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椅子に座りますか のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

92 チャプター

第61話

 法廷は、一瞬にして地獄絵図と化した。 吹き飛ばされた私の網膜へ焼きついたのは、現実とは思えないほど恐ろしく、そして残酷な光景だった。 原告席と被告席。 勝利を確信してふんぞり返っていた坂巻と、絶望の中でへたり込んでいた堂島。 二人が座っていた椅子の座面――その内部から、指向性を持った数千度のオレンジ色の業火が、臀部から頭上へ向かって一直線に噴き上がったのだ。 悲鳴を上げる時間すらなかった。 坂巻と堂島の身体は、太陽のような超高温の爆炎に一瞬で飲み込まれ、肉も、骨も、血液も、形を失うほど激しく焼き尽くされていった。 二人の座っていた場所には、真っ黒なすり鉢状のクレーターと化した椅子の残骸と、焦げたスーツの切れ端だけが残っていた。 坂巻も、堂島も。 つい数秒前まで、この法廷で互いを裁き、憎み合っていた二人の人間が、そこから消えていた。「あ……ああ……ッ」 私は床へ這いつくばったまま、目の前で起きた光景を理解できず、全身を震わせていた。 金属探知機も、X線検査も、何の意味もなかったのだ。(……すり替えられていたのか!) ようやく、恐るべき可能性が脳裏へ閃いた。 犯人が沈黙していた、この二ヶ月間。 それは逃亡でも、平和の訪れでもなかった。無能な警察が犯人の影すら踏めずに右往左往している間、犯人はただ悠然と準備を進めていたのだ。 この二ヶ月のどこかで、犯人は裁判所へ出入りする業者のシステムへハッキングを仕掛けるか、あるいは自ら清掃業者などに扮し、この法廷の『原告席』と『被告席』に置かれている椅子そのものを、爆発装置を内蔵した特注品へ物理的にすり替えていた。 椅子を丸ごとすり替えるのはリスクが高くとも、座面の布地を剥がしてクッションの中身のウレタンを抜き取り、薄型の爆薬を仕込むだけなら業者の手荷物で容易に偽装できる。 だからこそ、今日、爆弾を持ち込む必要などなかった。 犯人はただ、この第一回口頭弁論の開廷の瞬間、二人の人間が法廷という絶対安全圏を疑うことなく、自らの意思で『死の特等席』へ深く腰を下ろすのを、暗闇の中で静かに待ち続けていただけなのだ。 ビーッ! ビーッ! ビーッ! ビーッ! 突然、法廷内に設置されたスピーカーというスピーカーから、耳を劈くようなけたたましい警告音が一斉に鳴り響いた。 凄まじい熱波と黒煙が法廷内に充満
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第62話

 ノイズ混じりのスピーカーから、犯人の声が地を這うような悪意を帯びて響いた。その言葉が法廷へ響き渡った、まさにその瞬間だった。 法廷内に逃げ遅れ、床へうずくまっていたマスコミ関係者たちのスマートフォンが、一斉に狂ったような振動音を立て始めた。 ブブブブッ! ブブブブッ! ブブブブッ!「な、なんだ!? スマホが勝手に……!」「変な通知が来てるぞ! なんだこれ!」 私は息を呑んだ。 異変は、この法廷内だけで起きているわけではない。 今この瞬間、日本全国にいる、かつて特設サイトで『処刑賛成』のボタンを押したことのある人間――百万人を超える大衆のスマートフォンへ、一斉に強制的なプッシュ通知が送られていた。 二ヶ月前のサイトで投票した際、犯人が仕込んでいた追跡プログラムのトークンが、彼らの端末を完全に捕捉したまま、この瞬間を待ちわびていたのだ。『新しい特等席の準備が整った。次の標的のリストは、過去に自分の手を汚さず、他人の死へ一票を投じた、お前たち百万人の「選ばれし陪審員」の端末にだけ送らせてもらった』 犯人の声が響く。『……そこに記されたURLを開きたまえ』 焦げた肉の異臭が漂い、微細な灰が宙を舞っている。 法廷という絶対的な安全圏は、一瞬にして黒焦げた惨劇の現場へ変貌していた。 スプリンクラーから降り注ぐ冷たい水音が、阿鼻叫喚のざわめきを冷酷に打ち消していく中、壁面の大型モニターが再びノイズまみれの真紅へ切り替わった。『――いかがかな? この見事な喜劇の味は』 機械的に歪められた男の声が、地を這うような悪意と、奇妙なほどの優雅さを帯びて法廷へ響いた。『だが、これはまだ血塗られたフルコースの、ほんのオードブル――前菜に過ぎない。次はいよいよ、極上のメインディッシュを味わう前に……胃袋を完璧に満たすための、極上の「魚料理(ポワソン)」と「肉料理(ヴィアンド)」を振る舞おうじゃないか』 私は、背後へ庇っていた久我晃一郎の身体が、微かに、しかし確かに強張るのを感じた。 犯人の言葉は、単なる殺人予告ではない。 この国を揺るがす連続テロそのものを、悪趣味な晩餐会になぞらえているのだ。『十五年前、己の私欲のために一人の人間の命を踏み躙り、その死肉を貪って肥え太った豚ども』 犯人の声に、濃密な憎悪が滲んだ。『メインディッシュを飾る「王」の
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第63話 第八章:十三万人の奴隷

 法廷爆破という前代未聞の惨劇から、数時間が経っていた。 東京の街は、恐怖と混乱、そしてどこか不気味な熱狂が入り混じった毒霧の中に沈んでいた。 私は久我幹事長の護衛として、黒塗りのマイバッハの助手席に座り、静まり返った首都高速を走っていた。後部座席では、久我が窓の外を流れていくネオンを眺めたまま、深い沈黙を保っている。 私の脳裏からは、先ほど法廷で目にした黒焦げのクレーターが離れなかった。いや、それ以上に私の心を捉えて放さなかったのは、逃げ惑うマスコミ関係者が落としていった、あの一台の水浸しのスマートフォンだった。 これまでは必ず、標的となった『物理的な椅子の裏』などに、プレートやシールとして密かに仕掛けられていた犯人のメッセージ。『――あなたは、椅子に座りますか?』 その強烈な違和感の正体が、犯人が最後に口にした『魚料理』と『肉料理』という不気味な比喩と結びつき、消化できない泥のような澱となって胸の奥へ溜まり続けていた。 その夜遅く。 久我邸へ戻り、自室のベッドへ腰掛けていた時、私用端末が震えるように鳴り響いた。 画面に表示された名前は『日下部』。 私は、電話に出た。「……日下部か。こんな夜更けにどうした」『真下さん……ッ! 俺は……俺は、取り返しのつかないことをしてしまった……!』 電話の向こうから聞こえてきた日下部の声は、極度の緊張と底知れない恐怖でひどく掠れていた。『俺のスマホに、あのサイトから直接通知が来たんです。俺だけじゃありません。……あの日、天楽建設の社長が爆殺されたあとに始まった、あのアンケート(処刑選挙)サイトです。俺は……日頃の鬱憤と、恐怖に駆られて、郷田管理官を処刑する「賛成」ボタンを、押してしまっていたんです……!』 私は絶句した。 正義感の強い日下部でさえ、あの狂った大衆の熱狂と、郷田という男への日常的な憎悪に呑まれ、匿名の安全圏に隠れて『死のボタン』を押してしまっていたのだ。「……何が届いた?」『投票です。犯人が郷田への投票者だけに送りつけてきた、悪魔のような「究極の二択」でした』 日下部が震える声で読み上げたのは、以下の内容だった。【選択肢A:郷田を処刑】【選択肢B:郷田を許す】「なんだ、その多数決は……」『一見すると、郷田管理官の命を決めるだけの投票に見えますよね。でも、その下に……犯
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第64話

 背筋へ氷を突き立てられたような悪寒が走った。 犯人は最初から、ネットの向こうにいる匿名の大衆を泳がせていたのだ。『百万人の中に隠れられる』 そう信じ込み、安全圏から無邪気に他人の死を楽しんでいた十三万人。 しかし、犯人が張った網は、彼らが思っていたより遥かに狭く、そして緻密だった。『釣られた都内の十三万人の個人情報……IPアドレスも、家族構成も、勤務先も、犯人は完全にリスト化して握っていました。そして、Bの選択が下されたあと、その十三万人全員のスマホへ、あのメッセージが強制的にポップアップ表示されたんです』 日下部が絞り出すように言った。『――あなたは、椅子に座りますか?……って』 その言葉を聞いた瞬間、私は雷に打たれたように息を呑んだ。 法廷のスマホの、あのメッセージだ。  私がマイバッハの中で感じていた違和感のパズルが、最悪の形で組み上がった。『お前たちはもう、私が用意した「共犯者」という名の椅子に座ってしまった。もう二度と、立ち上がることはできない』という、犯人からの絶望的な死刑宣告。 直後、日下部からスクリーンショットが送られてきた。 私は表示された文章を読み、全身から血の気が引いていくのを感じた。『――おめでとう。郷田への投票者たちは、己の保身のために正義を捨てた。よって、全員の命と個人情報は保証しよう。だが、日本全国で百万人が投票していると信じ、安全圏から他人の死を楽しんでいた愚か者たちよ。百万という数字は、お前たちへ「絶対に特定されない」という無責任な安心感を与えるためのブラフだ。実際に投票していたのは、東京都内を中心とした、たった十三万人。お前たちの個人情報――SNS連携の裏で抜き取った本名、家族構成、勤務先は、すべて私の手の中にある。お前たちは今日から、私の「手足(共犯者)」だ。これより、私が指定した「任務」を物理的にこなしてもらう。もし警察へタレ込んだり、任務を放棄したりすれば、即座にお前たちの個人情報を全世界へ公開し、社会的に抹殺する』「……共犯者、だと……?」 私は絶句した。 犯人は、最初からサイトを閉鎖する気などなかったのだ。『自分だけは助かりたい』という投票者たちの醜悪なエゴを引き出し、Bを選ばせたうえで、その選択を十三万人全員へ突きつけた。 保身のために正義を捨てたお前たちは、もはや
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第65話

 *  *  *その数日後。 事態は、誰にも予測できない唐突さで動き出した。 私は久我幹事長の『盾』として、都内の大規模な市民ホールへ同行していた。 この日、久我は自らの派閥の結束が今なお健在であることを世間へ誇示するため、来賓として海堂議員の講演会に足を運んでいた。『念のため、演壇周辺の空気を嗅いできたまえ。ネズミが紛れ込んでいないかどうかな』 控室で悠然と葉巻を燻らせる久我の命令を受け、私は事前の安全確認のため、舞台袖の薄暗い通路へ警戒に出ていた。 間もなく演壇へ立つ海堂は、表向きこそクリーンな政治家を装っているが、裏では久我派閥の黒い金を動かしていると噂される、腐敗した男の一人だった。 講演会が始まる直前。 舞台袖の薄暗い通路で、不審な動きをしていた清掃員の男をSPが取り押さえた。 男が押していた清掃用カートの底を調べると、ゴミ袋の下から小型の指向性爆薬が見つかった。「離せ! 離してくれぇッ!」 男は床へ押さえつけられながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、狂ったように叫んでいた。「俺がこれを仕掛けないと、俺の人生が終わるんだ! 娘の学校も、家の住所も、全部あいつに握られてるんだよ! 頼む、仕掛けさせてくれぇぇッ!」 その姿を見て、私は言葉を失った。 ただのテロリストではない。 目の前にいるのは、どこにでもいる平凡なサラリーマンだった。 百万人というブラフに騙され、出来心で特設サイトのボタンを押してしまったがために犯人から脅され、十三万人の中からロシアンルーレットのように『爆弾の設置役』へ選ばれてしまった哀れな奴隷なのだ。「連れて行け!」 SPたちが男を引きずり、その場から退場させた。 爆弾は無事に回収された。 私は、大きく息を吐き出した。 張り詰めていた全身の筋肉から力が抜け、胸の奥へじんわりと安堵が広がっていく。(……よかった。最悪の事態は防げた) 素人を使い捨ての駒にする犯人の手口は恐ろしいが、今回は未然に阻止できた。厳重な警戒態勢が功を奏したのだ。「海堂議員が入場します!」 アナウンスと共に、会場へ大きな拍手が湧き起こった。 海堂議員が満面の笑みを浮かべ、舞台中央へ姿を現した。 彼もまた、犯人が口にした『フルコース』の一部なのだろうか。 私はすっかり安心し、舞台袖からその光景を静かに見守ってい
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第66話 第九章:鋼鉄の棺桶

 突き抜けるような青空が広がり、容赦のない日差しがアスファルトを白く照りつける午前十時。 海堂議員の爆死から、二週間が経過していた。 東京の街は、首を絞められたまま痙攣を続ける巨大な獣のように、重苦しい恐怖と疑心暗鬼の毒霧へ沈んでいた。 姿なきテロリストは、『十三万人の大衆』を共犯者として支配している。 いつ、隣にいる人間が起爆ボタンを押すか分からない。 あの日、海堂の第一秘書が、長年仕えてきた主を己の保身のために躊躇なく吹き飛ばし、その直後に狂ったような笑い声を上げた光景が、今も私の脳裏に焼きついて離れなかった。 警察の同僚も、善良そうに見える隣人も、誰一人として無条件には信じられない。この国が長年誇ってきた治安神話は、すでに木っ端微塵に粉砕されていた。 だが、どれほど市井の人々が恐怖という泥水の中で溺れようとも、雲の上の『特等席』に座る者たちは、決して自ら王座を降りようとはしなかった。「――見ろ、真下くん。愚民どもがどれほど怯えようと、この鋼鉄の城壁だけは決して揺るがない。これこそが、絶対的な権力の証明だ」 黒塗りのマイバッハの助手席から見上げた私の眼前に、太陽の日差しを反射しながら、天を突き刺すような巨大建造物がそびえ立っていた。『ネオ・トウキョウ・セキュリティタワー』。 皮肉にも、この連続テロで最初期の犠牲者となった社長が率いていた『天楽建設』が、国家肝いりのプロジェクトとして数年の歳月を費やして完成させた、次世代型の巨大インテリジェント・ビルだった。  外壁はすべて防爆仕様の特殊ガラスで覆われ、エントランスには最新鋭のAI顔認証システムと、ミリ波レーダーを用いた透視探知装置が完備されている。 『テロリストの物理的侵入率0パーセント』を豪語するこの要塞は、皮肉にも天楽社長が殺されたことで、その存在意義を国家の威信そのものへと押し上げられていた。 本日、このビルで『極秘プレオープン・視察会』が強行される。 二週間前の講演会で海堂議員を爆殺された政府が、 『我々はテロには絶対に屈しない。この最新鋭のビルこそ、国家の安全の象徴である』 そう国内外へ示すための、あまりにも傲慢なデモンストレーションだった。 マイバッハが地上階のVIP専用車寄せへ滑り込むと、待機していたSPたちが一斉に動き、後部座席のドアを開けた。 久我晃一郎は、実の息子や派閥
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第67話

 * * * 午前十時五十分。 地上四十階、巨大な吹き抜け構造を持つ『展望レセプションホール』。 そこには、外界で連続テロが続いていることさえ別世界の出来事であるかのような、華やかで異様な熱気が満ちていた。 久我派閥の重鎮議員、政府高官、スポンサー企業の重役など、およそ五十名の『特等席の住人たち』が、下世話な笑い声を上げながら談笑している。 その周囲には、安全性をアピールする目的で全国から集められた『一般モニター』の市民がおよそ二百名。 さらに、全国ネットで視察会を中継するために集まったマスコミ関係者が三十名ほど、大型カメラを抱えて慌ただしく動き回っていた。 総勢三百名を超える人間が、この空中の要塞へ集結していた。 スーツの下は、極度の緊張によって汗ばんでいる。 その時、視界の端を、ケータリング台を片付けている一人の清掃スタッフが横切った。 帽子を目深に被り、無精髭を生やした男だった。 男は私とすれ違いざま、ほんの一瞬だけこちらを見た。(……なんだ、あの男は?) 訝しんで目を細め、私はとっさにその背中を追おうと片足を踏み出した。刑事としての本能が、あの男の目つきにただならぬ異常を感知していたのだ。 だが、その瞬間だった。「おい、真下くん。どこへ行くつもりだ。私のそばから離れるなと言ったはずだぞ」背後から、久我の冷たく不機嫌な声が飛んできた。「……しかし、幹事長。今の清掃員、少し様子が――」「下らない妄想で持ち場を離れるな。お前の仕事は私の盾になることだ。……さあ、間もなく大鳥の演説が始まる。こっちへ来たまえ」 久我の絶対的な命令に、私は奥歯を噛み締め、踏み出した足を止めるしかなかった。  再び視線を戻した時には、男はすでに足早に従業員用バックヤードへ向かい、群衆の中へ紛れるように姿を消していた。 午前十一時。 定刻通り、マスコミのカメラから一斉にフラッシュが焚かれた。 ホール中央へ設けられた演壇に、大鳥官房長官が満面の笑みを浮かべながら登壇したのだ。 その背後には、権力者のためだけに用意された、一際豪奢な革張りの『特等席――VIPチェア』が鎮座していた。「――国民の皆様。本日は、この『ネオ・トウキョウ・セキュリティタワー』のプレオープンにお集まりいただき、誠にありがとうございます」 大鳥のよく通る声が、マイクを
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第68話

「ひぃぃッ! ば、爆発まで!? エレベーターが……退路が塞がれたぞ!」「落ち着いてください。ここは私に任せて、長官は奥の防弾控室へ避難を!」 大鳥が怯えて縋りつく中、綾瀬は郷田や他のSPたちへ鋭く指示を飛ばした。 銃撃と、逃げ道を完璧に塞ぐような計算された爆発。 綾瀬は大鳥を庇うようにしながら、ホール裏手にある重厚な扉――専用の特別控室へと連れ込んでいった。 私も久我を護衛しながら、牽制のため拳銃を構え続けていた。 その時だった。 混乱する群衆の中に、見慣れた大きな背中が飛び込んできた。「……親父!? どうしてここに!」「ジョウ! 綾瀬はどこだ!!」 修造はパニックに陥った群衆をかき分け、血走った目で周囲を見回していた。「銃撃犯が現れたから、大鳥長官を連れて、あっちの特別控室に……! エレベーターも爆破されて、逃げ道が塞がれています!」 私が方向を指し示した瞬間、修造の顔色が変わった。「クソッ……!」 修造は長年現場を踏んできた刑事の勘で即座に最悪の事態を悟り、パニックに陥る群衆をかき分けながら怒声を飛ばした。「ジョウ、よく考えろ! この最新鋭の要塞へ、素人同然の連中が何人も銃を持ち込めるはずがねえ! ミリ波レーダーを素人が抜けられるか!」「まさか……」「警備の中枢にいる人間が、警察の権限を使って事前の機材搬入に紛れ込ませ、トイレの個室にでも隠して連中に拾わせたんだよ! そしてさっきのエレベーターの爆発もだ!」 修造は血走った目で私を振り返り、全速力で走り出しながら叫んだ。「ただの無差別テロじゃねえ! 退路を塞ぎ、大鳥をあの密室へ誘導するための『罠』だ! テロリストと繋がっている警察内部の人間――綾瀬が手引きしてやがったんだ!」 その鋭い言葉を聞いた瞬間、私の背筋を氷のような悪寒が駆け抜けた。「あいつを止めなきゃならねえ!!」 修造はSPの制止を振り切り、綾瀬と大鳥が消えた控室へ向かって全速力で走り出した。「親父、待ってくれ!」 私は久我の護衛を郷田に任せ、修造の後を追って、パニックの渦巻くホールへ飛び込んだ。 やがて、控室の重厚な金属扉へ辿り着く。 修造は躊躇することなく、金属製のノブへ手を掛けた。 ガチャリ、と硬質な音が鳴る。 内側から完全に施錠されていた。「下がれ、親父! 跳弾に気をつけろ!」 私は素早く
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第69話

 権力者の身内であれば、人の命を奪っても無罪放免になるのかと、新米だった私が強烈な吐き気と理不尽さを覚えたあの事件。  まさか、あの時の被害者が……!「や、やめろ……! 私はこの国の官房長官だぞ! 警察官が私に何を……!」 「私が本当に絶望したのは、腐りきった警察組織だけではない」 綾瀬の声が震え始めた。「正義を気取るマスコミも、お前の権力へ平伏し、事件を一切報じなかった。世間の愚民どもは、一人の少女が無惨に轢き殺されたことなど知る由もなく、今日もテレビを見て、何事もなかったように笑っている!」 綾瀬の表情が、初めて大きく歪んだ。「……私の娘はな、大鳥。あの日、私の誕生日プレゼントを買った帰り道、横断歩道でお前の息子の車に撥ねられたんだよ!!」 長年押し殺してきた痛みを吐き出す、獣のような咆哮だった。「あの連中も、マスコミも、権力者も……娘の悲劇を黙殺し、見殺しにしてきたこの国そのものに、絶望したよ!」 綾瀬の声に、限界まで膨れ上がったどす黒い憎悪が満ちていく。 大鳥の眉間へ、銃口がさらに深く押し当てられた。「馬鹿野郎!!」 修造が一歩踏み出し、血の涙を流すような声で叫んだ。「お前がそんな殺人鬼に成り下がって、天国の娘さんが喜ぶと思うのか! 娘さんがお前に望んでいたのは、そんな血みどろの復讐じゃないはずだ!」 「……ええ。娘は望んでいないでしょう」 綾瀬の口元が、悲しそうに歪んだ。 彼は大鳥の眉間へ銃口を押し当てたまま、空いた左手でズボンの懐から銀色の『懐中時計』を取り出した。あの日、娘が買ってくれた誕生日プレゼントだ。 カチャリ、と親指で蓋を開ける。 盤面のガラスは無残にひび割れ、針はある時刻を指したまま完全に沈黙していた。娘が車に撥ねられた、まさにその時刻だ。「ですが、私が望んでいるのです」 綾瀬は割れた盤面を見つめ、ひどく静かな声で紡いだ。「撥ねられた衝撃で、この時計の針はあの時刻から微動だにしない。……私の時間も、あの時からずっと止まったままなのです。私の魂は、娘が死んだあの日にすでに終わっている。この腐りきった男の脳天へ鉛の弾を撃ち込むためだけに、私は十年間、組織の犬として這いつくばってきたのだから」 綾瀬の人差し指が、ゆっくりと引き金へ掛かった。 大鳥は床へ額を擦りつけながら、「ひぃぃッ! 助けてくれ!
last update最終更新日 : 2026-10-28
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第70話

 修造が血相を変えて這い寄り、瓦礫を持ち上げようと太い腕へ青筋を浮かべた。 だが、何トンもの重量を持つ鉄骨はびくともしない。 私も激痛に耐えながら顔を上げ、血塗れの右脚を引きずって綾瀬のそばへ這い寄った。「綾瀬管理官、どうしてなんですか? あなたみたいな人が、こんなことして?」 私が血を吐くような声で問いかけると、綾瀬はゆっくりと首を動かした。 その顔から、十年間張りついていた狂気の仮面が完全に剥がれ落ちていた。そこにあったのは、復讐鬼の顔ではない。ただひどく悲しげで、申し訳なさそうな目を私へ向ける、一人の痛ましい男の素顔だった。「……すまない、真下。あの連続爆弾魔と繋がっていた『内通者』は……私なんだ」「な……」 修造の顔に緊張が走った。 警察上層部の機密情報へのアクセス。特捜本部による包囲網の事前察知。 本庁の中枢にいる綾瀬が裏から糸を引いていたからこそ、犯人は常に警察の一歩先を進むことができたのだ。「あのテロ計画の主犯は……十五年前、天楽建設の汚職で使い捨てにされ、自殺へ追い込まれた桜工事部長の息子だ。彼もまた、私と同じようにこの国の腐敗によって家族を奪われ、復讐のシステムを組み上げた」 綾瀬は荒い呼吸を繰り返しながら、静かに語った。「これは、桜の息子と私……そんな一人や二人の私怨だけで動いている話ではないのだ…」 地獄の底から響くような、重く、悲痛な声だった。「この国が繁栄し、特権階級が甘い汁を吸ってきた陰で、どれほど多くの人間が踏みにじられてきたと思う? 権力者の保身のために、人生を狂わされ、理不尽に家族を殺された者たち。……この組織はな、真下。そんな暗闇の中で血の涙を流してきた、無数の被害者たちの『巨大な怒りの集合体』なのだ」 そこまで語ると、綾瀬は限界の近づく目で、私を真っ直ぐに見据えた。 それは、後輩刑事へ何かを試すような、究極の問いだった。「……だがな、真下。お前が、……本当の真実を知った時。……お前は、どちらの道を選ぶのだろうな……」「本当の、真実……?」 私が呆然と呟くと、綾瀬はそれ以上は答えず、ゆっくりと傍らの修造へ視線を向けた。「……修造、さん……怪我は、ないですか……」 修造はすぐには答えることができず、ただ悔しさに顔を歪め、大粒の涙をぼろぼろと零した。「……私の魂は、泥水に……沈まなくて、
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