三年前絢瀬若菜の両親は、鬼塚グループのビルで不可解な死を遂げていた。 上場を控えた鬼塚家は世論を鎮めるため、鬼塚隼人に絢瀬との結婚を強要した。 絢瀬はずっと、鬼塚が白鳥千早と結ばれなかったことを恨み、自分に怒りをぶつけているのだと思い込んでいた。そして彼女は両親の死の真相を探るため、鬼塚の全ての怒りと屈辱に耐えていた。 ある日、絢瀬は鬼塚のオフィス前で白鳥の甘えた声とその思わず漏れた言葉を耳にした。 「大丈夫よ。三年前、あの夫婦に私たちの関係を知られてしまって、このビルで死なせたんじゃない?」 絢瀬はよろめきながらその場を離れた。 「叔母さん、両親を殺した犯人が分かったわ。全て準備ができたから、一ヶ月後のヨーロッパ行きのチケット用意して」
view moreあの日以来、鬼塚は本当に絢瀬の前に姿を見せなくなった。 もしかしたら来ていたのかもしれないけど、絢瀬にはもうわかるはずがなかった。 今の彼女には、何も見えないのだから。 ある晴れた日、窓から差し込む陽光が絢瀬の体を優しく包んでいた。 源蔵はベッドの傍らでリンゴの皮をむきながら、冗談を言って彼女を笑わせようとしていた。 「若菜、検査結果は上々だそうだ。あと数日で退院できるよ」 源蔵の目には憂いが浮かんでいたが、声は明るく振る舞っていた。 絢瀬は唇を噛み、力強くうなずいた。「うん」 「目については……まだ希望はある。大丈夫よ。お祖父さんは世界中の名医を探して、必ず治してみせる」絢瀬の胸が突然刺されるように痛んだ。リンゴを持った手が空中で止まり、源蔵の方に向った。その瞬間、世界は深い静寂に包まれた。耳元で、春風が桃の花びらを揺らすかすかな音が聞こえるような気がした。「お祖父さん、実はあの日、医師の話は全部聞こえたの」源蔵は一瞬、呆然とした表情を浮かべ、慌てた様子を見せた。絢瀬はさして気にも留めないように、ほんのりと微笑んだ。「医者が言うには、私の目はもう二度と治らないかもしれないそうだね。でも大丈夫。もう暗闇にも慣れた。これからも普通に生きていけるよ。たとえ見えなくても、人生の色々な色彩はもう十分味わったし、生まれつき目が見えない人たちより、私はずっと幸せなんだから」「それに......」彼女は言葉を続いた。「私にはまだお祖父さんがいるんじゃない?こんなに私を愛してくれる人がいて、本当に幸せなの。だからこれからも、しっかりと生きていくよ」その言葉を聞いた源蔵は、とうとう涙を抑えきれず、涙が溢れ出した。この年寄りが、まだ若い孫娘ほどに悟れていないとは。 しかし同時に、彼はこんなに強かな孫娘がいることに、心から誇らしさを感じていた。「若菜、心配するな。お祖父さんが必ずお前の目を治してみせる」絢瀬は、にっこりと笑った。 3ヶ月後。源蔵に伴われ、絢瀬は北米行きの飛行機に乗った。源蔵は絢瀬のために、角膜移植手術の名医を手配した。手術前、絢瀬はなぜか緊張した様子で源蔵の手を強く握りしめた。「お祖父さん、この角膜を提供してくださった人は誰なの?お礼を言いたいの」源蔵は喉を詰まらせな
鬼塚は24時間病院に張り付いていた。絢瀬から目を離そうとしない。起きてからずっと無言を貫いていた絢瀬が、ついに口を開いた。「ずっとここにいなくてもいい。一人で大丈夫」鬼塚はしばらくして、やっと自分に話しかけているのに気づく。しばし沈黙し、無理やり笑みを作って答えた。「ただ心配で。大丈夫よ。仕事は部下がやってくれるから」「ここでは食事も睡眠も満足に取れてないでしょ?事故はあなたの責任じゃないんだから、帰ってよ」絢瀬はゆっくりと言った。目が見えなくても、医師や看護師の話は筒抜けだった。今朝もトイレで看護師たちの噂を耳にした。「316号室の旦那様、本当に素敵ね。奥さんのために一日中看病して、もう10キロも痩せたそうよ。あんなにお金持ちでイケメンの上に妻にも優しいなんて、奥さんは幸せ者だわ」「そうだよ。本当に奥さんを愛しているのね。羨ましいわ」「……」 絢瀬は唇を歪めた。外からはそう見えたのね。 でも本当に幸せかどうかは、彼女にしかわからない。 だけど鬼塚は続けて言った。「駄目だ。一人にさせるわけにはいかない」 「鬼塚、そんなことをしても無駄よ。いまさら何をしても、私たちもう戻れないの」絢瀬の声には一切の温度がなかった。 彼女は冷たい声で、無情に告げる。 鬼塚の心臓が激しく揺れた。喉仏が上下し、かすれた声で言った。「わかってるよ。もう許してもらえないのわかってる。ただ償わせてくれ。そうでないと俺は本当にどうすればいいか分からない」 絢瀬は深く、深く息を吐いた。うつむいたまま、自らの指先をそっと揉むように触れ、何かをためらっていたようだった。やがて、彼女の唇端に柔らかな弧が描かれた。「鬼塚、知ってる?私、記憶が戻ったの」鬼塚の身体が微かに震える。目を見開き、絢瀬の顔をまじまじと見つめた。彼女が続けた。「事故で目が覚めた時、六年前のすべてを思い出したの。あなたを忘れてしまったこと本当に悪いと思ってる。あなたが私を恨んだのも納得できるよ。ただ、この数年で、私たちにはいろいろあり過ぎたね。もうあの頃のように、純粋な気持ちで愛し合うなんてできないの」言葉を切り、絢瀬はこぼれ落ちる一滴の涙を拭った。声はかすれていた。「何より、私たちの愛は、とっくに穢れてしまったじゃない。愛しているかどうか、忘れてい
絢瀬はゆっくりと意識を取り戻した。だけどたちまち全、身の骨がバラバラに砕け再び組み立てられたかのような激痛が走った。少し動くだけでも冷や汗が噴き出した。それ以上に恐怖だったのは彼女の世界が完全な闇に包まれていたことだ。まぶたをパチパチさせても、光の存在はぼんやりと感じるだけで、何一つ形が見えない。「若菜!目を覚ましたのか!」耳元で聞き慣れた男の声。鬼塚の声だ。絢瀬は微かに眉をひそめ、現実感が湧かなかった。これは夢なのか?ここはどこ?なぜ何も見えない?鬼塚がどうして傍に?これは現実なのか?それとも夢なのか?夢だったらどうすれば目覚める?絢瀬が必死にもがいて、困惑に満ちた表情を見て、鬼塚の胸は無数の蟻に食い荒らされるような痛みに襲われた。「若菜、大丈夫か? どこか痛む? すぐ医者を呼んでくる」しかし絢瀬は彼の手をぎゅっと掴んだ。鬼塚は握られた手に視線を落とし、心が痺れるほど痛んだ。絢瀬に異常を悟らないように、彼は必死に平静を装った。「ここはどこ?どうして何も見えないの?」絢瀬は聞いた。「ここは病院だ。お前は交通事故に遭った。覚えているか?目は一時的に網膜を損傷している。心配するな、安静にしていれば回復するよ」絢瀬はゆっくりと手を離した。しばらくして、彼女は口を開けた。「なぜあなたがここに?」「医者が……連絡をくれた。若菜、もう二度とお前を傷つけない。約束する」彼は絢瀬の瞳を必死に見つめた。でもそこにはもはや何もなかった。彼はゆっくりと話を続けた。「若菜、お前が俺を嫌ってるのは十分わかってる。でも、どうしても伝えたいことがある。これまでのことは全部俺が悪かった。全ては俺の責任だ。白鳥のことなんて、全然好きでも何でもない。最初から愛したのはお前ひとりだけだ。あの頃の俺は頭がおかしかったんだ。だからお前を傷つけるようなことばかりしてしまった。けど信じてくれ、あんなことは絶対に二度としない。絶対だ」鬼塚ははっきりと見ていた。絢瀬の頬を一滴の涙が伝い、彼女の顔をさらにやつれたように見せた。胸が鋭く疼き、その痛みは一瞬で全身を駆け巡った。彼はうつむき、自分の靴先を見つめながら、言葉を続けた。「若菜、お前に嫌われてるのはわかってる。でも今お前は病気なんだ。俺が看病しないと。治ったら考える時間をあげ
絢瀬はアパートを出た。胸中は複雑な思いでいっぱいだった。歩道を当てもなく歩きながら、頭の中は混乱していた。突然、対向車線から一台の車が暴走し、彼女に向かって突っ込んできた。瞳が一瞬で見開かれる。咄嗟に身をかわそうとしたが、車はまっすぐ彼女を襲った。「ドーン!」衝撃音と共に、絢瀬の身体は数十メートルも飛ばされた。通行人たちの悲鳴が辺りに響き渡る。地面に倒れた絢瀬の頭部からは、鮮血が噴き出し、道路脇の植え込みに染み込んでいった。鮮やかなバラの赤と混ざり合い、痛ましい光景を醸し出していた。車のドアが開き、白鳥が狂気じみた笑いを浮かべながら降りてきた。絢瀬の惨状を眺めると、さらに高笑いを上げる。やっとの機会で倉庫から逃げ出した彼女は、鬼塚の車で源蔵を追跡していたが、思いがけず絢瀬を見つけたのだった。天も味方してくれて、この女を消すのを助けてくれた。そして絢瀬は病院に搬送された。知らせを受けた源蔵と怒りに満ちた鬼塚が駆けつける。鬼塚は全身を震わせながら、即座に部下に命じ、白鳥の足を一本潰した。白鳥は体が血に染めた。それは絢瀬の血か、自分の血か分からないぐらい血まみれだ。それなのに、赤く充血した目で鬼塚を睨みつけ、一切の後悔の色も見せなかった。「鬼塚!殺せるものなら殺してみな!でなければ、永遠に絢瀬を追い詰めるわ!あなたは彼女を愛してるでしょう?だったら彼女を殺すよ。あなたたちが悪いよ!なぜみんな彼女ばかりひいきするの?私のどこが悪いっていうの?」理性を失い叫び続ける白鳥を、鬼塚は冷たい目で見下ろし、額に青筋が浮かび、ぎりぎりと歯を噛み締めた。「舌を抜け」「かしこまりました」白鳥は悲鳴をあげてすぐ、痛みで地に転がり、のたうちまわっていたが、もう声などが出なかった。しかし鬼塚の怒りはまだ収まらない。もっと早く白鳥の本性に気づいていれば、絢瀬とこんなことにはならなかったかも。救急救命室の前で、源蔵はひどく動揺していた。ようやく見つけた実の孫娘。あれほど聡明で強い絢瀬がどうか無事でいてほしい。時間が過ぎる。そして、扉が開いた。医者は重苦しい表情で二人に向き直り、ゆっくりと告げた。「命に別状はありません。手術は成功しました。しかし衝突時の衝撃で眼球が損傷し、角膜に重大なダメー
鬼塚は車中で窓の外を見つめながら、絢瀬のことばかり考えていた。「鬼塚社長、あちらは白鳥源蔵様です。葬儀に参列されたようです」源蔵の姿を見て、運転手は鬼塚に報告した。鬼塚は一瞥して、ただ「ああ」と短く答える。車が走り去った。次の瞬間、絢瀬がカフェから現れた。葬儀を終えた。絢瀬は翌日の飛行機を予約していた。出発する前に、高校時代の恩師である小川先生に会おうと思い立った。小川先生は叔母の親友でもあり、彼女が不在の時、いつも叔母の面倒を見てくれていた。小川先生が彼女の手を握ってこう言った。「若菜、しっかりしなさい。香織さんも、あなたが幸せになるのを願っているわ」「ええ、分かっています」絢瀬は微笑んだ。「随分笑顔が増えたね。この数年、私も香織さんもあなたの暗い表情が心配だったわ」小川先生は嬉しそうに言った。「心境の変化でしょうか」彼女は軽く肩をすくめる。執着を手放したからか、かつての苦しみは消えていた。小川先生は何かを思いついたように、ため息をついた。「鬼塚君とは?本当に離婚するの?」絢瀬の微笑みが一瞬に固まる。彼女は青空に浮かんでる白い雲を見て、静かに言った。「そうですね。離婚しますね」「そうなのか。あんなに似合いの二人だったのに……昔は教師の皆で、あなたたちならきっとうまく行くって賭けまでしてたけどね」「え?昔?」絢瀬の眉がひきつる。「高3の時だったよね。優等生のあなたと問題児の鬼塚君と付き合っていたの。教師たちは気づいていたけど、お互いを高め合っているようで、あえて注意しなかったの。まさか数年経って、結局離婚するとはね」頭の中で何かが爆発するような衝撃で、笑顔が堅くなった。高校の時、鬼塚と付き合っていたと?絢瀬は思わずこめかみを押さえた。でもなぜ、何一つ思い出せないんだろう?ふと、鬼塚の携帯で見た昔の写真を思い出す。心の奥底で、長年眠っていた何かが蠢き始めたような感覚だ。「小川先生、ありがとうございます。急用ができたので、これで失礼します」「ええ、いってらっしゃい」彼女はタクシーに飛び乗り、昔住んでいた団地へ向かう。鬼塚家に嫁ぐ前、両親と暮らしていた古いアパート。都心にある老朽化した団地で、外壁は剥がれ落ち、鬼塚家の明るく広々とした邸宅とは比べものにならないほどみ
叔母に葬儀を挙げた。絢瀬は黒いトレンチコートに身を包み、深い悲しみに沈んでいた。参列者のほとんどは叔母の元同僚や友人で、彼女とは面識がない人ばかり。形式的な慰めの言葉を交わすだけで、すぐに去っていく。「絢瀬さん、久しぶりだね」突然、聞き覚えのあるやや年老いた声が不意に彼女の鼓膜を震わせた。びっくりして、はっと顔を上げる。そこには白鳥のお祖父さんが立っていた。「白鳥様?どうしてここに?」絢瀬は唇を噛み、緊張した声を出さずにはいられなかった。頭は一瞬で思考の渦に飲み込まれた。まさか白鳥に毒を盛ったことがバレたのか?鬼塚よりも人脈と手腕に長けていたから、ここまで辿り着くのはさほど不思議ではない。どう切り抜けるか、頭をフル回転させながら、何とか冷静を装う。しかし源蔵の目は穏やかで、一片の非難も怒りもなかった。「ご愁傷さま。時間があれば、少し話を聞いてもらえないかね?」絢瀬は深呼吸して頷いた。「はい」近くのカフェで。向かい合って座る二人。絢瀬はうつむきがちに、源蔵の視線を避けている。なぜか、その視線が普通じゃないと感じたから。「若菜。そう呼んでもいいかな?」源蔵が真っ直ぐに見つめている。「ええ」「まずこれを見てほしい」源蔵は静かに書類を彼女の前に滑らせ、その瞳には曇りひとつなく、透き通っていた。絢瀬は眉を寄せ、訝しげにファイルを開いた。DNA鑑定書だった。最後のページまでめくった時、彼女の手は震えていた。「これは……」指先で結論部分を押さえ、言葉を失う。「わかるだろう?つまり……お前こそが、私の実の孫だ」「そんな……馬鹿な!」思わず舌を噛みそうになった。何度も書類を見返したが、どう考えても荒唐無稽だった。突然現れた老人がDNA鑑定書を持ってきて、お前は我が孫だなんて……まるで三流ドラマのようだ。さらに衝撃だったのは、この老人が白鳥千早の祖父だという事実。ということは、白鳥が自分の姉なのか?その可能性を考えた途端、彼女の眉間の皺はさらに深くなった。思考が混乱する彼女に、源蔵は静かに続けた。「若菜。知る由もないだろうが、お前の養父母は20年前、白鳥家の使用人だった。どうやら……お前と千早は入れ替えられたらしい」絢瀬の瞳がさらに見開かれる。「千早こそが、あ
Mga Comments