ホーム / ミステリー / 椅子に座りますか / チャプター 71 - チャプター 80

椅子に座りますか のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

92 チャプター

第71話

 修造が大鳥の首根っこを掴んだまま、群衆の流れへ合流しようと走り出した。 私も、大鳥を庇って肉を抉られた右脚を引きずりながら、必死にその背中を追った。ずたずたに引き裂かれたふくらはぎから流れる血が、歩くたびに床へ赤い軌跡を描いていく。激痛で視界が明滅したが、歯を食いしばって耐えた。ここで立ち止まれば、確実に焼け死ぬ。 ようやく避難の波に乗り始めた、その時だった。 ドドォォォォンッ!! ホール後方、かつて優雅な展望ラウンジがあった『中二階』へ続くエリアで、再び爆発が起きた。炎が噴き上がり、中二階へと繋がる唯一のガラス張りの大階段が、轟音と共に崩れ落ちていく。「きゃああああッ!」 悲鳴は、私たちの後ろからではなかった。崩れ落ちた階段の上――中二階のフロアから響いてきた。「……おい、嘘だろ」 振り返って見上げると、崩落によって完全に孤立してしまった中二階のバルコニーに、逃げ遅れた数名の市民が取り残されていた。 小さな子供を抱きしめる母親や、恐怖で足がすくんだ老人たちが身を寄せ合い、その背後からは猛烈な炎と煙が迫っている。 下へ降りるための階段は、すでに完全に焼け落ちていた。「助けて! 誰か助けてえぇぇッ!」 母親の悲痛な絶叫が、炎の爆ぜる音を切り裂いてホールへ響き渡った。「クソッ……あんな所に人が!」 群衆が非常口へ先を争って逃げていく中、私は即座に踵を返し、中二階の下へ向かおうとした。 だが、右脚へ体重を掛けた瞬間、傷口が大きく裂けた。筋肉の奥深くまで抉られるような激痛が走り、私はたまらずその場へ膝をついた。「ジョウ!!」 修造が大鳥を近くにいたSPへ乱暴に預けると、群衆の流れを逆行し、私のもとへ駆け戻ってきた。「親父、上の階に人がいる! 階段が崩れて降りられないんだ、早く助けに……ッ!」 痛みに顔を歪めながら叫ぶ私を見て、修造は中二階の絶望的な状況と、血まみれになった私の右脚を交互に見つめ、ぎりっと奥歯を噛み締めた。 そして、私の肩を力強く掴み、真っ直ぐな目で見据えた。「ジョウ、よく聞け」 その目は、かつて現場で幾多の修羅場を潜り抜けてきた『鬼の真下』そのものだった。「お前のその脚じゃ、あそこまで登って人を担ぎ、降ろすような機敏な動きは無理だ。足手まといになるだけだ」「何言ってるんだ、親父! 俺も行く!」 私が叫ぶと
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第72話

「……親父」 その時になって初めて、本当に自分がここで死ぬのだと思った。「親父……」 どうせ死ぬのなら、このまま何もせず焼け死ぬのだけはごめんだった。 私は傷ついた右脚を引きずり、壁へ血の跡を残しながら、瓦礫へ背を向けて再び煙の充満する通路を歩き始めた。 どこかに別の出口はないか。 従業員用の裏通路でも構わない。 僅かな希望だけを頼りに、よろめく足取りで暗闇を彷徨った。 だが、現実は残酷だった。 見つけた扉のノブを回しても、びくともしない。従業員用のドアも、非常用エレベーターの扉も、すべて電子ロックが作動しており、完全に封鎖されていた。「クソッ……開けろよ……ッ!」 血塗れの手で扉を叩いたが、返ってくるのは硬質な金属音だけだった。 もう限界だった。 右脚の激痛はとうに感覚を失い、大量の出血と酸欠によって意識も朦朧としている。私は扉へ寄りかかったまま、ずるずると冷たい床へ滑り落ちた。 黒煙が視界を完全に奪い、周囲で燃え盛る炎の音さえ、次第に遠ざかっていく。 これが、私の最期なのか。 泥臭い正義を貫けと教えてくれた親父の顔が、瞼の裏へ浮かんだ。 私が完全に意識を手放しかけた、その時だった。 ガチャンッ。 背後で、絶対に開くはずのない電子ロックの扉が、不意に軽い音を立てて開いた。 私は驚き、重い頭を持ち上げた。 黒煙を切り裂くようにして、一人の男が姿を現した。 無精髭を生やし、帽子を目深に被り、サングラスで顔を隠している。 先ほど展望ホールで、ケータリングの台を片付けていた、あの『清掃スタッフ』だった。 男は息も絶え絶えの私を見下ろすと、何も言わないまま腕を掴み、自分の肩へ回させるようにして強引に立ち上がらせた。 言葉はない。 だが、その腕からは、私を絶対に生かして帰すという強い意志と、切迫した焦りが伝わってきた。 男は私を抱えるようにしながら、自分が出てきた扉の向こう側へ導いた。 そこには、外部へ通じる細いダストシュート用のメンテナンス階段が延びていた。 さらにその先には、もう一枚の分厚い防爆電子扉が立ちはだかっている。 男は扉の前へ立つと、ポケットから小型の黒いデバイスを取り出し、電子ロックのテンキー下部にあるポートへ無造作に接続した。 液晶画面には、無数のコードが滝のように流れ落ちていく。 男はパスワ
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第73話

 前線の消防隊員の絶叫が、騒然としていた現場の空気を一変させた。 私は弾かれたように首を巡らせた。 もうもうと吹き出す黒煙を掻き分け、崩れかけた非常口の奥から、一人の大柄な男が姿を現した。 全身の制服は焼け焦げ、顔は煤と血で黒く汚れている。 だが、その太く逞しい両腕には、意識を失った小さな子供がしっかりと抱きかかえられていた。 さらに、その背後からは、彼に庇われるようにして、恐怖に震える母親と子供と他数名の人たちが、涙を流しながら歩いてきた。「親父……ッ!!」 あの絶望的な四十階の業火の中から、修造は自らの命を削り、見ず知らずの市民たちを連れて生還したのだ。「早く! 毛布と酸素を!」 救護隊員たちが一斉に駆け寄った。 修造は抱えていた子供をそっと引き渡し、母親が泣き崩れながら縋りついてくると、不器用ながらも優しい手つきで、その頭を撫でた。「……親父! 親父ッ!!」 私はストレッチャーから転げ落ちそうになりながら、血塗れの右脚を引きずるようにして叫んだ。 私の声へ気づいた修造が、ゆっくりこちらを振り向く。 その目はひどく充血し、息をするたびに胸の奥からヒューヒューという異音が漏れていた。 だが、私と日下部が無事だと分かった瞬間、親父は、不器用で温かい『ニカッ』とした笑顔を見せた。「……よかった、ジョウ……」 泥臭い正義を、最後まで見事に貫き通した。 そう言わんばかりの、誇り高い笑顔だった。 だが、次の瞬間。 修造の巨体が、何の前触れもなくアスファルトへ崩れ落ちた。「親父ッ!?」「急げ! 心肺停止だ! AEDを持て!!」 救急隊員たちが一斉に修造へ群がり、必死の心臓マッサージが始まった。 炎の中で市民の盾となり続けた修造の肺は、すでに致死量を遥かに超える一酸化炭素を吸い込んでいた。 最後の気力だけを振り絞って人々を外へ連れ出し、私の顔を見て安心した瞬間、限界を超えていた生命の糸が切れてしまったのだ。「やめろ……嘘だろ、親父……目を開けてくれよ!!」 私は血みどろになりながら這い寄り、必死に手を伸ばした。 だが、救急隊による懸命な蘇生も虚しく、修造が再び目を開くことはなかった。「……ああああぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!」 私の慟哭が、空へ虚しく吸い込まれていった。* * * 処置用テントの傍ら。 親父の亡骸
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第74話 第十章:泥水の中のバトン

 数日後、冷たい小雨が降りしきる中、都内の小さな斎場で、義父・真下修造の葬儀がひっそりと執り行われていた。 祭壇の中央では、修造が遺影の中でいつものように微笑んでいる。 しかし、その前に並べられたパイプ椅子はあまりにも多くが空いたままで、その寂しさがかえって胸へ重くのしかかってきた。 炎の中へ自ら飛び込み、市民を救い出した英雄として、本来なら盛大な警察葬で見送られてもおかしくない人間だ。それなのに、斎場にいるのは私と日下部、そしてかつて修造に世話になった数名の老刑事たちだけだった。「……クソが。総監の野郎、あからさまな嫌がらせをしやがって」 日下部が、忌々しそうに吐き捨てた。 久我派閥の犬と化している『警視総監』は、大鳥官房長官を殴り飛ばした私への報復として、『真下修造の葬儀には、本庁の人間は一切参加してはならない』という非公式の箝口令を敷いていたのだ。 線香の煙が静かに揺れる中、私は松葉杖をついたまま、自責の念に押し潰されそうになっていた。あの時、私が感情を抑えきれず大鳥を殴ったせいで、親父の葬儀までこんな寂しいものにしてしまったのではないか。その思いが、何度も胸を締めつけた。 その時だった。「……真下さん。誰か来ましたよ。本庁の連中ですかね?」 日下部が斎場の入口を見て、怪訝そうに声を上げた。 ザーザーと雨の降る中、一台の黒塗りの公用車が静かに敷地へ滑り込んできた。やがて後部座席のドアが開き、黒い傘を差した初老の男が一人で降り立つ。 仕立ての良い漆黒の喪服に身を包み、鋭く、それでいて深い知性を感じさせる眼差しを持った男だった。その人物が雨の中をゆっくりとこちらへ歩いてくる姿を見た瞬間、日下部が「嘘だろ……」と息を呑み、反射的に直立不動になった。 日本全国三十万人の警察官の頂点に立つ、絶対的なトップ――『警察庁長官』だった。 長官は私たちの前で静かに立ち止まると、わずかに頭を下げた。「……寂しい式にしてしまったな、真下くん。総監の卑劣な圧力とはいえ、すまないことをした」 それだけ告げると、長官は真っ直ぐに修造の遺影へ歩み寄り、深く、本当に深く頭を下げて焼香を行った。日本の警察組織の頂点に立つ男が、一人のヒラ刑事に対して、誰よりも深い敬意を示していた。 焼香を終えた長官は、ゆっくりと私のもとへ歩み寄った。「私がまだ本庁の若手キャ
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第75話

「……あの、真下刑事の、ご家族の方でしょうか」 不意に、背後から遠慮がちな、震える声が聞こえた。 顔を上げると、斎場の入口に一人の女性が立っていた。喪服ではなく、地味な平服姿だった。その傍らには、小さな男の子が彼女の手をぎゅっと握り締めながら立っている。「……あなたは?」 日下部が尋ねると、女性は私たちの顔と修造の遺影を交互に見つめたあと、その場でぼろぼろと泣き崩れた。「私……あのビルで、真下さんに助けていただいた者です。どうしても、お線香をあげさせていただきたくて……」 あの時、親父が炎の中から抱え出してきた親子の母親だった。 彼女は修造の遺影の前まで進み出ると、床へ額がつくほど深く頭を下げ、嗚咽を漏らしながら何度も何度も「ありがとうございました」と繰り返した。 私は空虚な心のまま、その背中を見つめていた。 親父の行動は間違っていなかったのだと、彼女の涙が証明してくれている。 それでも、私の心は晴れなかった。 その時、母親の隣に立っていた男の子が、不思議そうに斎場の中を見回し、修造の遺影を指差した。「お母さん、あのおじちゃんは?」 その無垢な問いかけに、母親は言葉を詰まらせ、肩を震わせながら再び泣き伏してしまった。 私も胸を強く締めつけられ、うまく息ができなくなった。「……ぼく、おじちゃんに言われたんだ」 男の子は修造の遺影を真っ直ぐに見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。「煙がいっぱいで、ドアも開かなくて、みんな泣いてた時……おじちゃんが、ぼくの頭を撫でてくれたの。……『大丈夫だぞ! 絶対に助けるから、お兄ちゃんは、お母さんの手を握って、安心させてあげなさい』って」 その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。「だからぼく、お母さんの手をずっとぎゅって握ってたんだよ。そしたらね、急にドアが開いて、お髭のおじさんが来てくれて……みんなでお外に出られたの」 男の子の目に涙はなかった。 そこにあったのは、小さな誇りだった。「お外に出た時、おじちゃんがぼくに言ってくれたんだ。『お兄ちゃん! よく頑張った! 凄いな! お母さんを守ったな!』って。……ぼく、お母さんを守れたんだよ」 その瞬間、枯れ果てていたはずの涙が、堰を切ったように私の目から溢れ出した。 長官の言葉が脳裏に蘇る。『ただ命を助けただけじゃ、恐怖は消えない。
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第76話

 私は、震える手でその茶封筒を受け取った。 封を開けると、中には数枚の便箋が入っていた。そこには、親父らしい角張った、力強い筆跡で文字がびっしりと綴られている。 息を呑みながら、私は手紙へ目を落とした。『ジョウへ。 お前がこれを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのだろう。 だが、安心しろ。私は死んだとしても、きっと自分の生き方に後悔はしていないはずだ。 ジョウ。お前には、どうしても話しておかなければならないことがある。 お前と私が初めて会ったのは、あの養護施設だったな。実のところ、私はお前にずっと隠していたことがあるんだ。 お前の実の父親である、風間誠志さんが電車内で亡くなった時……私は、あの電車が停車した駅の現場にいた。 お前の父親が亡くなった直後、私は先輩の刑事と一緒に現場検証へ向かった。 その時、現場には父親と一緒にいた男の子――お前の弟の『ユウ』がいた。 ユウは、駅員や先輩刑事、そして私に向かって必死に叫んでいた。「お父さんはただの病気で死んだんじゃない! 優先席のことで揉めた悪い人に、ドンって突き飛ばされて苦しんだんだ!」 だが、駅員も先輩刑事も、その小さな子供の言葉を信用しなかった。 当時、車内には監視カメラもなく、乗車していた人たちもその場には残っていない。「子供がショックで混乱しているだけだ」「ただの持病による発作だ」 そうやって、面倒な事件にすることを避けるように、彼らは単なる『病死』として片付けようとした。 私は、ユウの言葉が真実だと直感していた。 だが……情けないことに、当時の私は組織の空気に逆らえず、先輩の決定に従い、真実を訴えるその子から目を背けてしまったんだ。 自分の必死の叫びを、大人たちに『嘘』として処理された瞬間。 あの時のユウの目に、どうしようもない絶望と、この社会全体への激しい憎しみが込み上げていくのが、痛いほど分かった。 私たち大人の心ない『事勿れ主義』が、あの子の心を殺してしまったんだ。 私は、その日から数ヶ月もの間、あの時のユウの目が頭から離れなかった。 罪悪感に苛まれ、せめてもの償いができないかとあの子の行方を調べ、お前たち兄弟が養護施設に預けられたことを知った。 俺は、お前に出会うまで『生きる意味』を持てていなかった。 妻はいたが、警察という巨大な組織の
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第77話 第十一章:哀しき真相

* * * 親父の手紙を読み終え、泥水の中でもがきながら、それでも前へ進み続けることを誓ってから、数日が経っていた。 謹慎処分を受け、警察という組織の手足を縛られた今の私にできることは、自ら暗闇へ潜り、表には出てこない情報を拾い集めることだけだった。 私は自室のベッドに腰掛け、情報屋の『カラス』へ何度も暗号通信を送り続けていた。久我幹事長の闇を暴くため、そして、この狂った連続爆破テロの主犯へ繋がる情報を、たとえ僅かでも引き出すためだった。 だが、数日経ってもカラスからの返信は一切なかった。これまでなら、どれほど危険な情報であろうとすぐにコンタクトを取ってきた男が、まるで最初からこの世に存在していなかったかのように、完全に消息を絶ってしまったのだ。 理由の分からない沈黙が、日に日に私の焦燥を膨らませていった。 そんなある夜、手元の端末が突然震えた。『真下さん……助けてください。俺のところに、テロリストから直接連絡が来ました』 電話の向こうから聞こえてきた日下部の声は、尋常ではない恐怖に震え、ひどく掠れていた。 その数時間後、私は日下部からのSOSを受け、彼と共に、テロリストが指定した深夜の廃ビルへ足を踏み入れていた。 人気のない建物の内部には、湿った埃と黴の臭いが漂っていた。非常灯すらほとんど機能していない薄暗いフロアの中央に、不自然なほどぽつんと電子ロック式の保管庫が置かれている。 その操作パネルにはパスワード入力欄と、犯人から送られた短いメッセージだけが表示されていた。『15年前に散った花』 その言葉を目にした瞬間、私の脳裏に、崩落する密室の中で血を流しながら微笑んだ綾瀬管理官の姿が鮮明に蘇った。 ――主犯は……十五年前、天楽建設の汚職で自殺に追い込まれた……桜工事部長の、息子だ。「……俺がやる」 私は日下部を制し、保管庫の前へ進んだ。 震える指をキーボードへ置き、一文字ずつ入力していく。【sakura】 エンターキーを押した瞬間、ピピッという無機質な電子音が響き、内部のロックが解除された。重い機械音と共に保管庫の扉が開き、その中から現れたのは、分厚く頑丈な黒いアタッシュケースだった。「開いた……! 『15年前に散った花』って、桜のことだったんですね……!」 日下部が安堵と恐怖の入り混じった声を漏らし、アタッシュケースを
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第78話

 私の絶叫が、埃っぽい廃ビルの広い空間へ反響した。 隣では日下部が、「え……? 情報屋……?」と呆然と呟いている。 それまでモニターから流れ続けていた無機質な機械音声が、ぴたりと止まった。 数秒間、異様な静寂が続いた。 そして、スピーカーから短いノイズが走った直後、今度は加工されていない声が聞こえてきた。『――ふふっ。おめでとう、真下刑事。やっと気づいたね』 それは、感情のない機械音声ではなかった。 どこか楽しげで、それでいて不気味なほど落ち着き払った、若い男の地声だった。 正体を見破られてなお隠そうともせず、まるで長いゲームをようやくクリアした相手を祝福するかのような、その傲慢な響きに、私は奥歯を強く噛み締めた。「ふざけるな……! なぜこんな真似をする! なぜ無関係な市民の首に爆弾を巻いて、俺たちを弄ぶ!」『……怒ることはないだろう、真下刑事』 カラスが、静かながらも凍りつくような冷たさを帯びた。『君だって、もうこの国の警察の腐敗も、政治の薄汚い闇も、嫌というほど知ったはずだ。……君の義父である修造が、なぜ死ななければならなかったのかもね』「……っ!!」 親父の名前を口にされた瞬間、全身の血が沸騰した。『綾瀬管理官からも聞いたはずだ。……私たちの団体は、狂った爆弾魔などではない。久我たちのような特等席の連中や、警察の事勿れ主義によって地獄に突き落とされ、泣き寝入りを強いられてきた者たちの【集合体】だ』 カラスの声には狂気があった。 だが同時に、その狂気を支える理屈には、悲痛なほど整然とした『正義』が存在していた。『私たちは、君の親父さんや綾瀬さんの無念を晴らそうとしているんだ。……真下刑事。君の銃口が向くべき本当の敵は、私たちなのかな?』「黙れ……! 親父の正義を、お前たちの人殺しの言い訳に使うなッ!!」 私が怒鳴りつけると、カラスは短く息を吐いた。『残念だよ』 続いて声のトーンが一段低くなり、底知れない凄みを帯びた。『まあいい。君の理解を得られなくても、計画は進む。……近い内に、日本中に声明を流す。この腐りきった国を終わらせる、最大の計画をね』 モニターの中では、爆弾の首輪を巻かれた人質が、なおも絶望の声を上げて泣き叫んでいる。『楽しみにしていてくれ、真下刑事。……また会おう』 ブツン、と一方的にモニター
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第79話

 ただ、その紙の束から漂ってくる得体の知れない『執念』のようなものが、私の背筋へ冷たい汗を伝わせた。 私は資料を折り畳み、自分のコートのポケットへ深くねじ込んだ。 誰もいない隠れ家の中で、パソコンの青白い光だけが静かに灯り続けていた。 秋葉原の隠れ家を出た私は、ひどい疲労感と喉の渇きを覚え、近くのコンビニへ立ち寄った。 レジで缶コーヒーの会計をしていると、背後から親子の会話が聞こえてきた。「ママー、公園! ブランコ行く!」「さっきまで遊んでたじゃない。……もう、諦めないわね。これ買ったら行くわよ」 何気ない親子の会話だった。 それなのに、なぜか耳に残った。 車へ戻り、運転席で缶コーヒーのプルタブを開けた。 ふと窓の外を見る。 コンビニの隣にある小さな公園へ向かって、先ほどの男の子が猛ダッシュしていく姿が見えた。 その視線の先には、ブランコを目指して小走りしている別の子供がいる。 どうやら、自分が先にブランコへ乗ろうと必死に走っているらしい。(……ユウも、ブランコが好きだったな) 男の子は結局、一足遅くブランコを取られてしまった。 その場で、わあっと泣き出す。 追いついてきた母親がしゃがみ込み、「順番、待っていようね」 と優しく宥めていた。 ただそれだけの、ごく普通の日常だった。 だが、私はその光景から、どうしても目を離すことができなかった。 気がつけばエンジンをかけ、無意識のうちに車を走らせていた。 向かったのは、実の父親と、幼いユウと、三人でよく遊んだ思い出の公園だった。 * * * 到着した公園には誰の姿もなく、どんよりとした曇り空の下、静寂だけが広がっていた。 色褪せたベンチへ腰を下ろす。 目の前では、錆びついたブランコが風に揺れ、かすかな金属音を立てている。 私は目を閉じた。 胸の奥底へ封じ込めていた、遠い昔の記憶が鮮明に蘇ってきた。 あれは、私がまだ幼かった頃だった。 ユウがブランコへ乗り、父が後ろから背中を押してやっていた。 ユウの楽しそうな笑い声が、公園いっぱいに響いている。 そこへ、一人の小さな子供がやってきた。 父はその子に気づくとブランコの揺れを止め、ユウを抱き上げて地面へ降ろしてやった。 空いたブランコへ、待っていた子供が嬉しそうに乗り始める。 だが、まだ遊びたかったユ
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第80話

「……っ!?」 心臓を素手で激しく鷲掴みにされたような衝撃が走った。(譲る……優しさ……!?) 私は画面を凝視した。 なぜだ。 なぜ、こいつが親父と同じ言葉を使う。『……持てる人間は、ごくわずかだ。大半の人間は、無関心に目もくれないだろう。それが今の社会だ。自分さえ良ければいい。自分が座る『特等席』のことしか頭にない。 上に立つ政治家たちも同じだ。数十年前、大鳥官房長官の息子が轢き逃げをし、不起訴になったことを覚えている者がいるはずだ。メディアも政治の力に屈し、誰も騒がない。 それだけじゃない。不正な資金を使い回し、秘書や会社に罪をなすりつけて逃げている議員たち。……数ヶ月前、あの佐々木副大臣の動画を見た者がいるだろう?』 スマートフォンを持つ手が、僅かに震えた。 あの時、爆弾のブラフに怯えきった佐々木が、百万人の視線の前で泣き叫びながら自らの過去を告白した光景が蘇る。『土地取引で不正をした佐々木は、秘書から報告を受け了承していたにも関わらず、「共謀はない」という法の抜け穴を利用して無罪放免となった。動画の中で、あいつは自分の口ではっきりとそれを認めた。 だが、どうだ? 巨悪が自白したというのに、権力によって隠蔽され、誰も何も言えない。誰も彼を裁けない。 そんな奴らが、私たちの生活を良くするためだと大義名分を掲げて国民を騙し、何か問題を起こせば天下りをして優遇され、今も甘い汁を吸い続けている』 機械音声が、静かな怒りを伴いながら日本中へ問いかけ続けた。『これを知って、日本が良くなると思いますか? これをどう思う? だから私たちが、腐りきった特等席の連中を清算する。最大のプロジェクトを開始する』 そこで動画は、プツンと途切れた。 私はベンチへ腰掛けたまま、凍りついたように動くことができなかった。(……おかしい) カラスは、ただのサイバーテロリストではない。 あの声明の根底にあったのは、弱者へ向けられた痛切な優しさと、それを見捨て続ける社会への強烈な絶望だった。 そして何より、あいつが使った『譲る優しさ』という言葉が、私の胸へ引っかかったまま離れない。 偶然の一致として片付けるには、あまりにも出来すぎていた。 かつて父親が口にした『優しさ』という言葉を、殺戮の大義名分として掲げる見えないテロリスト。 その矛盾に満ちた絶
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む
前へ
1
...
5678910
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status