最初に目につくのは、
ゼーレの“存在感”そのものがアニメとコミックでまるで別物に見えるところだ。テレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』と劇場版『THE END OF EVANGELION』でのゼーレは、陰に隠れて世界を動かす古い支配層というイメージが強く、計画(インストゥルメンタリティ)を宗教的・哲学的な最終解として掲げる抽象的な力として描かれている。会議室で影絵のように示される姿、デッド・シー・スクロールの引用、そして人類補完計画を遂行するためにNERVを動かす冷徹さ──それらは“象徴”としてのゼーレを強調している。私がこの描写に惹かれた理由は、彼らが単に権力者ではなく、物語の根幹にあるイデアを体現している点にある。視覚的・語り的にも神話的で、不気味なまでに不可解だ。
一方で、吉田(※正確には山千代/佐藤のような個別名は避けるが)によるコミック版では、ゼーレはもう少し地に足のついた政治的存在として扱われることが多い。会話や説明が簡潔で、行動原理も“目的達成のための手段”として合理的に描かれる。だから私には、コミック版のゼーレはアニメ版のような哲学的深淵というより、実務的に世界を掌握しようとする老練なエリート集団に見える。結果として、読者に与える印象も変わる。アニメだと「なぜ彼らがそこまで人類補完に
拘るのか」といった抽象的な問いが残るが、コミックだと「どうやって計画を進めるか」という具体的な動きが目立つ。
さらに両者でのゼーレと碇ゲンドウの関係性の描き方も違いを生む。アニメでは互いの思惑がぶつかり合う劇的な対立と裏切りが強調され、ゼーレ側の暴走や決断が終局の悲劇性を高める。コミック版では、その衝突はあるものの、細部の描写が抑えられ、人物の内面描写に重心が寄るため、ゼーレの全体像がやや“平坦”に感じられる場面がある。どちらが優れているかは好みだが、私にとってはアニメ版の神話化された描写が強烈で、コミック版の合理的な描写が別の魅力を与えてくれる。結論として、同じ“ゼーレ”でもメディアごとに演出と語り口が大きく変わり、それが受け手の解釈や感情に直結するところが面白いと思っている。