LOGIN視力を失っていくエースを支え、短距離選手ユン・チェアは自分の夢を諦めた。命を落とし、21歳の春に戻った彼女は、今度こそ自分の名で代表選考に挑む。ところが、彼も前世の記憶を取り戻していた。赤いテザーで再びつながる二人は、愛もそれぞれの夢も守れるのか。
View More足首が折れそうに疼くたび、朝倉千紗(あさくら・ちさ)は古びたシューズの紐を、いっそうきつく結び直した。
底の縁は擦り切れ、踵も破れている。何度このスパイクを履いてトラックの土埃をかぶったのか、もう数えられなかった。
男子100メートル、10秒23。日本代表スプリンター、神崎蓮(かんざき・れん)。
そのまぶしい名前が少しずつ闇に沈んでいく間、七年間、隣にいたのは千紗だった。
視力が落ち、一人ではレーンの位置さえわからなくなった蓮のために、夜明け前から手首のロープを握った。彼がもう一度走れるのなら、自分の一日を差し出すくらい、なんでもないと思っていた。
遠征先の宿を手配し、補助用具を揃え、治療費や活動費が足りなくなれば夜ごとアルバイトに出た。
「千紗、お前は大丈夫なのか?」
光を失いつつある目を瞬かせ、蓮がそう尋ねるたびに、千紗は馬鹿みたいに笑って答えた。
「先輩、私はもちろん大丈夫ですよ。私のことより、明日の練習のリズムを考えてください」
大丈夫、という言葉は便利だった。
それを口癖にしているうちに、千紗の名前は日本代表選考会の名簿から永遠に消えた。無理な伴走を重ねた足首の靱帯は、二度と元に戻らないほどすり減っていた。
二十八歳の初冬。地下の安アパートに置いた卓上カレンダーの隅には、短くなった鉛筆で書きつけた、最後のメモが残っていた。
『次は、自分のレースの準備もしよう』
けれど、次は来なかった。
蓮の従兄である代理人に押しつけられた雑務を、一晩かけて片づけた帰り道。廊下の突き当たりで、千紗の心臓はぷつりと止まった。冷たいコンクリートの床に頬が触れる瞬間まで思い出していたのは、手首を結んでいた赤いロープの、やるせない感触だった。
そんなふうに、何もかも惨めに終わったはずだった。
* * *
「ちょっと、千紗! 何ぼうっとしてるの? 森川コーチがスタートの記録表持ってきてって!」
耳を突く声とともに肺へ飛び込んできたのは、倒れた廊下のかび臭い空気ではなかった。
目にしみるほど澄んだ、春の風。
日差しに熱せられた赤いウレタントラックのゴムの匂いと、グラウンドの清々しい土の匂いだった。
千紗は激しく息を吸い込み、その場でよろめいた。
「はっ……!」
「え、千紗? 顔、真っ白だよ。気持ち悪いの?」
目の前には、蛍光色のジャージを着た藤田美咲(ふじた・みさき)が立っていた。西都体育大学陸上部の同期だ。
五年前、実業団に入ってから疎遠になったはずの友人が、二十一歳の瑞々しい顔で、そこにいる。
千紗は震える手を伸ばし、自分の脚を見下ろした。
余分な脂肪のない、引き締まったふくらはぎ。試しに足踏みしてみても、関節を蝕んでいた慢性の炎症も、あの凄まじい痛みも、嘘のように消えていた。
ズボンのポケットから取り出したスマートフォンには、日付がくっきりと表示されていた。
【2024年4月7日(日)13:42】
二十一歳。西都体育大学二年生の春だった。
(戻ってきた……私、本当に、もう一度やり直せるの?)
夢かと思って頬をつねると、ひりひりとした痛みが広がった。
「千紗、喉渇いた? 水、飲む?」
美咲が指さしたベンチに駆け寄り、ボトルをつかんで一気にあおった。
「ぷはっ! ごほっ、ごほっ!」
「ちょっと! それ、私のレモン味のスポドリ! 千紗の青い水筒はそっちでしょ!」
慌てた美咲が、ぱん、と背中を叩く。酸っぱい飲み物が喉を刺激した途端、咳と一緒に笑いがこぼれた。
「けほっ、あはは……ごめん。すごく、喉が渇いてて」
生きている。
その実感が、全身の細胞に満ちていく。ちゃんと息ができる。
けれど、笑っていられたのはほんの一瞬だった。四月七日。その日付が、稲妻のように脳裏を走った。
春季大学陸上選手権兼、日本代表第一次選考会の申し込み締切日。締め切りは、今日の午後五時だ。
一度目の人生のこの日、千紗は申込書を出せなかった。
先輩の桐谷沙耶(きりたに・さや)に「卒業を控えた四年生に譲るのがうちの慣例」と書類を止められ、黒田雅彦(くろだ・まさひこ)監督にも「チームの和のためだ。今回は譲れ」と肩を叩かれた。
そしてその夜、視界がかすむ恐怖に怯える蓮の部屋に呼ばれ、歩行や動作に慣れるための練習を手伝った。自分の人生でいちばん輝いていたはずのスタートラインを、自分から捨ててしまったのだ。
(今度は、絶対に譲らない)
千紗は拳を握りしめた。誰かの人生を代わりに走ったところで、誰のことも救えない。
ポケットの中で、もう一度スマートフォンを握る。締め切りまで、まだ時間はあった。今日は、まず自分の名前を出す。
「美咲、ちょっと本館の事務室行ってくる!」
「え? 森川コーチの記録表は?」
「戻ったら、すぐ届ける!」
千紗は振り返らず、トラックを蹴って走り出した。
タン、タンッ!
スパイクではなく普通のランニングシューズなのに、地面を蹴る足が、驚くほど軽かった。
* * *
大会の受け付けのため、休日も開いているスポーツ支援事務室。壁の時計は十四時十分を指していた。
「朝倉? どうしたの、そんなに汗かいて」
「春季大会の申込書を出しに来ました。女子大学の部、100メートル個人です」
千紗は壁際に置かれた用紙を取り、慣れた手つきでボールペンを走らせた。
【所属:西都体育大学陸上部/氏名:朝倉千紗/種目:女子100m/公認自己ベスト:11秒48】
前の人生で、血の涙を流す思いで諦めた自分の名前。その書類を受け取った助手が、首をかしげた。
「あれ? 四年の桐谷さんが、女子短距離は自分でまとめて監督の決裁をもらってから出すって言ってたけど。沙耶さんには言ってきたの?」
前とまったく同じ手口だ。千紗はにこりと笑い、一語ずつはっきり答えた。
「今回の大会要項を確認しました。標準記録を突破していれば、大学に個別の申込書を出せますよね。私が署名したこの用紙で、受け付けをお願いします」
「え? 規定では、そうだけど……」
いつもおとなしい後輩に参加条件を示され、助手は明らかに戸惑っていた。
「沙耶さんがまとめた分と重複したら、あとで揉めるよ」
「重複していたらシステムで照合して、私の自筆署名があるほうを正式な申請にしてください。自分で、出しに来たんですから」
千紗は用紙の下に、丁寧な字で署名した。
「今、受付印を押していただけますか?」
きっぱりした態度に、助手は渋々、赤い受付印を押した。
【受付完了:2024.04.07 14:18】
手のひらほどの控えを胸に抱いた瞬間、熱い震えが胸の奥からこみ上げた。前の人生では、なすすべもなく奪われた最初のスタートライン。それをようやく、自分の手に取り戻したのだ。
* * *
グラウンドへ戻ったとき、千紗はぴたりと足を止めた。
グラウンドの片隅。四レーンのスターティングブロックの近くに、春風を背負い、一人で立つ大きな人影があった。
百八十六センチの、均整の取れた体格。濃い黒髪の下には鋭い顎の線と、固く結ばれた唇。
神崎蓮だった。
日本短距離界の、誰もが認めるエース。一度目の人生で千紗が七年もの青春と体のすべてを捧げ、守ろうとした人。
蓮は、スターティングブロックの前にじっと立っていた。
一見すれば、今も冷ややかで傲慢な天才のままだ。けれど、千紗にははっきりわかった。
足元の白線を見下ろす角度。焦点が合わず、わずかに傾く頭。つま先でブロックを小さく蹴り、位置を探る不安定な動きまで。
(網膜色素変性症……このころも、見えないことを一人で隠してたんだ)
胸の片隅が、ちくりと痛んだ。
駆け寄って、「先輩、大丈夫ですか。私がそばにいます」と声をかけたい。その衝動が喉までせり上がってきた。それでも千紗は唇を噛み、踏みとどまった。
(今度の人生でも、あなたのそばにいる。でも、自分のスタートラインも守る)
静かに息を整え、芝生のほうへ回ろうとした。
そのとき蓮がスパイクのバッグを肩にかけ、補助競技場へ続く地下通路に向かって歩き出した。
まぶしい屋外のトラックから、暗い通路へ踏み入れた瞬間。急な明暗の差に、蓮の足取りが大きく乱れた。
通路の入り口には、修理中の金属製ハードルが置かれていた。
トンネルのように視野が狭くなった蓮には、死角の金属フレームが見えていないらしい。
つま先がぶつかる、その直前だった。
「先輩、危ない!」
千紗が駆け寄り、服の裾をつかもうとした刹那。闇の中で神経を尖らせていた蓮の手が、稲妻のように宙を切った。
ばしっ!
硬く、荒れた手が、千紗の細い手首をつかむ。骨が痺れるほど強い力だった。
「あっ……」
日陰の中で、蓮の黒い瞳が千紗に向けられた。
焦点がかすかに揺れている。それでも、獰猛な獣のように警戒を張り巡らせた、冷たい目だった。
蓮は息をひそめ、低く唸るように言った。
「そこに、誰かいるのか?」
数日後、東京、世田谷署の経済犯罪捜査担当の前。黒いマスクを深くつけた神崎隼人が、捜査員に連れられ、護送車へ向かっていた。横領と業務上の背任、さらにネット上で虚偽の事実を流した名誉毀損の容疑で請求されていた身柄拘束の令状が、裁判所から発付されたのだ。カメラのフラッシュが光る中、隼人はうつむき、逃げるように顔を隠した。蓮の網膜疾患を弱みにつけ込み、治療費を奪った。他人名義の携帯電話で偽のメッセージを作り、千紗を破滅させようとした。そんな恥知らずな詐欺師の末路は、惨めだった。大学の匿名掲示板やニュースサイトには、千紗への非難に代わって、詐欺を働いた代理人の身柄拘束を伝える記事と、二人の選手を応援する言葉が、次々と並んだ。同じころ、西都体育大学の学長直属の監査室でも、厳しい処分が下された。黒田雅彦監督は、監査室の会議室へ呼び出され、冷徹な処分通知書を受け取った。「黒田監督。桐谷沙耶選手によるスパイク破損事件をもみ消そうとした職権の濫用、そして、神崎隼人の虚偽の報道工作を知りながら黙認し、手を貸した事実が、特別監査ですべて確認されました。懲戒委員会の決定により、三か月の減給とし、陸上部の選手指導、およびエントリーに関する専決権を、全面的に剥奪します」監査室長の冷静な通告に、黒田は顔面蒼白になった。だが、もう反論する理由はなかった。体育館のロビーの掲示板には、朝倉千紗選手の名誉回復と、神崎蓮選手のT11日本代表への挑戦を、全面的に支持するという、大学本部の正式な告知が掲げられた。選手の指導と出場の決裁は、森川真紀コーチへ一本化された。千紗は、その告知を写真に残した。誰が責任を持って答えるべきなのか。今度は、名前がはっきりと書かれていた。* * *蓮は上原弁護士の法律事務所で、新たな標準選手マネジメント契約書に、自筆で署名した。かつて従兄の隼人へ、白紙委任した契約。その効力と代理権は、整理された。原本は今後、責任を追及する際に必要になるため、法律事務所で保管した。新しい契約書には、決定権と代理業務の範囲が、分けて記されていた。蓮は項目を読み上げる音声を止め、自分への確認なしに変更できる予定があるのかと、問い直した。隼人が着服した、ドイツのクリニックの予約金300万円についても、銀行口座の仮差押えと、強制的な返還の手続きが、順調に進んでいた。「神崎さん
火曜日、午前九時五十分。東京・千代田区、東京プレスセンター十九階の控室。厚い防音扉の向こうから、数百人の記者のざわめきが、鈍く伝わってきた。中継カメラの三脚が床を擦る音と、フラッシュの充電音が、落ち着きなく入り混じっていた。鏡の前に立つ神崎蓮は、きちんと着込んだ黒いスーツの襟を、静かに直した。濃いサングラスの向こうには、かすかな緊張があった。それでも、握り締めた拳は、もう震えていなかった。隣にいたガイドランナーの高瀬直人が、蓮の広い肩を軽く叩いた。「緊張するなよ、蓮。お前がトラックで流した汗は、俺たちが知ってる。隣にいるから、用意した話から、一つずつしていこう」蓮の代理人を務める上原弁護士も、分厚い書類をまとめながら、うなずいた。「警視庁のサイバー犯罪捜査担当が、神崎隼人氏の他人名義の携帯電話を使った架空アカウントについて、作成時のIPアドレスと、口座の資金移動を調べるための令状申請を済ませました。アペックス・ジャパンからも、会見に合わせて、法務部名義の正式な支持声明が届いています。準備は万全です」蓮は深く息を吸った。「行こう」午前十時ちょうど。控室の扉が開き、蓮は会見場の壇上へ、大きな足取りで上がった。数十台のカメラのフラッシュが、一斉に滝のように降り注いだ。白い光の中でも、蓮は背筋を伸ばし、マイクの前に立った。ざわついていた会場が、一瞬にして、水を打ったように静まった。蓮はマイクへ向かい、淡々と口を開いた。「こんにちは。陸上短距離選手の、神崎蓮です」低く落ち着いた声が、スピーカーを通して、会場の隅々まで届いた。「最近報じられた、俺の健康状態と私生活をめぐる問題について、当事者として、自分の口から真実をお伝えするために、ここに立ちました。体の状態も、選手としての今後も、誰かに歪めて代弁されるのではなく、俺自身の声で伝えるべきだと思ったからです」蓮は壇上のスクリーンに、東都大学病院の診断書を映した。「俺は、網膜色素変性症を患っています。周辺の視野だけでなく、中心視力も大きく損なわれ、矯正しても形の判別が難しい状態です。四月二十五日、国内のスポーツクラス分けで、T11の判定を受けました。今はガイドとともに、選考会へ向けて準備しています」記者席から、抑えたため息と驚きの声が、同時に漏れた。かつて一人でトラックを駆けた日本代表が、
体育支援課の大会議室。ブラインドの隙間から、正午の鋭い日差しが差し込んでいた。本館の正面玄関には、朝早くから取材陣が詰めかけ、テレビカメラが並び、フラッシュが光っていた。ポータルサイトのトップを埋め尽くした、悪意あるゴシップ記事のせいだった。【独占】神崎蓮の盲目的な愛? 後輩のA選手、数百万円の練習費を要求した疑い……知人とのメッセージを暴露キャンパスは、ひそひそ話と、好奇心に満ちた視線で沸き返っていた。前の人生なら、千紗は頭が真っ白になって、部屋に閉じこもり、泣いていただろう。(私がそばにいるから、先輩をだめにしてしまうのかな)。そんな自責の念に息が詰まり、世間の非難を一人で背負い込んだはずだった。けれど、今の千紗は違った。森川真紀コーチに案内され、会議室へ向かう足取りには、少しのためらいもなかった。練習日誌と通帳の写し、警視庁で受け取った受理票をしっかり持つ指先は、冷静さを保っていた。「その場ですぐに答える必要はない。質問はまとめて受けて、確認できたことだけ話そう。つらくなったら、私が隣で止めるから」「はい、コーチ。準備はできています」千紗は決然とうなずいた。自分のスタートラインを守るためなら、どんな泥仕合からも逃げないつもりだった。木の会議テーブルの向こうには、蓮のメインスポンサーである大手スポーツブランド、アペックス・ジャパンのマーケティング統括部長と、社内法務部の弁護士二人が、硬い顔で座っていた。テーブルには、従兄で代理人の隼人が、スポンサーへ緊急に提出したという、四十ページの精算監査報告書が置かれていた。『選手の心身が弱った状態につけ込んだ、後輩選手による不当な金銭詐取と契約違反の疑いに関する報告』表紙にある刺激的な文言を聞かされ、蓮の顎が、冷たくこわばった。マーケティング部長は咳払いをし、書類の束を指で軽く叩いた。「神崎選手。当ブランドは、この三年間、あなたの誠実さと闘志を信じ、毎年数千万円規模の練習費と専用の用具を、全面的に支援してきました。それなのに、視覚疾患を隠したうえ、後輩の選手へ多額の練習支援金を流用した疑いまで報じられた。今日、明確な説明をいただけなければ、契約解除はもちろん、違約金を請求する訴訟も、やむを得ません」スポンサーからの、鋭い最後通告だった。前の人生の蓮なら、相手を守れなかったという自責と絶望
月曜の朝、西都体育大学のキャンパスは、早くから蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。本館の前を行き交う学生や運動部員が、スマートフォンをのぞき込んではひそひそと話している。その声が風に乗って広がった。体育館の入り口へ向かう千紗の背中に、刺すような視線が突き刺さる。ポータルサイトのスポーツ・芸能欄。その一位に、太い文字で刺激的な見出しが躍っていた。【独占】『陸上日本代表』神崎蓮、失明に至る希少疾患で引退の危機?【衝撃】網膜色素変性症の診断を隠して活動……後輩陸上選手との密会を激写!記事の下には、先週末、大学のある街の路地で、私服姿で手をつないで歩く蓮と千紗の写真が、モザイクもなく載せられていた。『西都体育大陸上部の看板選手、神崎蓮(22)が、中心視力を失っていく遺伝性の網膜疾患を患っており、最近、ひそかに視覚障害者スポーツのクラス分けを申請していたことが明らかになった』『あるスポーツ界の関係者によると、神崎は先日の春季大会で優勝した短距離の有望選手、朝倉千紗(21)と私的に親密な関係にあり、練習の補助や個人秘書という名目で、多額の金銭がやり取りされた形跡があるという』記事を読み進める千紗の目が、冷たく凍りついた。(スポーツ界の関係者……神崎隼人)蓮の従兄で代理人の神崎隼人が、委託契約の解除通知を逆恨みして、悪意を持って情報を流したに違いなかった。蓮の病名を隠し、支援金を横領しようとして失敗した。今度は蓮の視覚障害を刺激的なゴシップとして売り払い、破滅させようとしている。醜い悪あがきだった。「千紗、これ見た?」寮のロビーへ駆け込んできた同級生の藤田美咲が、真っ青な顔でスマートフォンを差し出した。「朝から記事だらけで、学内の匿名掲示板も陸上の掲示板も大騒ぎだよ。黒田監督が、千紗と神崎先輩に、今すぐ監督室へ来いって」「わかってる、美咲」千紗は深く息を吸い、鞄を肩にかけ直した。前の人生の千紗なら、髪の毛が逆立つほどの恐怖に襲われ、泣いていただろう。「先輩を守らなきゃ、私が全部かぶらなきゃ」と、慌てて記者たちへ言い訳を並べたはずだ。千紗はコメントをさらに読もうとして、画面を消した。指が何度も同じ場所で止まってしまう。美咲に鞄を渡されて、ようやく歩き出した。嘘と歪曲だらけの報道工作に、感情で応じてはいけない。それは、相手が用意した泥沼へ、