蓮の象徴性が古典の文脈でどう働くかを思い浮かべると、まずは中世の物語や能で見られる
法華経的なモチーフが頭に浮かびます。戦乱と無常を描く場面で、救済と
懺悔の可能性を示す「一切衆生が仏になれる」という発想がしばしば物語の転機を作るのを目にしてきました。たとえば『平家物語』に垣間見える業と報いの観念や、能の『敦盛』のような作品における悔悟の描写は、法華経の普遍的な救済観と響き合う点が多いと感じています。
寺院が法華経をテキストとして広めたことで、経典自体を描いた絵巻や曼荼羅、題目を題材にした説話が成立し、視覚的・物語的な素材が豊富になりました。これが民間の物語表現にも波及して、人物が「題目を唱える」「秘教的な教えに触れる」といったモーメントがプロットの起点になることが増えたのです。私は大学で古典文学をかじったとき、そうした題材の伝播経路に夢中になって調べた経験があります。
結局、法華経は日本文学において単なる宗教文書以上の働きをしました。世界観の提供者として、あるいは劇的な救済や啓示という装置として、物語の緊張と解決を支える重要な源泉になっていると思います。