心理描写の巧みさで言えば、村上春樹は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で主人公の内面の狼狽を繊細に描き出しています。
あるシーンでは、主人公が日常の些細な違和感から次第に現実感を失っていく過程が、まるで皮膚の内側から滲み出るように書かれています。壁のシミが顔に見えたり、時計の針の動きが不自然に感じたりする描写は、読者自身も現実認識が揺らぐような感覚に陥ります。
特に印象的なのは、記憶が薄れていく不安を「砂時計の砂が逆流するような」
比喩で表現した部分。このような独自の言語感覚で、言葉にしにくい精神状態を可視化する手腕は彼の真骨頂でしょう。
作中で展開される二重構造の物語も、狼狽感を増幅させる装置として機能しています。どちらの世界が真実なのか判然としないもどかしさが、ページをめくるたびに読者の心理的負荷を巧妙に高めていくのです。