隅にうずくまっていた女が、しゃくり上げながら顔を上げた。涙をぽろぽろとこぼしながら、そのまま春翔の胸に飛び込んできた。「さっきの人、刃物を持って入ってきて……すごく、怖かった……」「日和?お前、いつ戻ってきたんだ?」日和が飛びついてきたその瞬間、怒りで険しくなっていた春翔の表情がふっと和らいだ。その目に、注意深く見なければ気づかないほどの優しさがにじんだ。「もう大丈夫だ。俺がいる。何も怖くないさ」その名前が彼の口からこぼれた途端、激痛に耐えていた南嶋の体は、凍りついたように動かなくなった。大道寺日和(だいどうじ ひより)。大道寺家の養女だ。そして、春翔が酔いつぶれた夜、無意識のうちに何度も口にしていた名前でもあった。そのことを春翔に問い詰めたこともあった。けれど二日酔いの春翔は、気だるげに煙草をもみ消し、こめかみを押さえながらこう言っただけだった。「若い頃の、ただの気の迷いだ。南嶋、お前はもう我が家を支える立場なんだから、いつまでも子供みたいに拗ねるな」南嶋はその言葉を信じた。そして、「家を支える妻」にふさわしくあろうと努めてきた。良妻として振る舞い、品位を保ち、過去のことを蒸し返すこともなかった。それなのに。あのとき冷たく自分をたしなめた夫は今、自分をこんな目に遭わせた張本人を抱きしめて、懸命になだめている。血まみれの自分を見たとき、春翔の目に浮かんだのは、大道寺家の面目を潰されたことへの怒りだった。それに比べて、日和を見つめる今の彼の瞳には、日和の身を案じる不安と、彼女への愛おしさしかなかった。南嶋は、とめどなく血のあふれる下腹を押さえた。感覚が麻痺して、もうどこがどれほど痛いのかもわからない。駆けつけた医療スタッフが彼女をストレッチャーに乗せ、手術室へと運んでいく。その間ずっと、春翔の視線は日和から一瞬たりとも離れることはなかった。手術は12時間に及び、病院の血液の備蓄も何度となく底をつきかけた。南嶋がようやく危険な状態を脱し、大道寺家の屋敷へ戻ったのは、3日後のことだった。ぼんやりとした意識の中、どうにか目を覚ましかけたとき、すぐそばから春翔の祖母、大道寺妙子(だいどうじ たえこ)の押し殺したような怒声が聞こえてきた。「この大馬鹿者が!昔、あんたと日和の仲があまりにも曖昧だっ
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