してコンディションを削る。卑劣なやり方だ。けれど、怒りに感情を費やすことはしなかった。「美咲、大丈夫。トラックのせいにして、時間を無駄にしてる余裕はないから」割り当て表をスマートフォンで撮影し、証拠に残す。その足で、本館一階のトラック管理室に隣接した、森川コーチの研究室へ向かった。コン、コン。ノックしてドアを開けると、タブレットで選手の区間タイムを分析していた森川が顔を上げた。「入れ、千紗」すべてわかっていると言わんばかりの、冷たい表情だった。机の上には、黒田が決裁した、不公平な割り当て表のコピーがある。「見たか。桐谷に勝たせるために、ずいぶん露骨なことをしてくれたな」「はい。でも、言い訳はしたくありません。代わりに使える場所と練習時間を、ご相談したくて来ました」森川の目に、感心したような光がよぎった。何も言わず、隣の椅子を引いてくれる。千紗はそこでようやく、下ろせずにいたバッグを膝に置いた。現役時代、100メートルと200メートルで活躍した、筋を通す指導者。その目には、千紗の腹の据わった姿が頼もしく映った。「わかった。通常の貸し出しが始まる前、朝五時半から七時まで、四レーンを開けよう。管理室の鍵は私が責任を持つ。それと、午後五時から照明がつくまでの一時間は、補助トラックの直線を使え。私がスタートのタイムを取る」森川は引き出しから、高
last updateLast Updated : 2026-10-13
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5話. 赤いテザーの始まり
体育館前の、プラタナスの並木道。春の昼の日差しが、若葉の隙間から柔らかくこぼれていた。それなのに、蓮の周囲だけは、真冬の霜のように冷えきっていた。森川に強く受診を命じられた蓮は、こわばった顔でスパイクのバッグをかけ直していた。どこに視線を置けばいいのかわからない。その目は、土の地面にできた光と影の境を、不安げに探っていた。「神崎先輩」背後から、落ち着いた澄んだ声がした。はっとして振り向くと、汗を拭い、軽いジャージに着替えた千紗が立っていた。蓮の顎に、ぐっと力が入る。自分の弱った状態を、誰より先に見た後輩だ。また同情や下手な慰めを口にするつもりなら、今度こそ冷たく突き放してやる。「何だ。今、忙しい」「大学病院に行くんですよね。一人で受診するつもりなら、一緒に行きます」蓮の眉が、険しく跳ね上がった。「どうしてお前と病院に行くんだ。目に少し埃が入っただけだ。大したことないって、何度言わせる」「先輩。意地を張ってる場合じゃありません」千紗は少しも揺らがず、不安定な視線をまっすぐに受け止めた。そこに同情の色はなかった。毎日顔を合わせる、同じスプリンターとしての、淡々とした判断だけがある。「受付を探して、検査室にも移動しないといけないでしょう。さっきも通路で、ぶつかりそうになりました。道は私が見ます。検査を受けるか決めるのは先輩ですけど、一人で行って怪我だけはしないでください」蓮の息が止まった。視界の弱点を的確に突かれ、心臓がどくんと沈んだ。「お前……俺の目の何を知って、そんな確信したようなことを言う?」「何も知りません。医者じゃありませんから」千紗は静かに肩をすくめた。「だから、専門の先生に診てもらいましょうって言ってるんです。病院までは付き添いますけど、診察室には入りません。検査結果を監督やチームに伝えるかどうかも、先輩が決めることです。私は、道を案内するだけです」結果を誰に伝え、どう判断するか。その主導権を、すべて蓮に委ねる態度だった。弱みを握って振り回そうとか、安っぽい同情で優位に立とうとか、そんな気配は少しもない。蓮は唾をのみ、千紗のまっすぐな顔を見つめた。一人でバスに乗り、知らない病院の廊下をさまよえば、本当に階段から転げ落ちるかもしれない。胸の奥から、恐怖が頭をもたげていた。「……受付までだ。診察室には近づく
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6話. 午後五時の条件
手のひらに触れる赤いナイロンのテザーは、馴染みがなく、冷たかった。蓮は拳を固く握り、それを握り込んだ。怒りと屈辱。そして、認めたくない、かすかな救い。それらが胸の中で激しく渦を巻いていた。「俺に……これを持って走れって?」声が、荒くかすれた。「俺は日本代表だった。一人で10秒23を出した、神崎蓮だぞ。それが今度は、誰かと紐でつながなきゃ走れないっていうのか?」千紗は一歩も引かず、冷静に返した。「10秒23は、先輩が出した記録です。でも今は、通路のハードルも見落としたし、トラックで足も踏み外しましたよね。さっき検査を終えて出てきたときも、ちゃんと歩けなかった。私が見て見ぬふりをしたら、何か変わりますか?」容赦なく現実を突かれ、蓮の唇が震えた。「受け入れてください。目が見えなくなっても、心臓が止まったわけじゃないでしょう。脚が折れたわけでもないのに、どうして先に諦めるんですか」千紗は、テザーを握る手を軽く叩いた。「一人で走れないなら、二人で走る方法を覚えればいい。森川コーチに、今の状態を正直に話してください。安全な、ゆっくりした動きに慣れるところから始めるんです。選手としてトラックに残るには、それしかありません」千紗は振り返ることなく、病院の出口へ歩いていった。蓮はその場に立ち尽くし、手のひらの赤いロープを見下ろした。手を開くたび、ロープが手相の溝に引っかかる。病院へ来るまでは、考えもしなかった道だった。蓮は千紗の消えた出口のほうを、長い間向いていた。* * *翌日、午後三時五十分。西都体育大のトラック研究室。森川は、蓮が差し出した大学病院の精密検査の診断書を手に、深く黙り込んでいた。「網膜色素変性症……そうだったのか」目元に、深い無念と悲しみがよぎる。日本短距離界の宝ともいえるエースを襲った、あまりに残酷な運命だった。けれど、蓮の表情は昨日と違い、固く引き締まっていた。「コーチ。陸上をやめたくありません。国際パラリンピック委員会、IPCのT11の規定を調べました。専門のガイドランナーと一緒なら、もう一度トラックに立てます」森川が顔を上げ、蓮を見据えた。「以前の記録ばかり考えていたら、つらいぞ。一人で走っていたときの癖から、覚え直さなきゃならない。ガイドと合わせる時間も必要だ。それでも、やるか?」「やります。走れるなら、
last updateLast Updated : 2026-10-13
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7話. カーボンプレートの亀裂
公開テスト当日、午前八時。体育館一階、女子陸上部のロッカールーム。レースを前に、空気はいつも以上に冷たく、乾いていた。窓の隙間から差す朝日に、湿布のメントールと、古いウレタンゴムの匂いが混ざり、重く沈んでいる。ベンチで足首に非伸縮のテーピングを巻いていた美咲が、首をかしげて言った。「ねえ千紗。今朝、六時ちょっと過ぎに、桐谷先輩がこの辺うろうろしてたんだよね。水筒を探しに来たって、きょろきょろしてたけど……なんか、変な顔してた」何気ない一言が、千紗の頭に鋭く警鐘を鳴らした。(桐谷沙耶……やっぱり、おとなしくしてるはずがない)前の人生の記憶が重なり、不吉な予感が押し寄せた。急いでテーピングを終え、ロッカーへ向かう。手慣れた動きで暗証番号を押し、扉を開けた。棚のいちばん上に整えてあった、黒いシューズバッグを取り出す。この二日、森川と早朝から蹴り出しの角度を磨いてきた、オレンジ色のカーボンスパイクだ。ファスナーを開け、右足の靴を取り出した瞬間。指先に、見慣れぬ異物感が引っかかった。「……っ!」靴底の、カーボンプレートの側面。ピンがついた前足部とアーチをつなぐ、最も重要な支えに、工業用カッターナイフの鋭い切り傷が、深く刻まれていた。それだけではない。踵をしっかり包むはずのヒールカップも、内側の支持部分の縫い目が、巧妙にほどかれていた。短距離走の力学を知る人間が仕掛けた、悪意に満ちた破壊行為だった。ブロックを蹴って飛び出す瞬間、スプリンターの足首には、体重の四倍を超える爆発的な荷重がかかる。プレートの支えが耐えられなければ、着地で足が大きくぶれる。外側の靱帯を傷める危険がわかるからこそ、千紗は壊れた靴底に体重をかけなかった。履いてしまえば、傷は隠れる。千紗は舌先で乾いた唇を湿らせた。外側だけ見て足を入れていたら、スタートラインを蹴るまで気づかなかったかもしれない。前の人生の記憶が、稲妻のように走った。二十一歳の、春季大会前日の朝。千紗は、まったく同じ損傷に出くわしていた。(少し、靴が緩くなったのかな。でも今言ったら、監督に叱られる……)(先輩たちも大会前でぴりぴりしてるし。私が我慢して走れば大丈夫。どうにか、持たせよう)大会前日の練習で、一人、愚かに耐えて走った。五十メートルの加速区間で靴底が裂け、足首の外側靱帯が完全に切れ
last updateLast Updated : 2026-10-13
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8話. 借り受けた銀のスパイク
沙耶の口元に、卑しい嘲笑が浮かんでいた。千紗のスパイクが裂かれていることを、最初から知っていたかのような、傲慢で厚かましい態度だった。後ろの四年生たちも腕を組み、舌打ちをしながら、情けないものを見るような目を向けてくる。「だから、最初から先輩に譲ってれば、こんな恥かかなくて済んだのに」「今さら人のせいにしようってわけ?」狭い研究室に、卑劣な嘲りが飛び交った。それでも千紗は、瞬き一つしなかった。壊されたオレンジ色のスパイクを机にそっと置き、沙耶の目をまっすぐに見た。「桐谷先輩」声は低く、穏やかだった。「私、いつ走れないって言いました?」沙耶の表情が、わずかに固まった。「何?」「私の棄権を心配していただかなくても大丈夫です。靴はコーチと相談して何とかしますから、先輩はご自分の準備をしてください。トラックで待ってます」「あんた……!」沙耶が声を荒らげかけたところへ、森川の冷たい声が割って入った。「桐谷。余計なことを言ってないで、トラックでアップしてこい。テストは九時ちょうどに始める」その気迫に、沙耶は歯を食いしばって背を向けた。上級生たちが出ていくと、森川はすぐに研究室の奥、用具室の金庫を開けた。取り出したのは、濃紺の革のスパイクケースだった。「千紗、こっちへ」蓋を開けると、アルミのような銀の光沢を帯びた、カーボンプレート入りのスパイクが現れた。「現役最後のアジア大会、100メートル決勝で履いた靴だ。二十四センチ。お前と、ちょうど同じサイズだよ。ソールの硬さと反発は、私が確かめてある」胸に、熱いものが込み上げた。師が最も輝いていた時代、その魂が宿るような靴だった。森川は工具箱を取り出し、慣れた手つきで底のピンを交換した。「今日のトラックに合わせて、新しいピンにした。七ミリだ。まず履いて、蹴り出すときに違和感がないか教えてくれ」千紗は足を入れ、紐を締めた。甲を包む革の、確かな密着感。土踏まずをぴたりと支えるカーボンの弾力。それが、全身の神経を鮮やかに貫いた。用具室前のゴムマットで、軽くその場で跳び、三歩のバウンディングを試す。タンッ、タンッ!ヒールカップが踵と足首をしっかり支え、足裏から返る反発は、生きたばねのようだった。「どうだ?」「完璧です。私の足に、ぴったりです」「よし。それでも全力で走る前に、もう
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9話. 11.46――記録の反撃
スターティングブロックのペダルが、足裏を確かに支えていた。メイントラック、五レーン。千紗は白いスタートラインのすぐ後ろに両手をつき、荒くなりかけた呼吸を、下腹の奥へ沈めた。隣の四レーンから、沙耶の鋭い息遣いが耳に刺さる。沙耶は顎をひねり、千紗を睨んでいた。けれど千紗の目は、百メートル先の赤いフィニッシュラインだけを捉えていた。「用意――Set」号令とともに、腰が上がる。全身の筋肉と靱帯が、張りつめた弓の弦のように力を蓄えた。フィニッシュライン付近に集まった部員たちの視線が、一斉に二人へ向いた。美咲は拳を固く握り、落ち着かず足を動かす。四年生たちは腕を組み、沙耶の圧勝を疑いもしない顔で、ささやき合っていた。「沙耶、先週の計測で11秒50まで出しただろ」「千紗が必死になったって、四年の経験には勝てないよ。しかも、急に靴まで替えて」ひそひそ声が風に乗り、スターティングブロックまで低く流れてきた。それでも、千紗の耳には何も入らなかった。森川が自ら交換してくれた、七ミリのセラミックピンの確かな支え。そして、自分の心臓が送り出す熱い鼓動。それだけが、全身を満たしていた。号砲を待つ、短い静寂。パァンッ!耳を裂く銃声とともに、白い火薬の煙が宙へ立ち上った。リアクションタイム、0.128秒。沙耶の0.164秒を凌ぐ、鮮やかな反応だった。千紗の体が、ばねのようにブロックを蹴って飛び出す。ダンッ!ブロックを押した力が、一歩目へつながる。借りた靴の中で、足が滑ることはなかった。七ミリのセラミック製ピラミッドピンがトラックを確実に捉え、爆発的な推進力を生んだ。低く保った上体。最後までブロックを押し切った、一歩目。早朝練習では何度も先に起き上がってしまった体が、今度は耐えた。千紗はその感覚を逃さず、次の一歩を踏み出した。十メートル、二十メートル、三十メートル!四レーンの沙耶が、怒りに任せるように飛ばしていく。だが千紗の加速は、すでに違う軌道へ乗っていた。沙耶は十五メートルにも届かないうちに、焦って上体を起こしてしまった。足首が左右にぶれ、地面の反発が、宙へ逃げる。一方の千紗は、三十メートルまで低く鋭い前傾を保ち、力を余すことなく前へ送り出していた。接地時間、0.082秒。速さを無駄にしない、効率的で美しい走りだった。四十メートル。
last updateLast Updated : 2026-10-13
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10話. 待つ人が、入れ替わる
森川の迅速な対応と、スポーツ支援課の監査チームの介入で、陸上部の勢力図は一夜にして変わった。公開テストで11秒46を出し、圧勝した千紗。春季大会の100メートルと、4×100メートルリレーのアンカーとしての出場が、陸連のシステム上で正式に確定した。一方、沙耶については、電子錠のログ、防犯カメラ映像、後輩の目撃証言が監査室へ正式に提出された。「用具の故意の損壊と、後輩選手に対する威圧行為」の疑いで、懲戒委員会にかけられることになった。黒田も、不公平な練習枠の割り当てと不正の疑いで、特別監査を受ける身となった。もう、千紗の出場権を好きに振り回すことはできない。理不尽な抑圧を自ら打ち破った千紗の練習環境は、ようやく正常に戻った。沙耶が懲戒委員会にかけられるという知らせは、部全体に大きな衝撃を与えた。先輩という肩書を振りかざし、後輩を押さえつけてきた結託が、一気に崩れたのだ。ようやく息ができる。そう言う後輩たちは、千紗のロッカーの前に、ビタミン飲料や応援のメモを、そっと置いていった。『朝倉先輩、かっこよかったです!』『先輩のおかげで、もう顔色をうかがわずに練習できます!』メモを読むと、胸の奥が熱くなった。千紗は紙を折り、練習日誌に挟んだ。名前のないものもあった。監査室に自分の名を出した芽衣のことが浮かぶ。廊下で会ったら、自分から声をかけようと思った。今やメイントラックの四レーンは、朝倉千紗が、自分の練習に使えるレーンだった。* * *午後五時ちょうど、補助トラック。千紗は自分の100メートルインターバルをきっちり終え、タオルで首筋の汗を拭いた。約束の時刻。ベンチから、蓮が立ち上がる。左手首には赤いナイロンのテザー。目には、光を完全に遮るアイマスクを、しっかりとつけていた。「先輩、三十分の練習、始めますね」千紗は近づき、自分の右手首に、反対側の面ファスナーを巻いた。五十センチの、張りつめたつながり。「今日はゆっくりしたジョギングから、五十メートルの軽いビルドアップまで、歩幅を合わせます。急にスピードを上げないでください」「わかった」蓮がうなずく。いち、に。いち、に。二人のランニングシューズが、並んでトラックを踏んだ。これまでの歩行練習のおかげで、歩幅の同調は、見違えるほど正確になっていた。千紗の軽い手首の振りに、蓮の腕が
last updateLast Updated : 2026-10-13
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