史料の断片を繋げて考えると、秀秋が所領を手にした経緯は“権力の委譲”と“即時の政治取引”が複合したものだったと見える。出生は木下氏の系統で、親族関係から豊臣政権に近い立場に置かれていたが、真に所領を得る決定打は小早川家への入嗣(養子入り)だった。入嗣は単なる家名継承以上の意味を持ち、法的・社会的にその家の領地を引き継ぐ根拠になった。私はこの「形式」を非常に重要だと考えている。
だが養子入りだけで安泰だったわけではない。実際の所領支配には近隣大名との勢力均衡や、中央政権の裁定が強く影響する。秀秋の場合、隆景の死去によって発生した空白を、豊臣側の合議や
調停で埋める必要があった。ここで秀秋は若年かつ未熟と見なされたため、実務は補佐や
後見人に依存せざるを得なかった。私が注目するのは、この“弱さ”が関ヶ原での誘因になった点だ。東西の両勢力が彼を取り込みたいと動き、最終的に徳川側の報酬約束が決定的になった。結果として、関ヶ原後に所領の一部拡充や待遇改善が行われ、秀秋は名目的にも実利的にも大名の地位を確立したのだと私は読む。