演出が露骨すぎると感じる瞬間には、観客として純粋に動揺することがある。私自身は、演出の“押し付け”が物語の自然な流れを壊すときに
野暮だと評価する傾向が強い。たとえば、象徴的なショットをわざとらしく繰り返したり、セリフの意図をカメラワークが逐一説明してしまうような場面は、鑑賞の自由度を奪ってしまう。そうなると物語の余白が失われ、観客が自分で意味を見つける楽しみが減る。
ただ、それが常に悪いとは思わない。過去に観た映画では、あえて誇張した演出が作品のテーマを強調し、観客に強烈な印象を残すこともあった。批評家としては、その“誇張”が意図的で作品の美学に一貫しているかどうか、あるいは単に技巧の見せびらかしに堕していないかを見極める必要があると考えている。
結局のところ、私が野暮と判断するときは三つの基準がある。第一に物語との整合性、第二に感情移入の阻害、第三に演出の必然性だ。これらを総合して批評を書き分けるのが自分のやり方で、静かな納得感を持って評価することが多い。