浅慮で突っ走る主人公を見ていると、つい自分の若かった頃の無邪気さを思い出す。たとえば勢いだけで動くキャラクターには、計算された行動よりも生々しい感情が宿っていて、読んだり観たりしている間に私は一緒に手汗をかくことが多い。こうした人物は失敗や勘違いを通じて芯を育てるタイプが多く、作者が明確な成長線を用意しているとき、その変化を追うこと自体が深い満足になる。具体例として、あるスポーツ漫画の不器用さ満点の主人公のように、
軽率さが笑いと共感を呼び、徐々に仲間や自分の弱さと向き合っていく過程を見ると胸が熱くなることがある。
浅慮さが共感を呼ぶ要因は複数ある。まず、自分を守るための理屈でなく、本能や欲求に従って動く点が“人間らしさ”を強調する。完璧な人物像よりも欠点だらけの人間の方が近寄りやすく、私はしばしばその欠点に親近感を覚える。次に、視点の限定によって読者が情報のギャップを体験すると、主人公と一緒に学び、恥や驚きも共有できる。作者がそのギャップを巧妙に使えば、読者は“先に知っている側”にならず、主人公の失敗を通して自分も成長している気分になる。
最後に、浅慮さは物語の緊張やユーモアを生むアクセントになると感じる。無謀な選択はトラブルを引き起こすが、それをどう乗り越えるかで人間の幅が見える。私はそんな主人公を見守る立場になると、慰めたい気持ちや腹を抱えて笑う気持ち、応援したくなる気持ちが混ざり合い、物語体験が豊かになるのをいつも楽しんでいる。