月の色が霞んでいくレース中、ヘッドセットから恋人の北村辰朗(きたむら たつろう)がこれまで聞いたことのないほど叫ぶ声が響いた。「減速しろ!左の前輪がバーストする!」
自分ではマシンの調子は良いと感じていたが、小林美月(こばやし みつき)はそれでも彼を信じ、アクセルを緩めた。
次の瞬間、彼の幼なじみである隈元芽依(くまもと めい)が美月にぶつかり、コース外へ弾き飛ばして追い抜き、優勝をさらった。
美月は左耳を失聴し、レーサーとしてのキャリアを絶たれた。
偶然、辰朗が友人と話しているのを耳にした。
そこで美月は、命を落としかねなかったあの事故が彼の計算通りだったと知った。
彼のすべての深い愛情は、芽依のために道を敷くものだったのだ。
「美月は今回は重傷だし、もう二度とサーキットには戻れないだろうな?その人生はおしまいだ」
「俺が彼女と結婚する」
辰朗はこともなげに言った。
「北村夫人の座を補償として与えるさ。北村家が養ってやる」
辰朗の声には、施しのような哀れみが滲んでいた。
「結婚後、貴婦人になった美月は、安心して家にとどまれるさ。そして、良妻賢母として日々を送れば、それで十分だ。そうなれば、芽依のレーサー人生にもう障害はない」
美月は完全に心が砕け、泣きながら父の小林明雄(こばやし あけお)に電話をかけた。
「政略結婚、受け入れるわ」
辰朗、今回は、もうあなたはいらない。