ログイン別れて5年。俺――松本直哉(まつもと なおや)は、整備工場で石田奈緒(いしだ なお)と顔を合わせた。 奈緒は「うちの旦那、本当に情けないわ。運転ひとつ満足にできないんだから」と愚痴をこぼしながら、車のドアにもたれ、不機嫌そうな声で保険会社に電話をかけていた。 車体の下からすっと滑り出ると、作業着も顔も油まみれで、頬まで黒く汚れていた。 奈緒はそれに気づいて、しばらく固まった。 それから、ぎこちなく言葉を絞り出した。 「直哉……ちゃんと見て。工賃は上乗せするから」 「いらない。相場どおりでいい。うちは評判で食ってる、ぼったくりはしない」 断ったあと、レンチを取り、下回りのボルトに手を伸ばした。 ところが奈緒が呼び止めてくる。視線はやけに複雑だった。 「昔さ……高いところ苦手だったよね。電球替えるのも怖がってた」 頬の油を拭い、営業用の笑顔だけ作って、奈緒を少し下がらせた。 「仕方ないよ。仕事だから。 食っていくには、な」
もっと見る俺が出ていって間もなく、奈緒が精神病院に駆けつけたらしい。血相を変えて、奈緒は誠司の襟首をひっ掴んだ。「どこ?金庫の中のもの、どこ行ったの!あんたが持ち出したんでしょ!?」誠司は乱暴に揺さぶられ、力の抜けた人形みたいに体を揺らされながらも、抵抗ひとつせず、喉の奥でくつくつ笑った。「何をそんなに焦ってんだよ、奈緒。いい思いばっかしてりゃ、いつか必ず、そのツケは返ってくる。……その時が、今だってだけだ」「このイカれた男!私が二年も食わせてやったのに!恩知らず!よくも私を売ったわね!」奈緒が喚き散らし、額に血管が浮き上がったその瞬間、誠司の笑みが、すっと消えた。「食わせた?それ、元は俺んちの金だろ。今お前が使ってる一円一円、どれも昔、うちから掠め取った金じゃねえか。その金で道を作って、俺を閉じ込めておいて、どっちが恩知らずだよ。……ああ、そうだったな。全部俺に押しつけて、自分は被害者ぶってりゃ、楽だもんな。いいか、奈緒。夢見てんじゃねえ。俺たちは最初から同類だ。俺が地獄なら、お前も地獄だ。落ちるなら、一緒に落ちろ!」警察に連れて行かれるその瞬間まで、奈緒は誠司と掴み合うように罵り合っていた。結局、二人そろって塀の中に落ち、檻の中で互いを呪い合う、救いようのない腐れ縁になった。――母さんの命日。俺は酒を一本提げて、墓前に立った。判決文の写しを取り出し、線香代わりみたいに、静かに火をつけた。「母さん、もう終わった。母さんを苦しめた連中は、ちゃんと報いを受けた。母さんの潔白は、俺が取り戻した」風がひとつ、通り過ぎた。灰が空へ舞い上がり、炎の明かりが頬を照らす。そのとき、ずっと昔のことを思い出した。冬の夜。飯も食わず、手のひらを血だらけにしながら、古い木の梯子をずるずる引きずって、五階まで運び、震えながら電球を替えていた、ガキの俺。……今は、夜が明けた。太陽が昇っている。腕は太くなった。梯子だって、もう一人で抱えられる。脚も強くなった。行こうと思えば、どこへだって走っていける。いつか、ウィーンに飛んで、もう一度、絵筆を握るかもしれない。それとも、工場をもう一つ構えて、旅に出たくなったら、気ままにシャッターを下ろす。年を取ったら、地元に戻って、小さな庭のある家に住む。犬を一匹、いや、
「どうした。俺のこと、笑いに来たのか?」俺を見るなり、誠司は壊れたみたいに笑い出した。「家は潰れて、親父は刑務所だ。俺はいま、奈緒みてえな薄情女に食わせてもらってる。なあ、松本。気分いいだろ?これが因果応報だって、思ってんだろ?後悔してる姿が見たいのか?残念だったな。俺が思うのは一つだけだ。あのとき、先にお前を潰しとけばよかったってことだ!道連れにできるなら、誰だっていい。全部だ。全部、地獄に引きずり込んでやる」……相変わらず、救いようがない。でも、もうどうでもよかった。誠司が吐き出すのを待って、俺は静かに口を開いた。「石田、覚えてるか。あの頃のお前が、どれだけ持ち上げられてたか。十八の誕生日だ。親父が名の知れた高級ホテルを丸ごと貸し切って、売れっ子の歌手まで呼んだ。『雪が見たい』って、軽く口にしただけでさ。金のある女が何十人も寄ってきて、競うみたいに車に乗り込み、何百キロでも飛ばして、山まで付き合おうとした。挙げ句の果てに、奈緒は気に入られたくて、法廷で偽証までした。俺の母さんを追い詰めたのも、全部その延長だ。良心を売ってまでやった理由は、一つしかない。お前の後ろにくっついて、おこぼれにありついて、それを踏み台に成り上がりたかったからだ。……じゃあ聞くが。お前の家が潰れた途端、奈緒はお前をどう扱った?」俺は誠司を見据えた。声は低く、感情は乗せなかった。「頭のおかしい男だ。足手まといだ。今すぐ切り捨てたい、厄介な存在だ」「石田。それで、本当に悔しくないのか?」その言葉が、一本一本、刃物みたいに胸に突き刺さった。誠司の顔から、一気に血の気が引く。呼吸が乱れ、喉の奥で、空気を掻きむしる音がした。目の奥に宿っていた狂気が、少しずつ引いていく。代わりに、どす黒い憎しみが滲み出した。俺は誠司の耳元へ身を寄せ、甘く囁くように言った。「……そこまでされて、本当に恨まねえのか?もう、失うもんなんて何ひとつ残ってねえだろ。当時の証拠を俺に渡せ。奈緒を塀の中に入れてやる。溜飲も下がるはずだ」「くだらねえ」誠司が吐き捨てる。「人の仲を裂いて何になる。俺がどうして、お前に手を貸さなきゃならねえ」――まだ、最後の抵抗だ。俺は鼻で笑い、背もたれにだらりと体を預けた。「このまま、奈緒に手に負え
俺が許したと思ったのか、奈緒は興奮した顔で俺の手を掴みにきた。何か言いかけるより先に、俺はそっと身を引いてかわす。そこで空気が切り替わり、俺の顔から温度が消えた。「石田さん。今日は賠償の話をしに来ただけだ。そんなくだらねえ話を聞きに来たんじゃねえ。やっと借金を返して、この工場を手に入れたんだ。俺は俺自身にも、叔父さんにも、紗弥にも、ここで飯を食ってる連中にも責任がある。この金だけは要る。それ以外は、諦めろ」奈緒の顔が、一瞬で強張るのを見て、俺は噛んで含めるように言った。「俺たちは映画の中の二人じゃねえ。奈緒。過去に浸ったところで、時間は戻らねえし、やり直しなんて、そう何度も転がってねえ」奈緒の頬に、じわじわと居場所のなさが浮かんでくる。俺は壁際に置いてあった整備用のレンチを掴み、手の中で、その重みを確かめた。「……これ、あの映画の小道具に見えるか?」そう言いながら、俺は横の壁へ思い切り叩きつけた。「ガンッ——!」古傷の下で筋肉がひくりと盛り上がり、一瞬、影が走る。俺は奈緒に向かって、やけに明るく笑ってみせた。「金払ったら消えろ。まだうろつくなら……本気で潰す」「直哉……やめて……ゴホ、ゴホ……」壁から落ちた粉塵が舞い、奈緒はむせて口元を押さえ、苦しそうに顔を歪める。震える手を伸ばし、その声には、はっきりと懇願が滲んでいた。「……本当に、償いたいの。直哉……そんなふうに、しないで……」「本気か?」俺は一歩踏み込み、奈緒の目の前まで顔を近づけた。奈緒は息を詰まらせ、それでも必死にうなずく。溺れた人間が、最後の浮き輪にしがみつくみたいに。「いい。最後に一度だけ、チャンスをやる」笑みを引っ込め、俺は冷たく奈緒を見た。「母さんの件をひっくり返せ。あの事故の裁判をやり直して、母さんの汚名を晴らせ。母さんは当たり屋じゃない。悪いのは誠司の家だって、世間に認めさせろ」奈緒の表情が、瞬きもせずに凍りついた。奈緒は黙った。やり直すということは――この五年、俺と母さんを踏み台にして積み上げてきたものを、自分の手で、すべて崩すということだ。誰もが羨むエリート弁護士の座から、再び、何も持たない学生に戻る。それどころか、檻の向こう側に落ちる可能性だってある。沈黙が、重く落ちた
紗弥がすっと俺の前に出て、立ちはだかった。「この人、絶対ろくな考えじゃないっす。何するかわかったもんじゃない!」健も警戒した目で奈緒を睨む。「紗弥の言う通りだ。ここには人もいる。言いたいことがあるなら、ここで言えねえのか!」「叔父さん、紗弥……大丈夫だ」俺は首を振り、二人の肩を軽く叩いた。「心配すんな。こんな昼間に、奈緒も無茶はしない」そう言って、俺は奈緒の後について工場を出た。カフェに入るでもなく、工場の裏手に回り、路地の縁石に腰を落とす。奈緒は一瞬きょとんとしたが、少し遅れて、俺の隣にしゃがみ込んだ。昔――バイト帰りに疲れ果てて、一言も出なかった夜も、俺たちはこうして並んでしゃがみ、黙ったまま、ただ同じ時間をやり過ごしていた。あの頃は、肩が触れるほど近かった。今はただ、舞い上がった埃が、奈緒の高そうなズボンの裾を静かに汚していくだけだ。「今日の騒ぎで、契約寸前だった話が三つ飛んだ。見込み客だって、何人も逃げた。この前の大手チェーン店の騒動、知ってるだろ?若いスタッフが食材に不適切な行為をしたってやつだ。道具を全て新しくして、客の機嫌を取るだけで何千万円もかかった。評判を取り戻すための対応にも、相当な費用がかかっている。うちは開いたばかりで、評判が命だ。誠司が来た途端、全部ぶち壊しになった。……で、どう落とし前つけるつもりだ?」奈緒の頬が、ぴくりと引きつった。痛いのは財布だと一目でわかったが、それでも奈緒は歯を食いしばって口を開く。「休業の補償、名誉の損害、それに――しばらく客を呼び戻すための費用も含めて……六百万で、どう?」その額に、さすがの俺も一瞬、言葉を失った。だが、もらえるものはもらっておく。俺は眉を上げ、その申し出を受ける。「……言ったな」金の話が片づいても、奈緒は立ち去らなかった。顔を横に向けたまま、しばらく、俺を見つめている。「直哉……覚えてる?」「大学のバイト帰りも、こうして縁石にしゃがんで、二人で星を見てたよね」声がふっと小さくなり、そこに、懐かしさと後悔が静かに滲んだ。「直哉……ごめん。本当に、ごめん。当時の私は、弱かった。誠司の家は力が大きすぎて、逆らえる相手じゃなかった。知ってるでしょ。父はとっくに離婚して、母は田