Home / 青春 / 君ともう一度、スタートラインに立つ / 15話. 11.82――知らない速さ

Share

15話. 11.82――知らない速さ

Author: YuIm
last update publish date: 2026-10-13 14:53:57

春の日差しがまぶしく降り注ぐ、ロッカールーム前の屋外ベンチ。

直人が肩から重いカーボン素材のスポーツバッグを下ろし、からりと笑った。

濃い小麦色に焼けた、たくましい首筋。短距離選手らしく、大きく発達した大腿四頭筋。

男子100メートルの公認自己ベストは、10秒42。

大学時代、全国総合体育大会の決勝で蓮と0.1秒差の名勝負を演じた、昔からのライバルだった。実業団を経て、視覚障害者陸上T11の専門ガイドへ転向した、ベテランスプリンターだ。

汗を拭い、二人へ手を差し出した。

「久しぶりだな、蓮。森川コーチから連絡をもらって、飛んできたよ」

蓮が、まめのある硬い手で握り返す。

「来てくれてありがとう。ガイドランナーになったって聞いた」

「実業団で短距離をやってたころ、パラリンピックの並走レースを生で見たんだ。二人のスプリンターが呼吸を一つにして、10秒台を駆け抜ける。それを見た瞬間、心臓が破裂しそうでさ。そこからガイドの訓練を受けて、選手登録の手続きをしたんだ」

直人はバッグを開け、用具を一つずつ、テーブルへ整然と並べた。

伸縮しない競技用テザー。練習中の号令を確かめるための無線インカムの
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   33話. トレーの上でばれた恋

    朝七時半。沖縄、名護の合宿の選手食堂。合宿に参加した各大学の陸上部と、実業団の選手たちで、食堂は朝早くからにぎわっていた。配膳台の焼きたての牛ヒレステーキと目玉焼きから、湯気が上がる。その隣には、新鮮なフルーツサラダが並んでいた。トレーを持ってテーブルの隅に座った千紗は、箸でサラダをつつきながら、何度も咳払いをこらえていた。向かいに座る、蓮のせいだった。いつもどおり黒い練習着に、濃いサングラス。きちんとした姿勢で座っている。近くのテーブルの他大学の選手が、目を合わせることすらためらい、「やっぱり西都体育大の神崎先輩は、迫力が違うな」とささやくほど、看板選手らしい冷たい威圧感は、そのままだった。けれど、テーブルの上で起きていることは、正反対だった。蓮は、自分のトレーの卵をやると言った。千紗が皿を近づけると、指先で場所を確かめ、目玉焼きを一つ、慎重に移した。ことり。「先輩……?」千紗が目を丸くすると、蓮は咳払いをし、何でもないようにささやいた。「たんぱく質、補給しろ。今日の午前は、インターバルがきついんだろ」「私、もう二個もらってますけど?」「じゃあ、腹が減ったら食べろ。無理に食べさせたいわけじゃなくて……お前の好きな半熟だったから」そっけない口調とは裏腹に、サングラスの向こうの耳は、真っ赤だった。しかも、指先で確かめながらリンゴの皮をきれいにむき、千紗の皿の端へ、そっと差し入れた。隣で見ていた直人が、ぽかんと口を開けた。スプーンに載っていたチャーハンが、ぽとりと落ちた。

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   32話. テザーのない、初めてのキス

    軒先を伝う大粒の雫が、少しずつ細くなり、やがて、ぽつ、ぽつと途切れた。名護の夏のにわか雨は、あれほど激しかったのが嘘のように、素早く夜空の向こうへ去っていった。雨に洗われた夜の空気に、濃い土の匂いと、しょっぱい潮の香りが、ひときわはっきりと立ち上った。濡れたアスファルトには、木製の街灯の光が、長くにじんでいた。軒下に寄り添って立つ二人の息は、まだ弾んでいた。蓮の親指は、千紗の額のあたりに触れたままだった。雨粒をそっと拭っていた手が、耳元をかすめ、細い顎の線へ、ゆっくり滑り下りた。スプリンターらしい硬いまめのある、大きな手のひら。その手が肌に触れた瞬間、千紗は全身を走る甘い痺れに、深く息を吸い込んだ。「雨……すっかり、やみましたね」小さくささやいた。雨音が消えると、胸の中の騒がしい鼓動が、そのまま蓮に聞こえてしまいそうで、顔が熱くなった。蓮は手を引かず、低く落ちた声で尋ねた。「もう少しだけ……歩いてから、帰ろうか」「はい」二人は軒下を出て、しっとりと濡れた海沿いの遊歩道へ歩いた。海の上の黒い雲が切れ、銀色の月明かりが、水平線いっぱいに砕けていた。波が寄せるたび、砂州に残る雨粒が、宝石のようにきらめいた。蓮は片手で杖を突き、もう片方の手を、千紗へ差し出した。握りやすいように、少し指を開いた。千紗は、濡れた道に段差があるときだけ、短く伝えた。それ以外は、言葉もなく歩いた。道を教えるためにつないだ手ではなかったが、必要なことまで黙っているわけではなかった。

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   31話. 償いではない告白

    夜九時の、名護の海沿いの遊歩道は、人もまばらだった。ざあっ、ざあっ。黒い玄武岩の磯を、優しくなめては引いていく。夜の海の波音が、静けさを満たしていた。潮の匂いとともに吹く夜風が、昼の練習で熱を持った大地を、涼しく冷ましてくれた。宿舎の部屋を出る前、同室の美咲がベッドから跳ね起きた。千紗のジップアップパーカーの襟を払い、念を押した。「ねえ、千紗。神崎先輩に夜の散歩に誘われたのに、まさか、いつもの三本線のサンダルをつっかけて出るつもりじゃないよね? お願いだから、かわいい白いスニーカーにしなよ。今日の二人、絶対いい雰囲気になるって!」「美咲、ただの散歩だってば」「どこが、ただの散歩よ! 西都体育大でいちばん隙のない男が、夜の海を歩こうって言ってるんだよ? 普通の散歩なわけないでしょ。応援してるよ、うちのチャンピオン!」美咲のからかうような見送りを背に、出てきた千紗は、遊歩道の入り口の木製の街灯の下にいた。地面の貝殻を、つま先で軽く転がしていた。従兄で代理人の隼人は身柄を拘束され、黒田監督も、もう二人の練習を左右できない。すべての手続きが終わったわけではないが、今夜くらいは、あの二人からの連絡を待ち、携帯電話を握り締めている必要はなかった。ただ、互いにだけ向き合えるようになった、初めての夜だった。こつ、こつ。砂粒の混じる舗道を突く、硬い杖の音が聞こえてきた。千紗は顔を上げた。街灯の明かりの中を、蓮が歩いてきた。練習用のサングラスを外し、ゆったりした濃いグレーのスウェットに、トレーニングパンツをはいていた。乱れた黒髪のあいだからのぞく額と、深い黒褐色の瞳が、街灯の

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   30話. 夕焼けの下で言いかけたこと

    数日後、東京、世田谷署の経済犯罪捜査担当の前。黒いマスクを深くつけた神崎隼人が、捜査員に連れられ、護送車へ向かっていた。横領と業務上の背任、さらにネット上で虚偽の事実を流した名誉毀損の容疑で請求されていた身柄拘束の令状が、裁判所から発付されたのだ。カメラのフラッシュが光る中、隼人はうつむき、逃げるように顔を隠した。蓮の網膜疾患を弱みにつけ込み、治療費を奪った。他人名義の携帯電話で偽のメッセージを作り、千紗を破滅させようとした。そんな恥知らずな詐欺師の末路は、惨めだった。大学の匿名掲示板やニュースサイトには、千紗への非難に代わって、詐欺を働いた代理人の身柄拘束を伝える記事と、二人の選手を応援する言葉が、次々と並んだ。同じころ、西都体育大学の学長直属の監査室でも、厳しい処分が下された。黒田雅彦監督は、監査室の会議室へ呼び出され、冷徹な処分通知書を受け取った。「黒田監督。桐谷沙耶選手によるスパイク破損事件をもみ消そうとした職権の濫用、そして、神崎隼人の虚偽の報道工作を知りながら黙認し、手を貸した事実が、特別監査ですべて確認されました。懲戒委員会の決定により、三か月の減給とし、陸上部の選手指導、およびエントリーに関する専決権を、全面的に剥奪します」監査室長の冷静な通告に、黒田は顔面蒼白になった。だが、もう反論する理由はなかった。体育館のロビーの掲示板には、朝倉千紗選手の名誉回復と、神崎蓮選手のT11日本代表への挑戦を、全面的に支持するという、大学本部の正式な告知が掲げられた。選手の指導と出場の決裁は、森川真紀コーチへ一本化された。千紗は、その告知を写真に残した。誰が責任を持って答えるべきなのか。今度は、名前がはっきりと書かれていた。* * *蓮は上原弁護士の法律事務所で、新たな標準選手マネジメント契約書に、自筆で署名した。かつて従兄の隼人へ、白紙委任した契約。その効力と代理権は、整理された。原本は今後、責任を追及する際に必要になるため、法律事務所で保管した。新しい契約書には、決定権と代理業務の範囲が、分けて記されていた。蓮は項目を読み上げる音声を止め、自分への確認なしに変更できる予定があるのかと、問い直した。隼人が着服した、ドイツのクリニックの予約金300万円についても、銀行口座の仮差押えと、強制的な返還の手続きが、順調に進んでいた。「神崎さん

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   29話. マイクは選手の手に

    火曜日、午前九時五十分。東京・千代田区、東京プレスセンター十九階の控室。厚い防音扉の向こうから、数百人の記者のざわめきが、鈍く伝わってきた。中継カメラの三脚が床を擦る音と、フラッシュの充電音が、落ち着きなく入り混じっていた。鏡の前に立つ神崎蓮は、きちんと着込んだ黒いスーツの襟を、静かに直した。濃いサングラスの向こうには、かすかな緊張があった。それでも、握り締めた拳は、もう震えていなかった。隣にいたガイドランナーの高瀬直人が、蓮の広い肩を軽く叩いた。「緊張するなよ、蓮。お前がトラックで流した汗は、俺たちが知ってる。隣にいるから、用意した話から、一つずつしていこう」蓮の代理人を務める上原弁護士も、分厚い書類をまとめながら、うなずいた。「警視庁のサイバー犯罪捜査担当が、神崎隼人氏の他人名義の携帯電話を使った架空アカウントについて、作成時のIPアドレスと、口座の資金移動を調べるための令状申請を済ませました。アペックス・ジャパンからも、会見に合わせて、法務部名義の正式な支持声明が届いています。準備は万全です」蓮は深く息を吸った。「行こう」午前十時ちょうど。控室の扉が開き、蓮は会見場の壇上へ、大きな足取りで上がった。数十台のカメラのフラッシュが、一斉に滝のように降り注いだ。白い光の中でも、蓮は背筋を伸ばし、マイクの前に立った。ざわついていた会場が、一瞬にして、水を打ったように静まった。蓮はマイクへ向かい、淡々と口を開いた。「こんにちは。陸上短距離選手の、神崎蓮です」低く落ち着いた声が、スピーカーを通して、会場の隅々まで届いた。「最近報じられた、俺の健康状態と私生活をめぐる問題について、当事者として、自分の口から真実をお伝えするために、ここに立ちました。体の状態も、選手としての今後も、誰かに歪めて代弁されるのではなく、俺自身の声で伝えるべきだと思ったからです」蓮は壇上のスクリーンに、東都大学病院の診断書を映した。「俺は、網膜色素変性症を患っています。周辺の視野だけでなく、中心視力も大きく損なわれ、矯正しても形の判別が難しい状態です。四月二十五日、国内のスポーツクラス分けで、T11の判定を受けました。今はガイドとともに、選考会へ向けて準備しています」記者席から、抑えたため息と驚きの声が、同時に漏れた。かつて一人でトラックを駆けた日本代表が、

  • 君ともう一度、スタートラインに立つ   28話. 誰の口座なのか

    体育支援課の大会議室。ブラインドの隙間から、正午の鋭い日差しが差し込んでいた。本館の正面玄関には、朝早くから取材陣が詰めかけ、テレビカメラが並び、フラッシュが光っていた。ポータルサイトのトップを埋め尽くした、悪意あるゴシップ記事のせいだった。【独占】神崎蓮の盲目的な愛? 後輩のA選手、数百万円の練習費を要求した疑い……知人とのメッセージを暴露キャンパスは、ひそひそ話と、好奇心に満ちた視線で沸き返っていた。前の人生なら、千紗は頭が真っ白になって、部屋に閉じこもり、泣いていただろう。(私がそばにいるから、先輩をだめにしてしまうのかな)。そんな自責の念に息が詰まり、世間の非難を一人で背負い込んだはずだった。けれど、今の千紗は違った。森川真紀コーチに案内され、会議室へ向かう足取りには、少しのためらいもなかった。練習日誌と通帳の写し、警視庁で受け取った受理票をしっかり持つ指先は、冷静さを保っていた。「その場ですぐに答える必要はない。質問はまとめて受けて、確認できたことだけ話そう。つらくなったら、私が隣で止めるから」「はい、コーチ。準備はできています」千紗は決然とうなずいた。自分のスタートラインを守るためなら、どんな泥仕合からも逃げないつもりだった。木の会議テーブルの向こうには、蓮のメインスポンサーである大手スポーツブランド、アペックス・ジャパンのマーケティング統括部長と、社内法務部の弁護士二人が、硬い顔で座っていた。テーブルには、従兄で代理人の隼人が、スポンサーへ緊急に提出したという、四十ページの精算監査報告書が置かれていた。『選手の心身が弱った状態につけ込んだ、後輩選手による不当な金銭詐取と契約違反の疑いに関する報告』表紙にある刺激的な文言を聞かされ、蓮の顎が、冷たくこわばった。マーケティング部長は咳払いをし、書類の束を指で軽く叩いた。「神崎選手。当ブランドは、この三年間、あなたの誠実さと闘志を信じ、毎年数千万円規模の練習費と専用の用具を、全面的に支援してきました。それなのに、視覚疾患を隠したうえ、後輩の選手へ多額の練習支援金を流用した疑いまで報じられた。今日、明確な説明をいただけなければ、契約解除はもちろん、違約金を請求する訴訟も、やむを得ません」スポンサーからの、鋭い最後通告だった。前の人生の蓮なら、相手を守れなかったという自責と絶望

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status