現代のサスペンス路線で『レベッカ』の影響をうかがわせる好例として、'The Girl on the Train'が挙げられる。物語の中心に“失われた女性”がいて、その不在や他者の語りによって周囲の人物像が歪められていく構図は、デュ・モーリアが築いたモチーフと親和性が高い。観ていると、記憶と証言の不安定さが次第に真相を曖昧にしていく様子がリアルに伝わってきた。
考えてみると、レズバトルという言葉が指す「女性同士の激しい対立や闘いに恋愛や性の要素が絡む表現」は、意外と広範な影響を現代作品に残しています。僕が見てきた範囲だと、その影響は直接的な作品もあれば、モチーフや構図、キャラクター同士の緊張感として間接的に反映されているものもあります。ここではジャンルを横断して、特にわかりやすい具体例を挙げつつ、どの点でレズバトルの系譜を感じるかを自分の視点で整理してみます。
まずアニメ方面では、視覚的に「女の子同士の闘い」と「感情の交錯」を同時に見せる作品が代表的です。たとえば『百合熊嵐』は、明確に女性同士の恋愛感情と対立を寓話的に描き、暴力や対峙を通して愛憎が表出する作りがレズバトル的なダイナミズムを強く感じさせます。また、一見するとアイドルや舞台劇モノに見える『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、決闘シーンを通して仲間同士あるいはライバル同士の感情が濃縮される点で、同種の影響を受けていると言えます。海外作品だと『She-Ra and the Princesses of Power』や『Steven Universe』のように、女性同士の強い感情や融合(象徴的な意味での“戦い”や“結びつき”)を通して関係性を描く手法が、現代の視聴者に受け入れられています。
マンガやゲーム界隈にも顕著な事例があります。古くからのファンサービス寄りのバトル作品である『クイーンズブレイド』は、女性キャラ同士の肉体的な対決とその妖艶さが際立ち、レズバトル的演出の商業的成功例といえます。対照的に、心理描写に重きを置く『やがて君になる』や『ささめきこと』のような作品は、闘いそのものを主題にしないものの、感情の衝突やすれ違いにレズバトル由来の緊張感を見出せます。ゲームでは女性キャラ主体の格闘ゲーム『Skullgirls』が、キャラ同士の対立と濃厚なキャラクタードラマを併せ持ち、ビジュアルと演出でレズバトル的要素を表現しています。小説だと『The Priory of the Orange Tree』のように、スペクタクルな戦いと女性同士の情感が絡むファンタジーが、西洋でも支持を得ています。
結局のところ、レズバトルの影響は「暴力的な対決そのもの」だけでなく、「対立の中にある情愛」「勝敗を越えた執着や嫉妬」「身体性を通した関係性の表現」といった部分に強く残っています。最近の作品は、単純に戦わせるだけでなく、その対立がキャラクターの内面を照らし出すような使われ方が増えていて、以前よりも多層的で深い描写になってきているのが面白いところです。個人的には、そうした変化こそがジャンルの成熟を示していると思います。
思い返すと、『レベッカ』が放つ不可思議で重層的な空気って、単なる古典的ゴシックを超えて現代の物語にもしぶとく生きているなと感じます。記憶の支配、先代の影、居場所の喪失といったモチーフはそのまま時代を移し替えられ、形式を変えて繰り返されている。マンダリーという屋敷がただの舞台装置ではなく“人格”を帯びている点や、匿名性と自己不在が恐怖を生む仕組みは、いまの作品でもよく見かける要素です。
具体的には、語り手の不確かさを中心に据える手法が受け継がれています。『ゴーン・ガール』のように結婚とアイデンティティの裏側を露呈する現代サスペンスや、『ウーマン・イン・ザ・ウィンドウ(The Woman in the Window)』のような視覚的・心理的な錯覚をテーマにした作品では、主人公が自分の立場や記憶を疑うという点で『レベッカ』と共鳴します。また、『The Haunting of Hill House』や『The Little Stranger』のように、屋敷自体が過去の痕跡を保持し住人に影響を与える描写も、マンダリーの“生きた家”という概念と直結しています。私は特に、家や空間が登場人物の心理を映す鏡として機能する描き方に惹かれます。そこでは幽霊が必ずしも超自然だけを指すわけではなく、社会的な伝統や抑圧、未解決の記憶が“幽霊”として作用するのです。
もう一つ見逃せないのは、女性像の扱われ方です。『レベッカ』の二代目夫人が感じる疎外感や、先にいた女性の影に押し潰されそうになる経験は、現代作でもフェミニズム的な文脈で再検討されることが多い。『シャープ・オブジェクツ』や『ゴーン・ガール』が提示する“演じる女性”と“抑圧された女性”の二面性は、昔ながらの“影の妻”像を別の角度から照らしていますし、SNS時代には「他人のイメージ」によって自我が揺らぐという形でその問題が再構成されます。さらに、階級や外部からの視線が主人公を追い詰める構図も現代の作品では頻繁に採用され、古典的な不安感が社会問題と結びついているのが面白いところです。
結局のところ、『レベッカ』が残した核は「見えないものの力」を物語る力学でした。それは幽霊や悲劇的過去の形を取りながら、現代ではデジタルな痕跡や世間の評価、トラウマの記憶といった新しい“影”に置き換えられている。だからこそ、今でもあの物語の匂いがする作品に出会うたびにゾクッとするんだと思います。
頭に浮かぶのは、まず視覚とトーンの親和性だ。ロアルド・ダールの風変わりでちょっと毒のあるユーモア、そして子どもたちが不利な状況を自分たちの知恵でひっくり返す物語性は、現代のいくつかの作品で明確に見て取れる。
例えば、ティム・バートン監督の映画'〈Miss Peregrine's Home for Peculiar Children〉'には、奇妙さと温かさが同居する子どもコミュニティ、そして大人の圧力に立ち向かう若い主人公たちが登場する。僕はそこに『マチルダ』の静かな反抗心と、孤立した天才児が周囲とつながっていく感覚を感じる。映像表現の遊びや、子ども側の視点で進む語り口も共鳴している。
別に、近年のシリーズ'〈A Series of Unfortunate Events〉'や児童向けアドベンチャー'〈The Mysterious Benedict Society〉'にも同様の構図があると考えている。どちらも大人の不条理さや冷酷さを批判的に描きつつ、知恵と連帯で切り抜ける子どもたちを主人公に据えている。名作の要素が直接の影響源であるとは断言しないが、子どもが“賢さ”で世界に抗うというアイデアの普及には、'マチルダ'が果たした役割が小さくないと思う。