言葉づかいを比較してみると、日本語の一人称は文字通り色とりどりで、英語の“I”と比べると表情の幅が桁違いだと感じる。私がいつも感じるのは、単に性別や年齢の印だけでなく、社会的立場や親しさ、作者の意図までも一語で伝えられる点だ。例えば『ジョジョの奇妙な冒険』のような作品では、登場人物が使う一人称から即座にキャラクター像が立ち上がる。強気で粗野なキャラは「俺」を常用して突っ走るし、気品や形式を重んじる者は「わたくし」を使う。さらに古風な雰囲気を出したければ「拙者」や「我」を持ってくればいい。不思議なのは、文脈で主語を省くことが当たり前なので、英語のように常に“I”を置く必要がない点で、これが文章や会話のリズムに大きく影響する。
翻訳やローカライズの現場を想像すると、私が興味深いと思うのは、英語に訳すときの工夫だ。『鋼の錬金術師』を読むと、エドワードの軽口めいた「俺」は製作者の若さと図々しさを示しているが、英訳では単に“I”にされるとその味が消える。そこで訳者は語彙や省略、口語表現(“I’m the guy who…”や“Me? I…”のような前置き)やスラングを用いて、英語の読者にも同じ印象を与えようとする。逆に女性的な一人称「あたし」や「うち」を直訳で表現できないときは、語尾や言い回しで柔らかさや親密さを出したりする。私はこの補完作業が翻訳の面白さと難しさだと思う。
加えて伝統的・地域的な違いも小さくない。関西圏で女性が使う「うち」や、年配者の「おいどん/おいら」などは、そのまま英語に変換すると方言のニュアンスが消えがちだ。だから翻訳や演出では語彙以外に文体、リズム、間の取り方、話者の立ち位置を総合的に再現することが必要になる。結論めいた言い方は避けたいけれど、私にとって日本語の一人称は“人格の短い説明”であり、英語圏でそれをどう表現するかが常に面白い課題だと感じている。