踏み絵という言葉が現代の文章に顔を出すたび、僕は裏にある力学を探りたくなる。
物語の中で踏み絵は単なる歴史的装置ではなく、人間関係や社会制度が誰かの信念や所属を露わにする瞬間を象徴する。僕の読み方だと、舞台は学校でも会社でもネット空間でも、登場人物が選択を迫られる場面で踏み絵は機能する。そこでは正しい答えを示すことで安全を確保できる一方、反旗を翻せば排除や暴露につながる。作家はその二重性を利用して、読者に同調と抵抗の値打ちを考えさせる。
具体的には、人間の脆弱性や偽善を露呈させる装置として踏み絵を用いることが多い。権力構造が作り出す「白か黒か」の基準に登場人物を当てはめ、そこから生じる葛藤や罪悪感を描くことで物語は鋭くなる。たとえば権威に屈する場面を丁寧に描けば、納得ではなく恐怖が動機だったことが浮かび上がるし、逆に踏み絵を拒む描写は孤立とともに尊厳を照らす。
読み手として僕は、踏み絵が示す選択の不自由さと、その中での小さな抵抗に目を向ける。作家がどう仕掛けるかで、同じ比喩が市民社会の告発にも、個人史の告白にもなりうる。その可塑性こそ、現代の作家が踏み絵を好んで取り入れる理由だと思っている。