最初に目につくのは、ゼーレの“存在感”そのものがアニメとコミックでまるで別物に見えるところだ。テレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』と劇場版『THE END OF EVANGELION』でのゼーレは、陰に隠れて世界を動かす古い支配層というイメージが強く、計画(インストゥルメンタリティ)を宗教的・哲学的な最終解として掲げる抽象的な力として描かれている。会議室で影絵のように示される姿、デッド・シー・スクロールの引用、そして人類補完計画を遂行するためにNERVを動かす冷徹さ──それらは“象徴”としてのゼーレを強調している。私がこの描写に惹かれた理由は、彼らが単に権力者ではなく、物語の根幹にあるイデアを体現している点にある。視覚的・語り的にも神話的で、不気味なまでに不可解だ。