ホーム / ミステリー / 椅子に座りますか / チャプター 81 - チャプター 90

椅子に座りますか のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

92 チャプター

第81話

 数か月前、確かに死んだ男だった。 私は爆発の瞬間を映像で見ている。 そして現場から回収された遺体は、高熱と爆風によって、人間だった姿や細胞も残さなかった。 到底、生き残れるような爆発ではなかった。 それなのに、死んだはずの久我晃生が、今、私の目の前で確かに呼吸をしていた。(なぜだ……。あれほどの爆発だったんだぞ……!) あまりにも大きな衝撃が、刑事としての警戒を一瞬だけ奪った。 その僅かな隙を、相手は逃さなかった。 暗がりから、金属が擦れる冷たい音が立て続けに響いた。 私が久我晃生の顔へ意識を奪われている間に、外階段から同行していたもう一人の男が部屋の影から姿を現していた。 同時に、さらに奥へ潜んでいた別の男も拳銃を構える。 そして、カラスも懐から拳銃を抜き放っていた。 三つの銃口が、私の頭と心臓を三方向から完全に捉えた。「……チッ!」 我に返った私は銃を構え直そうとしたが、すでに遅かった。 少しでも動けば、即座に撃ち抜かれる。 額を冷たい汗が伝った。 一触即発の空気が部屋を満たす中、久我晃生だけは、私から拳銃を向けられているにもかかわらず、何ひとつ恐れていないように立っていた。「……落ち着こう。まず、話を聞いてくれ。真下さん」 その声にも、私は違和感を覚えた。 かつて親の権力を笠に着てふんぞり返り、『暴食』の罪人として糾弾された久我晃生の姿とは、まるで別人だった。 目の前の男が持つのは、幾つもの修羅場を潜り抜けてきた人間だけが持つ、静かで芯のある眼差しだった。 そして声もまた、あのタワーの踊り場で私に、『あなたは生き延びてください』 と告げ、炎の中へ戻っていった時のものと同じだった。 私は三つの銃口に囲まれながら、目の前に立つ死人へ、低く震える声を絞り出した。「……なぜ、生きている?」「何から話せばいいか迷うが……」 久我晃生は、こちらの銃口を前にしても顔色一つ変えず、静かに息を吐いた。「まずは真下さん。その拳銃を渡してくれないか」「……誰が渡すか」 私は奪い取った拳銃のグリップをさらに強く握り、引き金に掛けた指へ力を込めた。 相手が死人であろうと何であろうと、こんな状況で自ら武装を解く理由などない。 私の態度を見た久我は、小さく肩をすくめた。 そして、私の頭と心臓を狙っている三人へ視線を向け
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第82話

「……久我晃生。そうか。この顔だもんな」「……なに?」 男はゆっくりと、私の方へ一歩だけ踏み出した。「真下さん……いや。あんたは、久我晃一郎という男の本当の恐ろしさを分かっていない」 男の声が、少しずつ変わっていく。 政治家・久我晃生として人前に出ていた時の、洗練された声ではない。 もっと泥臭く、柔らかく、そして――私の記憶の奥深くに眠っている何かへ触れるような、ひどく懐かしい響きを帯び始めた。「あの男は、自分の政治生命と血統を守るためなら、他人の顔や人生すら平気で『上書き』する化け物だ」「顔を……上書きする……?」 私の喉から、掠れた声が漏れた。 男は私の目を真っ直ぐに見つめた。「覚えているか分からないけど……二十二年前の嵐の夜。公園に置いていた段ボールの家が吹き飛ばされそうになって、傘も差さずに必死に助けに行った小さな子供がいた」 その瞬間、私の呼吸が止まった。「その子は、自分が濡れることよりも、震えている小さなスズメの命を救いたかった。……スズメの名前は、『ちーこ』」 指から力が抜けた。 拳銃が手の中から滑り落ち、冷たいコンクリートの床へぶつかった。 ガラン、と乾いた音が響く。「……お前……ユウ……なのか?」 震える声で絞り出すと、男は――いや、ユウは、久我晃生の顔をしているにもかかわらず、昔と変わらないほど豊かな表情で笑った。「……兄ちゃん。やっと、会えたね」「……ユウ……!」 私はその場へへたり込み、うまく息を吸うこともできず、胸を押さえながら喘いだ。「どういうことだよ……? なんで、お前が久我晃生の顔をしてるんだ……!」 私の問いに、ユウは静かに目を伏せ、小さく息を吐いた。「……全部、話すよ。兄ちゃん」 ユウは私を見つめたまま、二十二年間閉ざされてきた地獄の蓋を、ゆっくりと開き始めた。「俺の葬式で……あの冷たい棺桶に入っていたのは、俺じゃない。あの時すでに俺の顔をしていた――『本物の久我晃生』だったんだ」「なっ……本物の、晃生だと!?」「ああ。本物の晃生は、重い発達障害を抱えていた。感情のコントロールがうまくできず、衝動的に暴れてしまうことも多かった」 ユウの声には、当時の記憶を掘り返す苦痛が滲んでいた。「だが、完璧な血統と経歴を求める久我家にとって、将来の総理候補の長男がそんな状態であること
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第83話

 さらに、もう一つの記憶が鮮明に蘇る。 深夜の廊下で出会った、認知の混濁した元総理大臣・久我総一郎。 その老人が、涙ぐみながら語った言葉。『……あの子は写真に魅せられていた。ファインダー越しに見る世界は、私が見る無機質な権力の景色よりもずっと澄んでいて、美しかった。あの子は絵の具を水で溶き、パレットの上で慎重に色を混ぜ合わせる……。あの子の手にかかれば、夕焼けのグラデーションも、雨上がりの湿った空気の色さえも、息を吹き返したように再現された。……あれは、私の家で唯一、慈しんだ「命」の跡なのだから』 私はとうとう堪えきれず、涙を零した。 総一郎が語っていた『優しい子』は、間違いなく目の前にいるユウだった。 権力と利権ばかりを追い求める久我家という冷たい鳥籠の中で、ユウの描く色に魅せられ、その優しさを見つめ、本当に愛してくれた人間が、一人だけでも確かに存在していたのだ。 だが、ユウは私の涙を見ても表情を変えなかった。 昔の懐かしい笑顔は消え、代わりに感情の抜け落ちたような、冷たく虚無的な顔になっていた。「その後、俺は『将来の総理の息子』として、嫌でもこの国の政治の裏側を見せつけられた」 ユウは静かに私を見た。「……兄さん。政治の真実を知ると、本当にこの社会が嫌になるよ」「……政治の、真実?」「ああ。兄さんはずっと下っ端の刑事として泥水をすすってきたから、信じたくないかもしれない。でも……警察なんて、官僚や大物政治家が相手になれば、どれほど明白な不正や法律違反があっても、上から『揉み消せ』と命令が下れば平気で隠蔽する。あの郷田や本部長を見てきた兄さんなら、それくらい痛いほど分かってるはずだろ?」 私は何も言い返せなかった。 実際、警察組織は自分たちの保身のためなら、犯人の声明を都合よく歪め、内部文書さえ勝手に書き換えてきた。真実を守るはずの組織が、組織そのものを守るために真実を捻じ曲げる場面を、私は何度もこの目で見ている。「そして政治家の後ろには、必ず坂巻のような腕の立つ弁護士がついている。どんなに不利な状況に追い込まれても、奴らは悪びれることなく『法律の抜け道』を見つけ出して、黒を白にひっくり返す。……それでも逃げ切れないほど致命的な事態になった時、奴らがどうするか分かるか?」 薄暗い部屋の中で、ユウの目がぞっとするほど冷たい光を帯び
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第84話

「カラス……お前……!」 カラスはゆっくり私の前へ進み出た。 いつものモニター越しで見せていた飄々とした態度は消えている。ひどく重く、痛切な眼差しを向けると、私に向かって深く頭を下げた。「……ずっと正体を隠し、あんたを利用していてすまなかった、真下刑事。だが、俺たちの『痛み』を、警察の中で唯一、泥水をすすりながら生きているあんたにだけは……分かってほしかったんだ」 私は言葉を失った。 その時、綾瀬管理官が死の直前に語った言葉が、頭の中へ蘇った。『あの計画の主犯は……十五年前の天楽建設の汚職で使い捨てにされ、自殺に追い込まれた桜工事部長の息子だ』 私はカラスを見た。 それから、ユウへ視線を戻した。「……待て」「どうした、兄さん」「綾瀬さんは言っていた」 私は低い声で続けた。「この計画の主犯は、桜工事部長の息子――カラスだと」 一瞬、部屋が静まり返った。 だが、ユウは驚かなかった。むしろ、どこか寂しそうに目を細めた。「……そうか。綾瀬さんは、最期の瞬間まで俺を守ってくれたんだね」「どういう意味だ」 ユウは静かに答えた。「綾瀬さんは俺たちに協力する時、はっきりとこう言っていたんだ。『俺は大鳥への復讐が終わったら、あるいはいざ自分が追い詰められたら、お前たちを裏切って主犯の名前を警察に売るかもしれない。俺にとってお前たちは、復讐を果たすためのただの道具だ』って」 私は息を呑んだ。「じゃあ、なぜ綾瀬さんは……死の間際に、主犯はカラスだと言ったんだ。お前を売る絶好の機会だったはずだろ」「……俺たちのことを、信頼してくれたからだよ」 ユウは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。「計画を進める中で、綾瀬さんは俺たちの痛みを理解してくれた。ただの殺人鬼じゃないってことを分かってくれたんだ。」カラスが横から静かに口を挟んだ。「ユウの正体をあそこでバラせば、久我晃一郎の力で即座に握り潰されるか、最悪の場合、アンタが自分の実の弟を逮捕しなきゃならなくなる。……綾瀬さんはユウを売るような真似はせず、アンタ自身の手で真実を掘り起こし、久我の闇へ辿り着かせる道を選んだんだ。だから、あえて俺(桜の息子)の名前をカモフラージュとして使ったんだよ」 私は黙ったまま、カラスを見た。 ユウが言葉を継いだ。「カラスがシステムを作り、綾瀬さんが警察内部から俺た
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第85話

* * *「綾瀬さんが、裏切った……!?」 思わず息を呑んだ。「俺たち五人が決めていたルールは、あくまで標的である『特等席の罪人』だけをピンポイントで排除することだった。だが、綾瀬さんは違った。娘を奪った大鳥官房長官への憎悪があまりにも深すぎて……復讐という暗い感情に、魂を完全に喰い殺されてしまったんだ」 ユウの瞳に深い悔恨が滲んだ。「俺たちが脅してあのタワーへ送り込んでいた市民たちに与えていた本来の任務は、あくまで『指定されたタイミングでスマホの起爆ボタンを押す』ことだけだった。彼らはあのサイトで『処刑賛成』に投票した弱みを握られ、俺たちの指示に従うしかなかった哀れな奴隷だ」 ユウは奥歯を噛み締めた。「だが、綾瀬さんは俺たちの指示を無視した。彼は警視庁の管理官という立場を悪用し、最新鋭のセキュリティをすり抜け、あらかじめ大量の拳銃をタワー内部へ持ち込んでいた。そして俺たちの計画の駒として動いていた市民たちに、本来の任務にはない『拳銃』を無理やり握らせて、暴徒化させたんだ。大鳥を確実に密室で殺すために、周囲の市民がどうなろうと構わず、爆弾を起爆させるタイミングまで大幅に早めてしまった」 その説明を聞いた瞬間、私の頭の中で、あの日の不可解だった場面が激しい音を立てて繋がった。 銃を乱射しながら、「撃ちたくない!」「許してくれ!」と泣き叫んでいた素人たち。彼らもまた、あのサイトで軽い気持ちでボタンを押してしまったがゆえに、テロリストと警察幹部の両方から弱みを握られ、家族を守るために銃を持たされた哀れな『奴隷』だったのだ。「俺は最初、あのタワーへ行く予定なんてなかったんだ。暗殺は遠隔で完遂されるはずだった。だが……監視カメラをハッキングして会場の映像を見張っていたカラスから、綾瀬さんの信じられない行動を知らされた」「信じられない行動……?」「ああ。カラスが警備の死角になるトイレ付近のカメラ映像を追っていた時……綾瀬さんが、スマホを押すためだけに待機していた市民たちを呼び止め、密かに『拳銃』を渡している決定的な場面を見たんだ。警察幹部の権限を悪用して、あらかじめ個室にでも隠していたんだろうな」 その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、あの親父【修造】が叫んだ推理が鮮明に蘇った。『警備の中枢にいる人間が、警察の権限を使って事前の機材搬入に紛れ込ませ、ト
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第86話

「君だって、あの音声を聞いて怒りを感じただろう! 君も心のどこかでは思っていたはずだ。こんな狂った社会は壊すべきだと!」 私は四方から突きつけられた銃口を見ても、目を逸らさなかった。「ああ……お前らの気持ちは、よく分かる」 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。「親や家族を奪われ、それでも平然と特等席でふんぞり返っている連中を……殺したいと思う気持ちも、痛いほど分かる」「だったら仲間になるんだ!!」 カラスが叫んだ。「今さら、こんな警察の犬が信じられるか!!」 門別が激昂し、引き金に掛けた指へ力を込めた。「門別!!」 ユウの怒号が、コンクリートの壁を震わせた。 次の瞬間、ユウは銃を構える四人と私の間へ、自ら身体を滑り込ませた。「……兄さんだ。手を出すな」「だが、ユウ!」「手を出すなと言っている」 低い声だったが、その言葉には絶対的な意志があった。 門別は歯を食いしばり、カラスも、相田も、深川も納得できない表情を浮かべていた。それでも、ユウの言葉に従い、四つの銃口は少しずつ床へ向かって下がっていった。 ユウは私へ向き直り、もう一度手を差し出した。 何も言わない。 ただ真っ直ぐ私の目を見つめ、私がその手を取るのを待っている。 自分たちの正義を、兄なら必ず理解してくれると信じているようだった。 私は、かつて弟だった男の手をじっと見つめた。「……俺を拘束しろ」「え……?」 ユウの顔に、初めてはっきりとした動揺が走った。「俺は今、謹慎中の身だが……それでも、警察官だ」 私は自ら両手を前へ差し出し、ユウの目を真っ直ぐに見据えた。「俺を拘束してくれ」 その言葉を聞くと、門別が鋭く舌打ちし、部屋の隅へ向かおうとした。「……縛り上げる紐を持ってきます」「待て。紐はいらない」 ユウが静かに止めた。「この部屋に閉じ込めるだけでいい。電子ロックのパスワードが分からなければ、この扉は中から絶対に開かない。兄さんは、この部屋で閉じ込める」 門別は怒りを隠そうともしなかったが、ユウの指示には逆らわなかった。 そのやり取りの横で、カラスが痛切な表情を浮かべて私を見つめていた。「……真下刑事」 いつもの飄々としたハッカーの面影はなく、その声はひどく震えていた。「俺は……あんたと手を組みたかった。俺は、あんたが好きだったんだ」
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第87話

 私はユウを真っ直ぐに見据えた。「あの現場に残されていた遺体は、細胞の判別もできないほど激しく損壊していたと聞く。……あれは、一体どんなカラクリでやったんだ?」 私の問いに、ユウは一瞬だけ目を伏せた。 そして、感情の読めない静かな声で答えた。「カラクリなんかじゃないよ。……あの現場には、本当に『久我晃生』の遺体があったんだ」「……なに?」「彼は、脱獄犯だよ。僕らが裏で手を貸して脱獄させた。そして、骨格が久我晃生に似ている彼を選んで、顔を変えさせたんだ」「なっ……!」 耳を疑った。 次の瞬間には、胸の奥から激しい怒りが一気に噴き上がっていた。「ふざけるなッ! お前……自分がどれだけ恐ろしいことを言っているか分かっているのか!」 私はユウへ詰め寄った。「人の顔を変え、身代わりの駒にするなんて……それじゃあ、久我晃一郎がお前にやったことと全く同じじゃないか!! しかも、なんで殺した!!」 私の怒号を受け、ユウの表情に僅かな苦痛が走った。「彼を殺す気はなかったよ……」「じゃあ、なぜ死んだ!」「顔を変え、権力の座に就いたことで、彼自身が変わってしまったんだ」 ユウの声が沈んだ。「彼はやっぱり、根っからの犯罪者だった。『久我晃生』として特等席の力を手に入れた途端、弱い者を平然と脅し、虐げ始めた。しまいには……その権力を盾にして、俺たちまで脅してきたんだ」 苦しげに語るユウを見ながら、私は彼自身もすでに深い泥沼の中でもがいているのだと感じた。「……まだ、引き返せるんじゃないか?」「はっ! 何言ってんだよ!」「お前、本当はこんなことやりたくないんだろ!」 私が叫ぶと、ユウも感情を抑えきれなくなったように声を荒らげた。「このまま放っておけば、久我晃一郎が総理大臣になる! そうなれば、日本では路頭に迷う人間や、不幸になる人間がさらに増えるんだぞ!」「だからって、殺していい理由にはならない!」「兄さんは分かっていない!」 ユウの声が部屋に響いた。「久我は周りを完全に固めている。政治だけじゃない。警察、大手企業、マスコミの中にも、久我に力を貸す人間がいる。このまま見て見ぬふりなんてできない!」 私は悲しさを押し込めるように首を振った。「分かってるよ、ユウ。だけど、議員全員が悪いわけじゃないだろ。中には、それこそ現総理の神谷みたい
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第88話 第十二章:譲る優しさ

 私は間髪入れずに言い放った。「お前だって、本当は分かっているはずだ。かつては冷酷な怪物だった久我総一郎でさえ、お前の描いた絵の優しさに触れて、確かに心を変えたじゃないか。お前の優しさは、権力の深い闇にすら届く力を持っていたんだ!」 ユウは息を呑み、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。「俺が日下部を、自分の命を懸けて助けようと思ったのには、理由があるんだ」「え……?」「あの嵐の夜、お前はスズメの『ちーこ』を助けるために外へ飛び出した。俺が怒った時、お前は泣きながら言ったよな。『助けられるのに、助けないのはおかしいよ!』って」 ユウの顔が、くしゃりと歪んだ。「俺が泥水の中で、自分の命を懸けてでも人を救おうと思えたのは……親父の言葉だけじゃない」 私は堪えきれず、声を強くした。「あの日のお前の、その純粋な優しさがあったからなんだよ! お前の優しさは、久我総一郎を変え、俺を変え、俺の中でずっと生きているんだ!」  私の叫びが、冷たいコンクリートの部屋に響き渡った。 ユウは、目に見えない刃で胸の奥を深く抉られたように顔を歪め、自分の胸元を強く握り締めた。 その瞳の奥で、テロリストとして積み上げてきた冷酷な決意と、かつての純粋な弟としての感情が、激しくせめぎ合っているのが痛いほど分かった。 だが、ユウは何も答えなかった。 限界まで張り詰めた沈黙が続いたあと、ユウはゆっくりと私へ背を向け、重い鉄扉の取っ手へ手を掛けた。「ユウッ!」 たまらず、その背中へ向かって叫んだ。 扉に手を掛けたまま、ユウは動きを止めた。 それでも、私の方を振り返ることはなかった。 しばらくして、押し殺したような声だけが聞こえてきた。「……数日後に、このドアのロックは自動的に解けるようになっている。だから、それまでここで待っていてくれ」 次の瞬間、重い鉄扉が閉まり、冷たい金属同士が噛み合う鈍い音が、コンクリートの部屋へ響いた。「待て、ユウ! 話はまだあるんだ!」 私は分厚い鉄扉へ駆け寄り、両拳を叩きつけながら喉が裂けるほど叫んだ。「ユウ! 開けろ! まだ終わってないだろ!!」 しかし、返ってくるのは電子ロックの赤いランプだけだった。 扉の向こうから、足音さえ聞こえない。 やがて私は、力を失うようにその場へ膝をついた。 親父の教えも、私の言葉も、ユウに
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第89話 

 全員が息を呑み、画面の中で国会議事堂に鋭い警報が鳴り響き、あの残酷な地獄の幕が上がるのを、身を乗り出して待った。 しかし、何も起こらなかった。 数秒が過ぎても、さらに重苦しい時間が経っても、国会議事堂は死んだような静寂を保ったままだった。  爆炎の兆しとなる煙も上がらなければ、地を揺るがす轟音も聞こえない。警報も鳴らなければ、システムが作動した痕跡すらない。  真昼の眩い光にすっぽりと包まれた議事堂は、澄み切った青空の下で、ただ冷たい威容を誇っているだけだった。「どういうことだ!? なぜ作動しない!」  門別が激情に駆られ、パイプ椅子を乱暴に蹴り倒して立ち上がった。 「馬鹿な、タイマープログラムが走らない……ッ!」  カラスも血相を変え、喰らいつくようにキーボードへ向かった。凄まじい勢いで指を走らせ、何度も、何度も手動での起爆システムへのアクセスを試みる。 しかし、黒い画面に無慈悲に叩きつけられるのは、赤い警告文字と、システムからの完全な拒絶を示すエラー表示ばかりだった。 「ダメだ……起爆システムへのアクセスが完全に弾かれてる! 誰かがマスターパスワードを書き換えて、俺たち全員をシステムから締め出してる……ッ!」 その直後だった。  ガチャンッ!! という、まるで断頭台の刃が落ちたかのような重苦しい金属音が、アジト中に響き渡った。 「な、なに!?」  深川が悲痛な声を上げて叫ぶ。 それは、アジトの唯一の出入り口である頑丈な防音扉の電子ロックが、外側から強制的に、そして開かないよう施錠された音だった。 「扉が開かない! 閉じ込められたぞ!」  門別が扉にすがりつき、ノブを乱暴にガチャガチャと回すが、分厚い鉄の扉はびくともしない。「嘘でしょ……そんなことできるの、ユウ以外にいないじゃない!」  相田が悲鳴に近い悲痛な声を上げ、震える指でスマートフォンを取り出した。画面をタップし、何度もリダイヤルを押すが、耳に届くのは無機質で冷たい呼び出し音が繰り返されるだけで、ユウが電話に出ることは決しなかった。 「お願い……電話に出てよ、ユウ……! なんで、どうして……!」 全員が理解の及ばない事態に陥り、完全な混乱と焦燥の濁流に呑み込まれかけた、まさにその時だった。  壁一面を占めていたアジトのメインモニターが、前触れもなく突然暗転し
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む

第90話

 画面を覗き込んだ久我晃一郎の目が、限界まで見開かれた。  そこには、無数のマスコミのカメラに囲まれ、拡声器を構える『死んだはずの息子』の姿が生中継で映し出されていた。 「……馬鹿なッ!」  久我は椅子を蹴り倒すようにして立ち上がった。 顔面は怒りと焦燥で土気色に染まっている。彼は周囲のどよめきを完全に無視し、議場を飛び出してエントランスへと向かって猛然と歩き出した。 「久我幹事長! いかがなされましたか!」 議場の隅で警備に当たっていた郷田管理官が異変を察知し、完全武装したSPたちを引き連れて慌ててその後を追う。 分厚いガラス張りのエントランスに辿り着き、外の広場を見下ろした彼らの耳に、絶望的な声が飛び込んできた。 「俺は久我晃生。一連のテロ事件のすべてを、俺一人でやった!」 ユウの声が白日の下へ響き渡った瞬間、包囲していた報道陣から割れんばかりの絶叫が上がった。  死んだはずの次期総理候補のご子息がテロの主犯であったという、国家の根底を覆す異常事態。全国のテレビ画面にその顔がハッキリと映し出される中、ユウは持っていた鞄を高々と掲げた。「そして、これが久我家が今まで裏で手を染めてきた、すべての汚職、脅迫、そして殺人の証拠だ!!」  ユウが鞄を逆さに振ると、大量の書類とUSBメモリが空へ向かって放り出された。 白い紙片が、まるで真昼に降る雪のように、国会議事堂前の青空を美しく、そして残酷に舞っていく。「証拠書類だ! 一枚でも多く回収しろ!!」 「カメラ、あの書類の束をズームしろ!!」  群がってきた記者たちが、我先にと地面に散らばった紙の束を拾い集め始めた。 それは、特等席に座り続けてきた権力者たちを社会的に引きずり下ろすために、ユウの最初で最後の告発だった。「ふざけるなッ! 貴様、何をしている!!」  ガラス越しにその光景を見た久我幹事長は、エントランスの扉を押し開けて外へ転がり出るように飛び出した。  自分たちの隠蔽してきた最大の汚点が公衆の面前に晒され、あろうことか報道陣がその証拠を全国中継のカメラの前で拾い集めている。 すべてが手遅れになりかけていると悟った久我は、蒼白な顔で背後に続く郷田管理官を振り返った。  その狂気と焦燥に満ちた目配せで、何かを伝えた。 郷田は忌々しそうに舌打ちし、凄まじい殺気を放ちながら完
last update最終更新日 : 2026-10-28
続きを読む
前へ
1
...
5678910
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status