All Chapters of 椅子に座りますか: Chapter 41 - Chapter 50

92 Chapters

第41話

「お、お待ちください幹事長! 真下は所轄のただのヒラ刑事です! 先生のお側に置くなど、無作法で危険すぎます! 警護のことでしたら、私が本庁からもっと優秀な精鋭を何人も手配いたしますので……!」「優秀な精鋭、だと?」 久我の声が、絶対零度の氷のように冷たく響いた。「郷田管理官。言葉は悪いが……君は先ほど、佐々木が生死の瀬戸際に立たされた時、一体何をしていた?」「それは……」「部屋の隅にすがりつき、ただ震えて見ていただけではないか」 久我の言葉に、郷田の顔から血の気が引いていく。「己の保身に走り、仲間を見殺しにするような人間に紹介された者など、私は一切信用せん」 郷田は顔面を土気色にしたまま、反論することもできず、わなわなと震えていた。 完全な事実だった。 久我はそんな郷田から興味を失ったように視線を外し、再び私へ顔を向けた。 その直後、郷田はパニックに陥ったように、先ほど床へ取り落としていた警察無線を慌てて拾い上げた。「……冗談ではありません!」 緊急事態で開かれたままになっていた回線へ向かって、縋るように叫ぶ。「高山本部長! 綾瀬管理官! 聞こえておりますか! 幹事長が無茶をおっしゃっています! 本庁からもどうかお止めください! 一介のヒラを政治家の身辺に置くなど、組織の人事権としても通るはずが……!」 郷田の必死の訴えが応接室へ響く。 やがて無線の向こうから返ってきたのは、焦りとうわずりを隠し切れない、警視庁特捜本部のトップ――高山本部長の声だった。『……郷田管理官、静粛にしろ』 一瞬の沈黙のあと、高山は声の調子を整えた。『久我幹事長直々のご指名とあれば、我々特捜本部としても全面的に協力させていただくほかありません。国家の重鎮の安全と、テロの早期解決のためだ。人事上の特例として、私が責任を持って即座に決裁を下す』 高山本部長は久我派の人間であり、次期総理の最有力候補である幹事長の機嫌を損ねることなど、絶対にできないのだ。 その言葉を引き取るようにして、続いて低く冷静な声が無線から響いた。『――異存はありません、久我幹事長。本部長の了承に基づき、本庁の権限において、直ちに特命連絡官への任命手続きに入ります』 特捜本部の共同指揮を執る、綾瀬管理官の声だった。『つきましては、真下という男がどういう人間かをご理解いただくた
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第42話 第六章:鳥籠の記憶

 特捜本部での状況報告を終えた直後、私は綾瀬管理官から無言の目配せを受けた。 すれ違いざま、誰の耳にも届かないほどの低い声で囁かれる。 「真下。お前の特命連絡官への異動手続きを進める。……後で地下の空調機械室へ来い。誰にも気づかれないようにな」  他の捜査員たちが慌ただしく行き交う本部を抜け出し、私が誰の目も避けて一人で向かったのは、警視庁の地下深くにある『空調機械室(ボイラー・ルーム)』だった。 ゴウン、ゴウン……と巨大な空調ファンが低い重低音を響かせている。薄暗い蛍光灯の下には鉄の匂いと熱気が充満し、むせ返るほどだった。 この轟音の中なら、どれほど高性能な盗聴器を仕掛けられても、ノイズにかき消されてまともに音を拾うことはできないだろう。 私は分厚い防音扉をそっと押し開け、中へ足を踏み入れた。 そこには、すでに私を待っていた綾瀬管理官が一人で立っていた。  彼は私が来たことに気づくまでの数秒間、掌に乗せた銀色の『懐中時計』のひび割れた盤面をじっと見つめていた。 私が足音を立てると、綾瀬管理官はパチンと蓋を閉じ、時計を大切に懐へしまった。  そして、私が背後の分厚い防音扉を重々しく閉めると、綾瀬管理官はゆっくりと私に向き直った。  その表情は、先ほどまで特捜本部で見せていた冷徹なエリート指揮官のものとは違っていた。肩書きという鎧を脱いだ、一人の男の顔だった。「真下。お前を信じて話す。これから私の口から出る言葉は、絶対に私とお前だけの秘密にとどめてくれ」 その重い口調と物騒な言葉に、私は思わず背筋を正した。「……はい」「私は、特捜本部の指揮を執るためだけにここにいるわけではない。警察組織のトップである『警察庁長官』直々の密命を受けて、この本部に潜り込んでいる」「長官の……密命?」「ああ。テロの暗躍を止めるのは当然だ。だが、真の目的はもう一つある」 綾瀬は僅かに声を落とした。「――次期総理候補、久我晃一郎の底知れない『闇』を内側から暴き出し、失脚させることだ」 空調設備の轟音が響き続ける中、その言葉だけが鋭い刃のように私の胸へ突き刺さった。 警察組織のトップが、次期総理の最有力候補である男の首を直接狙っているというのだ。「……なぜ、長官がそこまで? いくら久我幹事長に黒い噂があるとはいえ、警察が政治に直接介入するなんて……」
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第43話

「あんなに真っ直ぐで、誰よりも命を重んじる刑事はいなかった」 綾瀬は静かに目を伏せた。「今、現場を離れて交番勤務をしていることが警察組織にとって最大の損失だと、長官も嘆いておられたよ。……その修造に育てられたお前が久我の懐へ潜り込み、長官の目となり耳となってくれるなら、これほど心強いことはない」 綾瀬の言葉が、地下室の熱気と共に胸の奥を熱く焦がしていった。 私は、久我という化け物を守るための『犬』にされるのだと思っていた。 だが、違った。 警察上層部すら腐り切ったこの絶望的な盤面の中で、この密命は、親父から受け継いだ刑事の魂を胸に、日本の頂点へ巣食う巨悪の懐へ飛び込むための最後の切り札だったのだ。「……わかりました」 私は滲む涙を堪えながら拳を強く握り締め、綾瀬管理官を真っ直ぐに見返した。「俺は、久我幹事長の特命連絡官として懐に潜ります。泥水をすすってでも、必ずあの男の隠している闇を暴き出してみせます」「頼んだぞ、真下」 綾瀬は深く頷き、私の肩を力強く叩いた。 その手は、かつて私を励ましてくれた親父と同じように、熱く、重かった。 *  *  * 地下ボイラー室で綾瀬管理官から密命を受け、その後、数時間に及ぶ手続きと尋問にも似たレクチャーを終えた頃には、東京の空はすでに重苦しい夕闇へ沈みかけていた。  永田町の一等地。 国会議事堂を見下ろすように建つ、久我晃一郎の私設オフィス。 厚さ十センチはあろうかという防音扉を抜けた瞬間、外の喧騒は完全に遮断された。空気には微かに高級シガーの香りが漂っている。「幹事長が、奥でお待ちだ」 私を案内した秘書官の田端が立ち止まり、冷ややかな目で一瞥した。「勘違いするなよ。幹事長はお前のことを『少しばかり使える盾』として面白がったに過ぎない。我々のような人間が集うこの場所で、少しでも出過ぎた真似をすれば、お前の居場所などすぐに消えてなくなるぞ」「……ご忠告、感謝します。盾としての務めを果たします」 私は無表情のまま深く一礼した。 田端は私の従順な態度に鼻を鳴らし、重厚な扉を開け放った。 その先には、広大な執務室が広がっていた。 壁一面を覆う防弾ガラスの向こうには、黄昏時の不気味な紫色に染まった東京のパノラマが広がっている。その景色を背に、巨大なデスクの前へ立っている男がいた。 ――
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第44話

 *  *  *  そこからの時間は、まさに怒涛だった。 私は久我の『内側の影』として、夜の帳が下りたこの国の心臓部を駆け回ることになった。  午後六時半。 都内の高級ホテルで開催された、財界人とのレセプションパーティー。 会場の入口や外周ではエリートSPたちが完璧な警護の壁を築いていたが、久我のすぐ斜め後ろ――最も刃が届きやすい絶対的な死角に立っていたのは、私だった。 遠巻きにSPたちがこちらを睨みつける中、私は群衆の中にテロリストの影が潜んでいないか目を配りながら、久我のグラスへ注がれる飲み物にまで注意を払った。 昨日、息子を殺されたばかりだというのに、久我は見事なまでに平然と仮面を被り続けていた。 午後九時。 赤坂の奥まった場所にある、看板も掲げられていない高級料亭。 マスコミはもちろん、エリートSPたちですら建物の外へ締め出された。 その座敷の奥で、久我は派閥の重鎮議員たちと、天楽建設のライバルにあたる国内最大手ゼネコンの会長を招き、密会を行っていた。 私は襖のすぐ外に立ち、ただの置物のように息を潜めた。 微かに漏れ聞こえてくるのは、息子を失った悲しみでも、テロリストへの怒りでもなかった。『……天楽建設の社長が消えた今、湾岸の巨大開発プロジェクトは完全に宙に浮きましたな。幹事長、ここは我々がしっかり引き継がせていただきますよ』『うむ。テロの混乱を利用して、神谷総理の弱腰を叩く絶好の機会だ。この機に一気に政局の主導権を握るぞ』(……腐りきっている) 襖一枚を隔てた向こう側では、人間の命を奪った悲惨なテロ事件すら、利権の再分配と権力闘争の道具として冷酷に取引されている。 腸が煮えくり返るような怒りを奥歯で噛み殺し、私はただひたすら周囲の警戒を続けた。 そして、日付が変わろうとする深夜零時前。 黒塗りの防弾仕様の車が、冷たい夜雨の降る東京の街を静かに滑っていた。 後方の護衛車に乗るSPたちの苛立ちをバックミラー越しに感じながら、私は助手席に座り、フロントガラスの向こうに広がる暗闇を凝視していた。「……ご苦労だったな、真下」 後部座席から、久我が低い声で労ってきた。「初日から連れ回して悪かったが、これが私の日常だ。息をつく暇もない」「問題ありません」 私は短く答えた。 やがて車は、都内屈指の高級住宅街の、
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第45話

 久我は、私が『真下修造の息子』であることしか知らない。 私は呼吸を完全にコントロールし、顔から一切の感情を削ぎ落とした。心の内側で吹き荒れる感情とは正反対の、忠実な護衛としての無表情を貼りつける。「――お気になさらず」 私は極めて事務的な、抑揚のない声で家政婦を制止した。「私は数時間、身体を休めるためだけに、この部屋を使わせていただくだけです。わざわざ片付けの手間を取らせるまでもありません。気になりませんので、そのままで結構です」 久我は私の顔を数秒間、じっと見つめた。 私は瞬き一つせず、ただの忠実な護衛として無表情を貫き通した。 やがて久我は興味を失ったように、小さく息を吐いた。「……ふむ。お前が構わないなら好きにしろ。明日は朝七時に出るぞ。」「承知いたしました」 久我が踵を返し、家政婦と共に部屋を出ていった。 扉が、ガチャン、と音を立てて閉ざされた。 廊下を歩く足音が、少しずつ遠ざかっていく。 私はその場から動かなかった。 一分。 三分。 五分。 誰も戻ってこない。 ようやくその事実を脳が理解した瞬間、顔に張りつけていた仮面が一気に崩れ落ちた。 足から力が抜け、私はデスクの前へ倒れ込むようにして縋りついた。「……ユウ……っ」 震える指先で、コルクボードに貼られたチーコの絵へそっと触れる。 二十二年という時間を経て、画用紙の端は黄ばみ、クレヨンの色も褪せていた。それでも、描かれた線の一本一本に残る幼い筆圧を見ていると、ユウの息遣いが今にも聞こえてきそうだった。 絵を見つめているうちに、記憶の底から激しい雨音と、風が唸る音が鮮明に蘇ってきた。 まだ実の親父が生きていて、古びたアパートで男三人、肩を寄せ合って暮らしていた頃の記憶だった。 私とユウはある日、公園でカラスに突かれ、死にかけていた一羽の雀を見つけた。 アパートでは動物を飼えなかったため、私たちは公園の植え込みの奥に小さな段ボールの家を作り、毎日二人で餌を運んで世話をした。 それが、チーコだった。 だが、ある夜。 猛烈な台風が街を直撃した。 窓ガラスが割れそうなほどの暴風雨が吹き荒れる中、親父は夜勤で不在だった。 ふと気づいた時、部屋からユウの姿が消えていた。『ユウ……まさか!』 血の気が引いた私は、傘も差さずに真っ暗な外へ飛び出した。 
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第46話

 ***  深夜の静寂に包まれた三階の廊下は、まるで深い海の底へ沈んだような暗闇に包まれていた。 私はトイレに行くためにユウが過ごした部屋を出た、その時だった。 廊下の先に広がる重厚な影の中に、一人の老人が立っていた。 黒光りする一本の杖へ両手を重ね、微動だにせずこちらを見つめている。 三十年前、この国の頂点に立った元総理大臣――久我総一郎。 晃一郎の父親であり、久我一族の絶対的な家長でもある男だった。 この深夜、誰に付き添われるでもなく、一人で杖をつきながら三階の最奥まで上がってきたらしい。「……誰だ」 声は枯れ、掠れていた。 だが、その響きには、かつて一国を動かした権力者の名残が確かに残っていた。「……幹事長の特命連絡官、真下と申します。夜分にすいません」 私が深く頭を下げると、総一郎の濁った瞳が、私の背後にある部屋の扉へ向けられた。 その瞬間だった。 老人の顔が突然、何かに憑かれたように険しく歪んだ。 ガンッ! 総一郎が杖を激しく床へ叩きつけ、その音が深夜の廊下へ大きく響き渡った。「この部屋にあるものは、何一つ動かすな! この部屋は絶対に汚すなッ!」「……っ」 あまりにも唐突な激昂に、私は思わず息を呑んだ。「……承知しております。何も触れておりません」 そう答えた途端、総一郎の表情が変わった。 怒りに濁っていた瞳から、突然力が抜けた。「……君は……」 老人は一歩、こちらへ近づき、私の顔を覗き込んだ。「この部屋にいた子と……少し、目が似ているな」 心臓が大きく跳ねた。(ユウ……!) この老人の混濁した記憶の中に、今もユウがいる。「……あの子は、優しい子だった」 総一郎は、私を見ているのか、それとも私の顔を通して遠い過去の誰かを見ているのか分からないまま、独り言のように静かに語り始めた。「この家の人間は、私を含めて権力や利権のことしか頭になかった。だが……あの子だけは違った」 総一郎の声が、僅かに震えた。「庭先で雨に濡れた小鳥がいれば、自分の服で包んで温めてやる。草花が枯れれば、本気で涙を流す。……あまりにも純粋な魂を持った子だった」 その言葉を聞くうちに、私の視界が熱を帯びていった。 総一郎が語っているのは、間違いなく、かつてあの小さなアパートで私と一緒に暮らしていたユウそのものだった。
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第47話 第七章:虚構の代弁者

 ***  東京都港区、帝都テレビ本社ビル報道局。 フロア全体が、まるで蜂の巣をつついたような狂騒に包まれていた。「今朝六時に配信された『週刊激報』のウェブ速報、アクセス過多でサーバーダウンしてます!」「佐々木事務所の電話は完全に回線がパンクしています! 検察庁に張り付いている連中は何をやってる!」「特番の枠を押さえろ! スポンサー調整は後回しだ! 週刊誌のバズりの後追いじゃ終わらせねえ! 昼の帯を全部ぶち抜いて、うちが完全に息の根を止めるんだ!」 怒号と、キーボードを叩く乾いた音、そして鳴り止まない電話のコール音が入り乱れていた。報道局のフロアは、血の匂いを嗅ぎつけた飢えた獣たちの檻と化している。 その狂騒の中心にある、ガラス張りで仕切られた編集長兼メインキャスターの個室で、一人の男がゆったりと革張りの椅子へ深く腰掛けていた。 堂島慎太郎。 夕方の大型報道番組『真相の代弁者』の顔であり、国民から絶大な支持を集めるジャーナリストだった。白髪交じりの整った髪と、知的で深みのある声。そして何より、権力に媚びず社会の悪を鋭く糾弾する『民衆の代弁者』としての圧倒的なカリスマ性を持つ男だった。 世間にとって、堂島慎太郎は、この国における正義の象徴とも呼べる存在だった。「……素晴らしい。実に素晴らしい朝だ」 堂島はデスクの上にばら撒かれた数十枚のコピー用紙を見下ろしながら、陶酔したように呟いた。 事の発端は、今から十年前にまで遡る。 当時、大規模な違法献金と土地開発を巡る汚職事件が世間を大いに騒がせた。その黒幕と目されていたのが、当時すでに政界で台頭し始めていた佐々木代議士だった。 しかし、検察の捜査の手が伸びた時、すべての罪を被って逮捕されたのは、佐々木の第一秘書を務めていた『杉山』という男だった。 佐々木は「秘書が独断でやったことだ」と涙ながらに会見を開き、杉山は実刑判決を受けて刑務所へ送られた。 誰もが、それがトカゲの尻尾切りであることを薄々察していた。それでも決定的な証拠は出ず、事件はそのまま風化していった。 だが今朝、大手週刊誌『週刊激報』のネット版が、その十年前の事件の『真実』を完全に裏付ける証拠資料をすっぱ抜いた。 世論はすでに沸騰している。 しかも堂島のデスクの上には、週刊誌が報じたものと全く同じ『裏付け資料』が、匿名
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第48話

 ***  久我邸、一階の広大なダイニングルーム。 淹れたてのコーヒーの香りと、焼き上がったトーストの芳ばしい匂いが漂っていた。 壁掛けの大型モニターから流れる朝のワイドショーを、久我晃一郎は優雅にカップを傾けながら見つめている。 画面の中では、コメンテーターたちが今朝配信されたばかりの『週刊激報』のスクープ記事について、興奮気味に議論を交わしていた。「おはようございます。幹事長」 私がダイニングへ入り、静かに一礼すると、晃一郎は視線をモニターへ向けたまま、僅かに顎を動かした。「ああ、真下くん。昨夜はよく眠れたかな」「はい。快適な部屋を整えていただき、感謝いたします」 私が業務的な口調で答えると、晃一郎は手元の銀色のフォークを置き、向かいの席を指差した。 そこにはすでに、私のための朝食が完璧なテーブルセッティングで用意されている。「座りたまえ。君も食べるといい」「お気遣いありがとうございます。ですが、私は朝はいつも食べませんので、このまま護衛の任に就かせていただきます」 私が立ったまま辞退すると、晃一郎の冷ややかな目が、すっとこちらを射抜いた。「だめだ。食べろ」 それは、有無を言わせぬ絶対的な命令だった。「君の普段の食生活を変えろとは言わんが、私といる時は食べろ。食事は絶対に抜くな。……腹を空かせた状態で、いざという時にこの私を守れるものか」 晃一郎は冷たい声のまま続けた。「君は私の警護だ。警護が脆弱であることを、私は許さん」 その言葉には、私という人間への気遣いなど微塵もなかった。 あるのは、自分の命を守る『道具』への徹底した管理意識と、冷酷なまでの合理主義だけだった。 私は一瞬だけ奥歯を噛み締めたが、すぐに表情を消して頷いた。「……承知いたしました」 私が席につき、トーストへ手を伸ばしたのを見届けると、晃一郎は再びモニターへ視線を戻した。「佐々木先生の件ですね。週刊誌が十年前の資料を今になって流出させるとは。しかし、このまま追及が続き、テレビ各局が後追いを始めれば、幹事長の派閥全体にまで波及する恐れは……」「だからこそ、火の粉が小さいうちに消し飛ばすのだ」 晃一郎はそう言うと、手元のスマートフォンを取り、慣れた手つきでどこかへ発信した。 コール音は二度も鳴らず、すぐに相手が出たらしい。「……ああ、私だ。
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第49話

(……暴力的? クズだと?) 信じられないものを見たような衝撃が、胸の中を駆け抜けた。 違う。 ユウは、雨に濡れた小鳥を助け、色を愛する、誰よりも優しい子だったはずだ。 総一郎だって、そう言っていた。 それなのに、この父親はユウの何を見ていたというのだ。 この男の目には、ユウの繊細な魂が、『親の言うことを聞かない出来損ない』としか映っていなかったのか。 私は奥歯を強く噛み締め、テーブルの下で拳を白くなるほど握り込んだ。 総一郎の愛に触れたことで、ほんの少しだけ抱いていた『この家でユウは大切にされていたのではないか』という淡い希望が、粉々に打ち砕かれた瞬間だった。「……申し訳ありません。余計なご報告でした」 私が事務的に頭を下げると、晃一郎は荒い息を吐きながら、忌々しそうにナプキンで口元を拭った。「忘れろ、真下くん。あの部屋の過去など、どうでもいいことだ。行くぞ」 晃一郎が足早にダイニングを出ていく。 私はその背中を見つめながら、静かに立ち上がった。 祖父からは愛され、父親からは狂人と呼ばれ、忌み嫌われていた子供。 この屋敷の中で、ユウはどれほど引き裂かれるような思いで生きていたのだろう。(私は必ず暴き出す。あの子がここで何を感じ、なぜ最期を迎えなければならなかったのかを) * * *  東京都、帝都テレビ本社ビル。 昼の特別番組の放送まで数時間に迫り、報道局のフロアは完全に沸点へ達していた。 電話のコール音、キーボードを叩く乾いたタイピング音、そしてフロアを飛び交う怒号が絶え間なく重なり合う。何台ものモニターが明滅し、スタッフたちは血走った目で局内を駆け回っていた。 彼らの手には、今朝の週刊誌報道を裏付ける、あの決定的な内部資料のコピーが固く握られている。 その狂騒から、分厚い防音ガラス一枚で隔てられた編集長室。 堂島慎太郎は革張りの椅子へ深く腰掛け、出来上がったばかりの特番の進行台本を恍惚とした表情で眺めていた。「完璧だ……。佐々木の政治生命は、今日の昼で完全に終わる」 堂島は低く呟き、満足げに台本をデスクへ放り投げた。 この十年間、佐々木は与党の重鎮として、久我派閥の金庫番として、強大な権勢を振るってきた。 その巨悪を、週刊誌が起こした火種を利用し、一介のキャスターである自分が『世論』という名のギロチン
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more

第50話

「は、はいっ! 堂島、先生に対して粗相のないようにしろよ!」 それだけ言い捨て、局長は逃げるように部屋を出ていった。 重々しい音を立て、扉が閉まる。 部屋に残されたのは、堂島、坂巻、そして壁際へ控える相田の三人だけになった。 堂島は一度、相田へ退出を命じようとしたが、すぐに思い直した。 自分の手駒である相田の前で、この権力の犬を見事に論破し、追い返してみせる。その姿を見せれば、自分のカリスマ性をさらに深く彼女の心へ刻み込める。 堂島はそう考えた。「彼女は私の専属アシスタントです。話なら聞きましょう。本番まで時間がないので、手短にお願いしますよ」 堂島が椅子へ座り直すと、坂巻は薄い唇の端を僅かに吊り上げた。「では、単刀直入に申し上げよう。今日の昼の特別番組、および夕方の報道番組における『佐々木議員に関する特集』を、直ちに放送中止にしていただきたい」 その声音は、お願いでも交渉でもなかった。 有無を言わせぬ絶対的な命令だった。「……はっ」 堂島は鼻で笑った。 腹の底から込み上げる優越感を抑えきれなかった。「おかしなことをおっしゃる。メディアの報道内容に、一介の弁護士が口出しできるとお思いで? 国民には真実を知る権利がある。十年前の汚職事件の隠蔽……我々は今朝の週刊誌以上の、確たる証拠を握っているのですよ」「証拠、ですか」 坂巻はゆっくりと堂島のデスクへ近づき、そこに置かれた進行台本を指先で軽く叩いた。「今朝方、出所不明の怪文書が週刊誌へばら撒かれた件ですね。佐々木議員の直筆メモとされるものや、秘書への録音データ……」 坂巻は冷ややかに堂島を見た。「堂島さん。あなたはジャーナリストとして、それが本当に『真実』だと裏付けを取ったのですか? 週刊誌が飛びついた不確かな情報を、テレビ局の権威で無責任に拡散するおつもりか」「当然だ。筆跡鑑定も音声解析も済んでいる。当時のダミー会社の口座記録とも完全に一致している。誰がどう見ても、十年前の黒幕は佐々木だ」 堂島が自信満々に答えると、坂巻は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ひときわ冷たい声を出した。「それが『切り取られた一部』に過ぎないとしたら? あるいは、誰かが巧妙に偽造し、あなた方マスコミを扇動するために仕組んだ罠だとしたら?」「負け犬の遠吠えですね。久我幹事長に泣きつかれ、火消しに
last updateLast Updated : 2026-10-28
Read more
PREV
1
...
34567
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status