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奥方を降りた夜、私は炎の中で生まれ直した

奥方を降りた夜、私は炎の中で生まれ直した

Oleh:  畑ねこTamat
Bahasa: Japanese
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妊娠8か月。妊婦健診で病院を訪れた大道寺南嶋(だいどうじ みなみ)は、病院側の対応に憤った患者の家族に切りつけられ、深手を負った。 夫の大道寺春翔(だいどうじ はると)が駆けつけたとき、彼女はすでに虫の息で床に倒れ込んでいた。腹部には深い切り傷があり、傷口がぱっくりと開いていた。 いつも冷静な春翔が、珍しく取り乱し、目を真っ赤にして怒鳴った。 「いったい誰がやったんだ!?」 南嶋は震える手をどうにか持ち上げ、少し離れた部屋の隅を指さした。悲しみに声を詰まらせる。 「あの人が……自分の白衣を脱いで、私に着せたの。犯人に、私が医者だと思わせるために……春翔、赤ちゃんが……」 だが、指さされた先へ目を向けた瞬間、春翔はその場に立ち尽くした。 「春翔……っ」

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Bab 1

第1話

隅にうずくまっていた女が、しゃくり上げながら顔を上げた。涙をぽろぽろとこぼしながら、そのまま春翔の胸に飛び込んできた。

「さっきの人、刃物を持って入ってきて……すごく、怖かった……」

「日和?お前、いつ戻ってきたんだ?」

日和が飛びついてきたその瞬間、怒りで険しくなっていた春翔の表情がふっと和らいだ。その目に、注意深く見なければ気づかないほどの優しさがにじんだ。

「もう大丈夫だ。俺がいる。何も怖くないさ」

その名前が彼の口からこぼれた途端、激痛に耐えていた南嶋の体は、凍りついたように動かなくなった。

大道寺日和(だいどうじ ひより)。大道寺家の養女だ。

そして、春翔が酔いつぶれた夜、無意識のうちに何度も口にしていた名前でもあった。

そのことを春翔に問い詰めたこともあった。けれど二日酔いの春翔は、気だるげに煙草をもみ消し、こめかみを押さえながらこう言っただけだった。

「若い頃の、ただの気の迷いだ。南嶋、お前はもう我が家を支える立場なんだから、いつまでも子供みたいに拗ねるな」

南嶋はその言葉を信じた。そして、「家を支える妻」にふさわしくあろうと努めてきた。

良妻として振る舞い、品位を保ち、過去のことを蒸し返すこともなかった。

それなのに。あのとき冷たく自分をたしなめた夫は今、自分をこんな目に遭わせた張本人を抱きしめて、懸命になだめている。

血まみれの自分を見たとき、春翔の目に浮かんだのは、大道寺家の面目を潰されたことへの怒りだった。

それに比べて、日和を見つめる今の彼の瞳には、日和の身を案じる不安と、彼女への愛おしさしかなかった。

南嶋は、とめどなく血のあふれる下腹を押さえた。感覚が麻痺して、もうどこがどれほど痛いのかもわからない。

駆けつけた医療スタッフが彼女をストレッチャーに乗せ、手術室へと運んでいく。

その間ずっと、春翔の視線は日和から一瞬たりとも離れることはなかった。

手術は12時間に及び、病院の血液の備蓄も何度となく底をつきかけた。

南嶋がようやく危険な状態を脱し、大道寺家の屋敷へ戻ったのは、3日後のことだった。

ぼんやりとした意識の中、どうにか目を覚ましかけたとき、すぐそばから春翔の祖母、大道寺妙子(だいどうじ たえこ)の押し殺したような怒声が聞こえてきた。

「この大馬鹿者が!昔、あんたと日和の仲があまりにも曖昧だったから、私があの子を医学留学に送り出したというのに。帰ってきた途端にこれかい!

南嶋は、お腹の子と一緒に命を落とすところだったんだよ。だというのに、あんたはあの子の代わりに罰を受けると言うのか!」

続いて、春翔の低い声がした。

「日和は昔から臆病なんです。気が動転して、とっさに誤った判断をしてしまうのも無理はありません。それに、あいつも被害者です」

妙子の杖が、どん、と床を打った。怒りで声が震えている。

「そんな真似をして……あんたは南嶋を何だと思ってるんだい!」

今度は、春翔の返事が少し遅れた。

「あのとき、お祖母様は日和のことを盾に取って、俺に南嶋との結婚を迫りました。俺は従いましたよ。南嶋は、お祖母様の言う通りよくできた妻です。ですが……

あいつは、ただ俺の妻というだけです。それ以上の存在ではありません。俺が一生守り抜きたいのは、日和だけです」

「……そうかい。そこまで言うなら、日和の代わりにあんたが責任を取りな。仏間で正座し、竹刀で背中を打たせる。それで今回のけじめをつけてもらうよ。あとで泣き言を言っても知らないからね」

春翔は、ほっとしたように息を吐いた。

「ありがとうございます、お祖母様」

部屋を出ようとしたところで、春翔はふと足を止めた。思い出したように、静かに言い添える。

「しばらく南嶋のそばにいてやれないので、あいつのことをお願いします。痛いのが苦手なやつなので、どうか気にかけてやってください」

遠ざかっていく足音は軽やかだった。なのにその足音が響くたび、南嶋の心は踏みにじられ、粉々に砕けていくようだった。

やがて仏間から、竹刀が背中を打ち据える鋭い音が響きはじめた。それでも春翔は歯を食いしばり、声ひとつ上げない。

妙子は深いため息をつき、仏間のほうへ向けていた視線を戻した。

振り返ると、寝ていたはずの南嶋が、いつの間にか布団を抜け出し、自分の背後でひざまずいていた。

「お祖母様。3年前、約束してくださいましたよね。3年経っても春翔が私を好きにならなかったら、私の願いをひとつ聞いてくださると。もう3年になります。私の願いはただひとつ。お腹の子を連れて、この家を出させてください」

妙子は慌てて彼女を抱き起こそうとしたが、南嶋はその手を静かに避けた。

「馬鹿な子だよ、そこまでしなくたって……!この家の掟は、あんたもわかっているだろう」

「承知しております」

南嶋は顔を上げ、まっすぐに妙子を見つめた。

「この家では、夫婦の仲が壊れて離縁を望む者は、決められた時間、砂利の上で正座し続けなければならない。膝から血がにじんでも、決して姿勢を崩してはならない。それをやり遂げた者だけが、家を出ることを許される、そうでしたね」

妙子は、なんとも言えない目で彼女を見つめた。

「春翔は、日和のこととなると分別をなくしちまう。それでも、南嶋のことはちゃんと立てているし、妻として、家族として尊重しているよ。夫としての務めだって、これまできちんと果たしてきただろう。それに今のその体で……本当に、よく考えたのかい?」

南嶋は口元をかすかにほころばせた。苦い笑みだった。

そう。

妻であり、家族ではある。けれど、恋人として愛されているわけではない。

「考えました。私はこの家を出ます。後悔はしません」

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第1話
隅にうずくまっていた女が、しゃくり上げながら顔を上げた。涙をぽろぽろとこぼしながら、そのまま春翔の胸に飛び込んできた。「さっきの人、刃物を持って入ってきて……すごく、怖かった……」「日和?お前、いつ戻ってきたんだ?」日和が飛びついてきたその瞬間、怒りで険しくなっていた春翔の表情がふっと和らいだ。その目に、注意深く見なければ気づかないほどの優しさがにじんだ。「もう大丈夫だ。俺がいる。何も怖くないさ」その名前が彼の口からこぼれた途端、激痛に耐えていた南嶋の体は、凍りついたように動かなくなった。大道寺日和(だいどうじ ひより)。大道寺家の養女だ。そして、春翔が酔いつぶれた夜、無意識のうちに何度も口にしていた名前でもあった。そのことを春翔に問い詰めたこともあった。けれど二日酔いの春翔は、気だるげに煙草をもみ消し、こめかみを押さえながらこう言っただけだった。「若い頃の、ただの気の迷いだ。南嶋、お前はもう我が家を支える立場なんだから、いつまでも子供みたいに拗ねるな」南嶋はその言葉を信じた。そして、「家を支える妻」にふさわしくあろうと努めてきた。良妻として振る舞い、品位を保ち、過去のことを蒸し返すこともなかった。それなのに。あのとき冷たく自分をたしなめた夫は今、自分をこんな目に遭わせた張本人を抱きしめて、懸命になだめている。血まみれの自分を見たとき、春翔の目に浮かんだのは、大道寺家の面目を潰されたことへの怒りだった。それに比べて、日和を見つめる今の彼の瞳には、日和の身を案じる不安と、彼女への愛おしさしかなかった。南嶋は、とめどなく血のあふれる下腹を押さえた。感覚が麻痺して、もうどこがどれほど痛いのかもわからない。駆けつけた医療スタッフが彼女をストレッチャーに乗せ、手術室へと運んでいく。その間ずっと、春翔の視線は日和から一瞬たりとも離れることはなかった。手術は12時間に及び、病院の血液の備蓄も何度となく底をつきかけた。南嶋がようやく危険な状態を脱し、大道寺家の屋敷へ戻ったのは、3日後のことだった。ぼんやりとした意識の中、どうにか目を覚ましかけたとき、すぐそばから春翔の祖母、大道寺妙子(だいどうじ たえこ)の押し殺したような怒声が聞こえてきた。「この大馬鹿者が!昔、あんたと日和の仲があまりにも曖昧だっ
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第2話
仏間に面した庭先。覚悟はしていたものの、砂利の上に膝をついた瞬間、南嶋の口から思わず苦痛の声がこぼれた。鋭く尖った小石がびっしりと敷き詰められ、膝やすねに深く食い込み、骨にまで痛みが響いてくる。無数の針で脚を刺されるような激痛だった。握りしめた手のひらには爪が食い込み、血がにじんでいる。それでも南嶋は歯を食いしばり、決して姿勢を崩さなかった。もし倒れでもしたら、妊娠8か月の大きなお腹を尖った石に打ちつけてしまうからだ。しばらくすると、南嶋の額はびっしょりと汗に濡れていた。荒い息をつきながら顔を上げる。すると、開け放たれた障子の向こう、仏間に、どこからともなく日和が駆け込んできた。泣きじゃくりながら、竹刀で打たれている春翔の背中に覆いかぶさる。「春翔を叩かないで!叩くなら私を叩いて!」振り下ろされた竹刀は止まらず、日和の背中を強く打った。それを見た途端、それまで何度打たれても声ひとつ上げなかった春翔の顔色が一変した。とっさに身を翻し、日和を腕の中にかばう。「日和!大丈夫か!しっかりしろ!」南嶋は、焦りに染まった春翔の顔を呆然と見つめた。自分が切りつけられたときでさえ、彼はあんな目をしなかった。「南嶋様。定められた時間が過ぎました。本当に大道寺家を出られるのですね」南嶋は春翔たちから目を離し、壁に手をついてよろよろと立ち上がった。「はい。決めました」掟を取り仕切る一族の長老は、小さくため息をついてうなずいた。「掟に定められた試練は、これで終わりです。7日後、あなたが大道寺家を離れることを一族に伝えましょう」南嶋はうなずき返し、壁伝いに外へ向かった。そして春翔と鉢合わせた。春翔は気を失った日和を抱え、急いで屋敷を出るところだった。南嶋に気づいて、足を止める。「ちょうどよかった。日和への罰がまだ終わっていないんだ。俺は先にこいつを病院へ連れていく。残りの罰は、お前が代わりに受けてくれ」南嶋は血の気の失せた顔を上げた。耳を疑った。「……今、なんて?」春翔は眉をひそめた。嫌がっていると思ったのだろう。「お前もこの家に来て長い。義理の姉なら、妹の責任を負うのは当然だろう。それくらいわかるはずだ」南嶋は冷たく笑った。「ふん。兄として立派な春翔が、もう身代わりになってあげたんでしょう。今さら私
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第3話
大道寺家の仕置きに使われる竹刀は、長年使い込まれ、すっかり古びていた。それでも簡単には折れず、振り下ろすたびに鋭い音を立てる代物だった。1打目が背中を打った瞬間、皮膚が裂けるような激痛が走った。体がぐらりと傾き、危うく前のめりに倒れそうになる。それでも南嶋は片手でお腹を抱え、もう片方の手を床について、どうにか踏みとどまった。2打目で、目の前が暗くなりはじめた。生温かい血が背中を伝い落ちる。その痛みをやり過ごす間もなく、3打目が容赦なく振り下ろされた。その直後、激痛に反応するように下腹がぎゅっと強く張った。お腹の奥を強く引き下ろされるような痛みに、冷や汗が噴き出す。歯を食いしばってうつむいた南嶋は、太ももの間から鮮血がどくどくと流れ出しているのを見た。座布団が、みるみる赤く染まっていく。「待って!やめてください!これ以上はだめ、赤ちゃんが……!早く病院に連れていって!」南嶋は震える手で竹刀をつかみ、必死に懇願した。なんとしても、この仕置きを止めなければ。けれど、そばに控えた使用人は冷ややかな顔のままだった。「奥様。大道寺家の掟では、一度始まった罰を途中で止めることはできません。旦那様のご意向でもございます。どうかご辛抱を」それだけ言うと、使用人は再び竹刀を振り上げた。最後の打撃が振り下ろされたとき、南嶋はもう起き上がることもできなかった。床に広がる血を見つめたまま、視界が暗転し、そのまま意識を失った。目を覚ますと、南嶋は病院のベッドに寝かされていた。そばにいた妙子は、南嶋が目を覚ましたことに気づいた。その目に、申し訳なさがよぎる。「南嶋……子どもは、また授かるからね」その瞬間、南嶋の頭の中が真っ白になった。つわりがひどく、何も食べられなかった日々。夜中に足がつって、痛みで目を覚ました日々。暗闇の中でひとり、膨らんだお腹を撫でながら朝まで座り込んでいた日々。そんなつらさも、お腹に手を当てるたびに、すべて甘い幸せに変わっていった。それなのに、8か月もの間、待ち望んできた我が子は、もうこの世にいない。あまりの悲しみに、息をすることさえままならない。涙があふれ出し、もう声を抑えることはできなかった。ちょうどそのとき、病室のドアが開いた。春翔は深く眉間にしわを寄せていた。ベッドの南嶋をちらりと見
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第4話
「……え?」南嶋が状況を飲み込むより早く、春翔は大股で歩み寄ってきた。彼女の腕をつかみ、ベッドから引きずり下ろそうとする。「白々しい顔をするな。俺をここへおびき寄せておいて、その隙に日和を連れ去らせたんだろう。ふん、なかなかやるじゃないか!」「何をするんだい!」妙子が杖をついて止めに入る。「自分が何をしているのかわかってるのかい!南嶋はついさっき、死産……」「だから、何だと言うんです?」春翔が振り返った。これまでの彼は、怒ったとしても眉をひそめる程度の、抑制のきいた冷静な男だった。けれど今、その目には、南嶋が一度も見たことのない凶暴な光が宿っていた。「大道寺家のしきたりは厳しいからと、お祖母様は日和を妻にはふさわしくないとおっしゃった。そうやって慎重に選び抜いたのが、こんな立派な妻だったんですか!?」南嶋は下腹の激痛をこらえ、懸命に言葉を絞り出した。「私は日和に何もしていない。あの子がどこへ行ったのかも知らない……」妙子も慌てて言い添える。「そうだよ。南嶋はずっと私のそばにいたんだ。電話1本かけちゃいない。日和がいなくなったのと関係あるはずないじゃないか!」けれど春翔は少し下がり、値踏みするようにふたりを見据えた。「知らない?昔、お祖母様が日和を海外へ行かせたときも、そうおっしゃいましたよね。俺は一度、日和が連れていかれるのを黙って見ているしかなかったんです。二度と、俺の目の届くところで日和には指一本触れさせません!」そう言うと、彼は南嶋を見下ろし、蔑むように言い放った。「言ってみろ。日和を連れ去らせてまで、何が欲しいんだ?腹の子を跡取りにすることか?それとも新婚旅行か、人前で仲睦まじい夫婦を演じてほしいのか?何でも付き合ってやるさ!」南嶋は屈辱に目を閉じた。「だから……本当に、知らないの」春翔は小さく鼻で笑い、背後に向かって手招きした。「南嶋、いい加減、嫉妬するのはやめろ。俺はお前に弁解する機会を与えた。それでも変わらないなら、これ以上、妻だからって庇うつもりはない」黒服の護衛ふたりが南嶋の両脇を抱え上げた。妙子が止めるのも構わず車に押し込み、そのまま大道寺家の裏庭へ連れ戻すと、庭の奥にある氷のように冷たい池へ放り込んだ。嫉妬に駆られて家の掟を破った者には、大道寺家では重い罰が
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第5話
次に目を覚ましたとき、南嶋は本邸の夫婦の寝室に寝かされていた。ベッドに背を向けて立っていた春翔は、南嶋が目を覚ました気配に気づいて振り返り、指に挟んでいた煙草を灰皿でもみ消した。「目が覚めたか」春翔は南嶋を見下ろした。その目に浮かぶ感情は読み取れなかった。「日和から聞いた。あいつは自分で病院を抜け出したそうだ。だが、そもそもお前が俺を呼びつけなければ、こんな騒ぎにはならなかった。大事に至らなかったから、この件は不問に付す」全身を包帯で巻かれた南嶋を見て、春翔は一瞬言葉を切った。それでも、その場から1歩も動こうとはしなかった。「埋め合わせと言っては何だが……」少し考えてから、彼は結局、続きを口にした。「お前がそこまでその子を大事に思っているなら、大道寺家の跡取りにしてもいい」南嶋は、思わず自嘲するように笑った。お腹にいたときは、一度も気にかけてくれなかったくせに。いなくなった今になって、こっちをなだめるための交渉材料にするなんて。さっきまで日和のために血相を変えていた男とは、まるで別人だった。そう思うと、目の奥が熱くなった。「春翔……」南嶋はかすれた声で言った。「私と結婚したこと、後悔してるんでしょう?本当は、私がいるこの場所は日和のものだった。そうなんでしょう?」窓から吹き込む風が髪を揺らし、肌が粟立つほど冷たかった。春翔は唇を引き結んだまま、肯定も否定もしなかった。やがて、目を伏せて彼女の視線を避けた。「俺の妻はお前だ。日和も分かってくれるから、お前から妻の座を奪ったりはしない。お前も……あいつに手出しをするな」胸の奥に残っていた最後の淡い期待が、音もなく砕け散った。南嶋は目を閉じ、深く息を吸った。「……わかった」ふたりの間に沈黙が落ちた。やがて春翔は背を向け、部屋を出ていった。南嶋はその日の午後、ずっとベッドに横たわっていた。日が傾きはじめたころ、ようやく起き上がり、自分の荷物をまとめはじめた。半分ほど片づけたところで、いきなりドアが開いた。日和が腕を組んで戸口にもたれかかり、面白がるように南嶋を値踏みしている。「名ばかりの正妻でいたって、意味ないでしょ。春翔はあなたのことなんて、ちっとも愛してないんだから」南嶋が少しも動じないのを見て、日和はますます
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第6話
春翔の視線が、南嶋のお腹にちらりと落ちた。一瞬、表情が強張る。だがすぐに、合点がいったという顔になった。「は……わざと早産して、子どもを盾に俺を脅すつもりか?病院であんなことがあった日から、もうこんな筋書きを考えていたんだな?」春翔は冷たく笑い、南嶋の首をつかんだ。「日和をあれほど傷つけておいて、子どもを盾にすれば俺が折れるとでも思ったのか?お前には反吐が出る!」そう吐き捨てると、彼は南嶋を床に投げ捨てた。そして声を荒らげる。「もう子どもを産んだのなら、遠慮する必要もない」使用人たちが仏間にある竹刀を持ってくると、春翔はそれを手に取り、まだ傷の癒えていない妻の背中めがけて、容赦なく振り下ろした。南嶋は思わず息を詰まらせ、身体をこわばらせた。それでも立つことは許されず、そのまま正座しているように言い渡された。今の南嶋に、こんな責め苦に耐える力などもう残っていない。上半身がぐらりと傾き、崩れ落ちた。体が畳に倒れ込むと、鈍い音が響いた。血の匂いが辺りに立ち込める。朦朧とする意識の中で、医師が春翔のそばへ歩み寄り、何事か耳打ちするのが聞こえた。それを聞いた途端、張り詰めていた春翔の体から、目に見えて力が抜けた。「本当か?骨に異常があるわけじゃないんだな?」「はい。数日安静にしていれば回復なさるでしょう」春翔は、ようやく安堵の息をついた。部屋を出ようとした医師は、南嶋のそばを通りかかったところで足を止めた。全身を血に染めた彼女の姿を、見るに見かねたのだろう。「ですが、春翔様。奥様は日和様よりもはるかに重傷です。奥様の手当てもすぐにしたほうがよろしいのではありませんか?」そばにいた年配の執事も、慌てて半歩進み出て口添えした。「旦那様、奥様はまだお体が治りきっておりません。これでは……」言い終わらないうちに、春翔が冷たく遮った。「自業自得だ。過ちを犯した者が罰を受けないのなら、大道寺家の掟はどうなる。これ以上こいつをかばう者は、同罪として容赦はしない」執事は身をすくめて部屋の隅に引き下がった。医師もそれ以上は何も言わず、ため息をついて立ち去った。部屋は静まり返り、南嶋の弱々しい息遣いだけが響いていた。夜が更けると、春翔も部屋に残ることなく、仕事を片づけるために書斎へ戻っていった。畳
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第7話
春翔は呆然とその場に立ち尽くした。次の瞬間、弾かれたように駆け出した。だが燃え上がる建物に近づく前に、使用人たちに必死で押しとどめられた。「旦那様、いけません!危険です!」「そうです、旦那様!まずは火が消えるまでお待ちください!」けれど、激しい炎に飲み込まれた建物を見つめる春翔の耳には、どんな言葉も届いていなかった。背後で日和が意識を取り戻したふりをして、しきりに自分の名を呼んでいることにさえ、まるで気づかなかった。「春翔?春翔!」日和が胸に飛び込んできて、春翔はようやく我に返った。ゆっくりと身を起こした日和を、どこか上の空のまま抱きしめ返した。本来なら安堵するはずの胸の内が、なぜかひどく空虚だった。「春翔、怖かった……南嶋が、私を部屋ごと焼き殺そうとするほど私を憎んでたなんて……」日和はしゃくり上げながら言った。いかにも怯えきった、哀れな様子だった。「春翔が来てくれてよかった。もう二度と会えないかと思ったわ」春翔ははっとして、訝しげに眉を寄せた。「どうして南嶋がやったとわかるんだ?お前は気を失っていたはずだろう」日和の言葉が一瞬詰まった。だがすぐに取り繕い、春翔の胸に顔をうずめてすすり泣く。「煙で目が覚めたの。火が出たとき、南嶋が何かを手に持っていて、そのまま入り口のほうへ逃げていくのが見えて……」日和の顔は、とても嘘をついているようには見えなかった。それを見て、春翔の表情がみるみる険しくなった。「つまり、全部あいつがわざとやったことか?自分を痛めつけるような芝居を打って、家の者を振り回して、最後は傷だらけの姿で助け出されて、同情を引こうって魂胆か?いったい何を考えているんだ」日和は内心ほくそ笑んだ。その目に一瞬、計算高い光がよぎる。何気ないふうを装って、こう付け加えた。「母親は子どものためなら強くなれるっていうし。私は南嶋のこと、責めたりしないから……」春翔の顔が、ますます暗く翳った。「本当に懲りないやつだな。そこまでやるなら、もう誰も付き合う必要はない。家が燃えるなら勝手に燃えればいい。誰も助けに行くな!子どものことも同じだ。あいつが自分の非を認めるまでは、その子を大道寺家の一員として認めるつもりはない。いつまでも意地を張るなら、その子は一生、大道寺家の人間として認めない」
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第8話
昨夜ほとんど眠れなかったせいか、春翔はひどい頭痛に悩まされていた。朝、執事がドアをノックする音で、ようやく目を覚ました。「旦那様、まもなく親族会議が始まります。お支度をお願いいたします」春翔は一瞬呆然とし、ようやく今日が3年に一度の親族会議だったことを思い出した。首を軽く回しながら、いつもの調子で言いつける。「妻は眠りが深いから、起こすときは静かにな。驚かせるなよ」しかし、返ってきたのは重苦しい沈黙だけだった。春翔が眉をひそめると、執事は何か言いたげに、複雑な表情を浮かべていた。そこでようやく、昨夜、離れで起きた火事のことを思い出した。春翔は疲れたように眉間を揉み、言い直した。「どうした?あいつ、まだ戻ってこないのか。この芝居を最後まで打つつもりか?」執事は、今朝早く、火災現場で目にした焼け跡の惨状を思い出していた。しばらく迷ったあと、意を決して口を開く。「旦那様……一度、昨夜の火事の現場をご覧になってはいかがでしょうか」着替えていた春翔の手が止まった。怪訝そうに眉を寄せる。「何を見るんだ。たかが建物1棟だろう。燃えたなら建て直せばいい」執事は小さくため息をついた。「旦那様。私もこの大道寺家にお仕えして30年余りになります。差し出がましいことを申し上げますが、年寄りの余計なお節介と思って、どうかお聞きください。奥様の普段のお人柄は、よく存じ上げております。奥様が自ら火を放つなど、私にはとても信じられません」春翔がすっと顔を上げた。鋭い目つきだった。「つまり、日和が嘘をついていると言いたいのか?」執事は言葉に詰まり、慌てて手を振った。「い、いえ!そういうことではございません。何があったのか、一度きちんとお調べになったほうがよろしいかと……何しろ奥様は昨日、あれほどひどい仕置きを受けられたのですから……」春翔の表情がかすかに揺らいだ。そのとき、戸口から女の声がした。「何よ!私が昨夜、見間違えたとでも言うの?それとも、私が自分の命まで危険にさらして、南嶋を陥れたとでも言うの!」戸口に立つ日和の眉間には、怒りがにじんでいた。けれど、迷うような春翔の顔を見上げた途端、その目にみるみる涙がたまっていく。「もう!春翔まで南嶋の言うことを信じるの?だったら、もうこの家にいる意味なんてない
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第9話
春翔はもう平静を保てず、勢いよく立ち上がった。「この家を出ると?誰がそんなことを認めた!」春翔が何も知らない様子なのを見て、親戚は落ち着き払った様子で袖口を整えた。「ほう。これほどの大事を、当主が知らなかったと?ならば聞かせてもらおう。いったい何をすれば、妻が砂利の試練に耐えてまで、この家を出ようとするのかね」「ありえない!あんな重い掟を、身重の体で受けるはずがない!」春翔は目を見開いた。耳を疑い、思わず数歩後ずさり、そのまま椅子に崩れるように座り込んだ。気を取り直すと、ふいに冷たく笑った。「あなた方まで、南嶋と結託したと?自分を痛めつける芝居だけでは飽き足らず、今度は気を引くための茶番か。結構。そんなに演じたいなら、なぜ本人を連れてこないんだ?」「何を言うか!春翔、たとえお前が当主でも、わしはお前の叔父にあたるんだぞ。その口のきき方はなんだ!」周りの者たちも、次々と卓を叩いて立ち上がった。「そうだ、春翔。妻が自ら過酷な試練を受けてまで家を出るなど、それだけでも一族の恥だ。わしらに説明しないだけでも問題なのに、そのうえ逆ギレして言いがかりをつけるとは何事だ」矛先を日和に向ける者まで現れた。「昔からお前は、その養女とやらとけじめのない関係だった。それを大奥様が内々に収め、わしらにも口止めして外に漏らさなかったから、お前は当主の座に収まっていられたんだぞ。それを今さら、こっそり呼び戻すとは何事だ」口々に責め立てる声を前に、春翔は冷ややかに手を振った。その途端、数十人の護衛が一斉に進み出て、大広間を取り囲んだ。「いい加減にしろ!」春翔の一喝で、場はしんと静まり返った。「あなた方が年長者だからこそ、今まで敬意を払ってきたんです。ですが、南嶋と組んでこんな芝居までして、いったい何が目的なんですか?当主の座が欲しいんですか?それとも、大道寺家の権力を握りたいんですか?」背後で今にも動き出しそうな護衛たちを見て、一同は顔を見合わせた。内心では怒りが煮えくり返っていたが、誰もが小声で不満を漏らすことしかできなかった。そのとき、入り口のほうからかすれた声が響いた。「いい加減にしなさい!」一同が振り向くと、妙子が杖をつきながら、ゆっくりと入ってきた。春翔は目を見張った。「お、お祖母様、どうしてこ
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第10話
「……どういうことですか?」春翔は、自分の耳を疑った。「亡くなったって……ど、どういうことですか!」常に沈着冷静な孫が、皆の前でこれほど取り乱している。妙子は思わず深いため息をついた。「南嶋は妊婦健診のときに大怪我をして、傷も治りきってないのに、自分から家の掟に従って試練を受けたいと言い出したんだよ。私だって、あの子がそこまで覚悟を決めているなら、その願いをむげにはできなかった。でも、お腹の子のこともあるから、長く正座させるつもりはなかったし、できるだけ体に負担がかからないようにするつもりだった。終わったあとも、膝に多少の痛みが残る程度で済むと思っていたんだよ。それなのに……」そこまで言うと、妙子は床に倒れていた南嶋の姿を思い出した。目元がうっすらと赤くなる。「それなのに、あんたは日和をかばって、南嶋に日和の分まで竹刀による仕置きを受けさせた!傷だらけの体で、さらに竹刀の仕置きまで受けさせて……病院へ運んだときには、もう手遅れだったんだよ。お腹の子は、そのまま……」涙を拭う妙子を前に、春翔は雷に打たれたような衝撃を受けた。「知らなかったですよ……あいつが、その前に離縁のための試練まで受けていたなんて。あれくらいなら大丈夫だと思ってたんです……じゃあ、あのとき病院に俺を呼んだのも、それが理由で……」妙子はうなずいた。春翔は呆然とした。「でも……でも、どうして急に、この家を出るなんて」妙子はそれには直接答えず、春翔の後ろに隠れている日和に目を向けた。「南嶋は言っていたよ。他人のものを奪うつもりはないってね。人も、立場も。あの子は、とっくにこの家を出るつもりだったんだ。そんな子が、あんたの気を引くために自ら火を放つような真似をするはずがないだろう?」春翔は完全に黙り込んだ。だが、ふと何かに思い当たり、弾かれたように駆け出した。「早く!火事の現場へ!南嶋はまだ、あの部屋の中にいるんだ!」けれど火災現場にたどり着き、一面の黒焦げになった残骸を目にした途端、春翔は言葉を失った。危うくその場にへたり込みそうになる。駆け寄って支えようとした執事の腕を、春翔は逆につかんだ。「南嶋は?どこへ運んだ?病院なのか?車を出せ、今すぐ迎えに……」言い終わらないうちに、背後から妙子の声がした。「もう、その必要
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