こう考えると、
ゼーレの行動には二重の面があるように見える。僕は『新世紀エヴァンゲリオン』を読み解くたびに、彼らの狙いが単純な破壊願望や支配欲だけではないことに気づかされる。表向きには人類の“進化”や「人類補完計画」の遂行を掲げ、孤独や断絶を終わらせるために個を溶かして一つの意識へと統合しようとしている。死海文書や長年にわたる準備、エヴァの運用や
使徒誘導のための綿密な計画からは、彼らが終末を単なる偶発事ではなく意図的な“救済”の一環として見ていることがうかがえる。
その一方で、僕にはゼーレの計画が避けられない冷徹さと秩序志向を孕んでいると感じられる。個々の痛みや選択を無視して強引に統合を押しつけるやり方は、介入の正当化を超えて権力の行使にも見える。しかも彼ら自身がその後どうなるか、あるいは誰が“統合された人類”を管理するのかという問いには曖昧さが残る。ゲンドウや碇家の私的な動機とゼーレの集団的な意志がぶつかる構図を通じて、物語は「救済」と「掌握」の境界を巧妙に曖昧にしている。
だから僕は、ゼーレの本当の目的を単一のラベルで括ることに抵抗がある。彼らは孤独という人間の根源的問題を真剣に扱っているが、その解法を独占的かつ独断的に実行しようとする過程で倫理を犠牲にしている。結局のところ、彼らの行為はある種の救済願望と、終末をコントロールして「正しい形」で再構築したいという支配欲が混ざり合ったものだと僕は理解している。物語の終盤で見せる矛盾や結果を踏まえると、ゼーレは理念と手段のギャップに
囚われた悲しい計画者たちにも見えるし、恐るべき独裁者の集合体にも見えるのだ。最後には、彼らの願いが人間らしさを救うのか奪うのか、その曖昧さだけが強く残ると思う。